おでかけの日は晴れ

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秋のレイクヴィラ

2015年10月26日・27日。
ふるさと割クーポン1万円券をゲットして、信楽温泉レイクヴィラへ。

ほんとここは、バリに初めて行った時のサヌールのグランドバリビーチホテルを思い出す。手入れされた広大な庭とか。敷地内を歩いているだけで幸せな気分になる。


お風呂もいいし。
和懐石も美味しいし。

「屍者の帝国」と「岸辺の旅」

19世紀末。ヴィクター・フランケンシュタインが屍体の蘇生技術を確立した。そこに21gの魂は存在しない。魂(霊素)の代わりに擬似霊素というデータを入れることで屍者は蘇り、産業革命の労働力となったり、または戦争における兵士として使われている。
主人公で優秀な医大生だったワトソンは、盟友フライデーと共に屍者と魂の研究をしていた。そしてフライデーの死後、彼の墓を暴き、個人的に屍者を蘇られるという禁忌に手を染める。
・・・というのが「屍者の帝国」における設定です。
舞台が19世紀末なので、そこに登場する様々な機械のアナログさを取り入れた意匠が素晴らしく美しい。
屍者フライデーと共に行動しながら、フライデーの魂を再構築させる技術を探し続けるワトソン。物質化し、動き回ってはいる屍者と生者の圧倒的な違い。

さてその後見た黒沢清監督「岸辺の旅」では、3年前に行方不明になった夫優介が妻瑞希の元に戻ってくる。「ごめん、俺、死んだんだ」と。
そこに足がないわけでもないし、向こうが透けて見えるわけでもない。どうやら自分以外の誰かにも見えるらしい。死んでも、なかなか消えることが出来ないでこうやって彷徨うことが出来るらしい、死者は。そして、この3年で訪れたいろんなきれいな場所に行こう、と優介から誘われる。
生きている瑞希と死んでいる優介のふたりの旅。
映画の冒頭から、微妙に視線がどこに注がれているのかわからないようなカットがあり、そしていつも通り、どこかに何かが潜んでいるような気配があり。
ただ、今回の映画の死者、または異形の者は、見えてはいけないものがふと見えてしまったわけではないのだ。普通に歩き、餃子を作ったり科学の講義をしたり。歩いたりバスに乗ったり笑ったり。
生者と死者を分けるものが一体どこにあるのかがわからない。死者ではあるがそこには生者の時と同じ魂があるのだ。
ところで。
私は先ほど、コンビニに行くために明かりの少ない夜の川に架かる細い橋を渡った。その時、確かに向こう側からその橋を渡ってくる人影が見えたと思ったのだが、橋の途中でその人影がもうどこにもないことに気がついた。どこで見失ったのかと橋のそばの草むらを見ても誰もいない。
橋を渡ってもう少し歩いたら鉄が軋む高くてか細い音が急に聞こえた。一瞬、ビクッとした。
コンビニで買い物をした帰り、いつしかずっと等距離で背後から足音が聞こえていた。振り返ればきっと普通に私の後ろを歩く人の姿が見えるのだろう。振り返らねば、ただなんとなく不安に繋がる足音だけが続くのだろう。
私は黒沢映画のことを思った。
違和感。
黒沢清の映画の怖さとは衝撃を伴わないが、いつもはそこにはない「違和感」なのかもしれない。違和感を目の当たりにした時の、なんともいやなざらっとした気持ち。それらを映画として表現するのが本当にうまいよね、黒沢監督って。
ずれた視線も、どこかから吹く風も、いつのまにか放置された食べ物の器も枯れた鉢植えも、昨日まで生活していた場所が廃墟だったのも。

海街diary

とてもいい映画だった、「海街diary」。
誰しもたった一人で新しい場所へ行かなければならない時の一度や二度ぐらいはあったと思う。
私にとっては小学生の頃、自分がそれまで一緒にいた母親のいる家族から父親の新しい家族の元に引き取られた時が最初のそれだった。
それまでとまったく違う環境。初めて会うたくさんの人たち。
常にある「本当にここにいていいんだろうか感」。

それにしても。
最初のほうのシーン。父親の葬式が済み、電車に乗った三姉妹と見送るすず。そこが本当に素晴らしかったんだ。
電車の中から綾瀬はるか演じる長女さちが「うちに来ない?」って言うんだけど、その後ろでニコニコしてる次女よしの役の長澤まさみと三女ちか役の夏帆
ああ、三女を演じる夏帆がね、すごくいいんだなあ。
綾瀬はるかがすずの肩にそっと手を回す包容力もいいのだけど、とてもあっけらかんとしながらやわらかく優しく笑う夏帆の顔がね、すずをここではない知らない世界にそっとひっぱりだす、そんな力を持ってたと思うんだよ。
もういい加減いい年の私ですが、恥ずかしながらやっぱりかつてのちびっこだった私が心の中にまだ住んでて、急な選択を迫られたときに「この人の笑顔のそばにいくのがいいかな・・・」とまず最初の思うのが夏帆が見せた笑顔ではないかな、そしてそこからあの3人の姉妹がこれから向かうどこか、に、すうっと引っ張っていかれるのを感じたんだ。

映画の中の光、風景、勿論この四姉妹、そしていろんなものがいとおしくなる映画でしたが、もうひとつ特筆すべきはすずの同級生のサッカー部の男の子。
この少年がとてもちびっこで見た目もかっこよくもないところが最高にいいんだわ。そしてどこにも出せなかったすずの気持ちを聞いてしまって、気の利いたセリフも言えないけど何かに気付いたり感じたりする芝居をすごくナチュラルに演じてて、誰なんだこの子はと思ったら是枝監督「奇跡」で主演した「前田前田」の弟だったよ!
いやー、大きくなったなあ。いい味だしてたわー。

とてもしみじみとした、いい映画でした。

神々のたそがれ 監督・アレクセイ・ユーリエヴィッチ・ゲルマン


観にいく前に既にいろいろ聞いておりましたよ。
とにかくすごい作品だ、と。
その上で、長い・眠くなる・ストーリーは訳がわからない、などなどと。
そこで、大抵はこれさえ飲んでおけば大丈夫という眠くならない系ドリンク剤を1本飲んで、さらに飴ちゃんなども適宜投入したにも関わらず、もう何故だか最初から映画を観ながら幾度か眠りの中へ。起きて映画を観ていることと夢の中の境界線が定かではなく、脳内で勝手に物語を補完しつつ見てしまうからなおさら訳がわからなくなる。
それでも翌日になり、あの映画のことを考えながら、たとえ何度か寝てしまっても何度も映画館に通い、繰り返し観ることができれば、それはとても幸福なことだと考えていた。や、幸福ということばは語弊があるな。何故ならあの映画の中の世界に幸福の存在を見つけ出すことは出来なかったから。けれど「神々のたそがれ」という作品世界の中で何度も泥まみれになることは意味のあることだと思う。

映画の内容としては、こうだ。
地球のある学者たち30人が、地球に非常に似た惑星に派遣された。その惑星の文化は現在の地球より800年ほど遅れたような世界らしい。
その惑星の王国アルカナルでは知識人狩りが行われた。
地球人であるドン・ルマータはここでは異教神ゴランの息子とされている・・・。

さて、映画にしろTVドラマにしろ、カメラが映す映像を私たちはごく自然に受け入れて観ている。カメラの存在すら意識しないままに。
ところが「神々のたそがれ」では、まず最初の映像、上から俯瞰で街を映し出すその画面からすでに、「この風景を見ている者の目」を意識せずにはいられない、そんな映像だった。普通なら映画的にこの場所を説明するという意味を持った映像のはずだが、それ以上の何かの意思、その場所からここを見ているものは一体誰だと思わせるような映像だった。
そう思っていたら、人々を、そしてルマータをカメラが映し出すにつれ、とても奇妙なことが起こっていった。人々は明らかにカメラをどこか興味深げに見ながらその前を横切るのだ。または何らかのアクションを起こそうとしたりする。
ニュース番組の中で街頭で天気予報コーナーを撮影している中で、歩行者がおどけてカメラにニヤニヤ笑いを向けて通り過ぎるとか、あれとまったく同じような感じ。カメラに映る天気予報を伝えるキャスターの目の輝きと、そうやっておどけてカメラの前に野卑な笑いをむける歩行者の目の輝きの質は明らかに違う。
そんな感じで、同じ画面の中のあるルマータと、映りこんでこちらに顔を向ける人々との差は、世界を見ているものと、見られているものとの、その違いなのだろうか。
とにかくカメラはまるでドキュメンタリーのように世界を映し出していく。
そこでわかるのは、ルマータは神として崇められているというようでもなく、祈られるわけでもなく、教えを請われるわけでもないということだ。神秘的な力を顕すわけでもなく、姿形も服装もこの星の人々となんら変わりがない。
ルマータも星の人々と同様、汚れている。何かを口にしてはすぐさまそれを思い切り吐きだす。人々は絶え間なく唾を吐き、時にルマータに向かって唾を吐くが、ルマータはそれに怒る様子もない。
ルマータの周りにいる人々が誰で・何で、そこで何が行われているのか、観ていてもいつまで経ってもわかっていかない。
思うに、私たちがすれ違った誰か、たまたまぶつかったり、または少しだけ話しただれかのことすべてを、私たちは知らない。私たちの現実には、気の利いたテロップやナレーションなど流れない。
この映画も、そんな感じなのである。
映画の中の世界ではそれぞれに意味のある出来事が重層的に起こっていても、観客にそれが十分に伝わっては来ない。
でも、それが、世界だから。
と、映画を見たあとでしみじみとそう思っている。

私は神、というものが創造するもの、人を救うもの、という存在である、同時に破壊するもの、であるということを、正直忘れていたなあ。しかしキリスト教の黙示録でも、地球の終末が語られている。終末に起こる人々の退廃、悪の氾濫、そして神の怒り。新しい世界を創造するため、旧世界は徹底的に滅びる運命にあると宗教は説く。
さて、その「神」とされるものが、たまたま他の惑星から来た姿形の変わらない男で、他の人間よりも少しだけ強い力を持つだけのものだったら。
神はたいしたことなど出来ない。唾は吐きかけられるし、人々に捕らえられたりもするし、ひとりの人の命を救うことも出来ない。
もう、仕方がない、こんなことしたいわけじゃないけれどももう潮時だ、とすべてのものを破壊してしまうぐらいのことしか出来ない。
神に破壊されてしまうこの世にいる私たちも・・・確かに相当に愚劣でどうしようもない。
この映画を観にいって、話がわかるとかわからないとかじゃなく、その世界にどっぷりはまり込んで、自らも泥の中で呆然とするような感覚は、とても意味のあることだと思う。

THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦

パトレイバーに関しては、「昔、ゆうきまさみが『機動警察パトレイバー』って作品を書いていたよなあ〜」ぐらいしか知りませんでした。アニメになっていたのもぼんやりと知っていた程度。
しかし「THE NEXT GENERATION パトレイバー」は押井守監督だし劇場でやっているしということで、短編シリーズを行ける限りは観にいっていた。観にいけない回はあっても、とりあえず2015年5月公開の劇場版だけは必ず行こうと決めてました。

さて観にいく前に友達が、
「どっちかというと観ておいたほうがいいと思うから」とDVDを貸してくれました。それが「機動警察パトレイバー 2 the Movie」。押井監督による劇場版アニメです。
とにかく川井憲次による音楽がものすごくかっこいい!
そしてとても印象的なのが、川の中を進むボートのシーンだった。
ボートに乗っている人の目視点で、映像は川、その周囲に並ぶビル、くぐる橋の下、などを描いていく。そこにボートに乗る男たちによるかなり重要な会話があるのだけれど、それを話す人の姿は極力描かれていない。セリフと流れていく街の風景と音楽。すごいシーンだ、と思った。

この1993年に公開された映画のDVDを見た数日後に、「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」。
最初のシーンだけでものすごくテンションが上がった!
パトレイバー2」の最初のシーンは東南アジアの某国。そしてこの「首都決戦」のはじまりはイスラム系の某国から。そしてその後流れた音楽は「パトレイバー2」で川のシーンで使われていたとても印象的な曲!もうゾクゾクしっぱなし!
そして登場する「南雲さん」。勿論「パトレイバー2」ではアニメだったので今回の実写版では後姿だったりして顔を露わにはしないが、声はアニメ同様、榊原良子。おおお、なんたることだ、榊原良子さんの声でセリフが語られるだけで感じる、このゾクゾク感は・・・!あんまりゾクゾクして涙出たよー。
他にも先の「パトレイバー2」からの引用は多く、それは川を行くボートのシーンだったり。
いや、だいたいこの「THE NEXT GENERATION パトレイバー」というシリーズ自体が先のパトレイバーをふんだんに引用している作品なのだろう。
引用、とは、その前にあったものに対する知識があって初めて面白いものである。前作に対する愛情と知識があればあるほど、面白いんだろうなあ。私は付け焼刃というか、今で言う「にわか」なんですけど、それでも数日前に「パトレイバー2」を観ることができたことにものすっごく喜びを感じたね!

そしてもうひとつ、パトレイバーを巡るあれこれとしては、引用の面白さだけでなく、もう一度このテーマで今を見てみる、という恐ろしい面白さもありました。
パトレイバー2」ではPKO法、国際連合平和維持活動協力法が成立した1992年の翌年、生まれた作品です。平和維持活動の目的にのみおいて自衛隊を出動させることに関することを定めた法律で、この法案もかなりの不安と反対が起こったことは記憶に新しいです。
この作品では、ある自衛隊員が、東京に戦争が起きたらという「情況」を演出する。決してテロを犯して本当に警察や日本、またはアメリカなどを敵に回して戦おうとするわけではなく、自衛隊が持っている武器と軍事力を行使して警察や国民に様々な問題を提起するという、とても怖い話です。
そして今回の2015年作の「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」。昨年、集団的自衛権という法案を通し、そしてちょうど今日ですが、安保関連の法案を決定した、という今。
映画の中で再び、自衛隊員たちが軍事を行使し、警察と私たちに向かって問題を突きつけてきました。正義と平和の意味。思想の有無。
面白くて怖くて何度でも楽しめる映画でした。

待ってました!グザヴィエ・ドラン監督「Mommy」

「トム・アット・ザ・ファーム」を観て以来、心待ちにしていたグザヴィエ・ドラン監督作品!
もちろん、後追いで「わたしはロランス」をDVDで観ましたよ。

私にとって映画における「母親と子供モノ」は観たあとで過剰に痛い思いがしてしまったりするジャンルなので要注意、なんである。もう私の年ならとっくに「おばあちゃん」になっている人もいるのに、まだ私はこのジャンルに対する自分自身の脆さから抜け出せない。
しかし「Mommy」には私を身構えさせるものは無かった。
私は、愛されずに捨てられる子供の話が、なにより堪えるのだなあ。
しかし、グザヴィエ・ドラン監督の作品は、その映画の最後のシーンが決してハッピーエンドといえなくても、どこか何か希望を感じるのだよなあ。その希望、とは何かと言えば、そこに愛だけはある、というような形にならないものだけど。
例えば、話がラストシーン近く、ダイアンは妄想する。スティ−ブがちゃんと学業を修め、卒業し、恋人と出会い、結婚し・・・というどこにでもありふれた未来を。ADHDのスティーブにとってそれがとても「ありふれている」とは思えない未来を。けれど希望とはそれが結実するかどうかというものではなく、ただ相手の幸せを祈るもの、そういうものとして描かれているように思う。

15歳になるADHDの息子、スティーブ。その母親、ダイアン。そして彼らの向かいの家の、カイラ。
映画はスティーブとダイアンの母子愛について描かれている、のだけど、私にはダイアンとカイラの物語も大きな比重を占めていた。
施設で放火したためにそこから息子を引き取ることを要請されたダイアンが家に息子スティーブンを連れて帰る。家に着き、向かいの家を見る。家の中の、外からはあまり見えないような、クリアではない窓の奥にカイラの顔だけが見える。ダイアンは心の目で覗き込むようにその家を見て、探し出すかのようにカイラの顔を見つけ、そして彼女に挨拶をする。
カイラは休職中の教師。夫と娘がいる。しかし吃音に苦しんでいるようで家庭の中でも夫や娘とコミュニケーションが取れない様子である。しかしスティーブンとダイアンに出会い、彼女は彼らの間では豊かな感情も言葉も取り戻すのだ。
3人で台所で歌うシーンがとても印象的だった。
スティーブは母親ダイアンの乳房を服の上からつつく。近親相姦的なあやうさはダイアンの堂々とした母性が撥ね退ける。そんな二人を戸惑いつつも眩しそうに見るカイラ。
そして、多分、セリーヌ・ディオンの"On Ne Change Pas"ではなかったかと思うのだけど、この曲は知っているかと言ってスティーブが歌い、ダイアンが踊り、そして吃音だったカイラも美しい声で歌いだす・・・。あのシーン、とても泣けてしまったなあ・・・。
または酔って、くだらないことを言い合っておなかがよじれるほどバカ笑いするダイアンとカイラ。

映画の中ではっきりと名言していないことのひとつは、カイラは何故家の中で引きこもっていたのか、カイラの過去に何があったのか、だ。
しかし、もうひとつはダイアンとカイラ。私は実は二人はレズビアンだったという裏設定があるのでは、と思って観ていた。
先に書いた「ダイアンの妄想」の中、年老いたダイアンはやはり年老いたカイラと共にいるし。
またラスト近くにカイラが引越しすることをダイアンに告げにいったとき。その前、スティーブを精神病院に入所させたあと、ダイアンとカイラは会っていなかったのではないかと思う。スティーブの入所を決めたことを簡単に肯定しあえるほど、簡単に否定しあえるほど、そしてお互いに簡単に慰めあえるほど、ダイアンとスティーブの、スティ−ブとカイラの、そしてダイアンとカイラの愛情は単純ではなかったからだと思う。それでも引越しすることになり、やっとカイラは再びダイアンの元を訪れた。そこで彼女は言う。「私は、夫と娘を捨てることは出来ないから」と。映画の中で一言も言ってはいないが、カイラにとって実はダイアンの存在は夫と娘を捨てるかどうか、と考えるに到る存在だったということではないか。

幸せなときも抱えている不安やストレスを表しているような1:1の画面と、開放感を表す横長の画面の、まさに世界が広がる幸福感。
登場人物それぞれが抱える愛の形。それらを感じるためにまた見直したくなる映画でした。

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

観たまんますぐの走り書き。説明もあまりなく書きます。

「リアリズム」とは・・・・!
それを巡る作品でした、私にとっては。

例えば、手持ちカメラを多用して撮影された、ワンカット(風)のカメラ。臨場感を生むし、何より途切れなく映し出されているはずのカメラが時間を飛び越し、場所を軽々と移動しながらも繋がっているその面白さ。そのアイデアや技巧が本当に素晴らしいし楽しかった。
しかし何故そんなことを、と考えると、つまり人の目とは1台のカメラなのである、ということではないかと思った。映画であれ、常にそのシーンを見ている人の目は1つ、それがリアルでしょう?と言っているかのようだ。
しかし、この映画は主役であるリーガンの視点だけではないので、そこには矛盾が生じる。

例えば映画におけるBGM。
私たちの生活には、そこの場所にある生活音があり、時には隣の部屋から聞こえる音楽があったりはするものの、心情に合わせて劇的に盛り上げる音楽が都合よく流れたりはしない。それがリアルである。
しかし、「バードマン」の中ではリーガンの心情に合わせて激しいドラムソロが展開され、観ている私たちの心をリーガンの心に沿わせるよう追い詰められたり不安になったりするのだが、そのうち映画の中で、ドラムを叩く男が登場する。
「はい、そうですよ、リアルではドラムなんて鳴りません。聞こえるのだとしたら、そこに『ドラムを叩く人』がいるからです。例えば路上に。例えば部屋の中に。ほら、『男』に近づけば音も近づくし、離れていけば音も遠ざかっていくでしょう?これがリアルってやつです」
とまるで言ってるみたいに。
しかし、路上で、またはどこかの部屋でドラムを叩く男がいる、という世界が本当にリアルなのでしょうか。

演じるってなんでしょう。
マイクは舞台こそが自分の本当の生だと言う。
贋物ばかりのセット。水を飲んで酔っ払う演技。そんなものはくだらない。ジンを飲むというシーンなら本当にジンを飲むし、酔っ払うシーンなら本当に酔っ払う。
演じるってなんでしょう。
リアリズムが100%のものだとしたら、その100%に限りなく近づくということでしょうか。
演じるということは嘘をつくということであり、そして嘘をついてはいけないということでしょうか。
その役柄になりきり、台本に書いてあるセリフを喋っているが、まるで今、自分が感じたことのように、話すように、喋る。

リアルな世界では、リーガンはかつて映画「バードマン」を演じていた男だった。しかしいつしかリーガンの中に『バードマン』は超自我として存在しているし、『バードマン』の声やまとわりつく世界がリアルになっていく。

最後に演劇批評家の重鎮、タビサは、リーガンの最後のシーンを「これまで停滞していたアメリカ演劇界を揺るがすスーパーリアリズム」というようなことをNYタイムズに書いています。
素晴らしく演じるということは、死ぬシーンで本当に死のうとすることでしょうか。

現実の世界では、「バードマン」を演じたリーガンを覚えている人はいるけれど、それよりも人々を熱狂させるのはSNSの世界の可愛い猫の動画や誰かのゴシップ記事などで、そこに「イイネ!」をしたり動画の再生回数で人気を計ること、それこそがリアルだとリーガンの娘、サムは言う。
その一過性のクリックがリアルなのか、それとも語り継がれる作品を作ることがリアリティある生の証なのか・・・。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、やりなおしも待ったもきかない演劇という時間芸術の幕開けに関する面白さも持ちながらも、様々な目線、技法、脚本、映像からリアルというものは一体なに?という問い掛けを執拗にしてくる映画でした。

リアルとは・・・・!
まったく関係ないけど、この映画の前にもうひとつ、「リアルとはなんだろう」と思った作品を挙げておきます。
1年前に活動を停止してしまった、女子中学生のせつない気持ちを歌うガールズポップデュオ 「たんきゅん」。
みやまゆとチャンユメというふたりの女子中学生、という設定ですが、みやまゆはイカ天世代の私たちには懐かしい「マサ子さん」のボーカリストだそうで、チャンユメはごーきゅんこと郷拓郎という男性らしいです。ごーきゅんによる楽曲がとてもいいのですが、しかし二人の声は本当にキュート。そしてみやまゆとチャンユメが手をつないで立っているシーンでなんだか泣けてきそうになるのはなんででしょう。
女子中学生ではないふたりによる、リアルな女子中学生感。
リアルと嘘と演じる、とは・・・なに?

詩と「おとぎ話みたい」について

詩ってなんだろう、と何年か前から思っていた。
子供の頃は、
短いセンテンス、開いた本にたくさんの余白、
まるで逆さにした棒グラフのような、
そういう形態の文章を「詩」だと認識していた。
ところが、では谷川俊太郎のはなんだろう、そしてそれからずっと経って読んだ川上未映子のあれはなんなんだろう。あの改行もなく、逆さにした棒グラフのようでもなく、文字で埋められた紙面、あれが短編小説でもなく詩だというのなら、詩とは一体どう定義されるものなんだろう。そんなことをずっと思っていた。

そして山戸結希監督「おとぎ話みたい」を観たとき、私にはまだ詩を普遍的に定義する言葉を思いつかないが、
少女が必要とするもの、それが詩だ、と思った。

映画の中の主人公のモノローグ、あれは詩だ。
でも私がもっとも詩的だと思ったのは、「先生はわたしのことが好きでしょう?」という叫びだ。
他人に向かって問いかけているようだが、しかし本当のところは会話を拒絶している。自分の中にわんわんと反響し続けて答えを求めない問いかけ。
他者という存在を前にして、まだそこに関係を結べず、自己だけがくっきりしていくあの「少女」という時間。
会話とか関係とか理解とか、そういうものではなく、
詩の孤高さだけが必要とされる。それが少女ではないか。
そんなことを思ったんだ。

「劇場版PSYCHO-PASS」と「TATSUMI マンガに革命を起こした男」

昨日はまず「劇場版PSYCHO-PASS」。
ちょうど今起こってるISISの人質事件。
人の命に値段が付けられたり、または交換条件にされたりしている。
改めて、命の価、というものについて考えている日々である。
これが映画だと、そこにヒーローが乗り込んできて、周囲を固めるたくさんの敵の手下をババババッと撃ち殺し、その奥に捕らえられてるたった一人の命を救出するんだよね。
守るべき「1つの命」と、その前に殺される「たくさんの命」、その質は一体どう違うっていうのだろう。
数百億ドル、という値段をいきなり付けられた人。
じゃあ誰かが病気で死んだとしたら、その命に対して「これは数百億ドルです。払ってください」と誰に言えばいいのか。
先の人の命と、後者の命。命自体に一体なんの違いがあるというのか。

劇場版PSYCHO-PASS」を観ながらも、どうしてもその考えが頭から離れない。
舞台設定は今から100年後の未来。
平和を模索した結果、食糧を完全自給化した上で日本は鎖国している。人々は都市部にのみ住み、すべての決定は「シビュラシステム」に任されている。シビュラは個人の適正から職業や将来、結婚相手まで選択する。そして個人の「犯罪係数」を逐一チェックする機構を整え、犯罪係数の高い人間を隔離、または処分する権限を持っている。
既に裁判制度はない。善悪もすべてシビュラシステムが決定するのだ。
例えば今日、現実の世界ではまたひとつの事件が起こった。名古屋で女子大生が「人を殺してみたいから」という理由で老女を殺したと言う事件だ。シビュラシステムがあれば彼女は殺人を犯す前に拘束されてたということだ。もう、シビュラがあれば、不幸な犯罪は行われない筈だ・・・。だが・・・。
テレビ版では、シビュラの盲点を突く犯罪を描いて、どのような組織も完全ではないと言うことと、そしてこの正義や平和のシステムはどのようなグロテスクな形で成立しているかを描いていた。
そして、今回の映画版ではそのテーマに引き続き、このシステムを未だ紛争を解決できない国家に持ち込んだとしたら、一体それは誰に対して「正義」をジャッジするのか、という映画でもあった。
そこでもやはり、ひとつの命を守るために無残にもたくさんの命がなぎ倒されていくのだ。

虚淵玄の脚本は、「とりあえず選択された最善の世界」を描いている。そこには問題があろうと、今はまだその方法以外に道が見出せてはいない、という世界だ。私は是非、この「PSYCHO-PASS」という作品上で、この世界のさらに100年後、について描いてほしい。例えばその時、常守朱は脳だけの存在になり、シビュラシステムに取り込まれている世界であって・・・。

この映画から少し時間を置いて、もう1本、「TATSUMI マンガに革命を起こした男」を観た。
この作品は、マンガ家・辰巳ヨシヒロ自叙伝的マンガ作品「劇画漂流」、及び彼の短編作品5話を元にして、シンガポールのエリック・クーが監督したアニメーション映画。
私は辰巳ヨシヒロというマンガ家を全然知らなかった。つげ義春はたくさん読んでるのに。昔も今もいろんなマンガを読んでいるのに。
辰巳ヨシヒロさいとう・たかをとも活動を共にしていたのに。
何故か辰巳ヨシヒロは日本よりも海外での評価の高いマンガ家だそうだ。

さて、私はマンガを読む。小学生の子も喜ぶものから大人のために描かれたマンガまで。大人でも読む、ということは私の世代ではあたり前のことだと思っていた。
しかし、昔は、マンガは子供のもの、だったのだ。
大人が描く、大人をターゲットとした表現のひとつになるためには、新たに「劇画」というジャンルが必要で、そのジャンルを作ったのが辰巳ヨシヒロさんだったそうである。
その昭和史。戦時下に子供時代をすごし、変わり行く思想と街と暮らしの中に生きてきて、マンガを描き、劇画を生み出していくその人生を描いた「劇画漂流」は、昭和戦後史としてとてもリアルで迫るものがあった。そして短編5編は、その時代に生きていくことの困難、そして例えばすぐ隣にいる女の中に見るしたたかさや図太さ、そして更にその女の中にあるやけっぱちと苦悩・・・と、様々なものにクローズアップしていって「生きていくこと」の姿を描いていた。
声は別所哲也がひとり何役も演じてたそうだけど、映画のナレーションは辰巳ヨシヒロさん自身の朴訥とした喋り。その喋りも、この映画の絵や世界観ととても合っていた。

今から70年以上前になる1940年代から1960年代頃を描いた「TATSUMI マンガに革命を起こした男」と、今から100年後の世界を描いている「劇場版PSYCHO-PASS」。なかなかいい二本立ての一日だった。


そういえば辰巳ヨシヒロさんは私の父とほぼ一緒の年である。
私は久しく父親に会っていないのだが、この映画を観たあと、近いうちに父に会いに行こうかと思った。こんなことを思ったのは実は初めてである。父に、戦争の時代を生き抜いた時の話を聞きにいこうかと思っている。

「自由が丘で」ホン・サンス監督

この映画を一緒に観にいった友達は、「明日も観るかも」と言った。
いいね。
きっと観るたびに何かを発見する映画だろうな。
私も見終わったあとで友達と話しながら、ひとつ。またひとつ。とゆっくりした間隔でジグソーパズルの残り少なくなったピースを埋めてる時のような喜びに近い感情を味わっていた。

病気療養のために旅に出ていたクォン。戻ってきたクォンは、1通の手紙を受け取る。封を切り、その中の紙の束を取り出すが、眩暈を起こしたのかふらつき、その時、その紙の束を落としてしまう。クォンに会いに来た日本人、モリからの手紙の束を。
手紙、というかそれは、クォンに会うために韓国にやってきたものの、クォンの居場所がわからず、そのまま韓国に滞在しているモリの日記のようなものだった。但し、日付無しの。
クォンはふらついた際に手紙を落としてしまい、ばらばらになる。それを拾い集めて読むのだが、手紙の時系列がバラバラになってしまっている。そこでクォンは、順列がわからなくなったモリの日々を読むのである。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  

観ている観客には、ここから先のモリがどの時間に居るのかわからないのだが、映画の中で出てくる人、起こった出来事や会話の内容でジグソーパズルで埋めていくように彼の日々を紡いでいく。
モリは吉田健一という明治生まれの翻訳者であり小説家の書いた「時間」という評論を読んでいる。(ちなみに今、加瀬亮のインタビューを読んだところ、この本はホン・サンス監督から何か本を3冊持ってきてほしいといわれて加瀬亮が持ってきた、彼自身の本だったらしい。それが偶然、この映画のテーマと合致して使用されたそうです。)
「時間が流れている」と捉えているのは人間だけだ、みたいなセリフがありました。
時間は「現在」の集合体で、過去とか未来とは人の観念である、というか。
この映画もまさにそういったもので、「手紙(日記?)」が切り取った「現在」は、まさに一枚一枚のまっさらな紙のようなもの。時間を辿るのではなく、思い返すのではなく、過去をまるで今まさにそこで起こっている「現在」のように瑞々しく扱ったのが、この映画ではないかと思っている。
犬を救ってくれて本当にありがとう!と言われたその犬とは、その後のシーンで道に迷っているところをモリに見つけられる。更にその後のシーンでカフェの椅子に座っている犬に会い、犬の名「クミ」を初めて聞かされるのだ。

丸顔の髭の男にどうでもいいことを話しかけられて突然ブチ切れたゲストハウスに滞在してた女の子。この髭の男もゲストハウスの主人かと思いきやあとになって借金を抱えた居候、サンウォンだとわかるし、イライラして全身で怒ってた女の子もその少し前の過去ではとても軽やかな笑顔を見せて歩いている場面がある。
それは本当はモリの手紙には書かれなかったシーンだ、きっと。
モリの日記のような手紙には、滞在してた女の子とゲストハウスの居候サンウォンの突然の口論と、彼女を迎えに来た父親らしき男のことを書いたのかもしれないが、彼の居た時間の中をふと一瞬横切った少女については書かれていないはずだ。
映画は、モリの視点で描かれながらも、モリが見ていないが彼の存在してる時間の中に散らばっている様々な何かを映してる。
ああ。こういう表現!映画って、いいよね! 
この少女のシーンはすごくそんな風に思った。

ところでホン・サンス監督の映画、まだ数本しか観てないのですが、どの映画もこういう酒の飲み方、タバコの吸い方、などなど韓国のデフォ、と割合自然に思ってたのですが、今回、日本人である加瀬亮が演じることによって、日本映画の中の日本人、加瀬亮だったらこんな芝居はしないなと思うシーンが結構あって、改めて「ホン・サンス監督の演出」が可視化できました。あのタバコの吸殻、タバコを吸うタイミング、酔い方、酔ってサンウォンと肩を組むモリ・・・。
あと、会話のシーンが長回しが多いのですけど、全部英語のセリフで長回しであのナチュラルな演技・・・。すごいな、加瀬亮

モリの言動で幾つか、「それは日本人は言わない」と思うシーンがありまして。
例えば「朝ごはんは10時までって言ったよね?もう1時なのに何でその人は食べてるの?」のシーン。サンウォンの存在が明らかになる面白いシーンだけど、このシーンのセリフは日本人なら絶対に言わないでしょー。他にも怒り方や酔っ払って喚くシーンとか、非常に韓国映画の中の韓国人に近い感じがした。しかしこれ、「英語」のせいかもしれない、と途中で思った。他国の言語で一生懸命しゃべっていると、感情の表出の仕方が「日本人」という枠を越えるという経験は私にもよくある。
この映画の登場人物はモリを介することで、母国語ではない「英語」という言語で、とにかく自分の意思をストレートに伝えようとしている。その意味でこの映画はホン・サンス監督のどの映画よりも直接的な思いで満ちているような気がする。

クォンがモリと共に日本へ行き、結婚して子供が出来ました、というシーンのあとに続く、最後のシーンがとてもステキですね。ちなみに私は「このシーンの時間」というピースが置かれる場所を、映画を見たしばらく後になってようやく発見できたのですけどね。
あれは、ヨンソンの「犬を見つけてくれてありがとう!すぐにお礼をする。今よ。今夜!」というシーンのあとに続くんだね。
飲みに行って、ヨンソンはすっかり酔ってしまい、仕方なくモリは彼女を自分が泊まっているゲストハウスに寝かせ、この時間の中のモリと彼女の関係はまだ始まったばかりで、だからモリは外のテーブルで一晩を過ごす。そして朝になる・・・。

クォンに会えないモリはヨンソンと寝て、多分ヨンソンの男と喧嘩をし、しかしクォンに会って彼女を連れて日本へ帰る。その後にはそういう時間が重なっていくのだが、それでも初めてヨンソンと一緒に飲んだ翌朝は、あんなに輝いていた、という、積み重なっていく1つ1つの「現在」の美しさを謳うシーンだったと思う。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・ 

さて、最後に、この映画があの手紙に書かれているすべてだとしたら、それを読んだクォンがさらっとモリを訪ね、そして一緒に日本へ行く、ということが何の逡巡もなく描かれていることに少し戸惑いを感じた。普通ならクォンから「えー?あんた、『自由が丘』のヨンソンと寝たの?!」とか「どうしてそういうことぬけぬけと書いて送るの?!」とか、あの、そういうの、ないの?それとも、書かれていることとこの映画の内容は、違うの?と、これは最後まで残る謎のひとつではないでしょうか。
ただ、ふっとですね、そうか、ホン・サンス監督にとっての人間関係は、「2」ではなく「3以上」がデフォか、と思い至ったのですよ。他の映画もすべてそうですしね。というか、創作上、「3以上」が面白いから、ということではなくて、空間認識が「3人(以上)」なのでは、と。
非常に個人的な話で、人にわかるようにどう伝えたらいいのかわかりませんが、私は20年以上、夫との「2人暮らし」で、仕事も10数年、夫と2人で営業してて、その間に誰かと同居したとか、従業員を雇ったいう経験はないにも関わらず、ものすごく無意識の状態で「3人目」をカウントしてしまう時があるのです。目覚めたばかりでまだ頭の中が真っ白な状態で、私と夫と、もうひとり・・・はどこ行ったかな?とか、とにかく「もうひとり」がいるような気がするのだけど、それが誰のことをさしているのかが自分でもわからないのです。霊的な何かという話ではないし、飼っている猫のことを無意識で擬人化してるわけでもなりません。兄弟とか家族とかでもなく、男か女かもわからないけど、私の中でとても無意識のレベルで、「1つの空間の中に3人」という認識がデフォルトになっているとしか言えないのです。もしかしたらホン・サンス監督もそうなのかなあ、と思ったりして。

オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ(ジム・ジャームッシュ監督)
セブンス・コード(黒沢清監督)
アイム・ソー・エキサイティッド(アルモドバル監督)
毒戦(ジョニー・トー監督)
ヌイグルマーZ(井口昇監督)
スノーピアサー(ポン・ジュノ監督)
もらとりあむタマ子山下敦弘監督)
17歳(フランソワ・オゾン監督)
ある精肉店のはなし(纐纈 あや監督)
抱きしめたいー真実の物語ー(塩田明彦監督)
MIROKU 彌勒(林海象監督)
パズル(内藤瑛亮監督)
愛の渦(三浦大輔監督)
土竜の唄 潜入捜査官REIJI(三池 崇史監督)
子宮に沈める(緒方貴臣監督)
白ゆき姫殺人事件(中村義洋監督)
The Next Generation パトレイバー 第1章(押井守監督)
アデル ブルーは熱い色(アブデラティフ・ケシシュ監督)
クレヨンしんちゃん ガチンコ!ロボとーちゃん(高橋渉監督/
脚本 中島かずき
たまこラブストーリー山田尚子監督)
ライブ(井口昇監督)
チョコレートドーナツ(トラビス・ファイン監督)
大江戸りびんぐでっど(宮藤官九郎 作・演出)
グランド・ブダペストホテル(ウェス・アンダーソン監督)
ヴィオレッタ(エヴァ・イオネスコ監督)
劇場版テレクラキャノンボール2013(カンパニー松尾監督)
野のなななのか大林宣彦監督)
私の男(熊切和嘉監督)
渇き。(中島哲也監督)
罪の手ざわり(ジャ・ジャンクー監督)
ウィズネイルと僕(ブルース・ロビンソン監督)
The Next Generationパトレーバー第3章(押井守監督)
思い出のマーニー(米林宏昌監督)
ホドロフスキーのDUNE(フランク・パヴィッチ監督/アレハンドロ・ホドロフスキー出演)
リアリティのダンス(アレハンドロ・ホドロフスキー監督)
365日のシンプルライフ
The Next Generationパトレイバー第4章(押井守監督)
TOKYO TRIVE(園子温監督)
リヴァイアサン(ヴェレナ・パラヴェル監督・撮影・編集・製作)
ある優しき殺人者の記録(白石晃士監督)
LUCY(リュック・ベッソン監督)
イヴ・サンローラン(ジャリル・レスペール監督)
花火思想(大木萌監督)
MOTHER(楳図かずお監督)
ざくろの色(セルゲイ・パラジャーノフ監督)
ニンフォマニアック Vol1(ラース・フォン・トリアー監督)
郊遊(ツァイ・ミンリャン監督)
殺人ワークショップ(白石晃士監督)
超・暴力人間(白石晃士監督)
楽園追放(水島精二監督/虚淵玄・脚本)
ニンフォマニアック vol2(ラース・フォン・トリアー監督)
紙の月(吉田大八監督)
レッド・ファミリー(イ・ジュヒョン監督/製作総指揮キム・ギドク
西遊記 はじまりのはじまり(チャウ・シンチー監督)
トム・アット・ザ・ファーム(グザヴィエ・ドラン監督・主演)
寄生獣山崎貴監督)
トム・アット・ザ・ファーム(2回目)
メビウスキム・ギドク監督)
インターステラークリストファー・ノーラン監督)
マップ・トゥ・ザ・スターズデヴィッド・クローネンバーグ監督)
童貞。をプロデュース松江哲明監督)
劇場版テレクラキャノンボール2013(2回目)
百円の恋(武正晴監督/安藤サクラ主演)

今年見た映画 63本
邦画 34本
洋画 28本

ベストなんとかってあまり性に合わないけど、それでも選んでみました。

邦画ベスト3(順不同)
ある優しき殺人者の記録
セブンス・コード
野のなななのか
ヌイグルマーZ
 あれ?3つになんない・・・。もうこれ以上は落とせません。

洋画ベスト3(順不同)
オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ
ホドロフスキーのDUNE+リアリティのダン
トム・アット・ザ・ファーム

「トム・アット・ザ・ファーム」

この間から、ネットで「トム・アット・ザ・ファーム」という文字を見るだけで心が跳ね上がるのを感じる。ドキドキする。
え、ちょっと待って。なんだ、これは。
恋か? 一体、何に?
トムに、ではなく、グザヴィエ・ドランに、でもなく、何、とかわからないのだけど、この、知りたい・なんだかわからないものを探したいというどこか狂おしい思い。私はそれを「恋」なのだと思っている。

「トム・アット・ザ・ファーム」を観にいった。
恋人、ギョームを失い、悲しみ方さえ喪失したトムの心情を埋めるかのような、古い、きっと誰もが耳にしたことのある、冒頭で使われるミシェル・ルグランの「風のささやき」。
それにのって流れる空撮による田園風景。長い一本の道。
誰もいない家の怖さ。
葬儀のあと、何故あの家に戻る、トム。
暴力を振るう男との官能的なタンゴ。
そして、そして・・・。
最後、やっと戻った街の風景がなんだかすごく懐かしくて、開放されたような気持ちになりつつも、それでも映画が終わったあとに一体私はなにを、どう決着させていいのだ?という気持ちになった。
最後の最後に残った疑問が、エンドロールが終わっても自分の中で答えを探し出せず、どう処理していいかわからなかったのだ。

トムがあの家から逃げることを決めたきっかけはなんだったのか。
アガットはどこへ行ったのか。
フランシスはどこに行ったのか。
目が覚めたトムは何故、隣の空のベッドを見つめていたのか。
どうしてスーツケースを捨てたのか。
最後のフランシスのジャケットの「USA」の文字、そしてエンディングの曲に出てくる「アメリカにはもううんざりだ」という曲は何を表しているのか?


映画を観た数日後。
目覚める前の浅い夢の中で、「私」が現れて、私に問うた。
「『トム・アット・ザ・ファーム』、どうしてもっと深読みをしてみないの?どうして観てるだけなの?」と。
「私」にそう言われて私ははっとした。
そうだ例えばあのタンゴを踊るシーン。フランシスの荒っぽいイニシアチブに任せて踊る、口を半開きにしたトムの顔がなんて色っぽいんだろうって思ったのだけど、つまり、何故あんな表情か、ってことだよね?
「そうそう」と煽る「私」。
つまり、あれは勃起している、だからあんな表情だ、と考えていいよね。そして踊っているフランシスにそれが全く気付かれないというわけはない。フランシスは最初、ホモフォビアのように見えるが、トムが勃起していることを許しているということは実は彼も勃起していると考えてもいいかな。つまり、あの時点で彼らにはお互いへの欲情があったということではないか?

その後、ずっとこの映画のことが頭を占め続けて。
トムがそれまで生活していた場所へ帰還したと感じたラストシーンも、知人は「いや、あれは、最初にあの農場へ引き返したカットと同じだからつまり、再びあの農場へ、フランシスの元へ戻ったのだと思う」と言い、さらに私は揺らいだ。映画は明確な答えなど提示してないが、それでも答えは映画の中にしか探しだせない。もう一度、私もあの場所へ戻ろう、と翌週、もう一度この映画を観にいった。

そして私なりに彼らを推理してみる。

冒頭の青いインクの文字。
恋人を失ったトムは、そこで最後に書き綴っている。
「代わりを見つけるしかない。」
代わりとは、新たな恋人を指すかもしれないが、彼を支配する新たな感情、とも取れる。
そこで彼は、恋人の面影を宿す恋人の母親と兄に、しかも暴力と命令でもって服従しようとする兄、フランシスに彼の精神を委ねてしまう。

トウモロコシ畑でフランシスに殴られるトム。
映画の画面が、その上下が、ゆっくりと狭くなっていって端の黒が画面を狭くしていく。恐怖でトムの視野が狭窄していくかのようだ。大写しになってたトムを殴るフランシスの上半身も、黒の中に少しずつ消えていく。
外で二人で酒を飲み、そしてまるで激しい抱擁を交わす代わりに、熱いキスを重ねて舌を絡ませる代わりに、フランシスによって首を絞められるトムの、あの官能的なシーン。そこでも画面の上下が急に狭くなっていき、まるで気を失う寸前のトムの視界のようだ。
最後、トムを追うフランシスのシーンでも、その恐怖でまるで心がぎゅっと強張っていくのに連動するように、画面がするすると上下が狭くなっていった。そして音だけの車のエンジン音。トムがこっそり逃げ出して車を奪ったということがわかるその瞬間に画面のアスペクト比が元に戻っていた。
トムはあの家にいる間、ずっと何もかもをも見ず、まるで薄目だけで世界を見るようにして、心を狭く閉ざしながら、あの場所に自分を馴染ませていたように思える。

トムとフランシスの関係はどう変化していったのか。
アガットは、息子ギョームが家を出て行ったあともずっとギョームのベッドと整え続けた。そして客であるトムに、そのギョームのベッドを使わせる。しかもその部屋は、片側にギョームのベッド、そして片側にはフランシスのベッド。この家の中でアガットはいつまでも「母親」という支配者であり、トムに対してもフランシスに対しても、大人に対する対応とは思えない。
しかしアガットに逆らうことなく、二人はその部屋で寝起きし、共に農場の仕事をする。
ところが最後、町の人がフランシスを恐れる理由、彼が孤立している理由をトムはバーで知ることになる。
その理由が、彼が翌日家を出ることになったきっかけになったのだろうか。
いや、彼は、その話を聞いてもフランシスを恐れなかったのではないか。
ギョームの名誉を守るために暴行を働いたフランシスに対して、少しばかりのの共感がそこに生まれたのではないか。彼は静かに行くバスを眺めている。そしてそこに乗ったサラを、きっとフランシスの車の中である程度の性的な何かを行ったサラを冷ややかに眺めている。そして彼はそのバスに乗ろうとはしていない。
朝、一人目覚めるトム。隣の、空のベッドに目をやっている。
このシーンで、これまで部屋の両端に離れていた彼らのベッドが、くっつけられていることに気付いた。しかもトムが目覚めたベッドはこれまでフランシスの寝ていたほうのベッドだ。くっついているもうひとつのベッドは空である。(それはフランシスが今ここにいない、ということだけでなく、再び空になったギョームのベッド、という印象をじわじわと漂わせている)
ギョームとフランシスに関する過去の話を聞いた帰り、トムはフランシスの車に戻り、部屋に戻り、そして彼らは性交したな、と私は思う。
ベッドから降りたトムの足元に箱がある。それはその前の日の夜、アガットが持ってきた箱だ。中にはギョームの過去の手紙や手記が入っている。アガットはそれを読んでいないと言う。アガットはそれをサラ(ギョームがアガットを偽るために、いやフランシスがギョームにアガットを偽るようにと命じて作ったいつわりの彼女)に読めと迫った。ギョームの恋人なら読みたいはずだと。
一体、その箱が、今、トムのベッドの足元にあるのは何故だ。誰が持ってきたのだ。もちろんこれはアガットだろう。そのアガットは、フランシスとトムのベッドがくっつけられているのを見たはずだ。もしかしたら性交したあとの抱き合って眠る彼らを見ているのかもしれない。さらに、読んでいないと言っていたあの箱の中身、ギョームの手記を、アガットは既に読んでいたのかもしれない。
目覚めたトムはリビングに行き、アガットがいないことに気付く。彼はアガットの名を呼んであちこちを探す。家の中にも、農場にも、どこにもいない。
そこで急に彼は、この家から出て行こうとするのだ。理由はフランシスの過去の暴行ではない。アガットがすべてを知っていると気付いたからではないか。そしてアガットは、彼女も偽りと思い込みで塗りこめられたこの場所に幽閉されていることに耐えられなくなって家を出たのではないだろうか。
そのアガットを思い、そこで初めてトムも、自分の今居るこの環境がとても歪んでいて閉塞的な場所だということに気付いたのではないだろうか。

フランシスの車を奪い、かつてトムが住んでいた都会の街に戻る。
そして信号で止まり、信号が青に変わる。
彼は・・・・再びハンドルを切ってあの農場がある場所へ戻るのか。それとも元居た場所に帰るのか。
1回目は帰ると思って観たのだが、2回目に観たときは、帰るとか戻るとかではなく、そのどちらにも行き場がない、というエンディングではないかと思った。フランシスの一方的な感情と暴力に支配されてずっと生活をすることはできない。しかしこれまでの場所にギョームはもういなくて、自分が空っぽなことには変わりがない。今のトムにとって、信号は青を示していても、どこにも行く先などないのだ、今は。という終わり方なのだと思った。

紙の月

映画クライマックス。宮沢りえ演じる梅澤さんが銀行の会議室のような部屋の窓ガラスを椅子でバリンーー!!と割った瞬間。私は反射のように涙がつつーっと出てきて、そこから先はもうずっと、涙が止まらなかった。
梅澤さんは窓から飛び降りるのか。その先は死なのか。それとも逃亡? 小林聡美演じる隅さんが梅澤さんの腕を取り、そこから先に彼女が進もうとするのを止めようとする。それに対し、梅澤さんは言う。
「隅さんも、行きますか?」と。
銀行という職場に長年勤め上げ、その場所で自分に対しても社会に対してももっとも正しくあろうと生きてきた隅さんに「あなたも行く?」と聞くセリフが恐ろしい。そして隅さんのような人でさえ、問われて一瞬スキが出来るところに何故かまた泣けた。

私は、何を泣いてるのだろう。

ニンフォマニアック vol.2」の、不感症になり快感を失っているのに、それでも性交を求め、そして更なる刺激を求めて真夜中に幼い子供を家に残し、男に鞭打たれるために家を出るジョー
「紙の月」で稼いだ金を・貢がせた金を・財産として持っている金を・横領した金を、どんどん使いモノを買っていく女達。
2つの映画の中、欲望を前にして走る彼女たちの姿が重なるのだ。
そして私も欲望のために夜を駆けたことはなかったか?
中学生の頃とか。大学生の頃とか。20代、30代・・・・、あったよ!
そして、それがどんなに愚かしいことでも、そこに今も昔も後悔なんてないよ!
後悔はないが、そのような愚かしさが仕方なくも悲しい。

「綺麗ですねえ、ニセモノなのに」。
梅澤さんは、痴呆が入ってきたらしい一人暮らしの財産家の女性のお金を横領している。老いた女性の浪費も加速している。
梅澤さんは笑顔と優しい言葉で女性に接しているが、彼女の首にかかる安物の水晶のネックレスを見て、小さな悪意の言葉を投げかけるのだ。
しかし、そこだけ正気に戻ったかのようにはっきりとした口調で老いた女性が言う。
「いいじゃない、ニセモノでも。綺麗なんだから」と。
梅澤さんは年下の恋人と初めて夜を明かしたその喜びも、どこか「でもこれはニセモノの美しさだから」と思っていたと言う。
ニセモノって何だろう。ていうか本物ってなんなの?本物は本当に幸せにしてくれるの?ニセモノの幸せがあるなら本物の幸せって?

梅澤さんは、その答えを出せたのだろうか。

窓を割り、そこから外に走りだした梅澤さんは、本当はどこに行くのが自分の居場所だと思っていたんだろう。本当は、刑務所に入ることが自分の居場所だと思ったのではないか。でも、走っているうちに、どうしても自分の罪が納得できなくなったんだと思う。
どこかに動かないままあり、無駄に浪費されるお金を私が私の幸せのために使って何故いけないの?と。
銀行という組織は他人のお金を集めてそれを他に回して動かしているけど、それを私が私個人のためにしてどうしていけないの?
銀行は不正を行っているのに、私が私の幸せのためにそれをやって何がいけないの?
それが罪だというルールはわかっていても、でも、本当にどうしていけないの?という納得のいかなさ。

そうか、法とは、罪とは、所有に関するルールなんだ。
個々の所有を侵すことで争いが生まれるから、人類は長い年月をかけて争いをなるべくなくすため、またはそれを解決するために法を定めてきた。
それなら、梅澤さんが夫を裏切り、平林さんの孫と付き合い、彼に貢いでいくことが罪とされるのは、梅澤梨花は梅澤さんの夫の所有物であるからか。どうして家族は、お互いの所有物だってことにならねばならないのか。

梅澤さんも、そしてこの映画を見てる私も、そしてこの映画を見てる多くの誰かも、本質的にその何が間違っているのか、どうしたらいいのか、いろいろと納得がいってない。だからもう、走るしかないのだ、あらかじめ定められた居場所ではない方角へ。

ニンフォマニアック

平日にも拘らず満席の客席で観たvol.1。
面白かったわー。と迷った挙句に結局それを観た当日のツイッターではそう書くしかなかったが、とても簡単にそう言い切れない感情が渦巻いていた。手放しで面白いーとか好き好きーとか言えないのは、映画の端々にこちらに向けて「悪意」という感情が顔を覗かせているように思えたからだった。勿論それすらも面白いのだけれど。
シャルロット・ゲンズブール演じるジョーの話に挿入されるセリグマンの思索的な対話。その構成はとても面白い。
それにしても「ミセスH」という女性の設定、また「せん妄」の章におけるハンサムで知的で冷静でジョーの理解者だった父親の、死の間際の醜い狂い方のその見せ方、そこにラース・フォン・トリアー監督が人に持つ最終的な不信、または奥底に澱む悪意、そういったものを感じたのだ。静寂の上から突然激しくたたきつけるような音楽の入れ方にも、私はそれを監督の挑戦的な悪意だと感じたのだ。
それでもvol.1を観終わったあとの私は、観たい観たい、すぐさまこの続きを!と渇望していた。

そして約1ヵ月後。
その日の朝見た夢は、知人のハンドバッグの中を覗き込むと、そこに剥き出しの1本の煙草が見えた。私はそれを躊躇も無く勝手に取って吸おうとして、ハッと気づいて煙草を元に戻した。他人の鞄から勝手に取り出した後ろめたさの他に、私はタバコをやめたのに今吸いたいと思っていて、しかし一度吸ったらまた喫煙習慣が戻るのではと怯えている、そんな夢だった。どうしよう、私はまた1日中、煙草を吸いたい吸いたいと思う生活に戻るのだろうか。それをやめるための苦労を再びせねばならないのか。
そんな夢を見た午後、「ニンフォマニアック vol.2」を観にいった。
vol.2は1に比べると上映2週目にして観客の少なさにまずは驚いた。
1と同様に、「ニンフォマニアック」は映画の中のジョーが語る彼女の話が勿論中心だけど、幼い頃からの性への好奇心や自身の子供に対する後ろめたさなどの様々な感情が女性だからという点で更に抑圧されてないかと問うセリグマンのアプローチや、小児性愛欲求を持った男に対して嫌悪を示すセリグマンに対して、欲望を完全に抑えて生活する小児性愛者の孤独に共感するジョーの言葉とか、そういった本編に絡まる糸のような様々な会話が面白い。
そして、子供時代から語っていったジョーの話が進み、気がつくと映画冒頭の、セリグマンに助けられる前の、彼女が暴行を受け道に倒れていたあの少し前の時間まで時間は進んでいるのだ。ずっと、とても過去のことだと思って追っていたジョーのストーリーが、突然自分の背中の真後ろにピタリと張り付いたかのようなゾクゾクする驚き。
そして、最後の最後、セリグマンの変容は理性・知性・公正さ・信仰心・寛容・優しさ・・・などを持とうとし、そのように生きてきた人でさえ、何かの欲望の前では簡単に醜悪な存在に変われるのだということをトリアー監督は私たちの前に突きつける!
どこか打ちのめされたような気分だった。