男たちの物語
『名もなき野良犬の輪舞』、犯罪組織、警察、潜入捜査などを描いた韓国のクライムドラマ。友達からの強いプッシュで観に行った。作品としても面白いのだが彼女いわく「りりこさんの萌え要素もある」という。
不汗党(名もなき野良犬の輪舞) Fanmade Trailer (Japan ver.)
さて観て、ちょっと待て、ソル・ギョングこんなに若かったっけと目を疑った。
同じ2017年に製作された『殺人者の記憶法』では肌の質感も老人のようだったけれど、今回は大泉洋とか、または若い頃の小林薫みたいな感じじゃないか?
ちなみに小林薫といえば私は『キツい奴ら』(1989年)を思い出すのだが、小林薫と玉置浩二が金庫破りのコンビだった。この物語にはマドンナ的存在がいるのだけれども演出が久世光彦のためか、小林薫と玉置浩二の間にとても腐女子を萌えさせるイイ感じのナニカがあったのだよ。
さて『名もなき野良犬の輪舞』は構成も面白く、役者もいい、最後までハラハラしてドキドキして、そしてビビりの私は「絶対にヤクザの世界には入りたくないし、そして刑事になって潜入捜査もしたくない!」と心底震えながら思うのだけれどさて、友達の言ってた私にとっての「萌え要素」に関しては、うむー、どうなんだろう。
確かにソル・ギョングのコンビとなるイム・シワンは可愛いし、風貌も素敵だし、とてもいいのだけど、なんだろうなあ・・・。
『男たちの挽歌』でのチョウ・ユンファとレスリー・チャンとか。
そういえば香港映画や日本映画での男たちのバディものに腐女子の萌え要素は満載なんだけれど、韓国映画には同じようなバディもの、クライムサスペンスなどいっぱいあるのに萌え要素を私は感じないのは何故かな。
「君の名前で僕を呼んで」
『君の名前で僕を呼んで』(Call Me by Your Name)
監督 ルカ・グァダニーノ
脚本 ジェームズ・アイヴォリー
出演者 エリオ/ティモシー・シャラメ、
オリヴァー アーミー・ハマー、
エリオの父 マイケル・スタールバーグ
予告編では、Sufjan Stevensによる“Mystery of Love”という曲にすっかりやらられてしまってました。これが流れるだけで何故か泣ける。
“Mystery of Love” by Sufjan Stevens from the Call Me By Your Name Soundtrack
以下ネタバレあり。観る予定の方は観ないほうがヨイです。
17歳のエリオと24歳の大学院生のオリヴァー。
観ながら、この映画の中の彼らを見つめながら、正直言っちゃうと「あー、ほんとに若いってことは性欲に振り回されるってことだよなー」なんつーことをも思ってたのは、まさに私が年を取った証拠。昔はそんなこと思いもしなかった。登場人物と一緒に触れそうな距離にドキドキしたり、ゾクっとしたり。でも大変残念なことにこの年になるとそういう感覚から距離が出来て、エリオもオリヴァーも彼らを慕う女の子たちも自分の中の性欲でいっぱいいっぱいになっていることを「あー・・・」みたいな感じで眺めていた。
勿論、映画はとても良くって、エリオの恋の始まり、どうしていいかわからない戸惑い、不安、初めてのキス・・・、などを一緒にドキドキして観ていたんだけど。そして最後の別れも・・・。
でも、今の私に一番響いたのは、エリオの父のセリフだった。
エリオが同じ男性であるオリヴァーに恋をしたのは、エリオの母も父も気付いていた。さらに、エリオのためにひと夏の思い出、もうすぐエリオたちの前から去るオリヴァーとのふたりだけの時間を作ったのも彼らの父母だった。
当事の多くの親たちは許されない同性への愛(映画の時代は80年代。かつては同性愛は犯罪とみなされていたし、犯罪ではなくなっても精神異常者とみなされる風潮があった)に対し大きな反発を見せただろう。しかしエリオの父は「私たちはそのような親ではない」と言う。そしてエリオの父の長いワンカットでの長セリフ。これがほんとうに良かった。
エリオを聡明だと言う。オリヴァーのことも聡明だ、そしてふたりとも善良だと最初に言う。聡明で善良だから二人の恋愛を一時の過ちとして封印しろと言うのかなあと思っていたら、そうではなかった。
エリオに、この恋の痛みを忘れようとしなくていいと言う。いくらでも泣いていいと言う。恋する気持ちを抑えたり忘れようとすることで心はどんどんとすりへっていく。しかしそれでは生きていくうちに体も心もすりへってしまう。感情を抑え込まず、恋も痛みも悲しみも感じることが生きていくことの喜びだ、と彼に静かに伝える。そして、恐れずに彼との友情を、友情以上の関係を結べたその経験は素晴らしいことだと肯定するのだ。何故なら・・・エリオの父はそう出来なかったから・・・。
夏の日のオリヴァーとエリオの別れに、その悲しみを包むエリオの父の言葉に、そしてその冬のオリヴァーとの本当の別れの悲しみに、すごく打たれた映画だった。
それにしても。
はああああー・・・。
エリオを見ながら「性欲ってやつは・・・」と思った私はかなり心が磨り減っていたよ・・。
『レディ・プレイヤー1』の世界
私がスピルバーグの作品をほぼ観たことがないというと、友達はみんなああなるほどねなんかそんな感じすると言う。しかし話してる内に、え『ジョーズ』も?『インディ・ジョーンズ』も?それテレビで観てない?とか、『未知との遭遇』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も観てないだなんてそんなのアリか?という感じになってくる。なんていうか昔の私は大作映画をまったく観ようと思ってなかったんだ。
スピルバーグで観たのは2011年の「戦火の馬」のみ。そんなわけで「レディ・プレイヤー1」にもまったく興味がなかったんだ。でも予告編を観て、あれ、これ好きなヤツじゃないか?って思った。
映画『レディ・プレイヤー1』日本限定!本編冒頭映像(オアシス編)【HD】2018年4月20日(金)公開
それで映画観に行って思ったんだ。私はこういう世界設定に結構グッとくるんだってこと。
私が子供の頃にドラマや映画に出てくる「未来」。アイテムは空飛ぶ車、テレビ電話、どこかにあってなんでも管理してる巨大コンピューター、なんでもやってしまうロボット、人が着てるのはなんかキラキラした全身スーツ・・・。そしてどこまでもハイテク化した世界の脅威は、終極的な核戦争後の世界だったり、AIが発達して人間に近くなったロボットの氾濫だったり、未知のウイルスや大規模災害や宇宙人襲来だったり。
21世紀は、未来でSFだった。そして今生きてる2018年も未来でSFだったのに現在になってしまった。かつて描かれていた「未来」に追いついてしまったときにひとつひとつ答えあわせをしていくと、随分思い描いてたものと違ってることに気付く。
『インターステラー』で地球滅亡の脅威となったのは異常気象だった。『コングレス未来学会議』で描かれていた世界も貧困によるディストピアだ。
戦争でもウイルスでもなく、私たちが子供の頃に想像していた右肩上がりの豊かさでもなく、経済の下落によるディストピア。未来が今よりも貧しくなっているなんて・・・。それは80年代を生きてきた日本人の私にとっては正直言って本当に驚くような未来なんだ。
殆どの人間がスラム街で生活をしている『レディ・プレイヤー1』の世界。この設定は私の琴線にとても触れるものだった。
そして映画は・・・・、
もうむっちゃ面白かった!!
いろいろ、避けた!!(車とか、斧とか!)
観てよかった!!
最後、泣いちゃった!!
細部までにいろいろ感情を揺さぶられる作りになってるエモーショナルな作品でした♥
「リズと青い鳥」
多くのアニメ作品の中の少女たちは、「わたしたち」ではありませんでした。
「わたしたち」は、あんなに可愛くはなかったし、可憐ではなかったし、キラキラでもなくキャピキャピでもなく、けれども自分を特別だと思ってて、けれど突然そう思えなくて絶望して、自分は結構いいひとだと思ってたのにやっぱりいやなやつだよなって思えたり、そういう、そういう、なんていうか決して映画やドラマの中には出てこないもっと――――――、普通のおんなのこ。
でも「リズと青い鳥」の女の子たちは、まさにそういう普通のわたしたちが描かれている作品でした。
なんか、すごくないですか?この絵。
すごくリアルに描かれた教室の机と椅子と床と譜面台。
その背景のリアルさとは質感の違う、陰影や肉体の比率は省略されたりデフォルメされた絵で描かれた、楽器を奏でる細身の女の子ふたり。
そして窓の向こうは、またその少女たちの絵とはタッチの違う、色彩鮮やかで、ちょっと昔のアニメを思わせるような絵。
「ずっとずっと、一緒だと思っていた。」というコピー。
観る前からなにごとかの不穏さは感じていたけれども、観終わってからこの絵を観ているだけで何故だか涙が出てきて困る。
机と椅子だけのこの静謐な場所は、彼女たちの心を守る場所でもあり、育てる場所でもある、でも閉じられた鳥かごだったのか。ここにいる彼女たち。そしていつかここを出て行く彼女たち。その時間を思い、私はなんだか泣けてくる。
(もしもこれから観るのならば出来れば何も、予告編も何も観ず、もちろんこれも読まずに観てほしい。)
鎧塚みぞれが、学校の校門の近くで座って待っている。
同じ高校3年生、吹奏楽部フルート奏者の希美が来るのを待っている。
希美がやってくる足音に耳を澄ませている。
みぞれは希美の後ろを歩く。希美の揺れる髪や彼女が下駄箱から取り出してぞんざいに床に落とした上履きや脱いだ靴や先に階段を登る足をずっと見ている。
この時の音が、ピアノの音がぽつり、ぽつりと零れるように響くのだが、まるで言語化されずに想いだけがあるみぞれの心情のようだ。
みぞれは希美のことが好きなんだなとわかる。その目線の先にあるものは女の子ならではのフェチだ。女の子は誰かを好きになるとこんな風にその人を探し、こんな風に静かに見つめている。それを丁寧に描いていて、すごくいいと思うのと同時に少し苦しい気持ちになる。みぞれの思いにつらい予感がする・・・。
この映画を観にきた人たちの多くが「響け!ユーフォニアム」2期を観ているだろう。だから「みぞれと希美」というだけで不穏な何かを感じてこのスクリーンの前に臨んでいたのではないだろうか。
テレビ版「響け!ユーフォニアム」2期の前半でみぞれと希美は登場した。物語の主人公は北宇治高校吹奏楽部1年ユーフォニアム奏者・黄前久美子。初めての夏合宿で久美子は2年・3年の先輩たちに翻弄されることになる。かつて退部したフルートの希美が復帰したいとやってきた。それに反対する副部長のあすか先輩たちや激しい拒否反応を示すオーボエ奏者のみぞれらに久美子は振り回されるのだ。
ちなみにこの時のみぞれは2年生。中学時代、自分を吹部に誘ってくれた希美が唯一の友達だった。しかし希美は1年生のときに部内のゴタゴタに嫌気がさし、みぞれに黙って退部し、みぞれはそのことで激しいトラウマを抱えることになったのだ。希美の登場でみぞれは心を乱し、演奏にも集中できなくなっていく。しかしこの合宿で間に入ることになった久美子の奮闘により、みぞれと希美は和解をしたのだ。それはもう「ヨカッタヨカッタ」となるべきところだが、そこに不穏な余韻を残していったのが、2期後半のメインになっていく「あすか先輩」だった。彼女は久美子に対してだけ微妙な反応を残すのだ。そこに描かれていたみぞれは「繊細・臆病・孤独」という閉じた女の子だったが、その彼女を評して「ずるいわね」とあすかは呟くのだ。
そういったことがあるから、明るい表情で前を歩いていく希美と彼女を熱い目で見つめ続けるみぞれなんて不穏な予感しかなかったのだ。
彼女たちは高校3年生。その年の吹部のコンクール自由曲は「リズと青い鳥」。その作品の中ではオーボエとフルートの掛け合いがあった。希美は「まるで私たちみたい」と言って「リズと青い鳥」の絵本をみぞれに渡す。ひとりぼっちで暮らすリズの友達は森の動物、そして青い鳥。そんなリズをずっと見ていた青い鳥は少女の姿になってリズの元にやってくる。明るくて奔放な少女と一緒に暮らしはじめたリズは世界の色が一新し、生活が楽しくなる。しかしある日、少女は青い鳥の化身だと知ってしまう。鳥は冬になったら暖かい地へ渡らないといけない。リズはまたひとりぼっちになってしまうことを悲しみながらも少女と別れる決心をするという物語。
みぞれは、希美と離れることを恐れている。だから「私は青い鳥を逃がしたりできない。閉じ込めておく」と思う。希美は「ハッピーエンドがいいよね。青い鳥もまた帰ってきたらいいんだし」と思っている。ふたりとも、リズがみぞれで、青い鳥は希美だと思っている。
コンクール曲「リズと青い鳥」。オーボエとフルートの合奏の息が合わない。それはみぞれの解釈のせいか。フルートの先輩として後輩に慕われる希美を見ていてまたひとりぼっちになるのではという不安。更に彼女は自分自身のことが決定できない。自分が何をしたいのかわからない。希美が吹奏楽部に誘ってくれたから自分はここにいる。音大を勧められたけどそこを目指すのかどうかも決定できない。でも希美が同じ音大に行くというなら私も行くと言う。そんな彼女のことを1年前、あすかは「ずるいなあ」と感じていたけれど、みぞれは自分がずるいだなんてきっと思ってはいない。後輩のトランペット奏者 高坂麗奈は「先輩の本気の音が聞きたいんです!」とみぞれにつめよるが、「自分の本気の音」がまだみぞれ自身に聞こえていない。
そんなみぞれに、木管指導者の新山は言う。
あなたが青い鳥の気持ちになって考えてみては、と。
孤独で、青い鳥を手放したくない思って震えている女の子ではなく、愛情を持ちながらも外へ羽ばたっていく一羽の青い鳥を思い描いてみてはどう、と。
音楽室に入ったみぞれ。みなそれぞれの楽器を構えている。みぞれは「リズと青い鳥」第3楽章。そこを通してください、と言う。静かに歌いだすみぞれのオーボエ。それはやっと生き生きと、自由に、空へ飛び立っていくようで、そこに後ろから希美のフルートが美しく絡みあっていった。
そして、そこで希美は、きっとみぞれ以上に決定的に知った。羽ばたっていく青い鳥がみぞれだったのだと。残されたのは自分のほうだと。希美のあの涙は、演奏中の涙はなんだったのか。他の部員はみぞれの演奏に感極まったのだろう。しかし希美はそれだけではない。自分とみぞれとの力量の違いに気付いてしまったからではないのか。
希美は、ずっと無意識だけどみぞれのことを見くびっていた。
私がひとりぼっちでいるちょっと風変わりなみぞれに声をかけてあげた。中学の吹奏楽部では私は部長だった。私はフルートが好きだし、そしてその才能だってある。勿論、みぞれのオーボエもうまい。けれど私たち、それほど違いはないんじゃないかな、と。しかし、今の時点で、彼女の力量はみぞれの演奏をなんとか支えるのが精一杯のところまでだと気付く。愕然とした彼女も実は自分が何をしたいかなんてわかっていなかったのだ。いくら後輩に慕われていようともみぞれについてこられるような自分もないし、そしてここから先もみぞれと共に歩いていこうという気持ちもない。
みぞれはずるい。自分で何も決定をせず、ずっと好きだといいながら私の後ろについてこようとするみぞれはずるい。
希美はかつて吹部をやめたときと同様、再びみぞれの前を歩くことをやめようとする。
才能を前にした少女たちにとっての現実の残酷さ。
「大好きハグして」って言われて拒否されて、つきだした手が空に残る。
少女たちはいつも必死で、恋をしていて、みじめで、自分のずるさに気がつかなくて、そして何かを知っていくことはとても残酷で、そして世界だと思ってたものが3年間という時を過ごす鳥かごであったこととか、
あのときの儚さ。あのときの残酷さ。
そういったことがただただ丁寧に描かれている作品だと私は感じました。
それが、この映画を観ててあんなに泣けてしまうポイントなのかな。
「リズと青い鳥」第3楽章を演奏するシーンでは、私はもうなんだか泣けて泣けて。私は結構こっそり静かに泣くことを得意としてるんだけど、この時ばかりは演奏が終わった途端にもう嗚咽がもれそうになるほど泣いてしまいました。曲の美しさ、みぞれのやっと自由になってひとりで飛び立つことを決めた表情、演奏に感極まる部員たち、そして自分の力量に気付いた希美の悔しさ。それらが誰のモノローグもなくただ音の中で見事に表現されていたと思います。
「響け!ユーフォニアム」2期の最後、卒業式でのあすか先輩は、泣く後輩たちに「また来るから!」と言ったけれど、私はあすかはもう来ないと思いました。彼女は大学生になってもいつまでも先輩面して高校の部活に顔を出す、そのような人ではないからです。
そして、この「リズと青い鳥」で希美はハッピーエンドという言葉を口にするし、みぞれと希美も再び仲良くなったようだけど、彼女たちの人生はエンドどころかまだこの先は遠く、大学に入ったみぞれは真に旅立っていくんだろうなあと予感します。もう希美についていくだけの生き方はやめて。そのとき、かつてあった大切な「好き」は時の中にゆるやかに溶けていってしまうかもしれない。
そこは「高校」という特別なかごの中だから。
かつて普通の高校生の女の子だった人たちに観てもらいたいと思った映画です。
私は『聖なる鹿殺し』という映画が好きかどうかはわからないが
『聖なる鹿殺し』
- 2017年/イギリス、アイルランド、アメリカ/121分/PG12
- 監督:ヨルゴス・ランティモス
- 脚本:ヨルゴス・ランティモス/エフティミス・フィリップ
- 出演:コリン・ファレル/ニコール・キッドマン/バリー・コーガン/ラフィー・キャシディ/サニー・スリッチ
映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編
この予告観たら「絶対に観ねば。胸糞悪い映画であろうとも」と思った。
前作の『ロブスター』、アイデアは秀逸だし展開に驚かされるし、そして男と女が結婚をして女が子を産み次世代へ種を繋いでいく生命としてのシステムが崩壊しかかっている今に対するブラックな示唆に、観終わったあと言葉を失くした。
そして『聖なる鹿殺し』。
観終わった最初の感想は「ああ!とんでもなく胸糞悪い映画だったわ!」だった。悪口じゃない。
自分にとって大切な人が無惨に殺されてしまったら。私に子はいないけれど、もしもいて、その子供を殺されてしまったとしたら。現実に起こる様々な事件のニュースを知るたび、「私ならどうするだろう?」と思う。
司法での裁きに納得できるか。
私は復讐のためその相手を殺そうと思うのか。
悲しみや苦しみはいつか癒えるのか。
誰しもそういう「最悪の事態」について想像するのだろう。だからそういうドラマや映画がいっぱいあるんだろう。復讐の物語が。
しかし『聖なる鹿殺し』はそれらの物語とは一線を画していた。
何しろ、復讐者マーティンはあまりにも絶対的な力を持っている。策略や陰謀や暴力による復讐ではなく、彼は神のようにスティーブンとその一家に呪いをかける。スティーブンには後悔はあっても反省はない。彼は家族を守るために戦わない。子供を守るために自分を犠牲にしようともしない。そして呪われた彼らはみな、その運命を恐怖とともに受け入れる。
私はずっと冷たい汗をかき、どこまでも展開が読めずどこに着地するのか見えないこの物語を目にしながら、そうだ、大切な人を奪われるということはなんてクソな出来事だ、それはどんなに胸糞悪い出来事なんだ、と改めて思っていた。
最終的にはスティーブンの息子、幼い少年は生贄となった。復讐者マーティンの呪いは決着した、はずだった。しかしその後、スティーブンと妻、そしてその娘がマーティンを見るその目はあまりに冷たく、蔑むようで、敗者のそれではない。復讐を終えたマーティンは勝者ではないのか。そこでも私は衝撃を受けた。そうだ、復讐をしたってこの胸糞悪さは変わらないってことか!と。
他の多くの復讐の物語は、哀しみはいつか復讐の行為の中でのスリルに翻弄されていくし、それを終えたあとのカタルシスさえある。しかしこの『聖なる鹿殺し』には一切、その種のカタルシスはない。奪われた側のこの現実の胸糞悪さは永遠に続いていくといわんばかりの、すべてに呪いをかけるような圧倒的な作品だった。
私たちは潜在的に様々な鍵を心の中に持っている。男であるが故の、女であるが故の、さらには親と子に関する物語に何らかの縛りというか鍵を持っているように思う。それは、子は親を思うものだとか、母の子への愛は絶対だとか、子に対する性的な欲望は何よりのタブーだとか。しかしランティモス監督はそのひとつひとつの鍵をそっととりあげて、それを試すかのように奇妙な鍵穴を用意してそこから私たちにある世界を覗かせる。そうしてそれぞれの心に内在してるモラルを揺さぶっていくようだ。みんながそうだと信じている物語は、それは絶対に真実なのか、と。『ロブスター』も『聖なる鹿殺し』もそういう映画だったと思う。
この映画を、監督のヨルゴス・ランティモスを、好きかどうかが自分自身わからない。しかし次回の作品も多分見るだろうと思っている。
改めて、ウォン・カーウァイ映画について想う
『欲望の翼』がデジタル・リマスター版として甦った。
最初に「配給 ハーク」とある。
原題の『阿飛正傳』、そしてその下に『Days of Being Wild』の文字。
邦題である『欲望の翼』が画面から立ち上がる・・・。
ああきっとこのタイトルは最初にこの映画を配給したプレノンアッシュがつけたのだよな、とそれを眺めながら思う。正直言えばどの映画がどの会社による配給かということなど、多くの場合無頓着だったりする。でも、ある時代の香港映画ファンにとって「プレノンアッシュ」の存在はとても大きかった。プレノンアッシュがウォン・カーウァイ作品を日本で配給してくれた。さらに「シネシティ香港」という香港電影ショップ、そして香港映画やスターたちの旬な情報を届けてくれた「香港電影通信」というペーパーなどで、香港映画ファンはどんどん熱く育てられていった。そういう特別な会社だったのだ、プレノンアッシュは。
今回のデジタルリマスター版にはプレノンアッシュの名前はどこにもない。しかし、その会社がつけた『欲望の翼』という邦題は引き継がれていくのだなあと、そんなことを最初に想いながら、同時に私の香港映画とともにあった熱い1990年代後半の日々のことも心の中に甦っていった。
そして『欲望の翼』。暑く重い空気。たったひとりで店番しているサッカー場の小売店の女。ぶつかりあう空き瓶の音、そこにやってくる靴音もすごく響いてて、そこは滅多に人が訪れないような場所のようで、そこでなにか危険なことが始まってしまうような緊張感に満ちている。
この時代の多くの香港を舞台にした映画は人が多くてどこか猥雑な「香港」を描写しているが、この映画の中の場所には人はとても少なく、彼らの孤独を象徴している。
さらにカメラがまるで、誰かを見つめてはちょっと目をそらしてしまうような、心の揺らぎやとまどい、出ない答え、出さない言葉、そういうものを表しているかのようだ。
私はレスリーのファンだけどこの映画のヨディに感情移入する部分はないし、同様に他の女たちにも感情移入して見ることはない。何が好きかといえば、ウォン・カーウァイ監督が描く「一回性」についてなのだと思っている。
ヨディは一瞬で恋をする。しかし一瞬しか恋をしない。
そしてその他の登場人物は、たった一回だけの出会いで一瞬で恋をして、ただそれだけをずっと心に秘め続けて生きる。鳴らない電話を待つ。またはたった一度だけ電話をしてみる。たった一回が永遠になる、ウォン・カーウァイの作品に描かれているそれが、私にとってたまらなく胸を焦がすのだ。
すべてはもう二度と出会うこともない、かつて愛したもの。
その一瞬の思いだけを抱えてその後の人生を生きていく、長い長い孤独の時間。どの登場人物も涙はとうに乾いてて、したたかで、生きていく糧を得るために生活していて、あたりまえに孤独だ。その姿に私はなぜか心が震えるんだ。
亡くなった大杉蓮さんと『バイプレイヤーズ』と大林宣彦監督の映画と。
『anone』と被ってるのでTVERで観てる『バイプレイヤーズ』はまだ今週分の第4話を観ていないんだけど、大杉蓮さんが亡くなった今、実名での作品『バイプレイヤーズ』が本当に複雑な様相を呈してきたよ。
亡くなった大杉蓮さんとこのドラマの関係はまるで大林監督『北京的西瓜』みたいだと思った。
『北京的西瓜』ではベンガル演じる八百屋のおとうさんが中国人留学生たちに出会い、彼らをささやかながらも支援することで「日本のおとうさん」と呼ばれ愛されたという実話を基にした内容だったが、この映画の最後のクライマックスシーン、北京で撮影する予定だったのが、現実に起こった天安門事件により中国に渡航することが出来なかった。そのシーンで八百屋のおとうさんを演じていたベンガルが、役者ベンガルに戻り、スクリーンの向こう側から観客の私たちに向かって言う。
「映画は現実を越えることは出来なかったのです」と。
勿論その言葉はベンガルとしての言葉ではなく、監督・大林宣彦からの言葉である。
そしてそれは映画監督としての敗北の言葉ではないと私は思っている。
大林監督はずっと、叶わなかった恋について描いている。この『北京的西瓜』では、現実ではそこにあった北京行きが映画では叶わなかった、そのことがまさに叶わなかった恋だと描写しているようだった。叶わなかったからこそ、永遠に夢見続けるもの、それが大林監督にとっての恋であり、映画ではないかと。
ドラマ『バイプレイヤーズ』は、現実が作品を裏切っていった。それでもきっとこのドラマの結末は、それ自体が叶わぬひとつの恋のような形となって、永遠に胸に刻まれていくのだろう。それを見届けたい、と思っている。
2017年私のベスト映画
2017年に観た映画でベスト10などを友達と話し合ったりするシーズンです。
私は今年の映画〆は12月18日に観た『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』でしたよ。
さてベスト10.どういう観点で決めるのか、ということについても友達と良く話します。私の場合は、自分にとっていとおしい映画だったかどうか。あとはそこにワンダーがあったかどうか、ですね。
まずは、これはベスト10に入れてもおかしくないはずだけどもれてしまった5本。
ユーリー・ノルシュテイン特集 |
エヴォリューション |
人魚姫 |
傷物語 冷血篇 |
ネオン・デーモン |
PK |
虐殺器官 |
スノーデン |
たかが世界の終わり |
サバイバル・ファミリー |
ブラインド・マッサージ |
the NET |
牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 |
お嬢さん |
哭声 コクソン |
ホワイトバレット |
ひるね姫 |
3月のライオン 前編 |
ムーンライト |
夜は短し歩けよ乙女 |
お嬢さん |
3月のライオン 後編 |
イップマン継承 |
シネマ協奏曲 |
パーソナル・ショッパー |
まんが島 |
メッセージ |
夜明け告げるルーのうた |
美しい星 |
STOP |
光 |
エターナル・サンシャイン |
ヘリオス赤い諜報戦 |
夜明け告げるルーのうた |
22年目の告白 私が殺人犯です |
銀魂 |
打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか |
HOUSE |
さびしんぼう |
パターソン |
新感染 |
散歩する侵略者 |
三度目の殺人 |
奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール |
ユリゴコロ |
スイス・アーミーマン |
ユーリ!!!on ice2 |
ユーリ!!!on ice3 |
アウトレイジ最終章 |
ブレードランナー・ファイナルカット |
響け!ユーフォニアム |
婚約者の友人 |
斉木楠雄のψ難 |
ブレードランナー2049 |
グロリア |
ブレードランナー2049 |
予兆 |
シンクロナイゾド・モンスター |
廃市 |
時をかける少女 |
我は神なり |
パーティで女の子に話しかけるには |
リミット・オブ・スリーピング・ビューティ |
光 |
北京的西瓜 |
エンドレス・ポエトリー |
仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINALビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー |
スイス・アーミーマン
監督・脚本 ダニエルズ(ダニエル・シャイナート&ダニエル・クワン)
キャスト ポール・ダノ、ダニエル・ラドクリフ
この予告編を観れば、絶対に観たくなるよね!
私はそれまで何の情報もなく、その月の観たい映画リストにも入っていなかった。
しかしこの予告編を観てこれは間違いナシと判断。とは言え、それほど期待もしていなかったのだが。
・・・こんなにいい映画だったとは。
無人島に漂着したハンクは絶望のあまりそこで死のうと首を吊りかけたとき、海辺に流れ着いたひとりの男を発見。ただ残念なことにそれは死体だった。しかし、その死体から変な音が聞こえる。体に溜まった腐敗ガスが肛門から出ているようで、それはつまりおならであり、このギリギリの状況にはあまりに情けなく、そして尊厳を感じさせない。ところがその死体はおならの推進力で海中をすごいスピードで流れていく!ハンクはまるでイルカにでも乗るようにその死体に跨り、海を駆けていくのだった・・・。そして新たに漂着した島。そこからハンクは死体を担ぎ、死体と共に人のいる場所を探して歩いていく。ガスでパンパンのその死体は自力で動けないものの何故か喋り、ガスの力を使って様々な役に立つ、スーパーな死体だったのだ・・・。
さて、冒頭からおなら。その次にはうんこ。
男の子の大好きなものばっかりが出てくる。
いや、ホントはそれ、女の子だって大好きなんだよ。
そしてエロ本。いや別にそんなにエロくはない。水着を着た女性が挑発的な目でこちらを見てる、そんな写真が載ってる雑誌。
何の記憶もない無垢な死体、メニーは、それは何かと聞く。
子供にとっては宝物だった、とハンクは答える。これを高速道路のそばの草むらに探しに行ってたんだ、と。ところが母親は「そんなものを見ていたら目がつぶれる」と言った。父親もオナニーをすることを禁じた。ハンクはオナニーをしようとすると母親の顔が脳裏に浮かんでしまい、出来なくなってしまった。
そう、ハンクは抑圧された青年だったのだ。こんな状況でもメニーの前でおならもしない。一目惚れした女性にも声をかけることなく、そっと見ているだけ、そして盗撮した1枚の写真をスマホの待ち受けにして眺めるだけ。
そのハンクに、無垢な死体、メニーは言う。オナニーをして見せて。母親のことを考えたらいい。それとも自分が君の母親を想像して射精してもいいか。心を持たないメニーの問いかけにハンクの持っている抑圧が様々に炙り出されていく。
メニーは、ハンクに、片思いの女性の格好をしてみろという。馬鹿げたことをとハンクは言う。いや、きっとそれで僕は君にシンクロして故郷に帰りたいという思いが生まれ、そして君を故郷へ戻す力を得ることができるだろう、とメニーは言う。
ハンクは森の中にある木や蔓や廃棄物を使って、彼女とであったバスを再現し、カツラらしきものを作り、女性物の服をこしらえ、女の姿になり、彼が恋した女性を演じる。メニーはそれを見ながらハンクの心情に同調していく。
この辺りの森の中でのハンクとメニーのシーンはとても幸せなものとして描かれている。死体であるのに万能で、2人は最高のバディだ。ハンクはメニーに対して父親のことを語ったり、または片思いの女性に扮したりしながら、彼を縛っていた抑圧が少しずつほどけていくのだ。
2人はなんとか現実の世界、人のいる世界、しかもなんとハンクが片思いをしていた女性の家に辿り着く(!)無人島に漂着してしまった時以来、それはハンクが必死で戻ろうとしていた世界のはずだった。そこに着き、好きな女性に会い、父親の自分への思いも知る。しかしだ。そうやって戻ってきた世界はやはり、彼を抑圧する世界だったのだ。ハンクは死体と行動を共にする変質者であり、人前でおならをする無礼な人間であり、子供を持つ既婚者である女性を盗撮して待ち受けにするストーカーまがいの男であり、更には森の中で女装までしていた!そうやって現実世界は再び彼を糾弾しはじめる。
メニーと行動を共にするうちに感じるハンクの歓喜。そして無事現実の世界に戻れたことも喜びのはずだった。しかし彼を打ちのめす絶望。そこに私は映画を観ていて泣けて仕方がなかった。それでもこの映画は、様々なマイノリティを肯定する力を持っている。ハンクは最後にまた、死体でありながらおならの力で自由に海の向こうへと流れていくメニーの姿を目にするから。「死」というもっとも人の自由を奪うはずのもの、その抑圧さえ解いて自由に海の向こうへ行くメニーの姿は希望である。
「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」
監督 大根仁
キャスト
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』予告編
あかりはとにかく瑞々しく、可愛く。いつもながら最初の登場から大根監督の女優に対する愛情がたっぷりな映像。内容もまさに大根監督!いろいろ楽しめました。
(以下ネタバレあり)
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数日前、私の参加しているSNSにて、私が自分の年齢についてのことを書きました。40代も楽しかったけど50代も楽しいのよ。どうしてかっていうとね・・・みたいな話。そこに30代男性のコメントがつきました。「(自分は)心は10代、体は50代、年齢はギリギリ30代です」と。
そこで思ったんですよね。男性って結構「心は10代」とか「心の中は少年のまま」とかって言いますよね。昔だったら飲み会でそう言われたら「あーっ、私だって心の中はまだ少女なんですからぁ~!」とか言って「お前のどこが少女だー!」みたいな返しをされるのが定番ですよね。しかし本気で「でも私は心の中は10代なの」って言う女性、いるのかしら。いるとしたらそれはどんな意味で? そしてどうして男性は自分の心の中だけはずっと「10代」とか「少年」って言いたがるのかしら。男性にとっての10代や少年って、なに?
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「奥田民生になりたいボーイと出会った男すべて狂わせるガール」の最後を観て、ちょうどそう思ってたことを思い出しちゃったのです。
コーロキは一切のあと、意外なことに幸せな成功者になっています。
人が良くて、出会った人はみんな彼のことが好きになる、そして仕事のできる男に。更に最高の妻も得ています。間違いないでしょう、コーロキにとって彼女は最高のパートナーでしょう。
しかし、彼は昔と同様、安いそば屋に入ってそばを啜りながら、唐突に泣いてしまうのです。
そのそば屋で、若かったかつての自分を幻視するからです。目をキラキラと輝かせ、仕事に食らいつき、あかりを一途に想って時に身勝手に自爆して、誰からも賞賛されない、どこか野暮ったい、それでも恋という強い輝きを放つ季節の中にいたかつての自分を。
そしてね、そばを啜りながら泣くんですよ。去った彼女を想って泣いてるんじゃないんですよ。過ぎ去りし日の自分を想って泣いているんですよ。
私はね、このシーンが本当に大根監督だなあ、そして男性だなあって思うのです。
私は10代の心はあまり戻したくない。自意識過剰だったし、自由がなかったし。いろいろとしんどかった。過去の瞬間の中に素敵な他人と懐かしい自分はいるけれど、年を経ていくごとに増えるなにごとかもいとおしいし、なにより心が軽くなっていく気がする。昔の自分よりも今の自分のほうがいいと心から思う。だから、この映画のコーロキのように、あんなふうに泣くなんてないような気がするなあ。私たちが一人で泣く理由は、もっと違うような気がする。
そんなことを映画を観た人と話してみたい気持ちになった映画でした。
「散歩する侵略者」
「散歩する侵略者」
映画『散歩する侵略者』予告編 【HD】2017年9月9日(土)公開
キャスト
- 加瀬鳴海 - 長澤まさみ
- 加瀬真治 - 松田龍平
- 桜井 - 長谷川博己
- 天野 - 高杉真宙
- 立花あきら - 恒松祐里
- 明日美 - 前田敦子
- 丸尾 - 満島真之介
- 牧師 - 東出昌大
- 品川 - 笹野高史
何か書きたいと思うのだが文章にならない。
「この映画は○○である」「○○ということなのだ」みたいなことが書けない。
心の中に感想をまとめたい欲求だけはあるのだが形にならない。
ただ、断片だけがある。
映画を観ながら感じ続けた「○○がいいな」という断片が。
その断片を重ねてみよう。
あの赤い血糊がいいな。とてもねっとりしてて。最初のシーン、立花あきらとその家の中の床に広がる血糊が。
最初から怒ってばかりの妻、鳴海。鳴海の元から一時は去った夫・真ちゃんは過去、鳴海にどのような仕打ちをしたのかはリアルに語られない。ただ鳴海のセリフからは不倫だったことは匂わされるが。しかしその真ちゃんは今、宇宙人に肉体をのっとられ、鳴海の元に戻ってきた。2015年の黒沢監督「岸辺の旅」の夫婦の関係を思い出させる。失踪した夫が戻ってきて自分は既に死んでいるがこれから思い出の旅に出ようと言われ、妻はそれに従い二人彼岸を旅する物語だ。深津絵里が演じたその妻と浅野忠信演じた夫。確かその夫も妻以外の女と付き合っていたという設定だった。この「散歩する侵略者」と「岸辺の旅」のその部分が私の脳内で共鳴しあう。
あまりにも異様な夫・真ちゃんに対し、あくまでも妻の立ち位置でイライラし続け怒り続ける鳴海を演じる長澤まさみの硬質な質感。彼女の妹を演じる前田敦子の現代的で独特なやわらかさを感じる質感。その違いがいい。
惨殺された立花家を取材する桜井が、同じくあきらを探す青年、天野と出会う。天野の家に行くと、彼から様々な概念を抜き取られたかつての彼の父親と母親が。荒れた家の中。うつろな目をした天野の両親。この映画のまだ最初のほうに描かれるこの不気味な家に、黒沢監督の2016年の「クリーピー」を思い出し、またここで物語が共鳴し始める。「クリーピー」では薬を使用した洗脳と虐待。でもこの作品はそうではなかった。
無敵の格闘少女、立花あきらを演じる恒松祐理演じる蜘蛛のように相手を拘束する長い足。痛みを感じることのないけだるげな表情。とてもいい。
あきらと双璧をなす天野を演じる高杉真宙(鎧武の頃から思うと大きくなったナー)。最初の不気味な印象、何も映らない瞳を持った青年から、人の概念を奪っていくごとに何か深みが生まれてやわらかい存在になっていくその変化がとてもいい。
目が、髪型が、全体の立ち姿が不思議な異常さを醸し出す満島真之介。すごくいいアクセントになっていて、この人がこんなにいいと感じたのはこの映画が初めてだ。
最近はどんな作品に出ても、目と、そしてセリフ回しが不思議な異常さを醸し出す東出昌大は、やはり遺憾なく異常さに満ち満ちていて、答えのない問いを提示された気がする。
宇宙人の天野と立花あきらと行動を共にするジャーナリストの桜井。桜井がいつ彼らを裏切り人間側に立つのかを思いながらずっと観ていた。そういう私の割と素直な想像が次々と裏切られていく展開がいい。
「クリーピー」に続いてとても頼りがいがあって、ドキドキしながら見ている私のひとつの心の支えとなり、そしていきなりフェイドアウトしていく笹野高史のいい存在感。
ラストの桜井。演じる長谷川博己の最高の見せ場!一緒に観た友達と私とであのシーンの解釈は違っていた。友達は「宇宙へ通信するための時間稼ぎの行動ではないか」。私は「元々は社会派ジャーナリストであり、かつて戦場ジャーナリストへの憧れもあったのではないか。宇宙人に憑依された桜井のその過去の意志が純粋に形になった結果ではないか」。ところで私たちは桜井は天野の中の宇宙人を桜井が引き継いだという設定で話をしていたと思うのだが、実際にそこは省略されていてどうだったかは映画では明記していないのだな。
鳴海には妹がいて、父母もいて、仕事もあった。それでも自分を捨てた夫・真ちゃんの体を借りて地球を侵略しようとする宇宙人と共にいることだけを彼女は望む。彼女は家族も、彼女の知人も、見知らぬ70数億の人類も一切省みない。愛というのはなんなのか。この映画を観てその問いに答えられる人はいるのか。最後に私から愛の概念を奪えという、彼女の愛とはなんなのか。狭いのか。深いのか。身勝手と言われるものなのか。無償なのか。
そして最後の長澤まさみの表情。あっと思う。うまくは言えないが、彼女はこんなに素晴らしい女優なのか、という驚きを最後、余韻と共にもたらしてくれた。
去年の「クリーピー」「ダゲレオタイプの女」に続き、今年も「散歩する侵略者」という不思議で、言葉にならなくて、そして素晴らしい作品を作ってくれた黒沢清監督。観ることが出来てすごく幸せだ。
「溺れるナイフ」
監督・山戸結希
キャスト
望月夏芽 - 小松菜奈
長谷川航一朗(コウ) - 菅田将暉
松永カナ - 上白石萌音
「溺れるナイフ」が私にとってどうだったか、を言葉にするのは難しい。
瑣末なことしか言えない。
劇場は平日の午後なのに若い女の子たちがいっぱいで、いつも私が映画を観てる環境と全く違っていた。女の子たちは何人かで来ていて、映画の始まる前にあちこちで「『溺れるナイフ』を観に来たワタシと友達☆」みたいな写真を自撮りモードで撮っていた。そんな光景、初めて見た。今考えると、この映画は、はしゃぎながらそんな写真を撮りながら心の中では「くそっくだらない!」と力強く黒く思っている女の子のための映画なのかもしれない。
最初のシーン、ファーストカットの撮影されている小松菜奈ではなく、禁止されている海へ歩いていく小松菜奈、そして海の中に落ちた彼女のモノローグがタイトルと共に表れるシーンは、とてつもなく「山戸結希」印で一気に高揚して涙が出た。
小松菜奈。彼女はどうなんだろう。特別な女の子、夏芽。
映画を観ながら幾つかの小松菜奈を同時に思い出していた。
「渇き。」の小松菜奈は圧倒的だった。その毒々しさ、美しさが。
「バクマン。」の小松菜奈の可憐さ。手の届かない遠いところにいる女の子。どちらもその映画のアイコンになりうる美しさだったり可憐さだったり毒だったりして、どちらも監督の彼女を撮る気迫を映画の中に感じた。
「溺れるナイフ」には、私にはそういう小松菜奈があまり感じられなかった。この子は本当に綺麗な子なの?誰よりも特別な子なの?今ひとつそこがわからなかった。ただ、禁じられた海へと歩く姿、森の中での撮影中、コウに出会って走り出すところ、港でコウを追って走る姿・・などなど、風景の中でその全身が映る絵の中で私は彼女を魅力的に感じていた。可憐な洋服が濡れたり汚れたりすることを全く厭わず海に落ち、セーラー服が汚れることも構わず川の中に身を落とし、撮影用の衣装が泥まみれになっても平気でやわらかい黒い土の上に身を委ねる。
山戸監督が描き出す少女の美しさは、他の監督が描いたヴィジュアルとしての美ではなく、少女の精神性だったと思う。
私は夏芽の言う「海も山もコウちゃんのものだ!私もコウちゃんのものなんだー!!」というセリフが割りと冷えた。この映画を観ててああすごくいいなと思いつつ、こういうセリフでとても冷めた。冷めつつ、ずっと考えていた。
コウちゃんのもの、というセリフと、着ている服が汚れることを厭わないところが、似ている。自分の身などさっさと捨ててしまえる、というところが少女なのか。
しかし彼女は自分をレイプしようとした男に対し、「殺して!」という。私を殺して、ではない。そいつを殺して、である。彼女は何なら捨ててもよく、そして何を捨ててはいけないのか。少女のルールとは。少女の尊厳とは。今、そういうことをなんとなく考えている。
存在としての小松菜奈の美しさがわからない、と書いたが、存在としての菅田将暉は本当に美しかった。最初の登場から、後半の火祭りで踊る菅田将暉の美しさは圧巻だった。そしてこれまでの尊厳を失ったことに泣く姿の痛ましさも。彼は十分に特別だったが、正直言えば「コウ」という少年の生き様をもっともっと映画の中で感じたかった。
この映画をはみ出して存在感を見せ付けた重岡大毅くんとか、中学と高校で劇的な変化を演じた上白石萌音とか、最高の布陣ではあったが、とにかくこの映画に関しては夏芽とコウについて思わなくてはいけない。少女とは。少年とは。そして特別とはなにかとは。
そして、いいとか悪いとか、そういう評価ではなく、そこにあった一瞬のきらめきと痛みの風景を心の中にとどめておきたい、と思う映画だった。
「永い言い訳」
西川美和監督は、その作品が上映されれば必ず行こうと思っている監督の1人です。映画の中に「ああ、なんか意地悪な目線だな」と感じる部分が幾つかあるところが好きです。気持ちを殺しながらも目の端で何かを見て、そこに起こっていることをちょっと意地悪な気持ちで哂っているような部分がとても女性っぽい感覚に思えて好きです。
モックンは(あ、今の若い人たちもモックンって呼ぶのかな、私は彼を「本木雅弘」と呼んだことがないのだけど)昔からどうにも苦手でした。彼はものすごく顔がきれいなんだそうです。でも私は美醜やバランスに関する感覚が磨かれてないため、実はモックンの顔を見てもきれいなのかどうかよくわからないのです。ただ、正直言うと陰湿ないやらしさをデビュー当時から感じてて好きではないのです。
しかし西川美和監督「永い言い訳」の予告編で見たモックンは、声も芝居もとてもよくて初めて積極的に彼の芝居を見てみたいと思っていました。
「永い言い訳」を観にいった今日。私も武田も体調はとても悪い日でした。ほぼ寝てない状況でバリから帰ってすぐに店の準備をし、そして金土日と店を開けた私たちはまず最初に武田が、それが伝染って私も風邪を引いていました。武田は咳から来る頭痛が酷く、耳も聞こえにくく、私の言うことが聞き取れずに何度か聞き返しては私に突っかかって怒ります。例えば私が家で武田の仕事着を漂白しながら「結局、この安い漂白剤が一番きれいになるなー」と独り言のようにして言ってたら武田が「何?」と聞き返すので私が「あんたの仕事着を私はいつもこうやって漂白してるんだよ」と答えました。確かに私の中に少々恩を着せるような気持ちはあったものの、ただ『今やってることの説明』のつもりでそう言ったのでした。しかし今日の武田は仕事着を汚すことを私が非難していると捉えたのでしょう、「そんな事、言わんで!」と頭を押さえていいました。「え、別に何も言ってないじゃん」と言うと「だからもう頭が痛いからそうやって人を責めるようなこと言わんで!」と言います。これ以上繰り返してもしょうがないので、私は「そうではない」という説明をするのもやめて黙りました。
また、何かのときに「あんたはわしの頭が痛いことなんてどうだっていいんでしょう!」と私に言いました。そんなことはあるはずはないし、いつだって、どうしたらいいのか検索して調べたり心配しているのですよ。
しかし、では私が献身的な人間かというと全くそうではなく、自他共に認める自分勝手な人間です。武田が具合が悪いと私も困るので心配するのですし、心の中では心配が殆どとはいえ『早く治ってくれないと困るなー(店も私も)』という気持ちが入っていることは否めません。
体調が悪いときは、お互いに思うことがちっとも相手に伝わらないし、無闇にイライラしてしまいます。
「え、なんで?具合悪いんでしょう?もう帰るようちに」
「いいよ、映画観にいきたいんでしょうー。行くよ映画に」
「別に無理せんでもいいよ」
「いや、大丈夫」
夜、そんな会話ののちに、上映開始にギリギリ間に合うか合わないかぐらいの時間に「永い言い訳」を見るために、車を飛ばし気味に走らせました。武田も頭痛でボーッとした顔に緩慢な動きで、私も髪はボサボサのまま、度の合わない眼鏡をかけ、ノーメイクで。耳が聞こえにくいという武田に私はなるべく大きめの声で話しかけます。そうだ、時折みかける私の嫌いなあの夫婦(らしき人)、だらしない風貌の2人で、いつも甲高い大声で喚き散らす女と鈍い表情をした男、今の私たちはあの2人とそう大差ないのではないか。急にそう感じてじんわりと嫌悪感が広がります。
そんな今日の私たちが観た「永い言い訳」の最初のシーンでは、緩慢なる不穏の中にいるモックンと深津絵里演じる夫婦がそこにいました。モックンが演じる作家、幸夫は妻の言葉ひとつひとつに執念深く食ってかかります。多分、そこには愛があるのだろうと思える手つきで幸夫の散髪をしている妻、夏子。リビングにあるテレビにはクイズ番組に出演している幸夫が映っています。幸夫は、こんなクイズ番組に出て鵺について説明している僕を馬鹿にしているだろう?と妻に問います。どうして、そんなことないわよ、だって私、鵺なんて知らなかったもの、と夏子は答えます。夫をずっと「幸夫クン」と呼ぶ妻に人前でその本名をで呼ぶな、君は僕を貶めたいのか、と更に言い募ります。どんなにそうではないということを穏やかに答えても幸夫はそれを突き放します。これからバス旅行に出かける妻。幸夫はこれから自分が出かけるパーティの服を妻が用意してくれたかどうかだけを心配していて、妻がどんな服で、どこに出かけていったのか知ろうともしていませんでした。
その幸夫はまるで今日の武田のようで、同時に自分勝手な生き方を貫こうとするところは私のようで、とても痛い気持ちになりながらもこの映画はこんな日の武田と観るのにとてもふさわしい映画だ・・・とも思っていたのでした。
その幸夫が失ったものはなんだったのか。彼は妻の死と共に何かを失ったというよりは、自分が手にしていると思っていたものがもうずっと前からどうやら何も無かったようだ・・・と知っていく映画でした。中盤の、一見とても幸せそうな世界。しかしそこも彼にとっての仮住まいの場所だという現実を突きつけられます。もしかしたら多くの男性監督は子供たちのふれあいの中で暖かい愛のようなものを得ていく主人公の姿を描いていくのではないかと思うのですが、西川美和監督はあまりにシビアです。どこかに「そんな良いとこどりみたいな子供とのふれあいw」という冷笑的な視線があるように思ってしまうのです。子育ては重く長く、彼はそこでは家族にはなれず彼らの真の友達になることも出来ず、去らざるをえないのです。最後、みんなで一緒に楽しく帰ってくるかと思いきや、幸夫だけがひとり、電車で帰ってくるシーンにもそれが表れていると思いました。
さて、幸夫がその後書いた「永い言い訳」という小説。あれは一体、どんな内容なのだろうなあ。限りなく本当に近い私小説なのかそうではないのか。その小説の中の主人公は、誰に言い訳をしているのだろうか。
私は、これは幸夫がやっと最後にせいせいと孤独を受け入れることが出来た、という映画だと思うのです。ということは彼が彼自身に「自分は孤独ではない」という永いいい訳をしていた、ということでしょうか。人生はいろんなもので紛らわして生きています。妻とか愛人とか仕事とか人とのふれあいとか様々な気付きとかいろんなもので満ちていてなかなか孤独に気がつけません。でも何かの拍子に見つけ、やっと受け入れた孤独は、ただただ静かでそしてかすかに微笑んでいるような感じ・・・、そんな印象の映画でした。
それにしても、妻、夏子が図らずとも残した2行の言葉。
こわいよね・・・。
あんなに優しくて明るくて穏やかで辛抱強くて、たくさんの人から愛されていたと思われる夏子の思いがけない言葉が、幸夫にも、観ている私にも突き刺さってきます。容赦ないあのシーンも、西川美和監督だなと思うとても好きなところです。
ミシェル・ゴンドリー監督「グッバイ、サマー」
先日、友達が「この間の夏、トレイラーハウスに泊まったんだよ。冷暖房完備で中にキッチンもあって、でもトレイラーなんだよ。すっごくテンションがアガった!!」と言ってました。
「トレイラーハウス? 動くの?」
「動かないよー。ちゃんと固定されてる!」
なんでだろう、それは決して動かないのに、「家が車」ってことに興奮してしまうのって。
友達からその話を聞きながら、ちょうど前の日に私が観たばかりの、車輪の付いた家で旅をする男の子2人の映画のことを考えていました。
ミシェル・ゴンドリー監督の自伝的映画だそうです、「グッバイ、サマー」。
チビで女の子のような容姿のダニエルは転校してきたテオと仲良くなります。テオからはガソリンの匂いがするので周囲の男の子はテオを「ガソリン」と呼び、馬鹿にしています。テオの母親は太っているけど病弱で、父親は廃品回収の仕事をしていて、そして彼らの家庭はあまり裕福ではないようです。
テオは廃物からいろんなメカを作るのが好きな男の子。
そしてダニエルは絵を描くのが好きな男の子。
2人は廃物から小さな車を作ります。それはまるで小さな家に車輪が付いたような車です。
14歳の夏。彼ら2人はそれぞれの親に内緒でその車で旅に出ます。
2人だけの動く小さな家。
それを見ながら、私も14歳のときに自分だけの小さな家を持っていたことを思い出していました。勿論そこには車輪はついていないし動くこともありません。子供の頃私が住んでいたところは田舎だったせいで敷地が広く、祖父母の家、叔父夫婦の家、私の父母の家と3世帯の家が敷地内にありました。父母はその庭に6畳ほどのプレハブの部屋を建てました。父母が経営するスナックで働く女の子の住み込み用の部屋として作ったのですが、ある時から私の部屋になったのです。
母屋にはテレビや食事をするキッチンテーブル、リビングなどで構成される家族の営みがあります。しかし中学生の私だけがそこから切り離された、という小さな孤独感は私をうっとりさせました。真夜中過ぎに部屋を出て、その時間の星が見たことないほど瞬いていることを知ったのもその部屋に変わってからです。そこにいると私は家族の誰とも繋がっていなくて、ただ夜空の星々と自分だけがまっすぐ線で結ばれているような気がしていました。
私はその部屋にいるだけで幸せでした。ささやかな孤独を堪能してました。けれどダニエルやテオのようにその家に車輪を付けてどこかへ行ってしまおうとは思っていませんでした。何故ならあの頃の私は、「動く家」を作ってどこかへ行ってしまったら、きっともう帰るところを失ってしまうからです。あの頃私の一番身近にあった家族は血縁ではなく「私を育ててくれている人たち」でした。私がそこに背を向けて家を出てしまったらどこにも帰り着く先は無いのだと、ずっと子供の頃から思っていました。
ダニエルやテオは、ちゃんと帰れる場所があるから、心の中でそれを無条件に信じているから、家出が出来ちゃうのだなあ。
ところが旅とは残酷なもので、いつでも変わらず帰れる場所だと信じていた彼らの家は、行った時とは違っていることを14歳の少年たちは知ることになるのです。あれほど楽しかった旅から帰るとテオの母親は他界していて、父親は家を出たテオを責め、そして家から出て行けと言うのです。それによってダニエルも唯一の友達、テオを失うのです。
そんなひと夏を過ごした彼らは、少年時代を終え、大人の世界に一歩近づいたのか。
そこで私は、大島弓子の1988年の作品を思い出しました。
「夏の夜の獏」です。
- 作者: 大島弓子
- 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
- 発売日: 1995/02
- メディア: コミック
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「ぼくは8歳だが
このあいだ精神年齢のみ
異常発達をとげて成人してしまったこの話はぼくの目から見た
精神年齢の世界である」
というモノローグから始まります。
父親も母親も学校の先生も家出をしたお兄ちゃんも同級生も、すべて子供として描かれ、痴呆のおじいちゃんに至っては赤ちゃんの姿で描かれています。
走次の精神世界は豊かで、聡明で思慮深く、客観性を持ち、何が恥で何が大切かを知っています。
両親の不和が幼い走次を大人にしたのですが、結局、両親は離婚を決め、家族の住んでいた家は売却され、走次は父親とその恋人、母親とその恋人、どちらの家庭にも歓迎されています。そういった事実を受けいれようとしていたのですが、ある日学校から家に帰ろうとして、間違えてそれまで住んでいた家の玄関まで来てしまうのです。走次は瞬時に、これまでそうやって帰ってきた彼を迎えてくれた父や母、お兄ちゃんにおじいちゃん、大好きだったヘルパーの女性のあたたかい「おかえり」の声を思い出してしまいます。
走次は走り出します。泣きそうになります。
泣くんじゃない、泣いたら子供だぞ、声を出して泣くのは子供だけだぞ、
そう思うのですが、結局は声を上げて泣いてしまいます。泣いて、走次の姿は8歳の少年の姿になるのです。
「グッバイ、サマー」のダニエルとテオは、いつも子供のようにはしゃいでましたが、きっと彼らは大人でした。タバコや酒が人を大人にするのではなく、精神性だと彼らは思っていたように感じます。その彼らの精神を理解し得ない父親も母親もパンク野郎のお兄ちゃんもみんな「子供」のようでした。
しかし夏の自由な冒険を終えて帰還した彼らは、子供であるがゆえの無力さを知り、そこで「大人」から「子供」に戻るのです。
母の死を、出て行けという父親の宣告を、思い通りにならないクラス替えを、今の彼らの力では何一つ覆せません。
彼らはその無力さに絶望を感じながら子供に戻り、またひとつひとつ何かを積み上げていくのでしょう。
ラストシーン。母親に引率されて去っていくダニエル。その背中に向かって、ローラは「振り向いて」と念じます。
3、2、1。
ダニエルは振り向きません。
もう一度ローラは念じます。振り向いて。
7、6、5、4、3、2、1。
それでも振り向かずに視界から消えていくダニエルに向かって、ローラは最後に「無限」をカウントします。
これをどのように受け取るかは見た人それぞれでしょうけど、とても素敵なシーンです。
私は女の子の片思いの永遠性について思ったし、そして人は大人になったり子供になったりを無限に繰り返すのかなあとそんなことも思いました。
「殺人出産」村田沙耶香
- 作者: 村田沙耶香
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/08/11
- メディア: 文庫
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思っていたよりずっと面白かった!「しろいろの街の・・・」で気になった同じような表現が繰り返されるまどろっこしさはない。文体に洗練を感じる。
どこにでもありそうな、あるOL女性とその同僚の会話から始まる物語。しかしその会話の中から、そして会話の後の主人公のモノローグから、この「殺人出産」の世界の概要がぱらり、ぱらりとほどけていく。
作者のその世界観の発想がとても面白い。モチーフとしては筒井康隆を髣髴とさせる。しかし筒井康隆の作品から感じたシニカルでブラックな笑いと村田沙耶香の「殺人出産」から受けるイメージは大きく違っている。それは、「命を生み出す機能」をあらかじめ備えられた女性に生まれた、そこからの視点であることが大きいのではないか。
女性の自由、女性の人権、女性が学問を修めること、女性が仕事の上で高い位置を目指すこと、と、どうしたって人間の子供は女性にしか産み出せず、しかも若いうちのほうが母子共に良い、という現実への折り合いの付け方が未だわからない。世の中は少子化に向かっている。
ならば恋愛や結婚と出産は別物と考えるとしたら。
親と子を血や遺伝子の結びつきだけで考えないとしたら。
生に関する合理化とは。
という観点から、男も出産できる世界はどうかとか、そして生に対しての死、誰しも持ちうる殺意とは何かとか、そのようなことをテーマとしつつ物語は静かに進んでいく。
この「殺人出産」の世界の静けさも、とてもいい。
主人公の育子は、100年前の世界と今では倫理観が変わっている。では今の正しさは100年後にどう変わっているかわからない、と言う。
その「100年」という単位は、この物語の中の約1ヶ月ほどにも呼応している。小学生の従姉妹、ミサキが夏休みを利用して育子の元にやってくる。ミサキは、「今、セミのスナックが流行っているんだよ」と言い、東京でそれを買いたいと言う。育子はそんなものが流行っていることなど知らなかったし、カラフルな袋に入ったセミのスナックを見てぞっとする。しかし、その後の描写では会社の昼休み、同じ会社のOLたちは虫のスナックやサラダを美容や健康にいいと言って楽しんでいる。以前は気持ち悪いと思われたものがあっという間に価値観を代え、世の中に浸透していく。「殺人出産」というインモラルも、人に殺意を抱くこと、誰かを殺すこと、殺されることも、新たな価値感の中でわずか10数年の単位で意味が変容し、「正しいこと」になっている。
この小説は簡潔な表現と昆虫食などのモチーフを使いながら、まるで日々の生活が何かから洗脳を受けているように流行が、常識が、人の意識が、正しさが変容していくのを表しているのが、とても見事だと思う。
「あなたの信じる世界を信じたいのなら、あなたが信じない世界を信じている人間を許すしかないわ」
という育子のセリフにとても刺さるものを感じた。
たくさんの女子に読んで欲しいし、そして男子は・・・自分が人工子宮を埋め込み、そして帝王切開で子供を10人、産んでいくところを自分のこととして想像して欲しい。おののくはずだ。愛とか母性とか、それとは別のものとして私たち女性は子供を産み出す機能、それを引き受けなければ人類という種は絶滅するかもしれない使命を持たされ、その現実をどう受け止めるのかという問いの中で生きているのだ。