おでかけの日は晴れ

現在はこのブログにあるものすべて下記のサイトに移行し2021年7月6日でこちらは停止しました。以降は、左記の新サイトをどうぞよろしくお願いします。 https://ameblo.jp/mioririko

「Fake」監督/森達也 出演/佐村河内守

「Fake」を観ようとシネマテークの客席に着いた。
佐村河内守ゴーストライター事件の真相が知りたい、または当時の報道が偏向していなかったかどうかが知りたい、という気持ちではなく、このドキュメンタリー映画含めた「報道」的なものと現実の距離を感じたくて、映画館の席に着いた。

その前に、ちょっと「宮地佑紀生暴行事件」の時に感じたことを。
6月30日。宮地佑紀生被告が番組パーソナリティ神野三枝さんに暴行をふるった容疑で、名古屋で人気だったラジオ番組「宮地佑紀生の聞いてみや〜ち」が打ち切りになったことが東海ラジオから普段の番組が始まる午後1時にアナウンスされた。そのニュースをYahoo!ニュースで読んだのが午後2時頃。私はすぐさまラジオを着けた。これまで宮地さん神野さんがお休みのとき、番組構成はそのままで2人のピンチヒッターとして東海ラジオのアナウンサーが行う場合があるのだけれど、まさにそんな感じの放送が行われていた。
一体どういうことか知りたくてネットで「宮地佑紀生 暴行 真相」などと入れて検索してみたところ、すぐにトップに上がってきたサイトは一見どこかのニュースについて公正中立の立場で書かれたようなサイトだった。公式で使われているプロフィール写真、番組の紹介、事件の概要、そして事件の原因らしきもの・・・。
しかしそのサイトの文章はとても変だと感じた。
まず、6月30日午後1時に公式で発表されたことがその2時間後にネットで記事になっていること。しかもその文章は数時間前に発表されたニュースの臨場感はなく、まるで報道当日よりも明日・あさってにこの事件を検索した人が見るために書いているような、凄く不思議な距離感でした。
「今回は宮地佑紀生さんを取り上げます」
に始まり、「2016年6月30日の朝日新聞デジタルでは次のように報じられています」とあるのだが、時間的にそれ、今その報道を読んですぐにこのサイトに取り上げているんだよね?なのに臨場感を消し去って、まるで冷静にこの事件を調べた上で作っているような雰囲気を出しているけれど、だからこそこれ、信用できるの?と思った。
「調べてみた」といってもあちこちのツイートの引用だけで、最後には「6月27日放送内での神野さんの暴言」が理由だったように書かれていた。ちなみにそれはすぐにデマだと証明されているが、しかしこのデマはすぐに拡散していったようだった。
そのサイトだけでなく、私もいちリスナーとして何があったか知りたくていろいろ探したのだが、とにかく検索するとトップを占めるのはどれも似たり寄ったりの、公正を装いながらただ誰かのツイートを引用するだけの、書き手の顔や立場の見えない、なんだかわからないサイトばかりだった。実際に6月27日の放送を聞いた人のツイートやブログなどが見つかればわかるだろうといろいろ見たのだが、ツイートも、またはまとめサイトも、多くがその日の放送を聞いてもいない人による番組やパーソナリティの揶揄ばかり。

いつからネットはこんなに真実に近づきにくくなったんだ?


報道があったその夜、Youtubeにアップされた「6月27日『聞いてみや〜ち』放送」を聞いた。デマになっているような神野さんの発言はない。ただ聞いていてここで宮地が神野さんの足を蹴っているらしき雰囲気がわかる箇所があった。

そして翌日。この事件は朝の全国放送のワイドショーでも報じられた。そして放送での問題の箇所。放送時の2人の喋りは文字として画面に映し出された。そして彼らとは違う別の男性と女性が、朝のワイドショーを見ている様々な年代の方たちによくわかるよう、訛りもなく、ゆっくり、丁寧に、2人の会話を再現した。それはもう、ラジオで聞いている宮地さん・神野さんの掛け合いとは全くの別物だった。

名古屋に住む私は、報道で流れるそれと実際の2人の喋りの雰囲気が別物だということはよくわかる。ところがこの事件が起きて初めて「宮地佑紀生」をテレビから知った人が受ける印象はどうなのだろう。少し柄の悪そうな写真と、そして言ってる事は確かに一字一句違わないのだけれども、印象がまるで異なる再現されたセリフ。そこから受け取るものは、どんな「宮地像」なのだろう、ということをずっと考えていた。報道はこうやって実際そこにあった人間たちの手ざわりを変えていく。現実からどんどんと離れていくんだ、と感じた。

そんなことがたかだか10日前ほどに起こったばかりだったので、森達也監督のドキュメンタリー映画「Fake」、そこに映っているもの、映さなかったもの、それはどういうものなのかを考えるために映画を観にいった。

・・・
森監督は佐村河内守の住むマンションに行く。
「私はあなたの怒りではなく、悲しみを撮りたい」、そして「私はあなたを信じます」と言う。
「悲しみ」とはなんなのか、そして「あなたの何を信じます」なのか、監督は言っていない。
佐村河内は自分の聴覚の診断書を出す。これまでの報道で自分はずっとこれを出してきた。しかしその診断書のすべてをマスコミは報道していない、ということを言い募る。
診断書には「感音性難聴」とある。しかし「障害者手帳を交付するまでではない」と診断されている。
聴覚障害の場合、6級から障害者手帳が交付されるそうだ。6級とは以下の通り。
1.両耳の聴力レベルが70dB以上のもの(40cm以上の距離で発声された会話語を理解し得ないもの)
2.一側耳の聴力レベルが90dB以上、他側耳の聴力レベルが50dB以上のもの

報道では「障害者手帳交付の必要なし」ばかりを報道して「感音性難聴である」という部分については無いものと扱っていてとても公正ではない、と佐村河内は言うのだ。
そして映画の中で佐村河内はまったく聞こえていないようである。

一体、森監督の言う「信じる」は何についてなのか。
彼が何も聞こえていないということを信じるということなのか。しかし聞こえるか聞こえないかは佐村河内守の属性であり、問題とされているのは佐村河内守の作品だとされていたものを作っていたのは新垣隆だった、ということではないのか。それについても佐村河内は「新垣は何故あんな嘘をつくのか。彼は素晴らしい技術者だ。しかし私は指示書でその作曲に関わっていた」と言う。その言葉を信じていたというのか。しかし「Fake」、この作品を見続ける我々観客の興味を牽引していくのは、監督の佐村河内への信頼ではなく、ところどころ挟み込む疑惑の目、そしてなんとなく意地悪なカットだと思う。

意地悪といえば、新垣隆の映像もそうだった。
私は新垣隆について殆ど知らない。ただ事件の後で彼と一緒にアルバムを製作した吉田隆一さんのことなら多少なりとも知っている。それで私は、吉田隆一さんと一緒にアルバムを作ったりライブ活動をし、たびたび吉田さんのツイートで語られる新垣像に対して勝手にシンパシーを抱いていた。
しかし映画の中に切り取られた新垣さんは、佐村河内守からの恨みなのか怒りなのか悲しみなのかわからないがそういった気持ちのフィルターがかけられた視線がとらえた絵、のようだった。若作りしておしゃれしてニコヤカに笑う新垣さんの写真。バラエティ番組に出演してイジられる姿、そしておどける新垣さんの姿は、どこか笑える。万華鏡のようだ。事件当時、マスコミに晒された新垣さんに対し、報道と視聴者は様々な同情やら暖かい気持ちを抱きつつもどこかプッと笑っていた。それを今またこの映画で取り上げ、「おしゃれオヤジ」を演じている新垣さんとその姿に嫌悪を示す佐村河内をプッと笑う。結局はいつまでもいつまでもカメラの向こうとこちら側で誰に対してもどちらに対してもプッと笑っているのだ。そんな風に思えるのだ。

そして最後。佐村河内は海外メディアのインタビュアーに「あなたも作曲に関わったというが指示書だけで、この言葉がどう音楽に変わったのかわからない。作曲に関わった証拠がどこにも無い。せめて弾いてみせてくれればそれは証拠になるはずだ」と言われても、それを証明することはなかった。楽譜は書けないし、これまでも書こうとしなかった。楽器は数年前に処分したという。「いや、多分もう弾けないから」と。
しかし、森監督の「あなたが本当に音楽を愛しているなら、曲が作れるはずだ。作ってくれ」の言葉に応え、彼は1曲、作曲するのだ。
さて、この曲はどうなのだろう。
打ち込みで作られたこの曲は。
私は素人なのでよくわからないが、印象としてはどこかで聞いたことのある感じの壮大な雰囲気をまとったくさい曲だった。ただ、このくささは佐村河内はきっと好きな世界観なんだろうと思える。ああこんな感じが好きなのだろうなあというメロディや盛り上げ方が立て続けに続いててどこか切り貼りされた印象だった。ある音楽系の大学生が卒業制作で作った曲を以前に聞かせてもらったのだが、それもなかなかの作品で、それとクオリティとしてどう違うのかが私にはよくわからない。その彼女は今は楽器演奏を子供たちに教えてて、一方の佐村河内は様々な交響曲の作曲者として名を馳せていたのだ。
ただ、そうして作られた「ザ・佐村河内の世界観」の音楽と、それを聞く彼を支える妻。二人の住むマンション。その曲はその閉鎖世界にとてもよく合うように感じた。

音楽と共にエンドロールが流れ、「うーん、この音楽をどう捉えるか・・・・?」などと考えていたところ、この映画にはあと少し続きがあった。
その日の撮影でこの映画の撮影も終了するだろうということを森監督は佐村河内とその妻に告げる。そして言う。
「あなたは、今、本当に私に対して話していないことや隠していることはないですか?」
佐村河内、無言。無言をずっと映している。
そして映画の画面は突然真っ暗になり、代わりに劇場の明かりがポヤーンと灯る・・・。
む・・・無言は、あの演奏の後の無言は、限りなく「隠していることは、ある」に取れる!
いや、森監督の問い掛けは佐村河内には聞こえていなくて、ただ黙っているだけ。それを森監督が映画的戦略で撮っているのか。もうわからない。本当の本当に、わからない。
何故なら、ドキュメンタリー映画が唯一無二の真実を映しているのではなく、その現場に入り込んだ監督の主観を映し出しているものなのだからか。

「マジカルガール」

スペインのカルロス・ベルムト監督の「マジカルガール」。

何故だかポスターから勝手に

ペルセポリス」を思い出してて。そして「マジカルガール」は全編アニメかと勘違いしてた。予告を観て勘違いに気付き、なんだか面白そうだなと思って観にいったのですが。

映画観ながらふと気がついたら、私は祈るときのように両指を組んでいて、その組み合わせた両手をほどくと痺れきっていて自分の指ではないほど感覚を失ってました。あまりにも緊張しながら見ているうち、もんのすごく固く両手を組んでいたようです。
映画は、とにかく行く先が見えませんでした。流れている時間の早さもつかめません。随分年数が経ったのかと思いきや、ほんの数分先のことだったり、数日しか過ぎていなかったり、またはその逆だったり。
登場人物の過去に何が起こり、そこでの人間関係はどんな風で、それが今にどのように影響しているか。そういう時間の「線」でこの映画は語られていません。すべて「今」という「面」でしか表されていません。

白血病の少女、アリシアは日本のアニメ「魔法少女ユキコ」の大ファンで、そのコスチュームを着ることを夢見ている。父親であるルイスは彼女の願いを叶えてやりたいのだが、失業中であり、さらにそのコスチュームはとても高額なのだ。それでも、なんとしても娘のためにそれを買おうとする。

「お父ちゃん!そんなの、高額なコスチューム買わなくても、自分で作ったればいいやん!!」
とか、映画見終わったときの私はマジでそう思ったわけですよ。なぜなら、父親・ルイスがそうしてでも娘の願いを叶えてやりたいと思うその気持ちから、事態はとんでもない方向に転がっていくからです。
ところが1日経ってから、私はふと、「そうじゃない」ということを思い出すのです。
私が欲しかった「ひみつのアッコちゃん」の「魔法のコンパクト」は、そこらへんのおみやげ屋さんで売っている適当なコンパクトでよかったか?
1970年代の明治製菓の懸賞で登場した「くたくたジャガー」。あれを私はどんなに欲しかったことか。
本当の本当は、それがアッコちゃんの使っている変身のできるコンパクトじゃないことはわかっていても、コマーシャルで流れる「本物」が欲しかったんだ。「こっちでいいじゃん」と違うものを出されても悲しいだけだった。
でも、私は「魔法のコンパクト」も「くたくたジャガー」もどちらも正規の商品を持つことはなかった。そこらへんのおもちゃ屋で買ってもらったコンパクトを「アッコちゃんの魔法のコンパクト」ということにしようと思ったし、懸賞でしか当たらないくたくたジャガーによく似たものを安い値段で買ってもらって、結局それで満足したのだ。多分、私は自分の欲望に対して、それほど完全な形を求めていないのだ。

ところがアリシアは、いやもしかしたらルイスがなのか、そしてバルバラは、バルバラの夫は、ダミアンは、似たような、適当なものは決して許さない、とても完全な形を求めるタイプの人間なのかもしれない。完全なる円のようなものを。
病に冒され、生活に制限が増えてしまったアリシアにとって、願いは研ぎ澄まされていったのかもしれないし、それとも、ルイスがそう思い込んだのかもしれないのだけれど。
バルバラはもしかしたら「完全なる愛の形」を求めていたのかもしれない。それがどんなものかはわからないけれど、少なくとも彼女の夫が表す形では満足できなかったのではないか。またバルバラの夫も、自分と妻との関係における完全なる理想形を心に持っていたのではないか。
完全なるものを求める人々は、常に満足をせずとてもつらそうだ。なぜならそれは、自らが作り出す「完全なるもの」ではなく、自分の心の中で求めている、他人から与えられる完全なる愛、だからだ。それは大抵の場合、手に入れることが出来ない。
そういう姿を、この映画の登場人物から感じる。
ところで、この映画は登場人物に「完全なるもの」を探させながら、観客に対しては見事に幾つかのものをわざと欠落させている。
アリシアがラジオに投稿した「本当の望み」はなんだったか。
ダミアンはバルバラと何があったか。
バルバラの夫はバルバラに何を求めているのか。
バルバラの開けた部屋の向こうでは何が繰り広げられているのか。

観念の円。
しかし既にその面は切り取られ、真っ黒に光る断面を見せている得体の知れない多面体となっている。それを手のひらにのせながら妄想の円を探し続けている人々の群れ。
「マジカルガール」は私にとってそういう映画でした。

殺されたミンジュ

待ちに待ったキム・ギドク監督の。
非道にも大勢の男たちに急襲され、殺されてしまった女子高生、ミンジュ。
これは、最近の邦画にもよくある、多分それは復讐に由来するのだとしてもその動機の詳細だけが最後まで明らかにされない残忍な殺人ゲームの話だ、と思って観ていた。
金にも女にも不自由していないイケメンの男が複数の人間にいきなり拉致され、残忍な拷問を受ける。観ている私はあまりにその残忍な制裁に時々目を背けながら、きっとこれはミンジュを殺したことに対する報復なのだ、ならば聞きたいことだけ聞いたあとは同じく死を以って報復されるのか・・・と思っていたが、その男は拷問の後、路上に放り出される。
更に次から次へとミンジュの殺害に加わった男を拉致し、拷問を加え、その殺害について署名させた後は彼らを解放していく。そのうち、拷問を受けた1人の男は改めて過去の己の罪の認識のため自殺してしまう。そのことについて拉致し、拷問を加えた側の男の1人は、その罪を主犯格の男に問う。

この復讐は、殺されたミンジュに対する復讐は、相手に「死」を与えるということが最終目的ではない・・・の?
その時点で、とても意外な気持ちがしていた。

6人の男と1人の女。
1人はリーダー格の男。あとはレストランでバイトをしていたり、アメリカに留学歴があり英語も話せるが母国語が下手な上に学歴が却って邪魔をしていつまでも就職できない青年とか、友達に金を貸したせいで自らの家財を没収した男や、暴力を振るう男と同棲している女や・・・。その彼らとミンジュとの関係性は明らかにされないが、どうやら彼らは個人的にミンジュを知っているわけではなく、リーダー格の男が開設しているストレスや不満を抱えた人間が集うウェブサイトで出会ったということのようだった。彼らは正義や大義名分の名の下で他人に暴行を加えることで自らのストレスを解消しようとしているようだった。
その7人の姿が1人ずつ描かれていく。同時に、ミンジュを殺し、今、謎の集団に拉致され、暴行を受ける側の男たちも1人ずつ描かれていく。女子高生を殺したあの殺人も、自分の意思ではない、上からの命令で、そしてそれは世の中のために必要だったのだ、ということを訴える上位階級にいる男たち。そして、これがその世の中を変えるための行為だとばかりに彼らに拷問を加えて行く、底辺に生きる人間たち。私は何度もキム・ギドク監督の過去作「春夏秋冬、そして春」を思い出していた。この答えの無い、ただ繰り返されていくことの空しさ。真実のありかの無さ。この世界で生きていく場所がどこにも見えない、その苦悶。監督の叫び声さえ聞こえてくるような映画だった。

そして、最初に拷問を受けた男を演じた、キム・ヨンミンの8役!
拷問を受けた男のほかに、拷問を加える7人の男女の生活に密接に関係する男を、キム・ヨンミンがすべて演じている。女に暴力を振るう男と、弟を追い詰める兄を、友達の財産をすべて失わせた男を、そして主犯格の男の海兵隊時代の後輩で現在は僧として生きる男を・・・。それがまるで、すべての悪は、それを為すのは悪人のような男であり、そして世捨て人の優しさを瞳に宿した僧になって生きようとする男でもある、つまりどのような人間も死を以って報いられるほどの悪を為すことがあるのだ、というようなことを表しているように思えてならない。そして、その悪に直面したとき、私たちはどう生きていけばいいのか・・・ということを・・・・。

ジェットスター午後5時15分発の札幌行きに。
しかし飛行機の到着が20分ほど遅れる。札幌の「てっちゃん」の予約は閉店22時のため21時にしてある。間に合うのか・・・!
新千歳空港に到着して走るようにしてJR特急に乗り、札幌へ。ホテルのチェックインもせず、とにかく大漁居酒屋「てっちゃん」へ。
間に合ったーー!

お店は満員。予約しておいたものの、カウンタは人がひしめき合ってる状態。
さっそく、予約しておいた舟盛りを。
かつては1人1人前頼まなければならなかったそうですが、今は2人で1人前でもいいらしい。
舟盛り、一人前でコレ! どーーーーん!!

ウニやタラの白子のマダチ、くじら、ほたてや甘エビ、サーモン、ブリ、マグロ、その他いろんな貝やらなにやらすごい種類ですごい量!
しかし、刺身のツマまで完食!!
お通しはタラバガニとイカの塩辛。
でっかい餃子に量の多すぎるじゃがバターも頼み、超満腹!!


ホテルは札幌のドーミーインPUREMIUM札幌。
ホテルの朝食はバイキング。
朝食は混むので開始の6時か、または9時過ぎが空いてますよと受付スタッフの方がおっしゃる。それで朝5時50分に起床して、そのまますぐに朝食に。
イクラ、まぐろのたたき、甘エビ乗せ放題の海鮮丼、その他お刺身の小鉢やししゃも、鮭の焼き魚、その他いろいろ・・・。
これのために来たんだーー!

今回は札幌は夜の「てっちゃん」とドーミーインの朝のバイキングで早々に終了。朝9時のバスで余市に向かう。
1時間20分ほどかけて余市に到着。
街にはNHK朝ドラの「マッサン」のテーマが、どこかのスピーカーから流れている。
まずは「よいち情報館」へ。

館内ではDVDで、マッサンこと竹鶴正孝さんと妻リタさんに関する様々な情報が流れている。その中で、リタが亡くなった日のマッサンのことをお孫さんが語るところで泣いてしまった・・・。
余市に来るために観た、年末に放映された短縮版「マッサン」。そんなにわか「マッサン」ファンの私たちだけど、いきなりもうスイッチが入って、そこからは「マッサン」と聞くだけで涙ウルウルモードに。

その後のニッカ見学の前に、まずは余市で地元の方たちに人気のお寿司屋さんで、満腹ちらし850円を!

しゃり少なめにしてもらったけど、やっぱり満腹!

そして午後1時半からは余市ニッカウヰスキー工場の見学。

「マッサン」でも出てきた精製ポッド。

精製する場所はとても甘い、まるでパンを焼くような香りが漂っていた。二条大麦を甘い麦汁に変え、それを酵母を加えてアルコールに精製していくそうで、その発酵する香りがとても甘い。

そして樽の中で長年熟成。。。

ニッカでは試飲も出来ます。

夕方5時、余市をあとにして小樽へ。
ドーミーイン PREMIUM小樽へチェックインして、まずは小樽の街と運河を散策。
小樽はガラス細工の店が多いけれど、ガラス製品がいつまでも見ていて飽きない。しかし1つ2つ買うんじゃなくて、コレちゃんと揃えたいし、揃えたら高いし、やはりお店の中で眺めてるのが一番イイ・・・という不甲斐なさ。北一硝子の香立てや万華鏡グラス、その他硝子のグラスなどがとにかくきれいでうっとり。雫の形をしたアクセサリーの淡い色にもうっとり。
そして六花亭で定番のマルセイバターサンドと、そして大好きなシュークリームを買う。

この日はホテルに戻るも、結局朝と昼の海鮮丼がきいてて、夜になってもおなかが減らず。

3日目の朝。
再びホテルで海鮮どーーーん!

この日はホタテが美味しかったーー。あと、巻貝の焼いたのも。
午前中に再び北一フガラスへ行って目を付けていたイヤリングを買い、武田はなるとの若鶏の半身焼きとか小樽名物「ぱんじゅう」を買う。可愛い容器に入ったいろんな香りの馬油とかも買いたかったなあ。
そしてジェットスター15時の便で名古屋に戻りました。

乗り物に乗るとすぐ寝てしまう私。
武田は、もういい年をしたおっさんなのに、車やバスに乗るのが大好きで、そして飛行機がとにかく好き。必ず窓側に座り、飛行機が高度を下げると子供みたいに窓の外ばかり見て、あれはどこだ、あれは○○山だ、とずっと言ってる。日本だろうがバリだろうがマレーシアだろうが、ずっとそうだ。たまに勝手に体を傾けたりしてるので「ちょっと、あんた、今、操縦してるつもりになってない?!」と私はツッコミを入れる。
飛行機から煙を吐く御嶽山も見えました。

この冬、2月末に閉店するマライカセントレア店で洋服を2着買い、(残念だよ・・・マライカ・・・)、そしてセントレアのスカイデッキでプロジェクション・マッピングを見て帰ってきました。

2015年最後の旅行は、南木曽へ。
12月7日・8日。
高速で中津川まで。恵那峡のサービスエリアでアガル!
栗きんとんや栗シュークリーム買った。

そこから馬籠に。

中山道の宿場町。石畳と山道を生かした緩急のある坂に風情がある。
景観を守りつつ、観光地として生き残っていくその道のりは大変だったのだろうなあ。
12月にしてはとても暖かい一日。中国からの観光客がとても多かった。


空、ピーカンだなあ。

何かいいアクセサリーがあったら買いたいなとあちこちの店を覗いてて、とても素敵な腕時計を見つけました。あとは栗の入った「栗ふく」という和菓子や五平餅、あられなどを買って歩きながら食べました。


宿泊は、ホテル木曽路
長野県の温泉宿【ホテル木曽路】公式HP -南木曽温泉リゾートホテル-
野趣溢れる露天風呂、更衣室と内風呂の仕切りのないちょっと不思議な大浴場。お湯はツルツルpHー9.0の単純アルカリ泉。体が芯からぽっかぽかになって、露天の水風呂にも浸かれるぐらいだった!
料理はバイキングだったけど、焼きたてのステーキ、カキフライやカキとほうれん草のクリームソース煮込み、そしてカニがとっても美味しかった!地ビールの木曽路ビールも美味しい。あまりに美味しくて写真全く撮ってない!
肉・カニ・カキとたんぱく質摂りすぎなせいか、翌朝になってもまだおなかが空かない。朝食のバイキングも美味しかったのに、それほど食べられなかった。

木曽路ホテル。結構豪華なホテルだった。


しかし、ふるさと割クーポンを使ったので、1泊2食付5000円ほど・・・!


帰りには妻籠へ。
道に入ってすぐ、まるで江戸時代の時代劇の中に入り込んだような感じだった!年末で障子を外して外で水洗いしている人たちとかいて、きっと江戸時代もこんな風景がそこにあったのかもしれないと思えてきた。


あ、おまんじゅう屋さんだ!


栗きんとん、食べました。

今度、雪深くなったらまた南木曽に行きたいなあ。

「アクトレス 〜女たちの舞台〜」

オリヴィエ・アサイヤス監督
キャスト
マリヤ・エンタース(ジュリエット・ビノシュ
ヴァレンティン (クリステン・スチュワート
ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ

「アクトレス」予告編

年を経ていく往年の女優、かつての作品のリメイク、それに関わる新進気鋭の美しい女優、個人秘書・・・というキーワードから、私はクローネンバーグ監督の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」が頭をよぎっていた。
ついでにこちらが「マップ・トゥ・ザ・スターズ」の予告編。

結局、想像したのとは全然違ってたんですけどね!

さて。
映画を観る前に情報を入れたくない方はここから先は読まないで下さいね!

最初のシーンは揺れる電車の中。
マリアと彼女の個人秘書ヴァレンティンがそれぞれせわしなく電話をしている。
離婚調停中のマリアは弁護士と。ヴァレンティンはマリアのスケジュールに関するあれこれを。彼女たちはこれから、劇作家ヴィルヘルムが受賞した賞を彼の代理で受け取るために、特急列車でスイスに向かう最中なのだ。ヴァレンティンは連絡が取れないヴィルヘルムの妻に、または授賞式の関係者に、そしてマスコミに、と忙しく電話をかけたり受け取ったり。
列車の外の景色は広大で美しいのだけど、列車に乗って進んでいく道がどこか後戻りできないような、険しい行く末を暗示しているかのように思えてくる。
この最初のシーンから、なんとも言えない緊張感が漲っていたのだ。音楽や効果音がそれを盛り上げるわけではない。マリアとヴァレンティンの言葉や声や関係がそれをはっきりと明示させているわけではないのだけれども、とても奇妙な緊張の糸が全体に張っていて、私はこのシーンを観ながら、マリアにとってヴァレンティンは何者か、劇作家ヴィルヘルムとは何者か、電話に出ないヴィルヘルムの妻とはどんな女なのか、ということにピキピキと頭をめぐらせていた・・・。

亡くなった劇作家ヴィルヘルムの過去の作品「マローヤのヘビ」。
マリアは18歳の時、主役のシグリッドを演じた。
この作品のリメイクの話が来る。しかし今回マリアが演じるのは、勿論若く美しく自由なシグリッド役ではなく、シグリッドに翻弄される会社経営者の40歳の女性、ヘレナ役。
マリアはヴィルヘルムの妻が用意したスイスの高級山岳リゾート「シルス・マリア」という地にヴァレンティンと二人で滞在し、「マローヤのヘビ」のヘレナのセリフを入れながら、ヘレナを演じるための個人稽古をする。

私はこの映画をずっと後半まで、「関係性の映画」として観ていたのです。
マリアの秘書ヴァレンティン、
かつて「マローヤのヘビ」で共演した、過去にマリアと関係のあった俳優ヘンリク、
新しくシグリッドを演じる新進気鋭の女優ジョアン。
彼らとマリアとの関係はすべて緊張感があり、この映画は一体、誰とどう転がっていくのか、そこを注視していた。そして最初は、新しくシグリッドを演じることになったジョアンとの関係の行く末がどうなっていくのか、この映画の要はそこなのだろうと思っていた。
ところが。映画はマリアと個人秘書ヴァレンティンとのシーンをかなり長く描いている。
ヴァレンティンはもしやマリアとは親子? もしや彼女たちはレズビアン? 観ながらそう思ったりするが、少なくとも親子ではない。お互いに通う親密さ、信頼、友情、尊敬、愛情・・・。それらの感情の似ているようで少しずつ違う何かがこの映画ではとても丁寧に描かれていたように思う。
他に誰も居ない別荘でマリアのセリフ合わせを手伝うヴァレンティン。二人のセリフが芝居と現実を交錯していて、さらに映画は不思議な緊張感を増していく。
そして。ヴァレンティンはある日、マリアを残して去っていくのだ。
その理由は何なのか。ヴァレンティンは一体、心の底では何を思っていたのか。明確なところはわからないまま、観ている私たちは映画からヴァレンティンが喪失したことに小さく傷つきながらも、スクリーンを眺めていたのではないだろうか。

しかし、マリアは新しい個人秘書を雇い、「マローヤのヘビ」のリハーサルも大詰めに入っている。
そこで、私はやっと気付いた。
うわ、この映画、タイトルの「アクトレス」そのものの映画だ!と。
(しかし、ちなみに原題は「Clouds of Sils Maria」、シルス・マリアの雲、でした)
マリアと誰かとの関係性の映画ではない、マリアという女優、その生き様の物語なのだ、と。
かつて関係のあった俳優ヘンリクとは確執もあったし嫌悪も、そしてずるい甘えもあり、更には友情も芽生えてる。
新進気鋭の女優、ジョアンに対して、嫌悪もあり軽視もし、怖れもあり、同業の女優として冷静に認めている部分もある。
しかし、誰と出会い、何を感じ、心が乱されたり高揚したりしても、結局はこの映画の最初のシーンの、美しい高原を、険しい山の中を、夜を、朝を、ただひたすら走りぬけていく列車のように、美しいと賞賛される季節から年を経ていくという現実を、体に蓄えられる脂肪をまといながらも後戻りすることなく走り続ける「女優 マリア」の映画だった・・・!
最後のシーン、やっと映画を観ている私たちの前に表れた「マローヤのヘビ」という芝居はどんな内容なの? そしてジョアンとマリアの関係は? 女優同士の戦いは?という疑問を軽く一蹴して、いさぎよくも鮮やかに映画の幕は降ろされる。最後まで緊張の糸を切らさないまま。
その芝居とか、二人の関係性がどうかとか、そんなことはどうだっていい。
ただ、「マリア」という女優の生は、これからもまだ続いていくのだ、と、それを示唆しているかのように。
観終わって、「うわっ、やられた!!」って思いましたよ。

秋のレイクヴィラ

2015年10月26日・27日。
ふるさと割クーポン1万円券をゲットして、信楽温泉レイクヴィラへ。

ほんとここは、バリに初めて行った時のサヌールのグランドバリビーチホテルを思い出す。手入れされた広大な庭とか。敷地内を歩いているだけで幸せな気分になる。


お風呂もいいし。
和懐石も美味しいし。

「屍者の帝国」と「岸辺の旅」

19世紀末。ヴィクター・フランケンシュタインが屍体の蘇生技術を確立した。そこに21gの魂は存在しない。魂(霊素)の代わりに擬似霊素というデータを入れることで屍者は蘇り、産業革命の労働力となったり、または戦争における兵士として使われている。
主人公で優秀な医大生だったワトソンは、盟友フライデーと共に屍者と魂の研究をしていた。そしてフライデーの死後、彼の墓を暴き、個人的に屍者を蘇られるという禁忌に手を染める。
・・・というのが「屍者の帝国」における設定です。
舞台が19世紀末なので、そこに登場する様々な機械のアナログさを取り入れた意匠が素晴らしく美しい。
屍者フライデーと共に行動しながら、フライデーの魂を再構築させる技術を探し続けるワトソン。物質化し、動き回ってはいる屍者と生者の圧倒的な違い。

さてその後見た黒沢清監督「岸辺の旅」では、3年前に行方不明になった夫優介が妻瑞希の元に戻ってくる。「ごめん、俺、死んだんだ」と。
そこに足がないわけでもないし、向こうが透けて見えるわけでもない。どうやら自分以外の誰かにも見えるらしい。死んでも、なかなか消えることが出来ないでこうやって彷徨うことが出来るらしい、死者は。そして、この3年で訪れたいろんなきれいな場所に行こう、と優介から誘われる。
生きている瑞希と死んでいる優介のふたりの旅。
映画の冒頭から、微妙に視線がどこに注がれているのかわからないようなカットがあり、そしていつも通り、どこかに何かが潜んでいるような気配があり。
ただ、今回の映画の死者、または異形の者は、見えてはいけないものがふと見えてしまったわけではないのだ。普通に歩き、餃子を作ったり科学の講義をしたり。歩いたりバスに乗ったり笑ったり。
生者と死者を分けるものが一体どこにあるのかがわからない。死者ではあるがそこには生者の時と同じ魂があるのだ。
ところで。
私は先ほど、コンビニに行くために明かりの少ない夜の川に架かる細い橋を渡った。その時、確かに向こう側からその橋を渡ってくる人影が見えたと思ったのだが、橋の途中でその人影がもうどこにもないことに気がついた。どこで見失ったのかと橋のそばの草むらを見ても誰もいない。
橋を渡ってもう少し歩いたら鉄が軋む高くてか細い音が急に聞こえた。一瞬、ビクッとした。
コンビニで買い物をした帰り、いつしかずっと等距離で背後から足音が聞こえていた。振り返ればきっと普通に私の後ろを歩く人の姿が見えるのだろう。振り返らねば、ただなんとなく不安に繋がる足音だけが続くのだろう。
私は黒沢映画のことを思った。
違和感。
黒沢清の映画の怖さとは衝撃を伴わないが、いつもはそこにはない「違和感」なのかもしれない。違和感を目の当たりにした時の、なんともいやなざらっとした気持ち。それらを映画として表現するのが本当にうまいよね、黒沢監督って。
ずれた視線も、どこかから吹く風も、いつのまにか放置された食べ物の器も枯れた鉢植えも、昨日まで生活していた場所が廃墟だったのも。

海街diary

とてもいい映画だった、「海街diary」。
誰しもたった一人で新しい場所へ行かなければならない時の一度や二度ぐらいはあったと思う。
私にとっては小学生の頃、自分がそれまで一緒にいた母親のいる家族から父親の新しい家族の元に引き取られた時が最初のそれだった。
それまでとまったく違う環境。初めて会うたくさんの人たち。
常にある「本当にここにいていいんだろうか感」。

それにしても。
最初のほうのシーン。父親の葬式が済み、電車に乗った三姉妹と見送るすず。そこが本当に素晴らしかったんだ。
電車の中から綾瀬はるか演じる長女さちが「うちに来ない?」って言うんだけど、その後ろでニコニコしてる次女よしの役の長澤まさみと三女ちか役の夏帆
ああ、三女を演じる夏帆がね、すごくいいんだなあ。
綾瀬はるかがすずの肩にそっと手を回す包容力もいいのだけど、とてもあっけらかんとしながらやわらかく優しく笑う夏帆の顔がね、すずをここではない知らない世界にそっとひっぱりだす、そんな力を持ってたと思うんだよ。
もういい加減いい年の私ですが、恥ずかしながらやっぱりかつてのちびっこだった私が心の中にまだ住んでて、急な選択を迫られたときに「この人の笑顔のそばにいくのがいいかな・・・」とまず最初の思うのが夏帆が見せた笑顔ではないかな、そしてそこからあの3人の姉妹がこれから向かうどこか、に、すうっと引っ張っていかれるのを感じたんだ。

映画の中の光、風景、勿論この四姉妹、そしていろんなものがいとおしくなる映画でしたが、もうひとつ特筆すべきはすずの同級生のサッカー部の男の子。
この少年がとてもちびっこで見た目もかっこよくもないところが最高にいいんだわ。そしてどこにも出せなかったすずの気持ちを聞いてしまって、気の利いたセリフも言えないけど何かに気付いたり感じたりする芝居をすごくナチュラルに演じてて、誰なんだこの子はと思ったら是枝監督「奇跡」で主演した「前田前田」の弟だったよ!
いやー、大きくなったなあ。いい味だしてたわー。

とてもしみじみとした、いい映画でした。

神々のたそがれ 監督・アレクセイ・ユーリエヴィッチ・ゲルマン


観にいく前に既にいろいろ聞いておりましたよ。
とにかくすごい作品だ、と。
その上で、長い・眠くなる・ストーリーは訳がわからない、などなどと。
そこで、大抵はこれさえ飲んでおけば大丈夫という眠くならない系ドリンク剤を1本飲んで、さらに飴ちゃんなども適宜投入したにも関わらず、もう何故だか最初から映画を観ながら幾度か眠りの中へ。起きて映画を観ていることと夢の中の境界線が定かではなく、脳内で勝手に物語を補完しつつ見てしまうからなおさら訳がわからなくなる。
それでも翌日になり、あの映画のことを考えながら、たとえ何度か寝てしまっても何度も映画館に通い、繰り返し観ることができれば、それはとても幸福なことだと考えていた。や、幸福ということばは語弊があるな。何故ならあの映画の中の世界に幸福の存在を見つけ出すことは出来なかったから。けれど「神々のたそがれ」という作品世界の中で何度も泥まみれになることは意味のあることだと思う。

映画の内容としては、こうだ。
地球のある学者たち30人が、地球に非常に似た惑星に派遣された。その惑星の文化は現在の地球より800年ほど遅れたような世界らしい。
その惑星の王国アルカナルでは知識人狩りが行われた。
地球人であるドン・ルマータはここでは異教神ゴランの息子とされている・・・。

さて、映画にしろTVドラマにしろ、カメラが映す映像を私たちはごく自然に受け入れて観ている。カメラの存在すら意識しないままに。
ところが「神々のたそがれ」では、まず最初の映像、上から俯瞰で街を映し出すその画面からすでに、「この風景を見ている者の目」を意識せずにはいられない、そんな映像だった。普通なら映画的にこの場所を説明するという意味を持った映像のはずだが、それ以上の何かの意思、その場所からここを見ているものは一体誰だと思わせるような映像だった。
そう思っていたら、人々を、そしてルマータをカメラが映し出すにつれ、とても奇妙なことが起こっていった。人々は明らかにカメラをどこか興味深げに見ながらその前を横切るのだ。または何らかのアクションを起こそうとしたりする。
ニュース番組の中で街頭で天気予報コーナーを撮影している中で、歩行者がおどけてカメラにニヤニヤ笑いを向けて通り過ぎるとか、あれとまったく同じような感じ。カメラに映る天気予報を伝えるキャスターの目の輝きと、そうやっておどけてカメラの前に野卑な笑いをむける歩行者の目の輝きの質は明らかに違う。
そんな感じで、同じ画面の中のあるルマータと、映りこんでこちらに顔を向ける人々との差は、世界を見ているものと、見られているものとの、その違いなのだろうか。
とにかくカメラはまるでドキュメンタリーのように世界を映し出していく。
そこでわかるのは、ルマータは神として崇められているというようでもなく、祈られるわけでもなく、教えを請われるわけでもないということだ。神秘的な力を顕すわけでもなく、姿形も服装もこの星の人々となんら変わりがない。
ルマータも星の人々と同様、汚れている。何かを口にしてはすぐさまそれを思い切り吐きだす。人々は絶え間なく唾を吐き、時にルマータに向かって唾を吐くが、ルマータはそれに怒る様子もない。
ルマータの周りにいる人々が誰で・何で、そこで何が行われているのか、観ていてもいつまで経ってもわかっていかない。
思うに、私たちがすれ違った誰か、たまたまぶつかったり、または少しだけ話しただれかのことすべてを、私たちは知らない。私たちの現実には、気の利いたテロップやナレーションなど流れない。
この映画も、そんな感じなのである。
映画の中の世界ではそれぞれに意味のある出来事が重層的に起こっていても、観客にそれが十分に伝わっては来ない。
でも、それが、世界だから。
と、映画を見たあとでしみじみとそう思っている。

私は神、というものが創造するもの、人を救うもの、という存在である、同時に破壊するもの、であるということを、正直忘れていたなあ。しかしキリスト教の黙示録でも、地球の終末が語られている。終末に起こる人々の退廃、悪の氾濫、そして神の怒り。新しい世界を創造するため、旧世界は徹底的に滅びる運命にあると宗教は説く。
さて、その「神」とされるものが、たまたま他の惑星から来た姿形の変わらない男で、他の人間よりも少しだけ強い力を持つだけのものだったら。
神はたいしたことなど出来ない。唾は吐きかけられるし、人々に捕らえられたりもするし、ひとりの人の命を救うことも出来ない。
もう、仕方がない、こんなことしたいわけじゃないけれどももう潮時だ、とすべてのものを破壊してしまうぐらいのことしか出来ない。
神に破壊されてしまうこの世にいる私たちも・・・確かに相当に愚劣でどうしようもない。
この映画を観にいって、話がわかるとかわからないとかじゃなく、その世界にどっぷりはまり込んで、自らも泥の中で呆然とするような感覚は、とても意味のあることだと思う。

THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦

パトレイバーに関しては、「昔、ゆうきまさみが『機動警察パトレイバー』って作品を書いていたよなあ〜」ぐらいしか知りませんでした。アニメになっていたのもぼんやりと知っていた程度。
しかし「THE NEXT GENERATION パトレイバー」は押井守監督だし劇場でやっているしということで、短編シリーズを行ける限りは観にいっていた。観にいけない回はあっても、とりあえず2015年5月公開の劇場版だけは必ず行こうと決めてました。

さて観にいく前に友達が、
「どっちかというと観ておいたほうがいいと思うから」とDVDを貸してくれました。それが「機動警察パトレイバー 2 the Movie」。押井監督による劇場版アニメです。
とにかく川井憲次による音楽がものすごくかっこいい!
そしてとても印象的なのが、川の中を進むボートのシーンだった。
ボートに乗っている人の目視点で、映像は川、その周囲に並ぶビル、くぐる橋の下、などを描いていく。そこにボートに乗る男たちによるかなり重要な会話があるのだけれど、それを話す人の姿は極力描かれていない。セリフと流れていく街の風景と音楽。すごいシーンだ、と思った。

この1993年に公開された映画のDVDを見た数日後に、「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」。
最初のシーンだけでものすごくテンションが上がった!
パトレイバー2」の最初のシーンは東南アジアの某国。そしてこの「首都決戦」のはじまりはイスラム系の某国から。そしてその後流れた音楽は「パトレイバー2」で川のシーンで使われていたとても印象的な曲!もうゾクゾクしっぱなし!
そして登場する「南雲さん」。勿論「パトレイバー2」ではアニメだったので今回の実写版では後姿だったりして顔を露わにはしないが、声はアニメ同様、榊原良子。おおお、なんたることだ、榊原良子さんの声でセリフが語られるだけで感じる、このゾクゾク感は・・・!あんまりゾクゾクして涙出たよー。
他にも先の「パトレイバー2」からの引用は多く、それは川を行くボートのシーンだったり。
いや、だいたいこの「THE NEXT GENERATION パトレイバー」というシリーズ自体が先のパトレイバーをふんだんに引用している作品なのだろう。
引用、とは、その前にあったものに対する知識があって初めて面白いものである。前作に対する愛情と知識があればあるほど、面白いんだろうなあ。私は付け焼刃というか、今で言う「にわか」なんですけど、それでも数日前に「パトレイバー2」を観ることができたことにものすっごく喜びを感じたね!

そしてもうひとつ、パトレイバーを巡るあれこれとしては、引用の面白さだけでなく、もう一度このテーマで今を見てみる、という恐ろしい面白さもありました。
パトレイバー2」ではPKO法、国際連合平和維持活動協力法が成立した1992年の翌年、生まれた作品です。平和維持活動の目的にのみおいて自衛隊を出動させることに関することを定めた法律で、この法案もかなりの不安と反対が起こったことは記憶に新しいです。
この作品では、ある自衛隊員が、東京に戦争が起きたらという「情況」を演出する。決してテロを犯して本当に警察や日本、またはアメリカなどを敵に回して戦おうとするわけではなく、自衛隊が持っている武器と軍事力を行使して警察や国民に様々な問題を提起するという、とても怖い話です。
そして今回の2015年作の「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」。昨年、集団的自衛権という法案を通し、そしてちょうど今日ですが、安保関連の法案を決定した、という今。
映画の中で再び、自衛隊員たちが軍事を行使し、警察と私たちに向かって問題を突きつけてきました。正義と平和の意味。思想の有無。
面白くて怖くて何度でも楽しめる映画でした。

待ってました!グザヴィエ・ドラン監督「Mommy」

「トム・アット・ザ・ファーム」を観て以来、心待ちにしていたグザヴィエ・ドラン監督作品!
もちろん、後追いで「わたしはロランス」をDVDで観ましたよ。

私にとって映画における「母親と子供モノ」は観たあとで過剰に痛い思いがしてしまったりするジャンルなので要注意、なんである。もう私の年ならとっくに「おばあちゃん」になっている人もいるのに、まだ私はこのジャンルに対する自分自身の脆さから抜け出せない。
しかし「Mommy」には私を身構えさせるものは無かった。
私は、愛されずに捨てられる子供の話が、なにより堪えるのだなあ。
しかし、グザヴィエ・ドラン監督の作品は、その映画の最後のシーンが決してハッピーエンドといえなくても、どこか何か希望を感じるのだよなあ。その希望、とは何かと言えば、そこに愛だけはある、というような形にならないものだけど。
例えば、話がラストシーン近く、ダイアンは妄想する。スティ−ブがちゃんと学業を修め、卒業し、恋人と出会い、結婚し・・・というどこにでもありふれた未来を。ADHDのスティーブにとってそれがとても「ありふれている」とは思えない未来を。けれど希望とはそれが結実するかどうかというものではなく、ただ相手の幸せを祈るもの、そういうものとして描かれているように思う。

15歳になるADHDの息子、スティーブ。その母親、ダイアン。そして彼らの向かいの家の、カイラ。
映画はスティーブとダイアンの母子愛について描かれている、のだけど、私にはダイアンとカイラの物語も大きな比重を占めていた。
施設で放火したためにそこから息子を引き取ることを要請されたダイアンが家に息子スティーブンを連れて帰る。家に着き、向かいの家を見る。家の中の、外からはあまり見えないような、クリアではない窓の奥にカイラの顔だけが見える。ダイアンは心の目で覗き込むようにその家を見て、探し出すかのようにカイラの顔を見つけ、そして彼女に挨拶をする。
カイラは休職中の教師。夫と娘がいる。しかし吃音に苦しんでいるようで家庭の中でも夫や娘とコミュニケーションが取れない様子である。しかしスティーブンとダイアンに出会い、彼女は彼らの間では豊かな感情も言葉も取り戻すのだ。
3人で台所で歌うシーンがとても印象的だった。
スティーブは母親ダイアンの乳房を服の上からつつく。近親相姦的なあやうさはダイアンの堂々とした母性が撥ね退ける。そんな二人を戸惑いつつも眩しそうに見るカイラ。
そして、多分、セリーヌ・ディオンの"On Ne Change Pas"ではなかったかと思うのだけど、この曲は知っているかと言ってスティーブが歌い、ダイアンが踊り、そして吃音だったカイラも美しい声で歌いだす・・・。あのシーン、とても泣けてしまったなあ・・・。
または酔って、くだらないことを言い合っておなかがよじれるほどバカ笑いするダイアンとカイラ。

映画の中ではっきりと名言していないことのひとつは、カイラは何故家の中で引きこもっていたのか、カイラの過去に何があったのか、だ。
しかし、もうひとつはダイアンとカイラ。私は実は二人はレズビアンだったという裏設定があるのでは、と思って観ていた。
先に書いた「ダイアンの妄想」の中、年老いたダイアンはやはり年老いたカイラと共にいるし。
またラスト近くにカイラが引越しすることをダイアンに告げにいったとき。その前、スティーブを精神病院に入所させたあと、ダイアンとカイラは会っていなかったのではないかと思う。スティーブの入所を決めたことを簡単に肯定しあえるほど、簡単に否定しあえるほど、そしてお互いに簡単に慰めあえるほど、ダイアンとスティーブの、スティ−ブとカイラの、そしてダイアンとカイラの愛情は単純ではなかったからだと思う。それでも引越しすることになり、やっとカイラは再びダイアンの元を訪れた。そこで彼女は言う。「私は、夫と娘を捨てることは出来ないから」と。映画の中で一言も言ってはいないが、カイラにとって実はダイアンの存在は夫と娘を捨てるかどうか、と考えるに到る存在だったということではないか。

幸せなときも抱えている不安やストレスを表しているような1:1の画面と、開放感を表す横長の画面の、まさに世界が広がる幸福感。
登場人物それぞれが抱える愛の形。それらを感じるためにまた見直したくなる映画でした。

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

観たまんますぐの走り書き。説明もあまりなく書きます。

「リアリズム」とは・・・・!
それを巡る作品でした、私にとっては。

例えば、手持ちカメラを多用して撮影された、ワンカット(風)のカメラ。臨場感を生むし、何より途切れなく映し出されているはずのカメラが時間を飛び越し、場所を軽々と移動しながらも繋がっているその面白さ。そのアイデアや技巧が本当に素晴らしいし楽しかった。
しかし何故そんなことを、と考えると、つまり人の目とは1台のカメラなのである、ということではないかと思った。映画であれ、常にそのシーンを見ている人の目は1つ、それがリアルでしょう?と言っているかのようだ。
しかし、この映画は主役であるリーガンの視点だけではないので、そこには矛盾が生じる。

例えば映画におけるBGM。
私たちの生活には、そこの場所にある生活音があり、時には隣の部屋から聞こえる音楽があったりはするものの、心情に合わせて劇的に盛り上げる音楽が都合よく流れたりはしない。それがリアルである。
しかし、「バードマン」の中ではリーガンの心情に合わせて激しいドラムソロが展開され、観ている私たちの心をリーガンの心に沿わせるよう追い詰められたり不安になったりするのだが、そのうち映画の中で、ドラムを叩く男が登場する。
「はい、そうですよ、リアルではドラムなんて鳴りません。聞こえるのだとしたら、そこに『ドラムを叩く人』がいるからです。例えば路上に。例えば部屋の中に。ほら、『男』に近づけば音も近づくし、離れていけば音も遠ざかっていくでしょう?これがリアルってやつです」
とまるで言ってるみたいに。
しかし、路上で、またはどこかの部屋でドラムを叩く男がいる、という世界が本当にリアルなのでしょうか。

演じるってなんでしょう。
マイクは舞台こそが自分の本当の生だと言う。
贋物ばかりのセット。水を飲んで酔っ払う演技。そんなものはくだらない。ジンを飲むというシーンなら本当にジンを飲むし、酔っ払うシーンなら本当に酔っ払う。
演じるってなんでしょう。
リアリズムが100%のものだとしたら、その100%に限りなく近づくということでしょうか。
演じるということは嘘をつくということであり、そして嘘をついてはいけないということでしょうか。
その役柄になりきり、台本に書いてあるセリフを喋っているが、まるで今、自分が感じたことのように、話すように、喋る。

リアルな世界では、リーガンはかつて映画「バードマン」を演じていた男だった。しかしいつしかリーガンの中に『バードマン』は超自我として存在しているし、『バードマン』の声やまとわりつく世界がリアルになっていく。

最後に演劇批評家の重鎮、タビサは、リーガンの最後のシーンを「これまで停滞していたアメリカ演劇界を揺るがすスーパーリアリズム」というようなことをNYタイムズに書いています。
素晴らしく演じるということは、死ぬシーンで本当に死のうとすることでしょうか。

現実の世界では、「バードマン」を演じたリーガンを覚えている人はいるけれど、それよりも人々を熱狂させるのはSNSの世界の可愛い猫の動画や誰かのゴシップ記事などで、そこに「イイネ!」をしたり動画の再生回数で人気を計ること、それこそがリアルだとリーガンの娘、サムは言う。
その一過性のクリックがリアルなのか、それとも語り継がれる作品を作ることがリアリティある生の証なのか・・・。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、やりなおしも待ったもきかない演劇という時間芸術の幕開けに関する面白さも持ちながらも、様々な目線、技法、脚本、映像からリアルというものは一体なに?という問い掛けを執拗にしてくる映画でした。

リアルとは・・・・!
まったく関係ないけど、この映画の前にもうひとつ、「リアルとはなんだろう」と思った作品を挙げておきます。
1年前に活動を停止してしまった、女子中学生のせつない気持ちを歌うガールズポップデュオ 「たんきゅん」。
みやまゆとチャンユメというふたりの女子中学生、という設定ですが、みやまゆはイカ天世代の私たちには懐かしい「マサ子さん」のボーカリストだそうで、チャンユメはごーきゅんこと郷拓郎という男性らしいです。ごーきゅんによる楽曲がとてもいいのですが、しかし二人の声は本当にキュート。そしてみやまゆとチャンユメが手をつないで立っているシーンでなんだか泣けてきそうになるのはなんででしょう。
女子中学生ではないふたりによる、リアルな女子中学生感。
リアルと嘘と演じる、とは・・・なに?

詩と「おとぎ話みたい」について

詩ってなんだろう、と何年か前から思っていた。
子供の頃は、
短いセンテンス、開いた本にたくさんの余白、
まるで逆さにした棒グラフのような、
そういう形態の文章を「詩」だと認識していた。
ところが、では谷川俊太郎のはなんだろう、そしてそれからずっと経って読んだ川上未映子のあれはなんなんだろう。あの改行もなく、逆さにした棒グラフのようでもなく、文字で埋められた紙面、あれが短編小説でもなく詩だというのなら、詩とは一体どう定義されるものなんだろう。そんなことをずっと思っていた。

そして山戸結希監督「おとぎ話みたい」を観たとき、私にはまだ詩を普遍的に定義する言葉を思いつかないが、
少女が必要とするもの、それが詩だ、と思った。

映画の中の主人公のモノローグ、あれは詩だ。
でも私がもっとも詩的だと思ったのは、「先生はわたしのことが好きでしょう?」という叫びだ。
他人に向かって問いかけているようだが、しかし本当のところは会話を拒絶している。自分の中にわんわんと反響し続けて答えを求めない問いかけ。
他者という存在を前にして、まだそこに関係を結べず、自己だけがくっきりしていくあの「少女」という時間。
会話とか関係とか理解とか、そういうものではなく、
詩の孤高さだけが必要とされる。それが少女ではないか。
そんなことを思ったんだ。