おでかけの日は晴れ

現在はこのブログにあるものすべて下記のサイトに移行し2021年7月6日でこちらは停止しました。以降は、左記の新サイトをどうぞよろしくお願いします。 https://ameblo.jp/mioririko

殺されたミンジュ

待ちに待ったキム・ギドク監督の。
非道にも大勢の男たちに急襲され、殺されてしまった女子高生、ミンジュ。
これは、最近の邦画にもよくある、多分それは復讐に由来するのだとしてもその動機の詳細だけが最後まで明らかにされない残忍な殺人ゲームの話だ、と思って観ていた。
金にも女にも不自由していないイケメンの男が複数の人間にいきなり拉致され、残忍な拷問を受ける。観ている私はあまりにその残忍な制裁に時々目を背けながら、きっとこれはミンジュを殺したことに対する報復なのだ、ならば聞きたいことだけ聞いたあとは同じく死を以って報復されるのか・・・と思っていたが、その男は拷問の後、路上に放り出される。
更に次から次へとミンジュの殺害に加わった男を拉致し、拷問を加え、その殺害について署名させた後は彼らを解放していく。そのうち、拷問を受けた1人の男は改めて過去の己の罪の認識のため自殺してしまう。そのことについて拉致し、拷問を加えた側の男の1人は、その罪を主犯格の男に問う。

この復讐は、殺されたミンジュに対する復讐は、相手に「死」を与えるということが最終目的ではない・・・の?
その時点で、とても意外な気持ちがしていた。

6人の男と1人の女。
1人はリーダー格の男。あとはレストランでバイトをしていたり、アメリカに留学歴があり英語も話せるが母国語が下手な上に学歴が却って邪魔をしていつまでも就職できない青年とか、友達に金を貸したせいで自らの家財を没収した男や、暴力を振るう男と同棲している女や・・・。その彼らとミンジュとの関係性は明らかにされないが、どうやら彼らは個人的にミンジュを知っているわけではなく、リーダー格の男が開設しているストレスや不満を抱えた人間が集うウェブサイトで出会ったということのようだった。彼らは正義や大義名分の名の下で他人に暴行を加えることで自らのストレスを解消しようとしているようだった。
その7人の姿が1人ずつ描かれていく。同時に、ミンジュを殺し、今、謎の集団に拉致され、暴行を受ける側の男たちも1人ずつ描かれていく。女子高生を殺したあの殺人も、自分の意思ではない、上からの命令で、そしてそれは世の中のために必要だったのだ、ということを訴える上位階級にいる男たち。そして、これがその世の中を変えるための行為だとばかりに彼らに拷問を加えて行く、底辺に生きる人間たち。私は何度もキム・ギドク監督の過去作「春夏秋冬、そして春」を思い出していた。この答えの無い、ただ繰り返されていくことの空しさ。真実のありかの無さ。この世界で生きていく場所がどこにも見えない、その苦悶。監督の叫び声さえ聞こえてくるような映画だった。

そして、最初に拷問を受けた男を演じた、キム・ヨンミンの8役!
拷問を受けた男のほかに、拷問を加える7人の男女の生活に密接に関係する男を、キム・ヨンミンがすべて演じている。女に暴力を振るう男と、弟を追い詰める兄を、友達の財産をすべて失わせた男を、そして主犯格の男の海兵隊時代の後輩で現在は僧として生きる男を・・・。それがまるで、すべての悪は、それを為すのは悪人のような男であり、そして世捨て人の優しさを瞳に宿した僧になって生きようとする男でもある、つまりどのような人間も死を以って報いられるほどの悪を為すことがあるのだ、というようなことを表しているように思えてならない。そして、その悪に直面したとき、私たちはどう生きていけばいいのか・・・ということを・・・・。

ジェットスター午後5時15分発の札幌行きに。
しかし飛行機の到着が20分ほど遅れる。札幌の「てっちゃん」の予約は閉店22時のため21時にしてある。間に合うのか・・・!
新千歳空港に到着して走るようにしてJR特急に乗り、札幌へ。ホテルのチェックインもせず、とにかく大漁居酒屋「てっちゃん」へ。
間に合ったーー!

お店は満員。予約しておいたものの、カウンタは人がひしめき合ってる状態。
さっそく、予約しておいた舟盛りを。
かつては1人1人前頼まなければならなかったそうですが、今は2人で1人前でもいいらしい。
舟盛り、一人前でコレ! どーーーーん!!

ウニやタラの白子のマダチ、くじら、ほたてや甘エビ、サーモン、ブリ、マグロ、その他いろんな貝やらなにやらすごい種類ですごい量!
しかし、刺身のツマまで完食!!
お通しはタラバガニとイカの塩辛。
でっかい餃子に量の多すぎるじゃがバターも頼み、超満腹!!


ホテルは札幌のドーミーインPUREMIUM札幌。
ホテルの朝食はバイキング。
朝食は混むので開始の6時か、または9時過ぎが空いてますよと受付スタッフの方がおっしゃる。それで朝5時50分に起床して、そのまますぐに朝食に。
イクラ、まぐろのたたき、甘エビ乗せ放題の海鮮丼、その他お刺身の小鉢やししゃも、鮭の焼き魚、その他いろいろ・・・。
これのために来たんだーー!

今回は札幌は夜の「てっちゃん」とドーミーインの朝のバイキングで早々に終了。朝9時のバスで余市に向かう。
1時間20分ほどかけて余市に到着。
街にはNHK朝ドラの「マッサン」のテーマが、どこかのスピーカーから流れている。
まずは「よいち情報館」へ。

館内ではDVDで、マッサンこと竹鶴正孝さんと妻リタさんに関する様々な情報が流れている。その中で、リタが亡くなった日のマッサンのことをお孫さんが語るところで泣いてしまった・・・。
余市に来るために観た、年末に放映された短縮版「マッサン」。そんなにわか「マッサン」ファンの私たちだけど、いきなりもうスイッチが入って、そこからは「マッサン」と聞くだけで涙ウルウルモードに。

その後のニッカ見学の前に、まずは余市で地元の方たちに人気のお寿司屋さんで、満腹ちらし850円を!

しゃり少なめにしてもらったけど、やっぱり満腹!

そして午後1時半からは余市ニッカウヰスキー工場の見学。

「マッサン」でも出てきた精製ポッド。

精製する場所はとても甘い、まるでパンを焼くような香りが漂っていた。二条大麦を甘い麦汁に変え、それを酵母を加えてアルコールに精製していくそうで、その発酵する香りがとても甘い。

そして樽の中で長年熟成。。。

ニッカでは試飲も出来ます。

夕方5時、余市をあとにして小樽へ。
ドーミーイン PREMIUM小樽へチェックインして、まずは小樽の街と運河を散策。
小樽はガラス細工の店が多いけれど、ガラス製品がいつまでも見ていて飽きない。しかし1つ2つ買うんじゃなくて、コレちゃんと揃えたいし、揃えたら高いし、やはりお店の中で眺めてるのが一番イイ・・・という不甲斐なさ。北一硝子の香立てや万華鏡グラス、その他硝子のグラスなどがとにかくきれいでうっとり。雫の形をしたアクセサリーの淡い色にもうっとり。
そして六花亭で定番のマルセイバターサンドと、そして大好きなシュークリームを買う。

この日はホテルに戻るも、結局朝と昼の海鮮丼がきいてて、夜になってもおなかが減らず。

3日目の朝。
再びホテルで海鮮どーーーん!

この日はホタテが美味しかったーー。あと、巻貝の焼いたのも。
午前中に再び北一フガラスへ行って目を付けていたイヤリングを買い、武田はなるとの若鶏の半身焼きとか小樽名物「ぱんじゅう」を買う。可愛い容器に入ったいろんな香りの馬油とかも買いたかったなあ。
そしてジェットスター15時の便で名古屋に戻りました。

乗り物に乗るとすぐ寝てしまう私。
武田は、もういい年をしたおっさんなのに、車やバスに乗るのが大好きで、そして飛行機がとにかく好き。必ず窓側に座り、飛行機が高度を下げると子供みたいに窓の外ばかり見て、あれはどこだ、あれは○○山だ、とずっと言ってる。日本だろうがバリだろうがマレーシアだろうが、ずっとそうだ。たまに勝手に体を傾けたりしてるので「ちょっと、あんた、今、操縦してるつもりになってない?!」と私はツッコミを入れる。
飛行機から煙を吐く御嶽山も見えました。

この冬、2月末に閉店するマライカセントレア店で洋服を2着買い、(残念だよ・・・マライカ・・・)、そしてセントレアのスカイデッキでプロジェクション・マッピングを見て帰ってきました。

2015年最後の旅行は、南木曽へ。
12月7日・8日。
高速で中津川まで。恵那峡のサービスエリアでアガル!
栗きんとんや栗シュークリーム買った。

そこから馬籠に。

中山道の宿場町。石畳と山道を生かした緩急のある坂に風情がある。
景観を守りつつ、観光地として生き残っていくその道のりは大変だったのだろうなあ。
12月にしてはとても暖かい一日。中国からの観光客がとても多かった。


空、ピーカンだなあ。

何かいいアクセサリーがあったら買いたいなとあちこちの店を覗いてて、とても素敵な腕時計を見つけました。あとは栗の入った「栗ふく」という和菓子や五平餅、あられなどを買って歩きながら食べました。


宿泊は、ホテル木曽路
長野県の温泉宿【ホテル木曽路】公式HP -南木曽温泉リゾートホテル-
野趣溢れる露天風呂、更衣室と内風呂の仕切りのないちょっと不思議な大浴場。お湯はツルツルpHー9.0の単純アルカリ泉。体が芯からぽっかぽかになって、露天の水風呂にも浸かれるぐらいだった!
料理はバイキングだったけど、焼きたてのステーキ、カキフライやカキとほうれん草のクリームソース煮込み、そしてカニがとっても美味しかった!地ビールの木曽路ビールも美味しい。あまりに美味しくて写真全く撮ってない!
肉・カニ・カキとたんぱく質摂りすぎなせいか、翌朝になってもまだおなかが空かない。朝食のバイキングも美味しかったのに、それほど食べられなかった。

木曽路ホテル。結構豪華なホテルだった。


しかし、ふるさと割クーポンを使ったので、1泊2食付5000円ほど・・・!


帰りには妻籠へ。
道に入ってすぐ、まるで江戸時代の時代劇の中に入り込んだような感じだった!年末で障子を外して外で水洗いしている人たちとかいて、きっと江戸時代もこんな風景がそこにあったのかもしれないと思えてきた。


あ、おまんじゅう屋さんだ!


栗きんとん、食べました。

今度、雪深くなったらまた南木曽に行きたいなあ。

「アクトレス 〜女たちの舞台〜」

オリヴィエ・アサイヤス監督
キャスト
マリヤ・エンタース(ジュリエット・ビノシュ
ヴァレンティン (クリステン・スチュワート
ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ

「アクトレス」予告編

年を経ていく往年の女優、かつての作品のリメイク、それに関わる新進気鋭の美しい女優、個人秘書・・・というキーワードから、私はクローネンバーグ監督の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」が頭をよぎっていた。
ついでにこちらが「マップ・トゥ・ザ・スターズ」の予告編。

結局、想像したのとは全然違ってたんですけどね!

さて。
映画を観る前に情報を入れたくない方はここから先は読まないで下さいね!

最初のシーンは揺れる電車の中。
マリアと彼女の個人秘書ヴァレンティンがそれぞれせわしなく電話をしている。
離婚調停中のマリアは弁護士と。ヴァレンティンはマリアのスケジュールに関するあれこれを。彼女たちはこれから、劇作家ヴィルヘルムが受賞した賞を彼の代理で受け取るために、特急列車でスイスに向かう最中なのだ。ヴァレンティンは連絡が取れないヴィルヘルムの妻に、または授賞式の関係者に、そしてマスコミに、と忙しく電話をかけたり受け取ったり。
列車の外の景色は広大で美しいのだけど、列車に乗って進んでいく道がどこか後戻りできないような、険しい行く末を暗示しているかのように思えてくる。
この最初のシーンから、なんとも言えない緊張感が漲っていたのだ。音楽や効果音がそれを盛り上げるわけではない。マリアとヴァレンティンの言葉や声や関係がそれをはっきりと明示させているわけではないのだけれども、とても奇妙な緊張の糸が全体に張っていて、私はこのシーンを観ながら、マリアにとってヴァレンティンは何者か、劇作家ヴィルヘルムとは何者か、電話に出ないヴィルヘルムの妻とはどんな女なのか、ということにピキピキと頭をめぐらせていた・・・。

亡くなった劇作家ヴィルヘルムの過去の作品「マローヤのヘビ」。
マリアは18歳の時、主役のシグリッドを演じた。
この作品のリメイクの話が来る。しかし今回マリアが演じるのは、勿論若く美しく自由なシグリッド役ではなく、シグリッドに翻弄される会社経営者の40歳の女性、ヘレナ役。
マリアはヴィルヘルムの妻が用意したスイスの高級山岳リゾート「シルス・マリア」という地にヴァレンティンと二人で滞在し、「マローヤのヘビ」のヘレナのセリフを入れながら、ヘレナを演じるための個人稽古をする。

私はこの映画をずっと後半まで、「関係性の映画」として観ていたのです。
マリアの秘書ヴァレンティン、
かつて「マローヤのヘビ」で共演した、過去にマリアと関係のあった俳優ヘンリク、
新しくシグリッドを演じる新進気鋭の女優ジョアン。
彼らとマリアとの関係はすべて緊張感があり、この映画は一体、誰とどう転がっていくのか、そこを注視していた。そして最初は、新しくシグリッドを演じることになったジョアンとの関係の行く末がどうなっていくのか、この映画の要はそこなのだろうと思っていた。
ところが。映画はマリアと個人秘書ヴァレンティンとのシーンをかなり長く描いている。
ヴァレンティンはもしやマリアとは親子? もしや彼女たちはレズビアン? 観ながらそう思ったりするが、少なくとも親子ではない。お互いに通う親密さ、信頼、友情、尊敬、愛情・・・。それらの感情の似ているようで少しずつ違う何かがこの映画ではとても丁寧に描かれていたように思う。
他に誰も居ない別荘でマリアのセリフ合わせを手伝うヴァレンティン。二人のセリフが芝居と現実を交錯していて、さらに映画は不思議な緊張感を増していく。
そして。ヴァレンティンはある日、マリアを残して去っていくのだ。
その理由は何なのか。ヴァレンティンは一体、心の底では何を思っていたのか。明確なところはわからないまま、観ている私たちは映画からヴァレンティンが喪失したことに小さく傷つきながらも、スクリーンを眺めていたのではないだろうか。

しかし、マリアは新しい個人秘書を雇い、「マローヤのヘビ」のリハーサルも大詰めに入っている。
そこで、私はやっと気付いた。
うわ、この映画、タイトルの「アクトレス」そのものの映画だ!と。
(しかし、ちなみに原題は「Clouds of Sils Maria」、シルス・マリアの雲、でした)
マリアと誰かとの関係性の映画ではない、マリアという女優、その生き様の物語なのだ、と。
かつて関係のあった俳優ヘンリクとは確執もあったし嫌悪も、そしてずるい甘えもあり、更には友情も芽生えてる。
新進気鋭の女優、ジョアンに対して、嫌悪もあり軽視もし、怖れもあり、同業の女優として冷静に認めている部分もある。
しかし、誰と出会い、何を感じ、心が乱されたり高揚したりしても、結局はこの映画の最初のシーンの、美しい高原を、険しい山の中を、夜を、朝を、ただひたすら走りぬけていく列車のように、美しいと賞賛される季節から年を経ていくという現実を、体に蓄えられる脂肪をまといながらも後戻りすることなく走り続ける「女優 マリア」の映画だった・・・!
最後のシーン、やっと映画を観ている私たちの前に表れた「マローヤのヘビ」という芝居はどんな内容なの? そしてジョアンとマリアの関係は? 女優同士の戦いは?という疑問を軽く一蹴して、いさぎよくも鮮やかに映画の幕は降ろされる。最後まで緊張の糸を切らさないまま。
その芝居とか、二人の関係性がどうかとか、そんなことはどうだっていい。
ただ、「マリア」という女優の生は、これからもまだ続いていくのだ、と、それを示唆しているかのように。
観終わって、「うわっ、やられた!!」って思いましたよ。

秋のレイクヴィラ

2015年10月26日・27日。
ふるさと割クーポン1万円券をゲットして、信楽温泉レイクヴィラへ。

ほんとここは、バリに初めて行った時のサヌールのグランドバリビーチホテルを思い出す。手入れされた広大な庭とか。敷地内を歩いているだけで幸せな気分になる。


お風呂もいいし。
和懐石も美味しいし。

「屍者の帝国」と「岸辺の旅」

19世紀末。ヴィクター・フランケンシュタインが屍体の蘇生技術を確立した。そこに21gの魂は存在しない。魂(霊素)の代わりに擬似霊素というデータを入れることで屍者は蘇り、産業革命の労働力となったり、または戦争における兵士として使われている。
主人公で優秀な医大生だったワトソンは、盟友フライデーと共に屍者と魂の研究をしていた。そしてフライデーの死後、彼の墓を暴き、個人的に屍者を蘇られるという禁忌に手を染める。
・・・というのが「屍者の帝国」における設定です。
舞台が19世紀末なので、そこに登場する様々な機械のアナログさを取り入れた意匠が素晴らしく美しい。
屍者フライデーと共に行動しながら、フライデーの魂を再構築させる技術を探し続けるワトソン。物質化し、動き回ってはいる屍者と生者の圧倒的な違い。

さてその後見た黒沢清監督「岸辺の旅」では、3年前に行方不明になった夫優介が妻瑞希の元に戻ってくる。「ごめん、俺、死んだんだ」と。
そこに足がないわけでもないし、向こうが透けて見えるわけでもない。どうやら自分以外の誰かにも見えるらしい。死んでも、なかなか消えることが出来ないでこうやって彷徨うことが出来るらしい、死者は。そして、この3年で訪れたいろんなきれいな場所に行こう、と優介から誘われる。
生きている瑞希と死んでいる優介のふたりの旅。
映画の冒頭から、微妙に視線がどこに注がれているのかわからないようなカットがあり、そしていつも通り、どこかに何かが潜んでいるような気配があり。
ただ、今回の映画の死者、または異形の者は、見えてはいけないものがふと見えてしまったわけではないのだ。普通に歩き、餃子を作ったり科学の講義をしたり。歩いたりバスに乗ったり笑ったり。
生者と死者を分けるものが一体どこにあるのかがわからない。死者ではあるがそこには生者の時と同じ魂があるのだ。
ところで。
私は先ほど、コンビニに行くために明かりの少ない夜の川に架かる細い橋を渡った。その時、確かに向こう側からその橋を渡ってくる人影が見えたと思ったのだが、橋の途中でその人影がもうどこにもないことに気がついた。どこで見失ったのかと橋のそばの草むらを見ても誰もいない。
橋を渡ってもう少し歩いたら鉄が軋む高くてか細い音が急に聞こえた。一瞬、ビクッとした。
コンビニで買い物をした帰り、いつしかずっと等距離で背後から足音が聞こえていた。振り返ればきっと普通に私の後ろを歩く人の姿が見えるのだろう。振り返らねば、ただなんとなく不安に繋がる足音だけが続くのだろう。
私は黒沢映画のことを思った。
違和感。
黒沢清の映画の怖さとは衝撃を伴わないが、いつもはそこにはない「違和感」なのかもしれない。違和感を目の当たりにした時の、なんともいやなざらっとした気持ち。それらを映画として表現するのが本当にうまいよね、黒沢監督って。
ずれた視線も、どこかから吹く風も、いつのまにか放置された食べ物の器も枯れた鉢植えも、昨日まで生活していた場所が廃墟だったのも。

海街diary

とてもいい映画だった、「海街diary」。
誰しもたった一人で新しい場所へ行かなければならない時の一度や二度ぐらいはあったと思う。
私にとっては小学生の頃、自分がそれまで一緒にいた母親のいる家族から父親の新しい家族の元に引き取られた時が最初のそれだった。
それまでとまったく違う環境。初めて会うたくさんの人たち。
常にある「本当にここにいていいんだろうか感」。

それにしても。
最初のほうのシーン。父親の葬式が済み、電車に乗った三姉妹と見送るすず。そこが本当に素晴らしかったんだ。
電車の中から綾瀬はるか演じる長女さちが「うちに来ない?」って言うんだけど、その後ろでニコニコしてる次女よしの役の長澤まさみと三女ちか役の夏帆
ああ、三女を演じる夏帆がね、すごくいいんだなあ。
綾瀬はるかがすずの肩にそっと手を回す包容力もいいのだけど、とてもあっけらかんとしながらやわらかく優しく笑う夏帆の顔がね、すずをここではない知らない世界にそっとひっぱりだす、そんな力を持ってたと思うんだよ。
もういい加減いい年の私ですが、恥ずかしながらやっぱりかつてのちびっこだった私が心の中にまだ住んでて、急な選択を迫られたときに「この人の笑顔のそばにいくのがいいかな・・・」とまず最初の思うのが夏帆が見せた笑顔ではないかな、そしてそこからあの3人の姉妹がこれから向かうどこか、に、すうっと引っ張っていかれるのを感じたんだ。

映画の中の光、風景、勿論この四姉妹、そしていろんなものがいとおしくなる映画でしたが、もうひとつ特筆すべきはすずの同級生のサッカー部の男の子。
この少年がとてもちびっこで見た目もかっこよくもないところが最高にいいんだわ。そしてどこにも出せなかったすずの気持ちを聞いてしまって、気の利いたセリフも言えないけど何かに気付いたり感じたりする芝居をすごくナチュラルに演じてて、誰なんだこの子はと思ったら是枝監督「奇跡」で主演した「前田前田」の弟だったよ!
いやー、大きくなったなあ。いい味だしてたわー。

とてもしみじみとした、いい映画でした。

神々のたそがれ 監督・アレクセイ・ユーリエヴィッチ・ゲルマン


観にいく前に既にいろいろ聞いておりましたよ。
とにかくすごい作品だ、と。
その上で、長い・眠くなる・ストーリーは訳がわからない、などなどと。
そこで、大抵はこれさえ飲んでおけば大丈夫という眠くならない系ドリンク剤を1本飲んで、さらに飴ちゃんなども適宜投入したにも関わらず、もう何故だか最初から映画を観ながら幾度か眠りの中へ。起きて映画を観ていることと夢の中の境界線が定かではなく、脳内で勝手に物語を補完しつつ見てしまうからなおさら訳がわからなくなる。
それでも翌日になり、あの映画のことを考えながら、たとえ何度か寝てしまっても何度も映画館に通い、繰り返し観ることができれば、それはとても幸福なことだと考えていた。や、幸福ということばは語弊があるな。何故ならあの映画の中の世界に幸福の存在を見つけ出すことは出来なかったから。けれど「神々のたそがれ」という作品世界の中で何度も泥まみれになることは意味のあることだと思う。

映画の内容としては、こうだ。
地球のある学者たち30人が、地球に非常に似た惑星に派遣された。その惑星の文化は現在の地球より800年ほど遅れたような世界らしい。
その惑星の王国アルカナルでは知識人狩りが行われた。
地球人であるドン・ルマータはここでは異教神ゴランの息子とされている・・・。

さて、映画にしろTVドラマにしろ、カメラが映す映像を私たちはごく自然に受け入れて観ている。カメラの存在すら意識しないままに。
ところが「神々のたそがれ」では、まず最初の映像、上から俯瞰で街を映し出すその画面からすでに、「この風景を見ている者の目」を意識せずにはいられない、そんな映像だった。普通なら映画的にこの場所を説明するという意味を持った映像のはずだが、それ以上の何かの意思、その場所からここを見ているものは一体誰だと思わせるような映像だった。
そう思っていたら、人々を、そしてルマータをカメラが映し出すにつれ、とても奇妙なことが起こっていった。人々は明らかにカメラをどこか興味深げに見ながらその前を横切るのだ。または何らかのアクションを起こそうとしたりする。
ニュース番組の中で街頭で天気予報コーナーを撮影している中で、歩行者がおどけてカメラにニヤニヤ笑いを向けて通り過ぎるとか、あれとまったく同じような感じ。カメラに映る天気予報を伝えるキャスターの目の輝きと、そうやっておどけてカメラの前に野卑な笑いをむける歩行者の目の輝きの質は明らかに違う。
そんな感じで、同じ画面の中のあるルマータと、映りこんでこちらに顔を向ける人々との差は、世界を見ているものと、見られているものとの、その違いなのだろうか。
とにかくカメラはまるでドキュメンタリーのように世界を映し出していく。
そこでわかるのは、ルマータは神として崇められているというようでもなく、祈られるわけでもなく、教えを請われるわけでもないということだ。神秘的な力を顕すわけでもなく、姿形も服装もこの星の人々となんら変わりがない。
ルマータも星の人々と同様、汚れている。何かを口にしてはすぐさまそれを思い切り吐きだす。人々は絶え間なく唾を吐き、時にルマータに向かって唾を吐くが、ルマータはそれに怒る様子もない。
ルマータの周りにいる人々が誰で・何で、そこで何が行われているのか、観ていてもいつまで経ってもわかっていかない。
思うに、私たちがすれ違った誰か、たまたまぶつかったり、または少しだけ話しただれかのことすべてを、私たちは知らない。私たちの現実には、気の利いたテロップやナレーションなど流れない。
この映画も、そんな感じなのである。
映画の中の世界ではそれぞれに意味のある出来事が重層的に起こっていても、観客にそれが十分に伝わっては来ない。
でも、それが、世界だから。
と、映画を見たあとでしみじみとそう思っている。

私は神、というものが創造するもの、人を救うもの、という存在である、同時に破壊するもの、であるということを、正直忘れていたなあ。しかしキリスト教の黙示録でも、地球の終末が語られている。終末に起こる人々の退廃、悪の氾濫、そして神の怒り。新しい世界を創造するため、旧世界は徹底的に滅びる運命にあると宗教は説く。
さて、その「神」とされるものが、たまたま他の惑星から来た姿形の変わらない男で、他の人間よりも少しだけ強い力を持つだけのものだったら。
神はたいしたことなど出来ない。唾は吐きかけられるし、人々に捕らえられたりもするし、ひとりの人の命を救うことも出来ない。
もう、仕方がない、こんなことしたいわけじゃないけれどももう潮時だ、とすべてのものを破壊してしまうぐらいのことしか出来ない。
神に破壊されてしまうこの世にいる私たちも・・・確かに相当に愚劣でどうしようもない。
この映画を観にいって、話がわかるとかわからないとかじゃなく、その世界にどっぷりはまり込んで、自らも泥の中で呆然とするような感覚は、とても意味のあることだと思う。

THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦

パトレイバーに関しては、「昔、ゆうきまさみが『機動警察パトレイバー』って作品を書いていたよなあ〜」ぐらいしか知りませんでした。アニメになっていたのもぼんやりと知っていた程度。
しかし「THE NEXT GENERATION パトレイバー」は押井守監督だし劇場でやっているしということで、短編シリーズを行ける限りは観にいっていた。観にいけない回はあっても、とりあえず2015年5月公開の劇場版だけは必ず行こうと決めてました。

さて観にいく前に友達が、
「どっちかというと観ておいたほうがいいと思うから」とDVDを貸してくれました。それが「機動警察パトレイバー 2 the Movie」。押井監督による劇場版アニメです。
とにかく川井憲次による音楽がものすごくかっこいい!
そしてとても印象的なのが、川の中を進むボートのシーンだった。
ボートに乗っている人の目視点で、映像は川、その周囲に並ぶビル、くぐる橋の下、などを描いていく。そこにボートに乗る男たちによるかなり重要な会話があるのだけれど、それを話す人の姿は極力描かれていない。セリフと流れていく街の風景と音楽。すごいシーンだ、と思った。

この1993年に公開された映画のDVDを見た数日後に、「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」。
最初のシーンだけでものすごくテンションが上がった!
パトレイバー2」の最初のシーンは東南アジアの某国。そしてこの「首都決戦」のはじまりはイスラム系の某国から。そしてその後流れた音楽は「パトレイバー2」で川のシーンで使われていたとても印象的な曲!もうゾクゾクしっぱなし!
そして登場する「南雲さん」。勿論「パトレイバー2」ではアニメだったので今回の実写版では後姿だったりして顔を露わにはしないが、声はアニメ同様、榊原良子。おおお、なんたることだ、榊原良子さんの声でセリフが語られるだけで感じる、このゾクゾク感は・・・!あんまりゾクゾクして涙出たよー。
他にも先の「パトレイバー2」からの引用は多く、それは川を行くボートのシーンだったり。
いや、だいたいこの「THE NEXT GENERATION パトレイバー」というシリーズ自体が先のパトレイバーをふんだんに引用している作品なのだろう。
引用、とは、その前にあったものに対する知識があって初めて面白いものである。前作に対する愛情と知識があればあるほど、面白いんだろうなあ。私は付け焼刃というか、今で言う「にわか」なんですけど、それでも数日前に「パトレイバー2」を観ることができたことにものすっごく喜びを感じたね!

そしてもうひとつ、パトレイバーを巡るあれこれとしては、引用の面白さだけでなく、もう一度このテーマで今を見てみる、という恐ろしい面白さもありました。
パトレイバー2」ではPKO法、国際連合平和維持活動協力法が成立した1992年の翌年、生まれた作品です。平和維持活動の目的にのみおいて自衛隊を出動させることに関することを定めた法律で、この法案もかなりの不安と反対が起こったことは記憶に新しいです。
この作品では、ある自衛隊員が、東京に戦争が起きたらという「情況」を演出する。決してテロを犯して本当に警察や日本、またはアメリカなどを敵に回して戦おうとするわけではなく、自衛隊が持っている武器と軍事力を行使して警察や国民に様々な問題を提起するという、とても怖い話です。
そして今回の2015年作の「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」。昨年、集団的自衛権という法案を通し、そしてちょうど今日ですが、安保関連の法案を決定した、という今。
映画の中で再び、自衛隊員たちが軍事を行使し、警察と私たちに向かって問題を突きつけてきました。正義と平和の意味。思想の有無。
面白くて怖くて何度でも楽しめる映画でした。

待ってました!グザヴィエ・ドラン監督「Mommy」

「トム・アット・ザ・ファーム」を観て以来、心待ちにしていたグザヴィエ・ドラン監督作品!
もちろん、後追いで「わたしはロランス」をDVDで観ましたよ。

私にとって映画における「母親と子供モノ」は観たあとで過剰に痛い思いがしてしまったりするジャンルなので要注意、なんである。もう私の年ならとっくに「おばあちゃん」になっている人もいるのに、まだ私はこのジャンルに対する自分自身の脆さから抜け出せない。
しかし「Mommy」には私を身構えさせるものは無かった。
私は、愛されずに捨てられる子供の話が、なにより堪えるのだなあ。
しかし、グザヴィエ・ドラン監督の作品は、その映画の最後のシーンが決してハッピーエンドといえなくても、どこか何か希望を感じるのだよなあ。その希望、とは何かと言えば、そこに愛だけはある、というような形にならないものだけど。
例えば、話がラストシーン近く、ダイアンは妄想する。スティ−ブがちゃんと学業を修め、卒業し、恋人と出会い、結婚し・・・というどこにでもありふれた未来を。ADHDのスティーブにとってそれがとても「ありふれている」とは思えない未来を。けれど希望とはそれが結実するかどうかというものではなく、ただ相手の幸せを祈るもの、そういうものとして描かれているように思う。

15歳になるADHDの息子、スティーブ。その母親、ダイアン。そして彼らの向かいの家の、カイラ。
映画はスティーブとダイアンの母子愛について描かれている、のだけど、私にはダイアンとカイラの物語も大きな比重を占めていた。
施設で放火したためにそこから息子を引き取ることを要請されたダイアンが家に息子スティーブンを連れて帰る。家に着き、向かいの家を見る。家の中の、外からはあまり見えないような、クリアではない窓の奥にカイラの顔だけが見える。ダイアンは心の目で覗き込むようにその家を見て、探し出すかのようにカイラの顔を見つけ、そして彼女に挨拶をする。
カイラは休職中の教師。夫と娘がいる。しかし吃音に苦しんでいるようで家庭の中でも夫や娘とコミュニケーションが取れない様子である。しかしスティーブンとダイアンに出会い、彼女は彼らの間では豊かな感情も言葉も取り戻すのだ。
3人で台所で歌うシーンがとても印象的だった。
スティーブは母親ダイアンの乳房を服の上からつつく。近親相姦的なあやうさはダイアンの堂々とした母性が撥ね退ける。そんな二人を戸惑いつつも眩しそうに見るカイラ。
そして、多分、セリーヌ・ディオンの"On Ne Change Pas"ではなかったかと思うのだけど、この曲は知っているかと言ってスティーブが歌い、ダイアンが踊り、そして吃音だったカイラも美しい声で歌いだす・・・。あのシーン、とても泣けてしまったなあ・・・。
または酔って、くだらないことを言い合っておなかがよじれるほどバカ笑いするダイアンとカイラ。

映画の中ではっきりと名言していないことのひとつは、カイラは何故家の中で引きこもっていたのか、カイラの過去に何があったのか、だ。
しかし、もうひとつはダイアンとカイラ。私は実は二人はレズビアンだったという裏設定があるのでは、と思って観ていた。
先に書いた「ダイアンの妄想」の中、年老いたダイアンはやはり年老いたカイラと共にいるし。
またラスト近くにカイラが引越しすることをダイアンに告げにいったとき。その前、スティーブを精神病院に入所させたあと、ダイアンとカイラは会っていなかったのではないかと思う。スティーブの入所を決めたことを簡単に肯定しあえるほど、簡単に否定しあえるほど、そしてお互いに簡単に慰めあえるほど、ダイアンとスティーブの、スティ−ブとカイラの、そしてダイアンとカイラの愛情は単純ではなかったからだと思う。それでも引越しすることになり、やっとカイラは再びダイアンの元を訪れた。そこで彼女は言う。「私は、夫と娘を捨てることは出来ないから」と。映画の中で一言も言ってはいないが、カイラにとって実はダイアンの存在は夫と娘を捨てるかどうか、と考えるに到る存在だったということではないか。

幸せなときも抱えている不安やストレスを表しているような1:1の画面と、開放感を表す横長の画面の、まさに世界が広がる幸福感。
登場人物それぞれが抱える愛の形。それらを感じるためにまた見直したくなる映画でした。

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

観たまんますぐの走り書き。説明もあまりなく書きます。

「リアリズム」とは・・・・!
それを巡る作品でした、私にとっては。

例えば、手持ちカメラを多用して撮影された、ワンカット(風)のカメラ。臨場感を生むし、何より途切れなく映し出されているはずのカメラが時間を飛び越し、場所を軽々と移動しながらも繋がっているその面白さ。そのアイデアや技巧が本当に素晴らしいし楽しかった。
しかし何故そんなことを、と考えると、つまり人の目とは1台のカメラなのである、ということではないかと思った。映画であれ、常にそのシーンを見ている人の目は1つ、それがリアルでしょう?と言っているかのようだ。
しかし、この映画は主役であるリーガンの視点だけではないので、そこには矛盾が生じる。

例えば映画におけるBGM。
私たちの生活には、そこの場所にある生活音があり、時には隣の部屋から聞こえる音楽があったりはするものの、心情に合わせて劇的に盛り上げる音楽が都合よく流れたりはしない。それがリアルである。
しかし、「バードマン」の中ではリーガンの心情に合わせて激しいドラムソロが展開され、観ている私たちの心をリーガンの心に沿わせるよう追い詰められたり不安になったりするのだが、そのうち映画の中で、ドラムを叩く男が登場する。
「はい、そうですよ、リアルではドラムなんて鳴りません。聞こえるのだとしたら、そこに『ドラムを叩く人』がいるからです。例えば路上に。例えば部屋の中に。ほら、『男』に近づけば音も近づくし、離れていけば音も遠ざかっていくでしょう?これがリアルってやつです」
とまるで言ってるみたいに。
しかし、路上で、またはどこかの部屋でドラムを叩く男がいる、という世界が本当にリアルなのでしょうか。

演じるってなんでしょう。
マイクは舞台こそが自分の本当の生だと言う。
贋物ばかりのセット。水を飲んで酔っ払う演技。そんなものはくだらない。ジンを飲むというシーンなら本当にジンを飲むし、酔っ払うシーンなら本当に酔っ払う。
演じるってなんでしょう。
リアリズムが100%のものだとしたら、その100%に限りなく近づくということでしょうか。
演じるということは嘘をつくということであり、そして嘘をついてはいけないということでしょうか。
その役柄になりきり、台本に書いてあるセリフを喋っているが、まるで今、自分が感じたことのように、話すように、喋る。

リアルな世界では、リーガンはかつて映画「バードマン」を演じていた男だった。しかしいつしかリーガンの中に『バードマン』は超自我として存在しているし、『バードマン』の声やまとわりつく世界がリアルになっていく。

最後に演劇批評家の重鎮、タビサは、リーガンの最後のシーンを「これまで停滞していたアメリカ演劇界を揺るがすスーパーリアリズム」というようなことをNYタイムズに書いています。
素晴らしく演じるということは、死ぬシーンで本当に死のうとすることでしょうか。

現実の世界では、「バードマン」を演じたリーガンを覚えている人はいるけれど、それよりも人々を熱狂させるのはSNSの世界の可愛い猫の動画や誰かのゴシップ記事などで、そこに「イイネ!」をしたり動画の再生回数で人気を計ること、それこそがリアルだとリーガンの娘、サムは言う。
その一過性のクリックがリアルなのか、それとも語り継がれる作品を作ることがリアリティある生の証なのか・・・。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、やりなおしも待ったもきかない演劇という時間芸術の幕開けに関する面白さも持ちながらも、様々な目線、技法、脚本、映像からリアルというものは一体なに?という問い掛けを執拗にしてくる映画でした。

リアルとは・・・・!
まったく関係ないけど、この映画の前にもうひとつ、「リアルとはなんだろう」と思った作品を挙げておきます。
1年前に活動を停止してしまった、女子中学生のせつない気持ちを歌うガールズポップデュオ 「たんきゅん」。
みやまゆとチャンユメというふたりの女子中学生、という設定ですが、みやまゆはイカ天世代の私たちには懐かしい「マサ子さん」のボーカリストだそうで、チャンユメはごーきゅんこと郷拓郎という男性らしいです。ごーきゅんによる楽曲がとてもいいのですが、しかし二人の声は本当にキュート。そしてみやまゆとチャンユメが手をつないで立っているシーンでなんだか泣けてきそうになるのはなんででしょう。
女子中学生ではないふたりによる、リアルな女子中学生感。
リアルと嘘と演じる、とは・・・なに?

詩と「おとぎ話みたい」について

詩ってなんだろう、と何年か前から思っていた。
子供の頃は、
短いセンテンス、開いた本にたくさんの余白、
まるで逆さにした棒グラフのような、
そういう形態の文章を「詩」だと認識していた。
ところが、では谷川俊太郎のはなんだろう、そしてそれからずっと経って読んだ川上未映子のあれはなんなんだろう。あの改行もなく、逆さにした棒グラフのようでもなく、文字で埋められた紙面、あれが短編小説でもなく詩だというのなら、詩とは一体どう定義されるものなんだろう。そんなことをずっと思っていた。

そして山戸結希監督「おとぎ話みたい」を観たとき、私にはまだ詩を普遍的に定義する言葉を思いつかないが、
少女が必要とするもの、それが詩だ、と思った。

映画の中の主人公のモノローグ、あれは詩だ。
でも私がもっとも詩的だと思ったのは、「先生はわたしのことが好きでしょう?」という叫びだ。
他人に向かって問いかけているようだが、しかし本当のところは会話を拒絶している。自分の中にわんわんと反響し続けて答えを求めない問いかけ。
他者という存在を前にして、まだそこに関係を結べず、自己だけがくっきりしていくあの「少女」という時間。
会話とか関係とか理解とか、そういうものではなく、
詩の孤高さだけが必要とされる。それが少女ではないか。
そんなことを思ったんだ。

「劇場版PSYCHO-PASS」と「TATSUMI マンガに革命を起こした男」

昨日はまず「劇場版PSYCHO-PASS」。
ちょうど今起こってるISISの人質事件。
人の命に値段が付けられたり、または交換条件にされたりしている。
改めて、命の価、というものについて考えている日々である。
これが映画だと、そこにヒーローが乗り込んできて、周囲を固めるたくさんの敵の手下をババババッと撃ち殺し、その奥に捕らえられてるたった一人の命を救出するんだよね。
守るべき「1つの命」と、その前に殺される「たくさんの命」、その質は一体どう違うっていうのだろう。
数百億ドル、という値段をいきなり付けられた人。
じゃあ誰かが病気で死んだとしたら、その命に対して「これは数百億ドルです。払ってください」と誰に言えばいいのか。
先の人の命と、後者の命。命自体に一体なんの違いがあるというのか。

劇場版PSYCHO-PASS」を観ながらも、どうしてもその考えが頭から離れない。
舞台設定は今から100年後の未来。
平和を模索した結果、食糧を完全自給化した上で日本は鎖国している。人々は都市部にのみ住み、すべての決定は「シビュラシステム」に任されている。シビュラは個人の適正から職業や将来、結婚相手まで選択する。そして個人の「犯罪係数」を逐一チェックする機構を整え、犯罪係数の高い人間を隔離、または処分する権限を持っている。
既に裁判制度はない。善悪もすべてシビュラシステムが決定するのだ。
例えば今日、現実の世界ではまたひとつの事件が起こった。名古屋で女子大生が「人を殺してみたいから」という理由で老女を殺したと言う事件だ。シビュラシステムがあれば彼女は殺人を犯す前に拘束されてたということだ。もう、シビュラがあれば、不幸な犯罪は行われない筈だ・・・。だが・・・。
テレビ版では、シビュラの盲点を突く犯罪を描いて、どのような組織も完全ではないと言うことと、そしてこの正義や平和のシステムはどのようなグロテスクな形で成立しているかを描いていた。
そして、今回の映画版ではそのテーマに引き続き、このシステムを未だ紛争を解決できない国家に持ち込んだとしたら、一体それは誰に対して「正義」をジャッジするのか、という映画でもあった。
そこでもやはり、ひとつの命を守るために無残にもたくさんの命がなぎ倒されていくのだ。

虚淵玄の脚本は、「とりあえず選択された最善の世界」を描いている。そこには問題があろうと、今はまだその方法以外に道が見出せてはいない、という世界だ。私は是非、この「PSYCHO-PASS」という作品上で、この世界のさらに100年後、について描いてほしい。例えばその時、常守朱は脳だけの存在になり、シビュラシステムに取り込まれている世界であって・・・。

この映画から少し時間を置いて、もう1本、「TATSUMI マンガに革命を起こした男」を観た。
この作品は、マンガ家・辰巳ヨシヒロ自叙伝的マンガ作品「劇画漂流」、及び彼の短編作品5話を元にして、シンガポールのエリック・クーが監督したアニメーション映画。
私は辰巳ヨシヒロというマンガ家を全然知らなかった。つげ義春はたくさん読んでるのに。昔も今もいろんなマンガを読んでいるのに。
辰巳ヨシヒロさいとう・たかをとも活動を共にしていたのに。
何故か辰巳ヨシヒロは日本よりも海外での評価の高いマンガ家だそうだ。

さて、私はマンガを読む。小学生の子も喜ぶものから大人のために描かれたマンガまで。大人でも読む、ということは私の世代ではあたり前のことだと思っていた。
しかし、昔は、マンガは子供のもの、だったのだ。
大人が描く、大人をターゲットとした表現のひとつになるためには、新たに「劇画」というジャンルが必要で、そのジャンルを作ったのが辰巳ヨシヒロさんだったそうである。
その昭和史。戦時下に子供時代をすごし、変わり行く思想と街と暮らしの中に生きてきて、マンガを描き、劇画を生み出していくその人生を描いた「劇画漂流」は、昭和戦後史としてとてもリアルで迫るものがあった。そして短編5編は、その時代に生きていくことの困難、そして例えばすぐ隣にいる女の中に見るしたたかさや図太さ、そして更にその女の中にあるやけっぱちと苦悩・・・と、様々なものにクローズアップしていって「生きていくこと」の姿を描いていた。
声は別所哲也がひとり何役も演じてたそうだけど、映画のナレーションは辰巳ヨシヒロさん自身の朴訥とした喋り。その喋りも、この映画の絵や世界観ととても合っていた。

今から70年以上前になる1940年代から1960年代頃を描いた「TATSUMI マンガに革命を起こした男」と、今から100年後の世界を描いている「劇場版PSYCHO-PASS」。なかなかいい二本立ての一日だった。


そういえば辰巳ヨシヒロさんは私の父とほぼ一緒の年である。
私は久しく父親に会っていないのだが、この映画を観たあと、近いうちに父に会いに行こうかと思った。こんなことを思ったのは実は初めてである。父に、戦争の時代を生き抜いた時の話を聞きにいこうかと思っている。

「自由が丘で」ホン・サンス監督

この映画を一緒に観にいった友達は、「明日も観るかも」と言った。
いいね。
きっと観るたびに何かを発見する映画だろうな。
私も見終わったあとで友達と話しながら、ひとつ。またひとつ。とゆっくりした間隔でジグソーパズルの残り少なくなったピースを埋めてる時のような喜びに近い感情を味わっていた。

病気療養のために旅に出ていたクォン。戻ってきたクォンは、1通の手紙を受け取る。封を切り、その中の紙の束を取り出すが、眩暈を起こしたのかふらつき、その時、その紙の束を落としてしまう。クォンに会いに来た日本人、モリからの手紙の束を。
手紙、というかそれは、クォンに会うために韓国にやってきたものの、クォンの居場所がわからず、そのまま韓国に滞在しているモリの日記のようなものだった。但し、日付無しの。
クォンはふらついた際に手紙を落としてしまい、ばらばらになる。それを拾い集めて読むのだが、手紙の時系列がバラバラになってしまっている。そこでクォンは、順列がわからなくなったモリの日々を読むのである。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  

観ている観客には、ここから先のモリがどの時間に居るのかわからないのだが、映画の中で出てくる人、起こった出来事や会話の内容でジグソーパズルで埋めていくように彼の日々を紡いでいく。
モリは吉田健一という明治生まれの翻訳者であり小説家の書いた「時間」という評論を読んでいる。(ちなみに今、加瀬亮のインタビューを読んだところ、この本はホン・サンス監督から何か本を3冊持ってきてほしいといわれて加瀬亮が持ってきた、彼自身の本だったらしい。それが偶然、この映画のテーマと合致して使用されたそうです。)
「時間が流れている」と捉えているのは人間だけだ、みたいなセリフがありました。
時間は「現在」の集合体で、過去とか未来とは人の観念である、というか。
この映画もまさにそういったもので、「手紙(日記?)」が切り取った「現在」は、まさに一枚一枚のまっさらな紙のようなもの。時間を辿るのではなく、思い返すのではなく、過去をまるで今まさにそこで起こっている「現在」のように瑞々しく扱ったのが、この映画ではないかと思っている。
犬を救ってくれて本当にありがとう!と言われたその犬とは、その後のシーンで道に迷っているところをモリに見つけられる。更にその後のシーンでカフェの椅子に座っている犬に会い、犬の名「クミ」を初めて聞かされるのだ。

丸顔の髭の男にどうでもいいことを話しかけられて突然ブチ切れたゲストハウスに滞在してた女の子。この髭の男もゲストハウスの主人かと思いきやあとになって借金を抱えた居候、サンウォンだとわかるし、イライラして全身で怒ってた女の子もその少し前の過去ではとても軽やかな笑顔を見せて歩いている場面がある。
それは本当はモリの手紙には書かれなかったシーンだ、きっと。
モリの日記のような手紙には、滞在してた女の子とゲストハウスの居候サンウォンの突然の口論と、彼女を迎えに来た父親らしき男のことを書いたのかもしれないが、彼の居た時間の中をふと一瞬横切った少女については書かれていないはずだ。
映画は、モリの視点で描かれながらも、モリが見ていないが彼の存在してる時間の中に散らばっている様々な何かを映してる。
ああ。こういう表現!映画って、いいよね! 
この少女のシーンはすごくそんな風に思った。

ところでホン・サンス監督の映画、まだ数本しか観てないのですが、どの映画もこういう酒の飲み方、タバコの吸い方、などなど韓国のデフォ、と割合自然に思ってたのですが、今回、日本人である加瀬亮が演じることによって、日本映画の中の日本人、加瀬亮だったらこんな芝居はしないなと思うシーンが結構あって、改めて「ホン・サンス監督の演出」が可視化できました。あのタバコの吸殻、タバコを吸うタイミング、酔い方、酔ってサンウォンと肩を組むモリ・・・。
あと、会話のシーンが長回しが多いのですけど、全部英語のセリフで長回しであのナチュラルな演技・・・。すごいな、加瀬亮

モリの言動で幾つか、「それは日本人は言わない」と思うシーンがありまして。
例えば「朝ごはんは10時までって言ったよね?もう1時なのに何でその人は食べてるの?」のシーン。サンウォンの存在が明らかになる面白いシーンだけど、このシーンのセリフは日本人なら絶対に言わないでしょー。他にも怒り方や酔っ払って喚くシーンとか、非常に韓国映画の中の韓国人に近い感じがした。しかしこれ、「英語」のせいかもしれない、と途中で思った。他国の言語で一生懸命しゃべっていると、感情の表出の仕方が「日本人」という枠を越えるという経験は私にもよくある。
この映画の登場人物はモリを介することで、母国語ではない「英語」という言語で、とにかく自分の意思をストレートに伝えようとしている。その意味でこの映画はホン・サンス監督のどの映画よりも直接的な思いで満ちているような気がする。

クォンがモリと共に日本へ行き、結婚して子供が出来ました、というシーンのあとに続く、最後のシーンがとてもステキですね。ちなみに私は「このシーンの時間」というピースが置かれる場所を、映画を見たしばらく後になってようやく発見できたのですけどね。
あれは、ヨンソンの「犬を見つけてくれてありがとう!すぐにお礼をする。今よ。今夜!」というシーンのあとに続くんだね。
飲みに行って、ヨンソンはすっかり酔ってしまい、仕方なくモリは彼女を自分が泊まっているゲストハウスに寝かせ、この時間の中のモリと彼女の関係はまだ始まったばかりで、だからモリは外のテーブルで一晩を過ごす。そして朝になる・・・。

クォンに会えないモリはヨンソンと寝て、多分ヨンソンの男と喧嘩をし、しかしクォンに会って彼女を連れて日本へ帰る。その後にはそういう時間が重なっていくのだが、それでも初めてヨンソンと一緒に飲んだ翌朝は、あんなに輝いていた、という、積み重なっていく1つ1つの「現在」の美しさを謳うシーンだったと思う。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・ 

さて、最後に、この映画があの手紙に書かれているすべてだとしたら、それを読んだクォンがさらっとモリを訪ね、そして一緒に日本へ行く、ということが何の逡巡もなく描かれていることに少し戸惑いを感じた。普通ならクォンから「えー?あんた、『自由が丘』のヨンソンと寝たの?!」とか「どうしてそういうことぬけぬけと書いて送るの?!」とか、あの、そういうの、ないの?それとも、書かれていることとこの映画の内容は、違うの?と、これは最後まで残る謎のひとつではないでしょうか。
ただ、ふっとですね、そうか、ホン・サンス監督にとっての人間関係は、「2」ではなく「3以上」がデフォか、と思い至ったのですよ。他の映画もすべてそうですしね。というか、創作上、「3以上」が面白いから、ということではなくて、空間認識が「3人(以上)」なのでは、と。
非常に個人的な話で、人にわかるようにどう伝えたらいいのかわかりませんが、私は20年以上、夫との「2人暮らし」で、仕事も10数年、夫と2人で営業してて、その間に誰かと同居したとか、従業員を雇ったいう経験はないにも関わらず、ものすごく無意識の状態で「3人目」をカウントしてしまう時があるのです。目覚めたばかりでまだ頭の中が真っ白な状態で、私と夫と、もうひとり・・・はどこ行ったかな?とか、とにかく「もうひとり」がいるような気がするのだけど、それが誰のことをさしているのかが自分でもわからないのです。霊的な何かという話ではないし、飼っている猫のことを無意識で擬人化してるわけでもなりません。兄弟とか家族とかでもなく、男か女かもわからないけど、私の中でとても無意識のレベルで、「1つの空間の中に3人」という認識がデフォルトになっているとしか言えないのです。もしかしたらホン・サンス監督もそうなのかなあ、と思ったりして。