劇団どくんご「誓いはスカーレット」観ながら思っていた超個人的なあれこれなど
豊橋市松葉公園でのテント芝居「どくんご」の「誓いはスカーレット」、観てきました。
実は私は24歳辺りから32歳までの9年間、劇団に所属し、芝居をしていました。
その頃の私は、仕事中も芝居のことばかり考えていられる仕事に変えました。仕事の合間合間にストレッチをし、仕事をしながら頭の中でずっとセリフを覚えることに使い、セリフを覚えた後はずっとイメトレをしていました。仕事をしながらワープロを開いて台本を書いていたときもありました。
私達の劇団は、サプライズを大切なものと考えていました。衣装で、舞台セットで、演出で、観に来てくれた人に驚きを与え、それが夢や感動に繋がってくれればいいと思っていました。
そのためには、開演するまで私たちの衣装やメイクした姿を観客に見せることはしません。舞台セットも暗闇の中で隠されていました。
しかし。どくんごでは。
すでにメイクをし、衣装を着た役者が舞台上に置かれた受付でお金の精算をしたり客入れをしてます。舞台セットは隠されておりません。
お客さんも缶ビールや缶チューハイ飲みながら観劇の人もいるし、ちょっと新鮮に感じながらもなんとなく「なるほどなあ・・・」と思ってました。
ただ、そこから芝居が進んでいくにつれ、正直言って「なんだろう?」「なんだろう??」っていう気持ちがどんどんと膨らんできました。
ある幕で出番を終えた役者たちは舞台の横の観客にまるっと見える場所にいて、楽しそうな顔で舞台を見ていたりしています。それは演じている顔なのか、素の顔なのか? わかりません。ただ、衣装をつけメイクもした役者が出番が終わったあとで素の顔を見せて舞台の横の見えるところにいる芝居なんて、私は初めて観たし、そういうことを考えたこともありませんでした。
例えば後半、テント芝居の後ろの幕が開かれ、向こう側の風景、それは舞台上の異世界ではなく公園の向こうの広がる普段の風景で、そこでは道を歩くサラリーマンや2人でサッカーのパスをしている男性たちや散歩の親子連れがいます。私たちが芝居を観ているその視界の背景に、薄暗がりの松葉公園にいる普通の人たちが入り込みます。もしも、彼らのパスしそこなったサッカーボールが舞台の中に入ってきたらどうするんだろう。酔っ払ったサラリーマンが入ってきたらどうするんだろう。私たちの劇団だったら、「そういったハプニングもある程度想定しつつ、でも絶対に芝居を壊されないように厳重に注意を配る」ということに神経をつかいました。でも、どくんごの人たちは万が一に対応する人員を割くこともせず、なんていうかとにかく自由というか、気持ちがとても広いのだなあと感じました。
ああ、どくんごには私たちの劇団が持っていたストレスが何もないのかも。
私たちの劇団では上演前に姿も存在感も消し、明かりがついた途端にどこからともなく登場し、退場したらまた存在を消し、何が起こっても芝居を中断されないように周囲に細心の注意を払い・・・などなどの緊張感で舞台を作っていたのだけれども、どくんごにそれはまったくない。
しかし、です。そんな劇団が何故こんなことが出来るのか。
最初のピストルを持った男女の、あの動きはきっちりと演出で決められたものでセリフと動きがピッタリと合っている。「わたし、見ちゃったんです」から始まる幕は、4人の役者のセリフの呼吸から動きのシンクロ度がとても高い。桃太郎の話の芝刈りから芝生の高さへと話がどんどんと変わっていくポンポンポーンの変な外人の男の幕、あれなんてもう、どこまで台本で言語化されているんだろう? そしてすべての役者のセリフは、しっかりと舞台上の相手にかかり、どんな意味不明なセリフだろうとどこへも届かずぽとんと落ちてしまうような、そんなセリフは1つもない。
「自由」という言葉のニュアンスの近くにある「ゆるい」みたいな単語とはまるでかけ離れたところにある彼らの芝居、本当にもうこれは一体どうなっているんだろう、と思いながらずっと観ていました。
そうだわ、私は昨日も芝居の話をしていたんだった、と唐突に思い出しました。
かつての芝居仲間が来てくれて、その時に私たちが若い頃に知り合い、そして今もずっとお芝居をしているある男性のことを話していたのです。私の友人はその彼のことを最大限の尊敬をこめて「芝居に魂を売った男」と言っていました。
そうだ。20代の頃、同じように舞台に立ってた私たちがいて、私たちより若い子だとか後から入ってきた子が私たちより先にやめ、私は芝居のことばかりを考え、そんな時間があったということがそれほど遠い記憶でもなく、まだどこか身近な過去として自分のそばにあります。そのときの私はずっと芝居をやっていきたかったし、そうあればどんなに幸せかと思っていました。しかし30歳を少し越えた頃から1年のうちの結構長い時間を芝居に費やすことが苦しくなってきました。もっと好きな人のそばにいる時間が欲しい。映画をもっと観たり本を読んだりしたい。なによりもう、芝居の台本を書けなくなった・・・。そうして私は33歳で劇団から去り、喪失感も数年間はじわじわとあったけれどもどことなく肩の荷を降ろしたような気もしていました。
そうだなあ。20代後半の私は、芝居をやめる選択をするとは思ってなく、そして一体誰が続けていくのか、そんなことも勿論知る良しもなかったです。
あれから20数年が立ち、私は50代半ばになり、ここでひとつの結果が見えてきました。
あの人と、あの人は、まだ芝居をやっている、とか。
あの人と、あの人は、あんなにうまかったあの人は、もう芝居をやっていない、とか。そしてあの時は気付かなかった、芝居がうまい一役者だと思っていた男性は、「ああ、芝居に魂を売った男なのかもなあ」と今は思う。そんな風に私たちはある程度長いスパンで私とそれぞれの人たちの人生を省みることの出来る、そんな年齢になってしまったことに気付きました。
昨夜の私の目の前には、かなり長くこの芝居の世界にいる人が、生活が芝居の人たちの芝居が繰り広げられている。
観客は、どこでもそうなのか、豊橋の観客がそうなのか、すごくあったまってて、最初から結構ドカンドカンと笑っている。目に焼きついた美しい光景があり、すごく面白いアイデアがあり、ずっと芝居をやり続ける人には生まれてこなかった(のかもしれない)私が、ああいつかの私がこんな面白いことを発想できたら、こんな風に寛い気持ちで芝居に向き合えていたら、などと思いつつも、本当に、すこぶるやわらかい気持ちになって芝居を愉しんだ夜でした。
描かれていないことが真実ではないか、の、『告白小説、その結末』
先日、店に来たあるお客さんが、今話題になっているある作品について語気を少し強めておっしゃってました。
「僕はね、以前、その職業に就いていたからそう思うんだけど、その職業についてもっと掘り下げて描いて欲しかった」
その人は酒のせいだったのかも知れないけれども目を潤ませながらそう訴えていました。しかしその作品は、その人が昔関わっていた職業について掘り下げる作品ではありません。作者の意図は違うところにあるのです。しかしそれを言っても仕方がないと思い、そうですかと答えながら、感想というものは怨念から成り立っているのだなあ、とそのとき私は思いました。その人が「この作品にこのことが描かれていない」と思うのは、その人自身が持っている様々な思い出、愛着と多分怨念が残っていて、そこを描いている作品を読みたい、または観たいと感じているからに他なりません。
作品の中に描かれていること。感想はそこのみにとどまりません。時として描かれていなかった部分に対しても激しく心が揺さぶられたとき、そこには自分自身の人生に対する怨念があったりするのでしょう。個人の怨念は物語の描かれなかった部分を補完し、自分の中で独自の感想となって広がっていったりするのだなあと、そんなことを考えていたここ最近。
ところで『告白小説、その結末』はそういう感想の持ち方とは違う辿り方をする映画でした。
作家・デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。デルフィーヌの執筆作業を邪魔しないために別居しつつもデルフィーヌを精神的に支えようとする夫・フランソワ(ヴァンサン・ペレーズ)。そして彼女にファンだと言って近付き、そして彼女と同居する、フランス語で「彼女/ELLE」という単語と同じ名前のエル(エヴァ・グリーン)。
映画を観ている間は、疲弊しているせいでガードが甘くなっているデルフィーヌの迂闊さにハラハラし、そして真っ赤に塗られた大きな唇の口角をキュッと上げて笑いながらどんどんと近付いていくエルの怖さにおののきながら観ていました。真っ白なままのワードの画面を前にしたデルフィーヌの焦りと不安に同調し、骨折した足の痛みを共に感じ、そして彼女の追い詰められていく状況をに震え、デルフィーヌが地下室へ降りていくシーンなど恐怖で心が凍りそうになり、「やめて、何故そんなところへ行く?!」とか「誰か助けて!」とか「デルフィーヌ、逃げて!」と心の中で叫んでいるような、私は素直な観客でした。
ところが映画が終わって、しばらく空白の後、頭の中でゆっくりと今観たばかりの映画のあれこれを再生せねばなりませんでした。そして気付いたのは、この映画は「描写されていないこと」について頭の中で想像・創造していかないといけない映画ではないか、ということでした。
この映画の見方は少なくとも2つ以上に分かれると思います。
1つは作家とサイコパス女の話。
そしてもう1つ。この物語は作家のデルフィーヌの脳内世界を映像にしたものではないか。
ネットでいくつかの感想を読んでいると「妄想オチ」という言葉が散見しています。私も最初はそのように思ったのですが、今はそう言って片付けてしまうのは惜しいと思っています。
何かを考えるとき、それが自分の過去に関連する内容だった場合、脳内にそのときの自分の姿とその場にいた自分の周りを取り巻く人たちを再現し、そのときの会話や行動を脳内でなぞりながら考えを詰めたり別角度から捉えなおしたりします。この映画はそれに近い形であり、デルフィーヌ自身が自分をこのようだと捉えていたのが「作中に現れるデルフィーヌ」だったのではないかと思うのです。あそこで描かれていた、少々平凡に見えなくもなく、疲労のせいで目が虚ろであるがどちらかといえば善人であるデルフィーヌは、彼女自身が捉えている自分像であり、もしかしたら他人にはそうは見ていないのではないか。そのようなことはこの映画の中で描かれていません。しかし、そういうことを想像する映画だと思ったのです、この作品は。
そうすると、では、あのジュースミキサーを破壊したのは誰だったのか、熱いスープを扉に投げつけたのは誰だったのか、子供たちは何故彼女の元から離れたのか、夫はデルフィーヌに対してどう思っていたのか。映画を観終わったあとで映画に描かれていることをひとつひとつ取り上げながら、「そこに描かれていなかったこと」について検証していくことに熱中してしまいました。
そういえばですよ?子供たちは成長して作家である母親の元から巣立っていったことがデルフィーヌのセリフから窺えますが、もしかしたら母親としてのデルフィーヌはエキセントリックでヒステリックで子育てには向いていなくて、子供たちはその彼女の世界から離れた航空業界での仕事を選び、彼女の元から離れたのではなかったか、とか。もしかしたら彼女の元に寄せられる辛らつな手紙は彼女の子供たちのものではないのか、とか。
そういえば途中で風変わりな「飛び出す絵本」が出てきます。開くと絵本から飛び出すのは異形の悪魔やモンスター。絵本の扉を手でそっと開くとその向こうに現れるのは大きなゴキブリ。もし私なら、子供の頃の私なら、この絵本は開けません。自分の部屋にあることさえ恐怖します。デルフィーヌは彼女の子供たちにこの絵本を与えたのでしょうか。絵本を開くデルフィーヌは微笑んでいます。彼女は、このような風変わりな絵本を子供に与えたことに満足しています。しかしそこに描かれていない、彼女の子供たちはどうだったのでしょうか。
また、映画の前半にはデルフィーヌの精神と肉体の疲弊が描写されています。サイン会も長く続けられない。関係者が開くパーティ、個展、イヴェントに促されてとりあえずは顔を出すがすぐに帰ってしまう。それは彼女が自分について精神的な疲弊、または鬱状態ではないかジャッジしていたのではないでしょうか。しかし実のところは彼女には社会性が多少なりとも欠如していたのではないか、と考えられなくもないのです。「講演会を無断でキャンセル」が真実であり、そこを補完するための「半ば強引に身代わりで出て行ったエル」だったのではないか、とか。
そのように、『告白小説、その結末』のシーンをひとつひとつを思い出していって検証しなおしていていく最後に辿りつくのは、では私の脳内にいる私はどのような人で、他人は私についてどう感じていて、私の捉えている世界はどのようなもので、それが他人についてはどのようになっているのだろう、などなどとそこにある差異を改めて感じながらこの不確かな世界を再確認する、そういう作品だったと思うのです。
監督:ロマン・ポランスキー
音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーン、
今朝の夢 実家編
今朝見た夢は、手触りとか明かりの光度とか色とかがとても鮮明な夢だった。
場所は私が10歳から20歳まで住んでいた実家。
ちなみに私は6歳の時両親が離婚して数年は母方の実家に、そして10歳の時に再婚した父親の元に移り、父親と新しい母親の家族(祖父母・叔父・叔母)、そして新しく生まれた妹2人と共に住んでいた。
夢では時折、その当時の実家に何かの用事で立ち寄る。
夢の中ではいつも、私が11歳の時に建てられた2階建ての家には誰もいない。誰もいない中、いつでも私はこっそりとそこに行くというパターンだ。
今朝の夢でも、友達と一緒に実家を訪れる。夜。玄関の明かりは煌々と灯っている。友達は何故か真っ白のつなぎを着ている。簡単な用事を済ませて家を出ようとして、家の中の電気を消し忘れたことに気付き、もう一度家の扉を開ける。そしてリビングに入ると、そこに裸の小さな女の子がひとり、いた。本当に小さな子。多分、3歳にもならないような小ささだけど、ちゃんと歩くし、会話も出来る。何故か誰もいない家の中でそんな幼い子供がたった一人でいるのだ。
私が子供のころ、両親はスナックを経営していて帰宅は午前3時頃だった。夢の中でもそうで、この小さな女の子は誰も居ない家の中にいる。それにしても小さすぎる。抱くと湯上りのように体は熱くてほかほかしている。この子供に着せる服を探そうと思って家の2階に上がる。20歳まで住んでいた私の部屋はそのままで、衣裳ケースの中には私の服までもが残っている。『何故こんなものが残っているんだろう』と思いつつ、子供に合いそうなTシャツを探す。周囲にはこの子供が蚊に刺されないためか蚊取り線香があちこちに焚かれ、今は灰になっているあとがいくつもあり、蚊に刺されないためとは言え、火事になったらどうするんだと心配になる。
そうやって私が服を探していて気付くと、なんと家の壁の一面だけが朽ちて崩れている。崩れた向こうに私が10代まであった祖父母の木造の日本家屋が見える。しかしそこに住んでいたのはものすごく憎憎しげな顔でこちらを睨んでいる太ったおばさんの顔だった。そのおばさんは夏にみんなが着る「アッパッパー」と呼んでいた木綿のだらしないワンピースを着ていて、縮れた黒髪をきゅっと結わえてて、日に焼けた頬は盛り上がってて目は小さい。そしてこちらを黙って睨んでいる。ああ、この子供がここにいることが気に入らないのだ、と思う。
私の場合は・・・。私はこの家に10歳で来て、血の繋がってもいないおばあさんが私の面倒をとても見てくれた。両親は夕方から私と妹たちを残して店に出て行ったけど、おばあさんがそばにいてくれたから大丈夫だった。でも、ここではこの見知らぬ裸の、そしてきっとこの家の人とは血が繋がっていない子供がたったひとりでいて、それを見つけてしまった私は一体どうしたらいいんだろう、と途方にくれてしまう夢だった。
今見たばかりの夢
はじめてみた夢なので書き残しておく。
こたつに若い男3人と私が入っている。私も多分若い。
私の目の前にいびつな形をした小さな薬が2個か3個入っている袋が置かれている。これを飲めばすぐに死ぬことが出来るらしい。どうやら私たちは全員で服毒自殺をするという設定のようだ。
「これを飲めばいいんだね」と私は言う。
他の人は返事をする代わりに黙ったまま、それを飲んだ。
私も袋を開けて口にした。2包あったけどよくわからなくて1包だけ口に入れた。薬は苦かった。急いで目の前にあった湯のみ茶碗を手にするけど、なんだよう、お茶は少ししか入ってないじゃないか。水を飲みに台所に立つのがちょっと怖かった。ひとりだけそのこたつから離れるのは。それで少しのお茶で薬を飲み下した。
そして私はこたつに足を入れたまま、床にごろんと横になった。となりには黄色の安っぽいトレーナーを着た髪が肩以上まで長く伸びた若い男の子がいる。私はその男の子の背中にそっと自分の体を寄せた。その男の子の手が私の乳に伸びてきた。私の反対側に座ってたむっちりした体型でちょっとおっさんくさい雰囲気の男の子(多分、この中のリーダーっぽい)の手がおずおずと私の足のほうに伸びてきた。もうすぐやってくる苦しみをじっと待つのは怖くて、せめてこうしてないとな、と私はそんなことを思ってる。黄色のトレーナーの男の子が「来た」と小さな声で言った。「来た?」「うん、苦しい」
ああ、いよいよ苦しくなって死ぬんだ。「痛い」と男の子が言ってる。わたしは彼の背中をゆっくりと力強くさする。「もうすぐ楽になると思うよ」と言って。
私はまだ苦しくならない。そして男の子の静かだけど力強い痛みは結構長く続いてて、私は「あーあ、やっぱり飲まなければ良かったかなあ」と地味に思っている。「こういうふうに思うなんて一番ダメなパターンだしあんまり考えたくないけど」と思ったところで、ああこれは夢かと気付き、だったら苦しくなる前にさっさと目覚めようと思って夢から離脱しました。
男たちの物語
『名もなき野良犬の輪舞』、犯罪組織、警察、潜入捜査などを描いた韓国のクライムドラマ。友達からの強いプッシュで観に行った。作品としても面白いのだが彼女いわく「りりこさんの萌え要素もある」という。
不汗党(名もなき野良犬の輪舞) Fanmade Trailer (Japan ver.)
さて観て、ちょっと待て、ソル・ギョングこんなに若かったっけと目を疑った。
同じ2017年に製作された『殺人者の記憶法』では肌の質感も老人のようだったけれど、今回は大泉洋とか、または若い頃の小林薫みたいな感じじゃないか?
ちなみに小林薫といえば私は『キツい奴ら』(1989年)を思い出すのだが、小林薫と玉置浩二が金庫破りのコンビだった。この物語にはマドンナ的存在がいるのだけれども演出が久世光彦のためか、小林薫と玉置浩二の間にとても腐女子を萌えさせるイイ感じのナニカがあったのだよ。
さて『名もなき野良犬の輪舞』は構成も面白く、役者もいい、最後までハラハラしてドキドキして、そしてビビりの私は「絶対にヤクザの世界には入りたくないし、そして刑事になって潜入捜査もしたくない!」と心底震えながら思うのだけれどさて、友達の言ってた私にとっての「萌え要素」に関しては、うむー、どうなんだろう。
確かにソル・ギョングのコンビとなるイム・シワンは可愛いし、風貌も素敵だし、とてもいいのだけど、なんだろうなあ・・・。
『男たちの挽歌』でのチョウ・ユンファとレスリー・チャンとか。
そういえば香港映画や日本映画での男たちのバディものに腐女子の萌え要素は満載なんだけれど、韓国映画には同じようなバディもの、クライムサスペンスなどいっぱいあるのに萌え要素を私は感じないのは何故かな。
「君の名前で僕を呼んで」
『君の名前で僕を呼んで』(Call Me by Your Name)
監督 ルカ・グァダニーノ
脚本 ジェームズ・アイヴォリー
出演者 エリオ/ティモシー・シャラメ、
オリヴァー アーミー・ハマー、
エリオの父 マイケル・スタールバーグ
予告編では、Sufjan Stevensによる“Mystery of Love”という曲にすっかりやらられてしまってました。これが流れるだけで何故か泣ける。
“Mystery of Love” by Sufjan Stevens from the Call Me By Your Name Soundtrack
以下ネタバレあり。観る予定の方は観ないほうがヨイです。
17歳のエリオと24歳の大学院生のオリヴァー。
観ながら、この映画の中の彼らを見つめながら、正直言っちゃうと「あー、ほんとに若いってことは性欲に振り回されるってことだよなー」なんつーことをも思ってたのは、まさに私が年を取った証拠。昔はそんなこと思いもしなかった。登場人物と一緒に触れそうな距離にドキドキしたり、ゾクっとしたり。でも大変残念なことにこの年になるとそういう感覚から距離が出来て、エリオもオリヴァーも彼らを慕う女の子たちも自分の中の性欲でいっぱいいっぱいになっていることを「あー・・・」みたいな感じで眺めていた。
勿論、映画はとても良くって、エリオの恋の始まり、どうしていいかわからない戸惑い、不安、初めてのキス・・・、などを一緒にドキドキして観ていたんだけど。そして最後の別れも・・・。
でも、今の私に一番響いたのは、エリオの父のセリフだった。
エリオが同じ男性であるオリヴァーに恋をしたのは、エリオの母も父も気付いていた。さらに、エリオのためにひと夏の思い出、もうすぐエリオたちの前から去るオリヴァーとのふたりだけの時間を作ったのも彼らの父母だった。
当事の多くの親たちは許されない同性への愛(映画の時代は80年代。かつては同性愛は犯罪とみなされていたし、犯罪ではなくなっても精神異常者とみなされる風潮があった)に対し大きな反発を見せただろう。しかしエリオの父は「私たちはそのような親ではない」と言う。そしてエリオの父の長いワンカットでの長セリフ。これがほんとうに良かった。
エリオを聡明だと言う。オリヴァーのことも聡明だ、そしてふたりとも善良だと最初に言う。聡明で善良だから二人の恋愛を一時の過ちとして封印しろと言うのかなあと思っていたら、そうではなかった。
エリオに、この恋の痛みを忘れようとしなくていいと言う。いくらでも泣いていいと言う。恋する気持ちを抑えたり忘れようとすることで心はどんどんとすりへっていく。しかしそれでは生きていくうちに体も心もすりへってしまう。感情を抑え込まず、恋も痛みも悲しみも感じることが生きていくことの喜びだ、と彼に静かに伝える。そして、恐れずに彼との友情を、友情以上の関係を結べたその経験は素晴らしいことだと肯定するのだ。何故なら・・・エリオの父はそう出来なかったから・・・。
夏の日のオリヴァーとエリオの別れに、その悲しみを包むエリオの父の言葉に、そしてその冬のオリヴァーとの本当の別れの悲しみに、すごく打たれた映画だった。
それにしても。
はああああー・・・。
エリオを見ながら「性欲ってやつは・・・」と思った私はかなり心が磨り減っていたよ・・。
『レディ・プレイヤー1』の世界
私がスピルバーグの作品をほぼ観たことがないというと、友達はみんなああなるほどねなんかそんな感じすると言う。しかし話してる内に、え『ジョーズ』も?『インディ・ジョーンズ』も?それテレビで観てない?とか、『未知との遭遇』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も観てないだなんてそんなのアリか?という感じになってくる。なんていうか昔の私は大作映画をまったく観ようと思ってなかったんだ。
スピルバーグで観たのは2011年の「戦火の馬」のみ。そんなわけで「レディ・プレイヤー1」にもまったく興味がなかったんだ。でも予告編を観て、あれ、これ好きなヤツじゃないか?って思った。
映画『レディ・プレイヤー1』日本限定!本編冒頭映像(オアシス編)【HD】2018年4月20日(金)公開
それで映画観に行って思ったんだ。私はこういう世界設定に結構グッとくるんだってこと。
私が子供の頃にドラマや映画に出てくる「未来」。アイテムは空飛ぶ車、テレビ電話、どこかにあってなんでも管理してる巨大コンピューター、なんでもやってしまうロボット、人が着てるのはなんかキラキラした全身スーツ・・・。そしてどこまでもハイテク化した世界の脅威は、終極的な核戦争後の世界だったり、AIが発達して人間に近くなったロボットの氾濫だったり、未知のウイルスや大規模災害や宇宙人襲来だったり。
21世紀は、未来でSFだった。そして今生きてる2018年も未来でSFだったのに現在になってしまった。かつて描かれていた「未来」に追いついてしまったときにひとつひとつ答えあわせをしていくと、随分思い描いてたものと違ってることに気付く。
『インターステラー』で地球滅亡の脅威となったのは異常気象だった。『コングレス未来学会議』で描かれていた世界も貧困によるディストピアだ。
戦争でもウイルスでもなく、私たちが子供の頃に想像していた右肩上がりの豊かさでもなく、経済の下落によるディストピア。未来が今よりも貧しくなっているなんて・・・。それは80年代を生きてきた日本人の私にとっては正直言って本当に驚くような未来なんだ。
殆どの人間がスラム街で生活をしている『レディ・プレイヤー1』の世界。この設定は私の琴線にとても触れるものだった。
そして映画は・・・・、
もうむっちゃ面白かった!!
いろいろ、避けた!!(車とか、斧とか!)
観てよかった!!
最後、泣いちゃった!!
細部までにいろいろ感情を揺さぶられる作りになってるエモーショナルな作品でした♥
「リズと青い鳥」
多くのアニメ作品の中の少女たちは、「わたしたち」ではありませんでした。
「わたしたち」は、あんなに可愛くはなかったし、可憐ではなかったし、キラキラでもなくキャピキャピでもなく、けれども自分を特別だと思ってて、けれど突然そう思えなくて絶望して、自分は結構いいひとだと思ってたのにやっぱりいやなやつだよなって思えたり、そういう、そういう、なんていうか決して映画やドラマの中には出てこないもっと――――――、普通のおんなのこ。
でも「リズと青い鳥」の女の子たちは、まさにそういう普通のわたしたちが描かれている作品でした。
なんか、すごくないですか?この絵。
すごくリアルに描かれた教室の机と椅子と床と譜面台。
その背景のリアルさとは質感の違う、陰影や肉体の比率は省略されたりデフォルメされた絵で描かれた、楽器を奏でる細身の女の子ふたり。
そして窓の向こうは、またその少女たちの絵とはタッチの違う、色彩鮮やかで、ちょっと昔のアニメを思わせるような絵。
「ずっとずっと、一緒だと思っていた。」というコピー。
観る前からなにごとかの不穏さは感じていたけれども、観終わってからこの絵を観ているだけで何故だか涙が出てきて困る。
机と椅子だけのこの静謐な場所は、彼女たちの心を守る場所でもあり、育てる場所でもある、でも閉じられた鳥かごだったのか。ここにいる彼女たち。そしていつかここを出て行く彼女たち。その時間を思い、私はなんだか泣けてくる。
(もしもこれから観るのならば出来れば何も、予告編も何も観ず、もちろんこれも読まずに観てほしい。)
鎧塚みぞれが、学校の校門の近くで座って待っている。
同じ高校3年生、吹奏楽部フルート奏者の希美が来るのを待っている。
希美がやってくる足音に耳を澄ませている。
みぞれは希美の後ろを歩く。希美の揺れる髪や彼女が下駄箱から取り出してぞんざいに床に落とした上履きや脱いだ靴や先に階段を登る足をずっと見ている。
この時の音が、ピアノの音がぽつり、ぽつりと零れるように響くのだが、まるで言語化されずに想いだけがあるみぞれの心情のようだ。
みぞれは希美のことが好きなんだなとわかる。その目線の先にあるものは女の子ならではのフェチだ。女の子は誰かを好きになるとこんな風にその人を探し、こんな風に静かに見つめている。それを丁寧に描いていて、すごくいいと思うのと同時に少し苦しい気持ちになる。みぞれの思いにつらい予感がする・・・。
この映画を観にきた人たちの多くが「響け!ユーフォニアム」2期を観ているだろう。だから「みぞれと希美」というだけで不穏な何かを感じてこのスクリーンの前に臨んでいたのではないだろうか。
テレビ版「響け!ユーフォニアム」2期の前半でみぞれと希美は登場した。物語の主人公は北宇治高校吹奏楽部1年ユーフォニアム奏者・黄前久美子。初めての夏合宿で久美子は2年・3年の先輩たちに翻弄されることになる。かつて退部したフルートの希美が復帰したいとやってきた。それに反対する副部長のあすか先輩たちや激しい拒否反応を示すオーボエ奏者のみぞれらに久美子は振り回されるのだ。
ちなみにこの時のみぞれは2年生。中学時代、自分を吹部に誘ってくれた希美が唯一の友達だった。しかし希美は1年生のときに部内のゴタゴタに嫌気がさし、みぞれに黙って退部し、みぞれはそのことで激しいトラウマを抱えることになったのだ。希美の登場でみぞれは心を乱し、演奏にも集中できなくなっていく。しかしこの合宿で間に入ることになった久美子の奮闘により、みぞれと希美は和解をしたのだ。それはもう「ヨカッタヨカッタ」となるべきところだが、そこに不穏な余韻を残していったのが、2期後半のメインになっていく「あすか先輩」だった。彼女は久美子に対してだけ微妙な反応を残すのだ。そこに描かれていたみぞれは「繊細・臆病・孤独」という閉じた女の子だったが、その彼女を評して「ずるいわね」とあすかは呟くのだ。
そういったことがあるから、明るい表情で前を歩いていく希美と彼女を熱い目で見つめ続けるみぞれなんて不穏な予感しかなかったのだ。
彼女たちは高校3年生。その年の吹部のコンクール自由曲は「リズと青い鳥」。その作品の中ではオーボエとフルートの掛け合いがあった。希美は「まるで私たちみたい」と言って「リズと青い鳥」の絵本をみぞれに渡す。ひとりぼっちで暮らすリズの友達は森の動物、そして青い鳥。そんなリズをずっと見ていた青い鳥は少女の姿になってリズの元にやってくる。明るくて奔放な少女と一緒に暮らしはじめたリズは世界の色が一新し、生活が楽しくなる。しかしある日、少女は青い鳥の化身だと知ってしまう。鳥は冬になったら暖かい地へ渡らないといけない。リズはまたひとりぼっちになってしまうことを悲しみながらも少女と別れる決心をするという物語。
みぞれは、希美と離れることを恐れている。だから「私は青い鳥を逃がしたりできない。閉じ込めておく」と思う。希美は「ハッピーエンドがいいよね。青い鳥もまた帰ってきたらいいんだし」と思っている。ふたりとも、リズがみぞれで、青い鳥は希美だと思っている。
コンクール曲「リズと青い鳥」。オーボエとフルートの合奏の息が合わない。それはみぞれの解釈のせいか。フルートの先輩として後輩に慕われる希美を見ていてまたひとりぼっちになるのではという不安。更に彼女は自分自身のことが決定できない。自分が何をしたいのかわからない。希美が吹奏楽部に誘ってくれたから自分はここにいる。音大を勧められたけどそこを目指すのかどうかも決定できない。でも希美が同じ音大に行くというなら私も行くと言う。そんな彼女のことを1年前、あすかは「ずるいなあ」と感じていたけれど、みぞれは自分がずるいだなんてきっと思ってはいない。後輩のトランペット奏者 高坂麗奈は「先輩の本気の音が聞きたいんです!」とみぞれにつめよるが、「自分の本気の音」がまだみぞれ自身に聞こえていない。
そんなみぞれに、木管指導者の新山は言う。
あなたが青い鳥の気持ちになって考えてみては、と。
孤独で、青い鳥を手放したくない思って震えている女の子ではなく、愛情を持ちながらも外へ羽ばたっていく一羽の青い鳥を思い描いてみてはどう、と。
音楽室に入ったみぞれ。みなそれぞれの楽器を構えている。みぞれは「リズと青い鳥」第3楽章。そこを通してください、と言う。静かに歌いだすみぞれのオーボエ。それはやっと生き生きと、自由に、空へ飛び立っていくようで、そこに後ろから希美のフルートが美しく絡みあっていった。
そして、そこで希美は、きっとみぞれ以上に決定的に知った。羽ばたっていく青い鳥がみぞれだったのだと。残されたのは自分のほうだと。希美のあの涙は、演奏中の涙はなんだったのか。他の部員はみぞれの演奏に感極まったのだろう。しかし希美はそれだけではない。自分とみぞれとの力量の違いに気付いてしまったからではないのか。
希美は、ずっと無意識だけどみぞれのことを見くびっていた。
私がひとりぼっちでいるちょっと風変わりなみぞれに声をかけてあげた。中学の吹奏楽部では私は部長だった。私はフルートが好きだし、そしてその才能だってある。勿論、みぞれのオーボエもうまい。けれど私たち、それほど違いはないんじゃないかな、と。しかし、今の時点で、彼女の力量はみぞれの演奏をなんとか支えるのが精一杯のところまでだと気付く。愕然とした彼女も実は自分が何をしたいかなんてわかっていなかったのだ。いくら後輩に慕われていようともみぞれについてこられるような自分もないし、そしてここから先もみぞれと共に歩いていこうという気持ちもない。
みぞれはずるい。自分で何も決定をせず、ずっと好きだといいながら私の後ろについてこようとするみぞれはずるい。
希美はかつて吹部をやめたときと同様、再びみぞれの前を歩くことをやめようとする。
才能を前にした少女たちにとっての現実の残酷さ。
「大好きハグして」って言われて拒否されて、つきだした手が空に残る。
少女たちはいつも必死で、恋をしていて、みじめで、自分のずるさに気がつかなくて、そして何かを知っていくことはとても残酷で、そして世界だと思ってたものが3年間という時を過ごす鳥かごであったこととか、
あのときの儚さ。あのときの残酷さ。
そういったことがただただ丁寧に描かれている作品だと私は感じました。
それが、この映画を観ててあんなに泣けてしまうポイントなのかな。
「リズと青い鳥」第3楽章を演奏するシーンでは、私はもうなんだか泣けて泣けて。私は結構こっそり静かに泣くことを得意としてるんだけど、この時ばかりは演奏が終わった途端にもう嗚咽がもれそうになるほど泣いてしまいました。曲の美しさ、みぞれのやっと自由になってひとりで飛び立つことを決めた表情、演奏に感極まる部員たち、そして自分の力量に気付いた希美の悔しさ。それらが誰のモノローグもなくただ音の中で見事に表現されていたと思います。
「響け!ユーフォニアム」2期の最後、卒業式でのあすか先輩は、泣く後輩たちに「また来るから!」と言ったけれど、私はあすかはもう来ないと思いました。彼女は大学生になってもいつまでも先輩面して高校の部活に顔を出す、そのような人ではないからです。
そして、この「リズと青い鳥」で希美はハッピーエンドという言葉を口にするし、みぞれと希美も再び仲良くなったようだけど、彼女たちの人生はエンドどころかまだこの先は遠く、大学に入ったみぞれは真に旅立っていくんだろうなあと予感します。もう希美についていくだけの生き方はやめて。そのとき、かつてあった大切な「好き」は時の中にゆるやかに溶けていってしまうかもしれない。
そこは「高校」という特別なかごの中だから。
かつて普通の高校生の女の子だった人たちに観てもらいたいと思った映画です。
私は『聖なる鹿殺し』という映画が好きかどうかはわからないが
『聖なる鹿殺し』
- 2017年/イギリス、アイルランド、アメリカ/121分/PG12
- 監督:ヨルゴス・ランティモス
- 脚本:ヨルゴス・ランティモス/エフティミス・フィリップ
- 出演:コリン・ファレル/ニコール・キッドマン/バリー・コーガン/ラフィー・キャシディ/サニー・スリッチ
映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編
この予告観たら「絶対に観ねば。胸糞悪い映画であろうとも」と思った。
前作の『ロブスター』、アイデアは秀逸だし展開に驚かされるし、そして男と女が結婚をして女が子を産み次世代へ種を繋いでいく生命としてのシステムが崩壊しかかっている今に対するブラックな示唆に、観終わったあと言葉を失くした。
そして『聖なる鹿殺し』。
観終わった最初の感想は「ああ!とんでもなく胸糞悪い映画だったわ!」だった。悪口じゃない。
自分にとって大切な人が無惨に殺されてしまったら。私に子はいないけれど、もしもいて、その子供を殺されてしまったとしたら。現実に起こる様々な事件のニュースを知るたび、「私ならどうするだろう?」と思う。
司法での裁きに納得できるか。
私は復讐のためその相手を殺そうと思うのか。
悲しみや苦しみはいつか癒えるのか。
誰しもそういう「最悪の事態」について想像するのだろう。だからそういうドラマや映画がいっぱいあるんだろう。復讐の物語が。
しかし『聖なる鹿殺し』はそれらの物語とは一線を画していた。
何しろ、復讐者マーティンはあまりにも絶対的な力を持っている。策略や陰謀や暴力による復讐ではなく、彼は神のようにスティーブンとその一家に呪いをかける。スティーブンには後悔はあっても反省はない。彼は家族を守るために戦わない。子供を守るために自分を犠牲にしようともしない。そして呪われた彼らはみな、その運命を恐怖とともに受け入れる。
私はずっと冷たい汗をかき、どこまでも展開が読めずどこに着地するのか見えないこの物語を目にしながら、そうだ、大切な人を奪われるということはなんてクソな出来事だ、それはどんなに胸糞悪い出来事なんだ、と改めて思っていた。
最終的にはスティーブンの息子、幼い少年は生贄となった。復讐者マーティンの呪いは決着した、はずだった。しかしその後、スティーブンと妻、そしてその娘がマーティンを見るその目はあまりに冷たく、蔑むようで、敗者のそれではない。復讐を終えたマーティンは勝者ではないのか。そこでも私は衝撃を受けた。そうだ、復讐をしたってこの胸糞悪さは変わらないってことか!と。
他の多くの復讐の物語は、哀しみはいつか復讐の行為の中でのスリルに翻弄されていくし、それを終えたあとのカタルシスさえある。しかしこの『聖なる鹿殺し』には一切、その種のカタルシスはない。奪われた側のこの現実の胸糞悪さは永遠に続いていくといわんばかりの、すべてに呪いをかけるような圧倒的な作品だった。
私たちは潜在的に様々な鍵を心の中に持っている。男であるが故の、女であるが故の、さらには親と子に関する物語に何らかの縛りというか鍵を持っているように思う。それは、子は親を思うものだとか、母の子への愛は絶対だとか、子に対する性的な欲望は何よりのタブーだとか。しかしランティモス監督はそのひとつひとつの鍵をそっととりあげて、それを試すかのように奇妙な鍵穴を用意してそこから私たちにある世界を覗かせる。そうしてそれぞれの心に内在してるモラルを揺さぶっていくようだ。みんながそうだと信じている物語は、それは絶対に真実なのか、と。『ロブスター』も『聖なる鹿殺し』もそういう映画だったと思う。
この映画を、監督のヨルゴス・ランティモスを、好きかどうかが自分自身わからない。しかし次回の作品も多分見るだろうと思っている。
改めて、ウォン・カーウァイ映画について想う
『欲望の翼』がデジタル・リマスター版として甦った。
最初に「配給 ハーク」とある。
原題の『阿飛正傳』、そしてその下に『Days of Being Wild』の文字。
邦題である『欲望の翼』が画面から立ち上がる・・・。
ああきっとこのタイトルは最初にこの映画を配給したプレノンアッシュがつけたのだよな、とそれを眺めながら思う。正直言えばどの映画がどの会社による配給かということなど、多くの場合無頓着だったりする。でも、ある時代の香港映画ファンにとって「プレノンアッシュ」の存在はとても大きかった。プレノンアッシュがウォン・カーウァイ作品を日本で配給してくれた。さらに「シネシティ香港」という香港電影ショップ、そして香港映画やスターたちの旬な情報を届けてくれた「香港電影通信」というペーパーなどで、香港映画ファンはどんどん熱く育てられていった。そういう特別な会社だったのだ、プレノンアッシュは。
今回のデジタルリマスター版にはプレノンアッシュの名前はどこにもない。しかし、その会社がつけた『欲望の翼』という邦題は引き継がれていくのだなあと、そんなことを最初に想いながら、同時に私の香港映画とともにあった熱い1990年代後半の日々のことも心の中に甦っていった。
そして『欲望の翼』。暑く重い空気。たったひとりで店番しているサッカー場の小売店の女。ぶつかりあう空き瓶の音、そこにやってくる靴音もすごく響いてて、そこは滅多に人が訪れないような場所のようで、そこでなにか危険なことが始まってしまうような緊張感に満ちている。
この時代の多くの香港を舞台にした映画は人が多くてどこか猥雑な「香港」を描写しているが、この映画の中の場所には人はとても少なく、彼らの孤独を象徴している。
さらにカメラがまるで、誰かを見つめてはちょっと目をそらしてしまうような、心の揺らぎやとまどい、出ない答え、出さない言葉、そういうものを表しているかのようだ。
私はレスリーのファンだけどこの映画のヨディに感情移入する部分はないし、同様に他の女たちにも感情移入して見ることはない。何が好きかといえば、ウォン・カーウァイ監督が描く「一回性」についてなのだと思っている。
ヨディは一瞬で恋をする。しかし一瞬しか恋をしない。
そしてその他の登場人物は、たった一回だけの出会いで一瞬で恋をして、ただそれだけをずっと心に秘め続けて生きる。鳴らない電話を待つ。またはたった一度だけ電話をしてみる。たった一回が永遠になる、ウォン・カーウァイの作品に描かれているそれが、私にとってたまらなく胸を焦がすのだ。
すべてはもう二度と出会うこともない、かつて愛したもの。
その一瞬の思いだけを抱えてその後の人生を生きていく、長い長い孤独の時間。どの登場人物も涙はとうに乾いてて、したたかで、生きていく糧を得るために生活していて、あたりまえに孤独だ。その姿に私はなぜか心が震えるんだ。
亡くなった大杉蓮さんと『バイプレイヤーズ』と大林宣彦監督の映画と。
『anone』と被ってるのでTVERで観てる『バイプレイヤーズ』はまだ今週分の第4話を観ていないんだけど、大杉蓮さんが亡くなった今、実名での作品『バイプレイヤーズ』が本当に複雑な様相を呈してきたよ。
亡くなった大杉蓮さんとこのドラマの関係はまるで大林監督『北京的西瓜』みたいだと思った。
『北京的西瓜』ではベンガル演じる八百屋のおとうさんが中国人留学生たちに出会い、彼らをささやかながらも支援することで「日本のおとうさん」と呼ばれ愛されたという実話を基にした内容だったが、この映画の最後のクライマックスシーン、北京で撮影する予定だったのが、現実に起こった天安門事件により中国に渡航することが出来なかった。そのシーンで八百屋のおとうさんを演じていたベンガルが、役者ベンガルに戻り、スクリーンの向こう側から観客の私たちに向かって言う。
「映画は現実を越えることは出来なかったのです」と。
勿論その言葉はベンガルとしての言葉ではなく、監督・大林宣彦からの言葉である。
そしてそれは映画監督としての敗北の言葉ではないと私は思っている。
大林監督はずっと、叶わなかった恋について描いている。この『北京的西瓜』では、現実ではそこにあった北京行きが映画では叶わなかった、そのことがまさに叶わなかった恋だと描写しているようだった。叶わなかったからこそ、永遠に夢見続けるもの、それが大林監督にとっての恋であり、映画ではないかと。
ドラマ『バイプレイヤーズ』は、現実が作品を裏切っていった。それでもきっとこのドラマの結末は、それ自体が叶わぬひとつの恋のような形となって、永遠に胸に刻まれていくのだろう。それを見届けたい、と思っている。
2017年私のベスト映画
2017年に観た映画でベスト10などを友達と話し合ったりするシーズンです。
私は今年の映画〆は12月18日に観た『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』でしたよ。
さてベスト10.どういう観点で決めるのか、ということについても友達と良く話します。私の場合は、自分にとっていとおしい映画だったかどうか。あとはそこにワンダーがあったかどうか、ですね。
まずは、これはベスト10に入れてもおかしくないはずだけどもれてしまった5本。
ユーリー・ノルシュテイン特集 |
エヴォリューション |
人魚姫 |
傷物語 冷血篇 |
ネオン・デーモン |
PK |
虐殺器官 |
スノーデン |
たかが世界の終わり |
サバイバル・ファミリー |
ブラインド・マッサージ |
the NET |
牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 |
お嬢さん |
哭声 コクソン |
ホワイトバレット |
ひるね姫 |
3月のライオン 前編 |
ムーンライト |
夜は短し歩けよ乙女 |
お嬢さん |
3月のライオン 後編 |
イップマン継承 |
シネマ協奏曲 |
パーソナル・ショッパー |
まんが島 |
メッセージ |
夜明け告げるルーのうた |
美しい星 |
STOP |
光 |
エターナル・サンシャイン |
ヘリオス赤い諜報戦 |
夜明け告げるルーのうた |
22年目の告白 私が殺人犯です |
銀魂 |
打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか |
HOUSE |
さびしんぼう |
パターソン |
新感染 |
散歩する侵略者 |
三度目の殺人 |
奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール |
ユリゴコロ |
スイス・アーミーマン |
ユーリ!!!on ice2 |
ユーリ!!!on ice3 |
アウトレイジ最終章 |
ブレードランナー・ファイナルカット |
響け!ユーフォニアム |
婚約者の友人 |
斉木楠雄のψ難 |
ブレードランナー2049 |
グロリア |
ブレードランナー2049 |
予兆 |
シンクロナイゾド・モンスター |
廃市 |
時をかける少女 |
我は神なり |
パーティで女の子に話しかけるには |
リミット・オブ・スリーピング・ビューティ |
光 |
北京的西瓜 |
エンドレス・ポエトリー |
仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINALビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー |
スイス・アーミーマン
監督・脚本 ダニエルズ(ダニエル・シャイナート&ダニエル・クワン)
キャスト ポール・ダノ、ダニエル・ラドクリフ
この予告編を観れば、絶対に観たくなるよね!
私はそれまで何の情報もなく、その月の観たい映画リストにも入っていなかった。
しかしこの予告編を観てこれは間違いナシと判断。とは言え、それほど期待もしていなかったのだが。
・・・こんなにいい映画だったとは。
無人島に漂着したハンクは絶望のあまりそこで死のうと首を吊りかけたとき、海辺に流れ着いたひとりの男を発見。ただ残念なことにそれは死体だった。しかし、その死体から変な音が聞こえる。体に溜まった腐敗ガスが肛門から出ているようで、それはつまりおならであり、このギリギリの状況にはあまりに情けなく、そして尊厳を感じさせない。ところがその死体はおならの推進力で海中をすごいスピードで流れていく!ハンクはまるでイルカにでも乗るようにその死体に跨り、海を駆けていくのだった・・・。そして新たに漂着した島。そこからハンクは死体を担ぎ、死体と共に人のいる場所を探して歩いていく。ガスでパンパンのその死体は自力で動けないものの何故か喋り、ガスの力を使って様々な役に立つ、スーパーな死体だったのだ・・・。
さて、冒頭からおなら。その次にはうんこ。
男の子の大好きなものばっかりが出てくる。
いや、ホントはそれ、女の子だって大好きなんだよ。
そしてエロ本。いや別にそんなにエロくはない。水着を着た女性が挑発的な目でこちらを見てる、そんな写真が載ってる雑誌。
何の記憶もない無垢な死体、メニーは、それは何かと聞く。
子供にとっては宝物だった、とハンクは答える。これを高速道路のそばの草むらに探しに行ってたんだ、と。ところが母親は「そんなものを見ていたら目がつぶれる」と言った。父親もオナニーをすることを禁じた。ハンクはオナニーをしようとすると母親の顔が脳裏に浮かんでしまい、出来なくなってしまった。
そう、ハンクは抑圧された青年だったのだ。こんな状況でもメニーの前でおならもしない。一目惚れした女性にも声をかけることなく、そっと見ているだけ、そして盗撮した1枚の写真をスマホの待ち受けにして眺めるだけ。
そのハンクに、無垢な死体、メニーは言う。オナニーをして見せて。母親のことを考えたらいい。それとも自分が君の母親を想像して射精してもいいか。心を持たないメニーの問いかけにハンクの持っている抑圧が様々に炙り出されていく。
メニーは、ハンクに、片思いの女性の格好をしてみろという。馬鹿げたことをとハンクは言う。いや、きっとそれで僕は君にシンクロして故郷に帰りたいという思いが生まれ、そして君を故郷へ戻す力を得ることができるだろう、とメニーは言う。
ハンクは森の中にある木や蔓や廃棄物を使って、彼女とであったバスを再現し、カツラらしきものを作り、女性物の服をこしらえ、女の姿になり、彼が恋した女性を演じる。メニーはそれを見ながらハンクの心情に同調していく。
この辺りの森の中でのハンクとメニーのシーンはとても幸せなものとして描かれている。死体であるのに万能で、2人は最高のバディだ。ハンクはメニーに対して父親のことを語ったり、または片思いの女性に扮したりしながら、彼を縛っていた抑圧が少しずつほどけていくのだ。
2人はなんとか現実の世界、人のいる世界、しかもなんとハンクが片思いをしていた女性の家に辿り着く(!)無人島に漂着してしまった時以来、それはハンクが必死で戻ろうとしていた世界のはずだった。そこに着き、好きな女性に会い、父親の自分への思いも知る。しかしだ。そうやって戻ってきた世界はやはり、彼を抑圧する世界だったのだ。ハンクは死体と行動を共にする変質者であり、人前でおならをする無礼な人間であり、子供を持つ既婚者である女性を盗撮して待ち受けにするストーカーまがいの男であり、更には森の中で女装までしていた!そうやって現実世界は再び彼を糾弾しはじめる。
メニーと行動を共にするうちに感じるハンクの歓喜。そして無事現実の世界に戻れたことも喜びのはずだった。しかし彼を打ちのめす絶望。そこに私は映画を観ていて泣けて仕方がなかった。それでもこの映画は、様々なマイノリティを肯定する力を持っている。ハンクは最後にまた、死体でありながらおならの力で自由に海の向こうへと流れていくメニーの姿を目にするから。「死」というもっとも人の自由を奪うはずのもの、その抑圧さえ解いて自由に海の向こうへ行くメニーの姿は希望である。
「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」
監督 大根仁
キャスト
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』予告編
あかりはとにかく瑞々しく、可愛く。いつもながら最初の登場から大根監督の女優に対する愛情がたっぷりな映像。内容もまさに大根監督!いろいろ楽しめました。
(以下ネタバレあり)
・ ・ ・ ・ ・
数日前、私の参加しているSNSにて、私が自分の年齢についてのことを書きました。40代も楽しかったけど50代も楽しいのよ。どうしてかっていうとね・・・みたいな話。そこに30代男性のコメントがつきました。「(自分は)心は10代、体は50代、年齢はギリギリ30代です」と。
そこで思ったんですよね。男性って結構「心は10代」とか「心の中は少年のまま」とかって言いますよね。昔だったら飲み会でそう言われたら「あーっ、私だって心の中はまだ少女なんですからぁ~!」とか言って「お前のどこが少女だー!」みたいな返しをされるのが定番ですよね。しかし本気で「でも私は心の中は10代なの」って言う女性、いるのかしら。いるとしたらそれはどんな意味で? そしてどうして男性は自分の心の中だけはずっと「10代」とか「少年」って言いたがるのかしら。男性にとっての10代や少年って、なに?
・ ・ ・ ・ ・
「奥田民生になりたいボーイと出会った男すべて狂わせるガール」の最後を観て、ちょうどそう思ってたことを思い出しちゃったのです。
コーロキは一切のあと、意外なことに幸せな成功者になっています。
人が良くて、出会った人はみんな彼のことが好きになる、そして仕事のできる男に。更に最高の妻も得ています。間違いないでしょう、コーロキにとって彼女は最高のパートナーでしょう。
しかし、彼は昔と同様、安いそば屋に入ってそばを啜りながら、唐突に泣いてしまうのです。
そのそば屋で、若かったかつての自分を幻視するからです。目をキラキラと輝かせ、仕事に食らいつき、あかりを一途に想って時に身勝手に自爆して、誰からも賞賛されない、どこか野暮ったい、それでも恋という強い輝きを放つ季節の中にいたかつての自分を。
そしてね、そばを啜りながら泣くんですよ。去った彼女を想って泣いてるんじゃないんですよ。過ぎ去りし日の自分を想って泣いているんですよ。
私はね、このシーンが本当に大根監督だなあ、そして男性だなあって思うのです。
私は10代の心はあまり戻したくない。自意識過剰だったし、自由がなかったし。いろいろとしんどかった。過去の瞬間の中に素敵な他人と懐かしい自分はいるけれど、年を経ていくごとに増えるなにごとかもいとおしいし、なにより心が軽くなっていく気がする。昔の自分よりも今の自分のほうがいいと心から思う。だから、この映画のコーロキのように、あんなふうに泣くなんてないような気がするなあ。私たちが一人で泣く理由は、もっと違うような気がする。
そんなことを映画を観た人と話してみたい気持ちになった映画でした。
「散歩する侵略者」
「散歩する侵略者」
映画『散歩する侵略者』予告編 【HD】2017年9月9日(土)公開
キャスト
- 加瀬鳴海 - 長澤まさみ
- 加瀬真治 - 松田龍平
- 桜井 - 長谷川博己
- 天野 - 高杉真宙
- 立花あきら - 恒松祐里
- 明日美 - 前田敦子
- 丸尾 - 満島真之介
- 牧師 - 東出昌大
- 品川 - 笹野高史
何か書きたいと思うのだが文章にならない。
「この映画は○○である」「○○ということなのだ」みたいなことが書けない。
心の中に感想をまとめたい欲求だけはあるのだが形にならない。
ただ、断片だけがある。
映画を観ながら感じ続けた「○○がいいな」という断片が。
その断片を重ねてみよう。
あの赤い血糊がいいな。とてもねっとりしてて。最初のシーン、立花あきらとその家の中の床に広がる血糊が。
最初から怒ってばかりの妻、鳴海。鳴海の元から一時は去った夫・真ちゃんは過去、鳴海にどのような仕打ちをしたのかはリアルに語られない。ただ鳴海のセリフからは不倫だったことは匂わされるが。しかしその真ちゃんは今、宇宙人に肉体をのっとられ、鳴海の元に戻ってきた。2015年の黒沢監督「岸辺の旅」の夫婦の関係を思い出させる。失踪した夫が戻ってきて自分は既に死んでいるがこれから思い出の旅に出ようと言われ、妻はそれに従い二人彼岸を旅する物語だ。深津絵里が演じたその妻と浅野忠信演じた夫。確かその夫も妻以外の女と付き合っていたという設定だった。この「散歩する侵略者」と「岸辺の旅」のその部分が私の脳内で共鳴しあう。
あまりにも異様な夫・真ちゃんに対し、あくまでも妻の立ち位置でイライラし続け怒り続ける鳴海を演じる長澤まさみの硬質な質感。彼女の妹を演じる前田敦子の現代的で独特なやわらかさを感じる質感。その違いがいい。
惨殺された立花家を取材する桜井が、同じくあきらを探す青年、天野と出会う。天野の家に行くと、彼から様々な概念を抜き取られたかつての彼の父親と母親が。荒れた家の中。うつろな目をした天野の両親。この映画のまだ最初のほうに描かれるこの不気味な家に、黒沢監督の2016年の「クリーピー」を思い出し、またここで物語が共鳴し始める。「クリーピー」では薬を使用した洗脳と虐待。でもこの作品はそうではなかった。
無敵の格闘少女、立花あきらを演じる恒松祐理演じる蜘蛛のように相手を拘束する長い足。痛みを感じることのないけだるげな表情。とてもいい。
あきらと双璧をなす天野を演じる高杉真宙(鎧武の頃から思うと大きくなったナー)。最初の不気味な印象、何も映らない瞳を持った青年から、人の概念を奪っていくごとに何か深みが生まれてやわらかい存在になっていくその変化がとてもいい。
目が、髪型が、全体の立ち姿が不思議な異常さを醸し出す満島真之介。すごくいいアクセントになっていて、この人がこんなにいいと感じたのはこの映画が初めてだ。
最近はどんな作品に出ても、目と、そしてセリフ回しが不思議な異常さを醸し出す東出昌大は、やはり遺憾なく異常さに満ち満ちていて、答えのない問いを提示された気がする。
宇宙人の天野と立花あきらと行動を共にするジャーナリストの桜井。桜井がいつ彼らを裏切り人間側に立つのかを思いながらずっと観ていた。そういう私の割と素直な想像が次々と裏切られていく展開がいい。
「クリーピー」に続いてとても頼りがいがあって、ドキドキしながら見ている私のひとつの心の支えとなり、そしていきなりフェイドアウトしていく笹野高史のいい存在感。
ラストの桜井。演じる長谷川博己の最高の見せ場!一緒に観た友達と私とであのシーンの解釈は違っていた。友達は「宇宙へ通信するための時間稼ぎの行動ではないか」。私は「元々は社会派ジャーナリストであり、かつて戦場ジャーナリストへの憧れもあったのではないか。宇宙人に憑依された桜井のその過去の意志が純粋に形になった結果ではないか」。ところで私たちは桜井は天野の中の宇宙人を桜井が引き継いだという設定で話をしていたと思うのだが、実際にそこは省略されていてどうだったかは映画では明記していないのだな。
鳴海には妹がいて、父母もいて、仕事もあった。それでも自分を捨てた夫・真ちゃんの体を借りて地球を侵略しようとする宇宙人と共にいることだけを彼女は望む。彼女は家族も、彼女の知人も、見知らぬ70数億の人類も一切省みない。愛というのはなんなのか。この映画を観てその問いに答えられる人はいるのか。最後に私から愛の概念を奪えという、彼女の愛とはなんなのか。狭いのか。深いのか。身勝手と言われるものなのか。無償なのか。
そして最後の長澤まさみの表情。あっと思う。うまくは言えないが、彼女はこんなに素晴らしい女優なのか、という驚きを最後、余韻と共にもたらしてくれた。
去年の「クリーピー」「ダゲレオタイプの女」に続き、今年も「散歩する侵略者」という不思議で、言葉にならなくて、そして素晴らしい作品を作ってくれた黒沢清監督。観ることが出来てすごく幸せだ。