おでかけの日は晴れ

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『ブエノスアイレス』

以下の文章は、レスリーの生前に書いたものです。
これらを書いていた時には、まさかレスリーがこんなに早く亡くなるなどと想像もせず、
彼の未来を語り、時には能天気なことも書いております。
しかし、彼の映画を見るたびに、彼の音楽に触れるたびに感じた驚きや喜びを大切にしたいから
敢えて加筆訂正はしておりません。
何卒ご了承ください

ブエノスアイレス

監督・脚本・・・ 王家衛ウォン・カーウァイ
撮影 ・・・・・ クリストファー・ドイル
美術 ・・・・・ 張叔平(ウィリアム・チャン)
出演
ファイ・・・梁朝偉トニー・レオン
ウィン・・・・張國榮レスリー・チャン

チャン・・・・張震チャン・チェン

 

1.どうしてこんなに泣けるんだろ
2.「ゲイ映画というキーワード]
3.レスリー・チャンウォン・カーウァイ 


Happy Together Trailer(long version)

1.どうしてこんなに泣けるんだろ

ブエノスアイレスを観てからの一週間、私はずっと心を乱され続けた。
効き目は遅いが非常に長く効く薬のようだった。
そう、最初のうちはまだ余裕があったのだ。見終わった後に友達と軽口を叩き合うぐらいの余裕は。しかし時間が経つごとに、心がこの映画に占領されていくのを感じずにはいられなかった。上映最終日、私は再び映画館に足を運んだ。翌日、折り良くもちょうどレンタルを開始したばかりのビデオをダビングして毎日それを見続けた。 今の自分は壊れている。心の片隅でそう意識した。その頃の私はまともに人と口をきくことさえも出来なくなっていた。いつも観ていたテレビドラマも本も何もかも受け付けなくなっている。音楽も聴けない。そしてつまらないことで気を昂ぶらせてはわけもわからず泣いていたのだ。深夜になると飽きることなく毎晩「ブエノスアイレス」を見るという生活。そして見終わるとすぐさま巻き戻して二人が一番幸せだった時まで遡り、再びそこだけを繰り返し見る。そんな日が繰り返された。まるでファイが、「このままウィンが治らなければ」と祈っているのと同じように。どちらかと言うと熱狂型ではない私にとって、こんなことは今までに無かったことだ。

一体、私のこのハマり方はなんなんだろ。
ファイとウィンに感情移入しているんだろうか。ああ、なんかちょっと違うんだよなあ。彼らの間にある、嫉妬、独占欲、束縛、それらは私の一番苦手とする感情だ。なのに、何故こんなにこの映画の物語に深く傾倒しているのだろう。
そして私はどうしてこんなにバカみたいに泣いているんだろうか。

上手く言えないんだけれど・・・。
きっとこの映画の1時間30分の中に生まれ、育ち、過ぎ去ったり壊れたりしていく「時間」が、苦しいほどいとおしいんだよなあ。多分、そういうことなんだと思う…。

ウィンは何度も「やり直そう」と言い、その度に二人はやり直そうとする。
いや、そんな明確な意思ではないか。ウィンの言う「やり直し」は「チャラにしてよ」ってことだもんなあ。
ファイは少しずつそれに気付いていく。いくらリセットボタンを押して振り出しに戻そうとしても、前のゲームはチャラにならない。痛みの記憶というデータが堆積していくだけだ。
同じ場所に戻ったつもりでも、そこは前とは微妙に違う場所。やり直し、繰り返しを幾ら試みたとしても、変化していく何かを意識せざるをえない。それはある種ポジティブなことなのかもしれない。それでも私はどうにも悲しいのだ。変化していかざるをえない、という事が。

二人の関係の中で、季節は冬が過ぎ、夏も過ぎていった。しかしウォン・カーウァイはそれを克明には描写してしない。思い切り冬服の二人は唐突に夏のシャツに変わり、夏のシーンでもウィンはまだ皮のジャケットを羽織ったままだ。漠然と永遠を信じている人間にとって、季節というものはそれほど重要ではないのだ。ただ、ファイが先に気付いたのだ。季節というものは変わっていくのだということを。そして12時。ファイの部屋に一人残されたウィンもそれにようやく気が付いた。

いや、本当はファイの目はいつだって時間を気にしていた。それも過ぎてしまう前から、過ぎていくだろうことを常に考えては、その不安に揺れ続けるタイプだ。だからこそ祈るのだ。このまま時間が動かなければ、と。それが叶わない夢だと知っているから、なおさら彼の目には不安が色濃く現われてる。

ウィンは、後半近くにファイの住んでいた部屋に今度は一人で住む。
多分、「明日」のことを考えることなんか大ッ嫌いな彼は、掃除も大ッ嫌いだろう。そんな彼がきれいに掃除をし、タバコを山ほど買ってきて並べる。前にファイが彼を一人で外に出させない為に、彼をその部屋に繋いでおくためにファイがしたように。
「俺、ここにいるから」と。
けれど、もうやり直しなんてきかないのだ。

私は、最後近くでファイはウィンのパスポートを彼に返したのかどうかが気になっていた。勿論、その前に、イグアスの滝に一人向かうファイのモノローグで、
「パスポートはまだ俺が」
と言っていた。しかしその後のシーンで、ウィンはイグアスの滝が描かれたランプシェードを見つめるうちに、ふと何かを見つけたような表情をし、そのあと、ベッドの上で泣いているカットに変わる。
私はこの時、あのランプシェードの中にパスポートが入っていると思っていたのだ。それは私の希望だった。パスポートと共にウィンはファイから置き去りにされてしまった。関係はもう終わったのだ。今はウィンはその思いに泣いている。しかしその後、返されたパスポートを手にして過去の場所に戻れば、二人はまた会えるのではないかって。とりあえず、ウィンの中にはそんな希望的楽観が入る余地がまだ残っているんじゃないかって。

でも・・・違ったのね。

ウィンがランプシェードに見たのは、滝を見下ろす二人の人影。
そして彼が見つけたのは荒涼とした「孤独」だった。ここから先はもうないのだという絶望感。永遠にだらだらと続くと思われていたものは、実はもう取り戻すことの出来ない過去になってしまっていたのだ。
どんなにタバコを買ってきて自分をこの部屋に縛り付けようとする素振りをした所で、きっとウィンはわかっていたのだ。それがただの感傷だってことは。
けれど、あのランプシェードを見ていて、ようやくはっきりと自分の孤独を突きつけられたのだ。リセットボタンを押せば再び繰り返される関係、それはウィンだけが信じていた幻想に過ぎないのだということを。

時間はただ流れていく。繰り返しはあっても二度と同じものは戻らない。
残るのは鮮やかな一瞬の記憶。
それがいつまでも気持ちを疼かせ、甘やかな痛みを持って苦しめられる。
ウォン・カーウァイの映画は、いつもそんな瞬間を思い出させる。
だから彼の映画を見るたびに、自分の中にある重なり合ったいつか見た風景を思い出して泣いてしまうのだ。

 


2.「ゲイ映画」というキーワード

この映画を紹介するにあたって、よくこんな記述を見た。それは、「この映画はゲイ映画ではなくラブストーリーだ。あくまで愛し合う二人を描いた映画だ」と。

うーん、なんかこの言葉、ひっかかるんですよねえ。なんだかよくわからない物を口の中に入れられて噛んでいるような、そんな妙な感じ。
これは、「ゲイの映画」と聞いて退いてしまう人達へのフォローなんでしょうか? どうして「あくまで愛し合う二人」の前に「ゲイ映画ではなく」がつかなくちゃいけないんでしょうか?
とは言え、それじゃこれが「ゲイ映画」だとカテゴライズするのも何だか腑に落ちない。何故ならどう考えてもウォン・カーウァイはゲイを描きたかったとは思えないからである。それはあくまでも状況に過ぎない。他の彼の映画同様、ある場所に人物を置いてみた。そのことによって生じる空気を彼は作り出しているのだから。

しかし私は、「たまたま男と男の物語だけど、本質は男と女だって一緒」という語り方は少し違うんじゃないかなと思う。関係、という問題において、それは厳密には違う筈だ、と思うからである。

ファイもウィンもどちらも「女」じゃない。ウィンがどんなに甘えても彼は女じゃないし、いくらマメにウィンの世話を焼いてもファイも女じゃない。
ウィンが縛られるのを嫌うのも、そしてファイが縛ろうとする自分に自己嫌悪を感じながらもどうしようもなくそうしてしまうのも、それは彼らが男だから。いや、勿論女だってそうだけど、でもこの映画の根底に、どんなことをしても拭い去れない「男のプライド」が滲み出ている。

この映画でトニー・レオンの演じたファイってかっこわるくありませんか?
冒頭モノクロのイグアスの滝に向かうファイの衣装も、なんかすごくバカっぽい。その後、道に迷ってウィンと喧嘩別れをする。ウィンは見知らぬ車に手を上げてヒッチハイクをしようとしているけれど、ファイはおんぼろ車に戻りながら一人泣いている。その後、ウィンと再会した時のファイは怒鳴ってばかり。ウィンが時計をパトロンから盗み、それを香港へ戻る旅費にとファイに持ってきた時も、一度は捨てるものの、ウィンが去ったのをちらっと上目使いで確かめた後、何も無かったかのようにポケットにしまいこむしぐさ。

ある意味、すごくかっこ悪いのに、それでもウィンに対する男としてのプライドを感じさせる。あんなによく泣くファイなのに、ウィンの前では泣かない。ぎりぎりの所で超然として見せる。どんなに最低の生活をしていたって、俺はこの男には負けない、そんな意志を感じさせる。 それから例えば、冒頭の二人のセックスシーン。または二人のタンゴを踊っているシーン、ファイの剥き出しの肩にしたウィンのキスでも顕著だけれど、ウィンの表情を見ると、貪欲に快感の中に陶酔し、それを享受しているように見える。ところが、ファイはそうではない。目が、ウィンのそれに比べて熱さを感じない。文字通り「目にモノ言わす」トニー・レオンなのに、ことレスリーとのからみとなると、目の中にあるべき愛情がすごく希薄としか見えないんだよなあ。これを見て、ファイという男は無防備に快感をさらけ出せない男、という風に感じたのね。だってそんなことをしたら「負け」じゃん、って言ってるように思ったの。

ウィンにとっては、気分に応じて甘えたり、誰かの愛情を享受したりすることは、ちっとも「負け」じゃないのね。ただ、彼の快感原則にのっとって、すべてが自分の気持ちのいいように流れていけばいい、と思ってる。それが彼にとっての「勝ち」でもある。それが捻じ曲げられ、従順な服従を強いられることこそ「負け」なのだ。

同性同士だからこそ、微妙に持ち続ける、相手に対する勝ち負けの意識をところどころに感じる。そんな男の姿がどことなく滑稽で、でもそれが一層、彼らの哀切をひきたたせている。そしてとてもリアルに感じられる。
と、女である私は思うんですが。「リアル」というのは、女の私から見たリアルでして、男の人はどう見るのかな?

 

 

3.レスリー・チャンとウォン・カーウァイ

この映画の後のインタビューでレスリーはもうウォン・カーウァイの映画には出たくないって言ってますね。初め、それを聞いた時はものすごく悲しかった。だってウォン・カーウァイの映画の中のレスリーの表情って、他の映画とは全然違うもん。

初めてこの映画でレスリーを見た時は、こんなにきれいな人だとは知らなかった。薄汚れているし、髪は無残にも短いし(鏡の前で髪を直すシーンなんて、「そりゃアンタ、ひよこの産毛か?」と言いたくなるよなヘアスタイルだし・・・)、他の映画の二枚目然とした所はどこにもないし。
けれど彼が出演している他の監督の映画とはある種異なる表情を見ることが出来る。多分、これがウォン・カーウァイの方法なんだろうな。
役者は、映画を作っている最中は、一体自分がどんな役なのかトータルに把握出来ていない。なにしろウォン・カーウァイはその日撮るシーンの台本を当日に渡すわけだし、しかも撮影後でも変更は頻繁なわけだし。その日その日に与えられたシチュエーションで動くだけなんだから。

そしてウォン・カーウァイは役者に「自分の持っているものを自然な形で出すように」と要求する。
ところで「持っているものをそのまま出せ」というのは、実は一番酷な要求だと思う。彼は役者が演技することを厭う。つまりそれは、この映画の世界で本当に生きている姿を見せろってことか。そして役者はとことん剥き出しにされる。自分が今まで意識しているよりも更に深く裸にされる。観る側にとってはそれは新鮮な姿だけれど、役者としては時にはもっとも消耗する方法論だと思う。

そんな方法論だからこそ、ウォン・カーウァイの映画に「スター」は不可欠なんだろうな。しかも、お飾りのスターではなく、彼のアイディアをどんどん膨らませ、広げていってくれるような雰囲気だとか力を持った俳優が。リハはなく、しかし何テイクも執拗に撮り続けていくカメラの前で、役者は様々な表情を出していく。多分、演技している他の映画では出さない顔を露出していく。だから彼の映画の中では多分彼らの本質に限りなく近いものが表出される。先に書いた、「二人の関係の根底に滲み出ている男としてのプライド」というのも、監督が意図したものなのか、レスリーとトニーという役者がぶつかり合うことで出たものなのか、判別が付かないのだ。(いや、実は後者の気がするんだけど)

そう、冒頭のセックスシーン。撮影時のトニーはレスリーに対して「負けるもんか」という感じだったらしい。そうだな、台所でタンゴを踊ってキスするシーンも。なんとなくトニーのその意志はものすごく伝わってしまう。それが見様によっては簡単に快楽に没入する表情を見せない男のプライドとして取れなくもないのだ。映画のラスト近く、チェックのシャツを着た二人が踊っているシーンもそうだ。トニーの目は、この刹那に対する不安を常に抱き続けるファイとしての目なのか、それともトニー・レオンの目なのかわからない。
役を演じている個人と役とが微妙なラインで揺れ動いていて、それが一層ウォン・カーウァイの映画の深みになっているような気がする。

またご承知の通り、ウォン・カーウァイはおそるべくたくさんのフィルムを使っている。そこには、他の映画とは比べ物にならないぐらい、登場人物たちの幾重にも広がった時間と方法の可能性が刻まれていたのだろう。
しかし編集段階で、そこからある一つの時間と方法を選び取っていく。それは、ただ振り返ることしか出来ない、なんとも切ない帰還不能な時間の物語だ。内容もそうなら、監督や役者においてもそうだと言える。その時点でたくさんの「いくつかの可能性」は確かに消え去るが、しかしそれでも剥がれ落ちきれなかった鱗のように映画のなかに微かに残っている。それが不思議な膨らみを生んでいる。

しかし・・・。これは役者にとってはつらいことだろうなあ。そりゃ映画にカットは付きものだとは言っても、ウォン・カーウァイの場合はその程度があまりにも違うし。映画の中で生きていた時間が全く違うものにされてしまうんだもんなあ。それに自分の役を自分でちゃんと作りたいって思うのが役者としての考え方だと思うもん。そう、多分、レスリーはそんなタイプなんだと思う。役者主義。それがレスリーのプロ意識だと思う。結果としての、ウォン・カーウァイの「作品」は認めざるをえない。しかし、役者として作品のコマになってしまうことは我慢ならない。

比べてトニー・レオンの方は、勿論役者としてのプライドはある。しかし彼はもしかしたらもう少し俯瞰的な立場に立てるタイプなのだろう。トニー・レオンはインタビューで、
「最初にこの映画を見た時には自分がイメージしていたものとは全然違い当惑した。しかし2回目からは監督の視点で見ることが出来、そしてこの映画に満足している」
というようなことを言ってますね。多分、ウォン・カーウァイの作品なら、彼の映画のコマになろうと彼にとってはその映画を一緒になって作っているという満足感を得ることが出来るのかもしれない。しかしレスリーの場合は、役者として自分で納得のいく演技をしたい、そしてそれを余す所無くスクリーンの上に表出したいという気持ちの方が強いのだろう。

だからウォン・カーウァイ映画にはもう出たくないって気持ちもすごく納得出来るし・・・。けれど、やっぱり「またいつか」と思ってしまいますね。彼が、「ま、友情の表れだよ」と笑いながらもウォン・カーウァイの映画に出演してくれる日を望んでいます。

 

※初出 美尾りりこ個人Web Site『快楽有限公司

ブエノスアイレス

http://cafematahari.com/r-leslie-buenos.htm

1998年12月


チャン・・・・張震チャン・チェン

『象は静かに座っている』

1988年山東省生まれの胡波(フー・ボー)監督。

長編の『象は静かに座っている』完成後、この世を去る。享年29歳。

234分の作品。

静かでとても淡々とした映画を想像していた。

が、違っていた。

音楽が入る箇所はとても少ないが、きっと若く新しい中国の才能ある音楽家が作ったのではないか、と想像させるような音楽で、そのどれもに心を揺さぶられる。

そして灰色の多い印象の映像。静かに俳優たちの後ろ姿を追い、そして後ろから彼らの見ている風景をじっと見つめる長回しの映像。それらには長い作品ながらまったく無駄を感じさせなかった。様々なことに倦みつつ、それをいくたびも呼吸を浅くしながらも腹におさめ、時間が過ぎることを待つ人々。その呼吸、その時間と共にこの映画はあり、そのための234分だった。

 

北京から南東50km離れた、文京区ではないその荒れた街にはいい学校もなく、高層のアパートは乱立しているものの、どこも部屋は狭く荒れている。

ユー・チェン。多分、唯一の友人がいて、その友人の家で、友人の妻と寝る。そこに帰ってきた友人はチェンの姿を見て、絶望して窓から飛び降りて死ぬ。

ウェイ・ブー。高校生。学校では実業家の息子で学校を暴力で支配するシュアイと揉めている。家では元警察官で足に大きな怪我を負っている父親に疎まれている。

ファン・リン。高校生。ブーの友達。母子家庭。家では仕事の愚痴ばかりで一切家事はしない母親との関係は最悪である。

ワン・ジン。娘と娘婿、そして孫娘との4人ぐらい。娘婿は静かな口調で「娘の将来のために文教地区に引っ越したいが、そこは家賃も高く家は狭く、とてもお義父さんを連れて行けないので老人ホームにはいってくれないか」と頼む。それを断るワン。

この映画はその4人の物語。

人や様々なモチーフ、起こる事件などが少しずつ重なっていくのは、ほんとうによく練られた脚本のせいもある。234分がずっと飽きもせず、ずっとどうなるのだろうという気持ちで見続けていた。

 

ところで、私は香港映画が好きで、そして中国映画にも好きな映画や監督がいっぱいある。それらを通して中国や香港、台湾などを感じたり好きになったり理解しようとしていたりする。そしていろいろ知っていくうちに気持ちはいろいろと複雑になっていく。理解したいが出来ないところ。好きだけど好きになれないところ。そういうものがあることを認めざるを得ない気持ちになっている。とても個人的で身近な例で言うと、何年か前にうちの店の隣に中国人オーナーが店を構えた。最初から何も挨拶はなく、こちらから挨拶に行き、一度食べに行き、会えば話をしていたのだが、次第に様々なことが起こるにつれその店は、うちの店を含む周囲の店と決裂した。今日、この映画を観ていると、その登場人物の多くはどんな状況でも絶対に謝らない。4人の登場人物はそれぞれ、いろんなことに巻き込まれる。理不尽な目にあう。例えばワン・ジンは自分の犬を他の犬に噛み殺される。その怒りと悲しみで飼い主の元に訪れるが、そこに謝罪はない。一切ない。「証拠はあるのか」と言われ、さらに責任はいつしか転嫁され、被害を受けた側がまるで反対に加害者であるかのように詰られる。わあ、これだこれだと映画を観ながら思う。私たちが隣人から受けたあれこれはまさにこれだと。そしてこの映画を観て不思議な気持ちになった。こういう、いわゆる中国的な対応を受け、この登場人物たちは心底うんざりした様子でじっと耐えている。耐えてはいるが、もうその辛抱も表面張力いっぱい、といった様子。そうか、おなじ中国人同士でもこんな対応にもううんざりなんだ、と。

いろんな思惑、経済的格差、政治的状況で、中国という大きな国はずっと揺らいでいる。こんなに広いのに、どこへも行けないのか。どこへ行っても同じなのか。様々な人が、作品が、監督がそう問う。ジャ・ジャンクー監督の『帰れない二人』もすごくよかった。そしてこのフー・ボー監督の『象は静かに座っている』に映る様々な景色も、そして人の心の中の荒地も、とても突き刺さった。

そうそう、改めて中国の地図。舞台は北京の南東、河北省石家荘市陘県。そこから北京まで行き、バスで瀋陽を目指し、さらに内モンゴル満州里を目指す。2300kmの旅。日本で言えば札幌から鹿児島までの距離らしい。

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『象は静かに座っている』予告編

2019年11月 ハノイ

2019年11月12日(火)~17日(日)

3年ぶりの海外旅行。2度目のベトナム。初めて訪れるハノイ

セントレア国際線での手荷物検査や入出国カウンターに変化があり、少し驚く。

飛行機はチャイナエアライン。台湾経由。

ホテルはホアンキエム湖からわりと近くにあるアンティーク・レジェンドホテル。

 

旅に出ると、いろんなことを再発見する。自分の中にある小さなことなどを。

ツアー、苦手な自分、とか。

遠くにある景勝地や観光名所、武田は絶対に行きたいと思う。旅の予定は武田任せの私は実を言うと、そういう地に行くのを結構面倒くさいなと思ってる。

「でも、舟に乗ってこういうところを巡るんだよ」と写真を見せてもらいながら聞いてると『舟は乗りたいな・・・』と都合よく思う。結局、何が苦手って、見知らぬ大勢の人と一緒に行くのがかなり苦手だってことだ。私は普段から英語を勉強している。そして自分の勉強のためにも実際に英語を使いたいと思ってる。そしてその勉強とは、いろんな国の人とコミュニケーションを取りたいがためだ。それなのに、いざ海外に出ると不特定多数の人とコミュニケーションを取ることが果てしなく面倒くさく思える。え、私、普段はそういう仕事をしてるんじゃないの?と自問自答。なんなの、この休日の私のコミュ障っぷりは。そしてツアーでは私はガイドさんを決して困らせない客に徹する。絶対に人から遅れない。必ずガイドさんにぴったり着いていく、ただそれだけの小心者のツアー客でいることに徹する。それが楽しいかといわれると甚だ疑問。だからツアーは苦手だ。

そんなふうにして行った世界遺産ハロン湾とティエンクン鍾乳洞ツアー。

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翌日のチャンアンのニンビン省、ホアルーという都のバイディン寺。それから女性船頭さんの手漕ぎ船でチャンアンの絶景を巡る旅。いくつかの洞窟を潜り抜けたり奇岩や美しい緑の囲まれた絶景を2時間かけて巡る。3~4人乗りの舟は各地からのツアー客でいっぱいだが、いざ乗っていると本当に静かで、鳥の声を楽しみ、水の美しさに嘆息し、奇岩や緑を楽しむ。すごく良かった。

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さてハノイ市内では、2階建てバスでハノ旧市街を巡り、その後アオザイを着て再び旧市街をシクロで巡った。また別の日、週末金曜夜からホアンキエム湖の周辺は歩行者天国にあるので、そのあたりをずっと散策して過ごした。

ハノイの交通事情と大気汚染はとにかく酷い。冬のせいもあるけれど、空はほぼどんよりしている。排ガスと粉塵が主な原因だそうだ。そして車やバイクが多く道を歩くのが大変なことはホーチミンでも経験していたけれど、ハノイ旧市街はそれ以上だった。歩道には駐車バイクがあり、そして店先には机と椅子が置かれて路上で調理をしていたり食事をしていたりするので、道路を歩かねばならないことが多い。さらに、時々信号があるのだけれど、信号を無視する車やバイクの多いこと。これは日本では考えられない。決して車どおりが少ない道でもなく、そして信号の変わり目でもない。交通量の多い交差点で、信号は赤でも、平気でバイクが突進していくのだ。道を歩きながら、自分の命は自分で守る、といつも思いながら歩いていた。そう、ハノイで感じたのは、あまり中途半端に他人について思いを寄せないのではないか、という印象だった。良くも悪くも。ここでこんなことをしたら他人に迷惑がかかる、という発想があまりない。まずは、自分の都合が優先。

そして歩行者天国となると、市場が開かれ、あちこちでいろんな催し物があったり、ダンスをするサークル、太極拳のサークル、またベトナムで人気のダーカウ。円陣を組んでバトミントンの羽状のものを地面に落とさないように足で蹴りあうスポーツをやってる人たち。インラインスケートを楽しむ人たちも多数。

どの人たちもとにかく自分の都合が優先で、人混みの中で時に危険ではないかと思うけれども、そんなときこそ、自分の身は自分で守りつつ、好きなことを楽しんでいる。本当にカオスだ!ホーチミンハノイ、どちらが好きかと問われると、ハノイのほうが好きかもしれない。

ベトナムは食べ物が美味い。買い物は定価が表記されていなくてもバリ島などと違ってそんなに高値から交渉がスタートすることもなく楽だ。朝から運動をしてる人たちに、人目など関係なくダンスをし体を動かすおばちゃんに、市場の活気に、いろんなものから「生きること」とか「生き抜くこと」を考えさせられるハノイの旅だった。

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ひとよ

『ひとよ』を観た。予告から想像したのは、子供たちに暴力を振るう夫を殺した母親(田中裕子)が服役を終えて帰ってきた、ある一夜の話、かと思っていたけれど違っていた。「ひとよ」の意味はなんなのか。

白石和彌監督の作品のうち、『凶悪』『彼女がその名を知らない鳥たち』『孤狼の血』を観ていない私が比較を語るのはどうかとは思うけれど、『ひとよ』が私には群を抜いて良かった。まず脚本が素晴らしかった。そして時々混じる演劇的なセリフとそれを発する役者の芝居、それだけで泣いてしまった。

(あらすじ)
タクシー会社を経営している夫婦。その子供たち3人。長男・大樹(鈴木亮平)、次男・雄二(佐藤健)、一番幼い長女・園子(松岡茉優)。父親は常に子供たちに暴力を振るっている。
母親、こはるは子供たちを守るため夫を殺し、用意しておいたおにぎり子供たちの前に出すと、父親を殺したこと、そして自首することを子供たちに告げる。「これであんたたちは自由に生きられる。どこにでも行ける」と。そして服役を終え、ほとぼりがさめた15年後、必ず帰ってくる、と。その後、会社はこはるの甥である丸井(音尾琢真)が引き継ぎ、何人かの従業員も抱えながらタクシー会社を続けていた。新しいタクシー運転手、堂下(佐々木蔵之助)も雇い入れる。次男の雄二は東京に出てフリーライターに。長男の大樹は結婚して娘を一人作り、地元の電気屋で働いている。長女の園子は美容師になることを夢見ていたが、美容学校での苛めに挫折して地元のスナックで働いている。そして15年後。とうに出所していたがずっと音信普通だったこはるが約束通り帰ってきた。園子の要請で雄二も久々に地元に戻ってくる。。。

 

確かに暴力で子供たちを縛り付けていた父親がこの世から消えれば自由になれるはずだけれど、現実はそうではなかった。殺人者のコドモとなった彼らは世間から冷たい仕打ちを受け、子供のときに夢見ていた未来を手に入れることは困難だった。さらに彼らは、母親の愛情のこもった「自由に生きられるし、なりたいものになれる」という言葉に呪われたのだ。園子(松岡茉優)が言う。「これはかあさんが親父を殺してまで作ってくれた自由なんだよ」というが、その言葉通りの自由に生きるということがいつしか彼らの重い責任のようになっている。それでもこはるは、子供たちからしたら怖いぐらいの飄々とした様子だ。大樹も雄二もそのことに戸惑っている。しかし、こはるは、そっと小さく心を打ち明ける。「自分がしたことを疑ったら、子供たちが迷子になっちゃう」と。
でもほんとは、もうずっと子供たちの心は迷子になったままだ。私はそんなふうに思いながら見ていた。例えそれがどんな理由であったとしても、そばにいてもらい、愛してほしいときに、それを求める対象がそこにいなくなってしまったとき、どのように心に決着をつければいいのか。そして大人になって会った時、どんな言葉で話せばいいのか。例えば大樹は、一旦ガラスの引き戸を閉めた。雄二は敬語を使った。私は彼らのその感情がとてもよくわかる。もう15年前と同じ気持ちでいられない、でも中身はまだ十分コドモである彼らは、どうやって母親との関係を結びなおすのか。映画の中でいろんなことが起こっていくが、それが強引だとは思わせず、とても自然な流れとして最後にむかって収束していくところは本当に見事だった。
この家族を取り巻く人として、音尾琢真筒井真理子MEGUMI、佐々木蔵之助、などなどがいて、それぞれの俳優が素晴らしいし、配役のバランスもすごくいい。例えば、こはるがある理由で意図的に万引きをする。その理由を知り雄二が「だからって他人を巻き込むんじゃねえよ!」と言うとすかさず、こはるの甥である丸井(音尾琢真)が「巻き込まれようよ!こんなふうにしか気持ちを伝えられない人なんだから!」というところ。その切り返しの良さに一瞬で胸を打たれ、ここはちょっと笑いを含むシーンであるにも関わらず泣いてしまった。丸井は他にも「こんなに一日中、タクシーのことばかり考えててさあ。俺、本当は漁師になりたかったのに」という名セリフもあった(笑) 最近のMEGUMIは何に出ても脇でとても印象的な光り方をしててとてもいい。
後半の佐々木蔵之助の凄まじい演技と、それに真っ向から挑む佐藤健のシーンも胸を打ったし。松岡茉優は、なにに出ても「この役は当たり役じゃないか?」と思わせる。すごいな。この『ひとよ』の園子もとてもいい力の抜け感があって、彼女の演技を見ていると「リアリティ」という言葉が浮かんでくる。こういう女の子のリアリティを細部にわたって演じているように見えるのだ。そして、何を考えているのかわからないようにさえ見える表情もあえて乏しい演技で、観てる側の予測もどんどん裏切りながら圧倒的なものを伝えてくる稀有な女優、田中裕子がやはり凄かったな。気がついたらこの人は怪優と呼ばれてもおかしくないほどの女優になってる。

そうそう、タイトル「ひとよ」について。クライマックスで堂下が慟哭しながら「じゃあ、あの夜はなんだったんですか!」というシーン。それに対してこはるが静かに「ただの夜ですよ」と応える。このセリフが本当に良かった。映画やドラマにない、とても演劇的なセリフ回しだと感じた。

誰かにとってどんな夜でも、それは誰に上にもあるただの夜。
それが、この「ひとよ」の意味ではないかなあと。それでも、それが自分にとって特別なものであるのだとしたら、それでいいんじゃないか。ああ、あの「ただの夜ですよ」という言葉も、田中裕子だから出せるニュアンスなんだろうなあ・・・

もうヤバイぐらい泣きっぱなし。そしてすごくいい映画だった。


佐藤健の無精ヒゲ姿…『ひとよ』本予告

 

『ホットギミック』良すぎ問題

(ちょっとネタバレありますからね)

映画『ホットギミック ガール・ミーツ・ボーイ』が予想以上にめちゃめちゃ良かった!!

誰が私の初恋なのか。

「全然わかんないよ・・!」

このナレーションから始まる予告映像を見た限りでは観る選択はなかった。

だって予告からすると自分に自信がない少女、初(はつね)が3人の男の子(しかもイケメン)のそれぞれの想いの中に翻弄されて・・・みたいな話で、自分に自信がないとかって、えー、アンタ十分に可愛いのになにさ、キーッ!みたいな気持ちになるじゃないですか。しかも初恋初恋て、私はもうそういうのあんまり響かない50代半ばですから、キーーーッ!みたいなね。


堀未央奈『ホットギミック ガールミーツボーイ』予告編

 でも監督は山戸結希。それなら観るしかないか、と思った。「やっぱり山戸結希は作品を通して追っていかないといけない監督だよね」と友達と、まるで何様?みたいなことを言ったりもした。

そして見終わって、劇場を出て、一緒に見た友達に「どうだった?」と聞くと感極まったように「めっっちゃ良かった・・・!」というので「私も・・・」と言った途端に激しく感情が込み上げてきて思わず涙が出てしまい、やっとのことで「山戸結希の作家性が・・・・すごく良くて・・・!」と答えるので精一杯だった。

原作は読んではいないけど大雑把に言えばこの物語は女の子の夢がいっぱい詰まっている。主人公は頭は良くない、友達もそんなにいない、特技もないし夢もない自信も持てない普通少女。彼もいないし、キスやセックスを経験している女の子とは違うステージにいる「未満」な女の子。そういう女の子の前に突然、新しい世界が降ってくる。それはまさにみんなの夢→同じマンションで育った幼馴染み、モデルの男vs頭脳優秀vs一緒に育った優しい兄(not 血縁)。今までの現実と地続きのはずなのに、そこは急に新鮮、だけど棘だらけの世界に変容する。

この原作をが山戸結希がかなり「山戸結希の作品」にしているのではないかと思う。

 

始まってすぐ、人物の顔のアップと短いカットが続いていくことにちょっとドキドキした。その映像はまるで恋の始まりのようではないか。好きな人のことを断片的に頭の中に思い浮かべているようで。

映像作品の中で長いカットがあると私はドキドキする。そのドキドキは、回ったままのカメラの中で、そのフレームの中で、俳優は何を感じどう動きセリフを言うのかを思い、その緊張感を思ってドキドキする。私の目の中心はそこに動く俳優にある。

けれど山戸結希の『ホットギミック』はその反対で、顔のクローズアップと細かいカットが多用され、また同じシーンでも風景の色合いが暖色だったり寒色だったりかわるがわるに変化したりもする。そこで私が見ているのは、俳優、そしてスタッフを動かしている山戸結希監督の作家性だった。明らかに私は山戸結希の作るものにドキドキしている。山戸結希が描いている10代の少女たちへの想い。同時に男の子たちがみな、美しく、そして恐ろしく描かれている。それは過去作『溺れるナイフ』もそうで、あの菅田将暉は本当に美しくて存在が儚くてそして恐ろしかった。

 

溺れるナイフ』の小松奈菜がそうだったけど、『ホットギミック』の主演の堀未央奈、妹役の桜田ひよりがとてもエロい。色っぽいではなく、エロい。内側からエロさが満ちている。10代の女の子たちのカラダの中には、外に出せない、形にならない性欲が入ってる。産毛がキラキラしてる薄く張り詰めた皮膚の内側には、彼女たちは何か特別のもの、女の子を見つめる誰かにとってすごく特別なものを入れている。きっと歩くたびに、たぷん、たぷんと音がするのではないかと思うなにか。

 

作中のマンション、あのマンション(実際は豊洲のUR賃貸 東雲キャナルコートらしい)の造形や佇まいが映画の中でとんでもなく美しい。そして巨大な巣のようだ。性的なナニカを秘めた、巣。孕む機能を持った女がそこにいる。性交する体を持った男と女がそこにいる。その巨大な巣は有機的で整然としていて、そしてとても窮屈。

主人公の少女、初は3人の中のある少年と手に手をとってその巨大で窮屈な巣から逃げるように走り出す。その重要なシーンでのロケ地が豊洲ぐるり公園という湾岸に面した公園。そこからの風景が本当に美しい。その風景の中で初の中の「少女」が炸裂するのである!カラッポだった初という少女のカラダから閃光を放ち絶え間なく放たれる「少女爆弾」。好きは好きだし、でも恋とか関係とかに永遠なんて言えないし、わからないことはわかんないし、誰かに支配されたくないし、カラダの中には性欲があるし、そして自分のカラダは自分のもの。揺れて、さっき言ったことと今言ったことが違っても全部ホントのこと。山戸結希は少女の心の中にある溢れんばかりのものをとても丁寧に掬い取り、そしてそのすべてを爆弾に変えていく! ただ、そのことに、私はこのシーンで泣いてしまったのだ!(それは山戸監督作『おとぎ話みたい』クライマックスでもそうだったなあ)

 

しかしあの美しい風景が、最後のエンドロールでは黒みの強いモノクロになる。それもすごく面白かったなあ。湾岸の向こう側には高層ビル群のキラキラしたネオンを反射してたゆとうあの海が、どんよりとした黒い海に変わる。美しくも怒涛のクライマックスシーンの風景が一変してこのエンドロールのモノクロ。そこで私が感じたのは、3人のイケメンの男たちの初恋に翻弄される主人公、初は、もちろんこの映画の中で主人公であり特別な存在だけど、物語が終わったときそれは世界中の数え切れないほどの女の子たちの中の一人で、彼女と彼女じゃない女の子の見分けもつかない。そういうことなんだと思った。けれど最後に光る東京スカイツリー。ああ、やっぱり! たくさんのなかのひとりだけど、それでもあの女の子はここにいる! ひとりひとりは、それぞれの物語の中でこんなふうに強く光っているんだ、とそんな風に感じたんだ。

 

 

 

『ポルノグラファー』そして『インディゴの気分』

先月。いわゆる「沼」というものに落ちてしまった。

 

いつものように気になる映画とかまたはその原作になったものなどを検索しているうち、なぜかこのドラマのタイトルが目に入ったのだ。

BL作品が原作でFOD(フジテレビオンデマンド)制作ドラマ『ポルノグラファー』。

FOD。1ヶ月無料視聴ありか。

1日迷った末、登録をする。

そして観た。1話25分ほどの全6話。1話だけ見るつもりが6話分、約2時間半、一気に観てしまった。翌日からはその続編の「ポルノグラファー インディゴの気分」を観た。今度は、見終わってしまうことを恐れつつ、1話ずつ丁寧に。

官能小説家、木島理生。自転車に乗っていて木島を転倒させたことがきっかけとなり出会った大学生、久住春彦。木島の担当編集者、城戸士郎の3人の物語。

とりあえず、ここではこの作品の内容については語らない。

ただ、これを見て以来、いろんなことを考えている。

改めて、BLとは。またはレディコミとは。

男性の性嗜好とは方向性が異なる、性描写よりも物語を重視する女性のための、自由な性表現。ポルノグラフィ。BL及びレディコミにはそれが重要なファクターになっていると思う。

それらの意味について理解した上で、しかし実を言うと私が作品に求めているものはそこではなかった。まさに『ポルノグラファー インディゴの気分』で木島が言う「道具としての作品」が好きではなかった。ただ、私の性癖と言ってよいのか、そこにすぐれた物語、または描写が存在する男性と男性が紡ぐ物語を高校生の頃から密かに偏愛していた。

後に読んだ原作のマンガ『ポルノグラファー』は面白い作品だったが、ドラマ化した『ポルノグラファー』と『インディゴの気分』にはBL作品としてのマンガとはまた違う方向性を持って性描写を真摯に描いている。勿論ドキドキしながらも、そのことについて目が覚めるような思いもした。

人が出会う。そこに喜びも生まれると同時に寂しさも際立っていく。欲望も生まれる。人を求めるその先にはセックスもある。それは誰にとっても日常である。殆どのドラマや映画ではその描写はとても曖昧にぼかされるけれど。しかしそれをとても丁寧に描いていることが本当に本当によく伝わってくる。喜びも痛みも苦しさも。そうだ、これは描写として隠したり外したり、あるんだかないんだかわからないものとして描かれるべきものではない。唇が触れるだけのキスと舌が絡まるキスでは、そこで生まれる感情も、感覚も、快感も、違うでしょう? それってとっても大事なことでしょう?それを欲情させるためのポルノとしてではなく(その意味はないことは、ないけど)とても自然なこととして描いている、のではないかな、このドラマは。

 

・・・そんな感じで、いろんなことを考えている。

勿論、いつしか俳優、竹財輝之助にどっぷりとハマりながら。

まさに、沼。

 

さて。FODで配信される『ポルノグラファー』の配信は2019年7月27日で終了予定だそうです。

心っっから、つよくつよく、観てみることをオススメします!!

www.fujitv.co.jp

 

父に会う

私はおとうさんのことが結構好きだよなあ。

そんなふうに時々、すごーく時々だけどそう思う。

高校のときに一度、そんなことを日記に書いたことがある。

そういう気持ちは、きっとおとうさんもおかあさんも誰も知らないだろうし思いも寄らないことかもだけど、おとうさんのいろいろが結構好きだなあ、とそんなふうに考えている。高校のとき、美術館である宗教画を見て思ったんだ。多分、イエスが亡くなった男を腕に抱きかかえている絵で、私はそれを見た瞬間とても泣けて、そして私は、自分が死んで、それをこんな風におとうさんに抱きかかえられて悲しんでもらいたいと思っていると気付き、そんな自分がどこか哀れな気がしてまた泣けたのだった。

私はそれほど長い時間を父親と暮らしてはいない。とは言え、早くに父親を亡くした人や単身赴任で父親と離れて過ごしている人に比べたら大して言うほどの短さでもないような気もする。しかも父、まだ生きてるし。ただ私が21歳で家を出てからこの34年間、会ったのが時間にして多分、24時間よりは多くても48時間には満たないのではないか。それが人と比べて多いのか少ないのかわからない。少なくとも心の距離としてはとても離れていた。

その私が自ら父に会いに行った。父は3度結婚している。父の2番目の妻の子である私と弟(私はこの弟とは別れて育ったのだが)が、先ごろ3番目の妻であり私の継母だった人を亡くし、その四十九日を終えた父に会いに行ったのだ。弟には父の記憶はなく、成長してから会ったのはこれが3回目。父が今ひとりで住む家に行くと、私の義妹とその娘、そして私のいとこが待っていて、私たちはみんなで昼ごはんを食べに行った。

私と弟は父の話を聞いている。父は主に私たちの祖父、自分の父親の話をする。私は幼い頃、九州に住んでいたそのおじいちゃんに会うのが楽しみだったし好きだった。九州の海や神社の蝉、1ヶ月だけ通ったそこの小学校、古くて大きな家など様々な思い出があるけれども、祖父がどんな人だったか、どんな生き方をした人か、改めて聞くのはとても興味深い。

父の話を聞いていて、もしかしたらいいところばかりを紡いで少しは盛ってるところがあるかもしれないと思った。父は過去に家族に関することでいろいろ悔しい思いをしたこともあったに違いない。けれど今、86歳になる父は、自分の父親がどんなに優秀な人だったか、どんなに清廉な人だったか、それを心から誇らしげに語る。

ただ、そこから祖父、父とその兄弟、そして私たちの代から妹やいとこの子どもたちとぐるりと見渡すに、祖父の優秀な頭脳、そして学歴などを引き継いだ人間は何故かほぼいない。芸事の好きだった祖母の血をどうやらみんな受け継いでいるようだけど。さらには、次世代がみな、親世代を反面教師として生きているようにしか思えない。政治家になった祖父だけどお金儲けは下手で清貧だったという。それでその息子たちはみな、学歴は乏しいが自ら会社を興すという生き方を選んでいる。その次世代の私は、そうやって働いでお金を稼ぐことに生きる親を見て、「お金はそこそこでいい」という生き方を選んでいる。

ただ、自分の父親のことを大切に語る私の父を見ながら、様々な不満や恨みにもきちんと落としどころを見つけたのだ、と思う。

父親が語る自分の父親、私のおじいちゃんは本当に優秀で、スーパースターで、どこに行ってもおじいちゃんが一言口利きするだけで大きなことが動く政治家としての力を持った人だという。けれども、本当にそういう局面もあったのだろうし、うちのおじいちゃんごときではなんともならない案件など山のようにあったと私は思ってる。そしてきっと、武田のおじいちゃんだってすごい人だったし、私の友達のおじいちゃんもすごい人だった。亡くなったすごい立派なおじいちゃんたちが身の回りにいっぱいいる、と思うと、なんかもうほんと、どんなふうに生きたっていいや、私たちはみんな結局はとてもちっぽけで、ちっぽけだけどもそんなふうに自分に繋がる人たちはすごかったなあなんてことを単純に嬉しく思ってる、ぐるぐるした環の中のひとつにいるんだなあって思えてくる。

 

God's Own Country

私はこの映画を、生きる、というシステムの映画だと感じた。

God's own country.

神の恵みと地、と呼ばれるイギリス、ヨークシャー州。

父親の牧場を継ぎ、たったひとりでそこで働くジョニー。ジョニーはこわい目をした父と祖母と共に過ごしている。

 

この物語をジョニーとゲオルグというふたりの男の関係で描いたのはとても面白い。男性と男性。それは自然ではない、特殊なことなのか。

この作品はジョニーと移民の娘、という設定で描いていたら行き着くことの出来ない物語だったと思う。

「自然」とはなんだろう。

そこに牛がいる。羊がいる。厳しく広大な土地がある。それが自然か。

しかし牛も羊も人の手を借りて食べ、出産し、死ぬ、家畜だ。

女がいて、その息子がいて、さらにその息子がいる、血縁で繋がった3人。その構造が果たして自然か。男と女が結ばれること、家を継ぐ、親の面倒を見る、そうした、いつの時代からか正しいとされた構造が自然か。

ジョニーは男を見て発情する。それは動物の目のようで、どっちが力が強いか、オスとして強いか見極める。欲望はあっても愛ではなく征服。キスはしない。ただ後ろから挿入し、射精すればそれで終わり。その行為は動物としてとても自然に思えた。

ジョニーとゲオルグとの間にも、動物としてのとてもシンプルな構造があった。どちらが強いのか。その強さは力なのか、人種なのか。それとも智恵なのか。ジョニーはゲオルグの強さに負かされたとき、強さとは何かと言うことに初めて行き当たる。

「自然の素晴らしさ」を口にする人がいるけれど、自然とは強さで縦割りにされたシンプルで残酷なもので、人にとって生きるとは、それよりももうちょっと愉快に生きていく方法を探すことではないか。

親から受け継いだ牧場の仕事を拒否することなく、こわい目をした父親と祖母の下で暗い眼をして生きていたジョニーは、ゲオルグに出会ったことで強さや男女差や職や学歴や人種で上下が分けれらるのではなく、複雑で豊かな関係を知る。ふたりでもう少し愉快な気持ちで牧場で働き、生きていく道を模索する。生きるとは、そういうことなのだなあということを感じた1本だった。

 

finefilms.co.jp


映画『ゴッズ・オウン・カントリー』予告編

 

 

 

 

 

母の葬式

今日は私にとっては血の繋がっていない母の葬式だった。私は10歳から20歳までをその母とその家族、私の実父、そして新しい妹たちと共に暮らしていた。

葬儀のはじまる45分ほど前に着いたのだけど、私は葬儀の場のどこでどう振舞ったらいいのかわからない。斎場の人にご記名をと言われ、一応親族の私が記名するのかどうかよくわからない。受付で香典を出したのだけど、家から長いこと離れている私には受付をしてる女の子たちが誰なのかわからないし、そして何と言えばよいのか。「このたびはご愁傷様でした」ではおかしいよね。黙って香典を出し、返礼品も黙って手を振り断った。

葬儀の時間まで随分ある。斎場を覗くと母の棺の前に一人座ってる父を見つけ、近寄って声をかけると、父の目は泣きはらしたあとのようで、そしてひとことふたこと言ったあと静かに泣き出した。私は父の肩に手を回して肩や背中をそっとさすった。そんなことをするのは初めてのことだった。控え室を覗くと10歳下の妹がチャキチャキと采配を振るっていた。

「お姉ちゃん来てくれてありがとね!」と言い、「お姉ちゃんは親族の席で、一番前の左のほうに座って」と言う。父が座り、妹夫婦が座り、私と武田はその隣に座った。本当に私は参列者の顔を見ても誰が誰やら殆どわからない。しかもみんな喪服なので時折武田の顔さえ見失う。母のことは秋に一度見舞っただけでそれ以来今日まで何一つしていない。その私が親族の席にいてどう振舞えばいいのか、とにかくわからないのだ。

そして私はそこにいて、なにひとつ悲しくないのだ。棺の中にいる母を見ても。飾られている母の写真はちゃんといい顔をしていて、他人事にように良かったなあと思う。でも母の死に対して悲しみがまるでないのだ。泣いている父や弔辞を述べようとして号泣してしまう妹の姿に私はとても心を打たれているのだけれど。

出棺のときに知らない人たちが何人か泣いていた。母には泣いてくれる友人がいるということに私は少しびっくりしていた。火葬場に行き、妹の子供たちが棺の中の母に「ありがとう!」と声をかけて泣いていた。それにも驚いた。そうか、君たちにとって祖母であるあの母は「ありがとう」っていう存在だったんだ。私は、あの母のことをこんな風に悲しんでいる人たちがいることに驚きと共にしみじみと感動しているし、そして悲しんでいない私はこの人たちのそばにいるべきではないという思いもしていた。

火葬場で私はみんながいる控え室ではなくロビーで所在無く待っていた。

随分経って妹と、子供のころから妹の身近にいてくれてる人たちが多分ぽつんとしてる私を気遣って来てくれた。妹は、母の葬式という節目になっても何もしない私を責めることもしない。本当にそんなこと現実なんだろうか。「家」から逃げ続ける私を誰も責めないなんて本当のことなんだろうか。そんな気持ちもある。そういう気持ちを妹にどう伝えればいいのか。母の介護から最後まで看取った妹やその周囲の人たちに感謝しかないことを伝え、そして母のことをいろいろと話した。

母については「不条理なことを言って怒る」「本当に酷いことを言われた」「キツい人だった」など散々なことをみんなが言う。いわゆるメロドラマ的な、血の繋がっていない子供である私に対してだけそうだったのではないということは私も子供の頃からわかっていた。母はいつでもすべてのことを犠牲にして働いて金を得ることをずっと自分に課していた。自ら体を痛めつけるような生活をし、痛みこそが自分の人生であると誰かに訴えているような生き方だった。母は誰に対しても鬼のようで、手負いの獣のような人でもあり、私を含め子供たちは愛情をかけてもらったという実感が無い。それで私は成人してから家を去り、もうひとりの妹も後年、自死を選んでしまった。

しかし、その母が後年、とても変わったとのことらしい。私を含めた3人の娘に寄り添わなかった分、孫を愛したのだろう。仕事をやめてからは本当に穏やかな人になったらしい。「あんなに苛められた」「酷い扱いを受けた」という人たちが葬儀場で、火葬場で、涙を流している。

本当に、本当に、私は母の死に立ち会わなかったことを悔やんでもいないし悲しくも無いのだけれども、最後に闘病している母の時間に寄り添ってくれた人たちや死に際して泣くたくさんの人たちがいることに静かに感動していた。

私は、昨年秋に見舞ったとき、あの全身で怖くて、私を否定してばかりの母が私を見て「ああ、なんか幸せそうな顔をいい顔をしてる。幸せなんだね」と言ってくれて、ああこれでもう私はいいや、と思った。多分、殆どの人が結局はあの母の人生について同情している。多くの人がかつては母のことを憎んでいた。それでもあんな生き方だったのは母の生きた時代と、そして彼女の生育歴のせいだったのだろうと知っているし、時間が経ってもうなんか全部許そうって思っているのだろう。私は憎しみではなかったけれど、愛情を得られなかったということだけが何よりつらかったな。でもそれも、この言葉を得たからもういいや。満足です。そして18年前、何より母に愛されたいと思いつつ自死した妹も、母を待ちわびているに違いない。それもひとつの幸せな帰着のように思える。

 

久しぶりに実家に立ち寄った。私が途中からあの家の子供になり、更に母に子供が生まれるということで建てた家だからもう45年が経っている。リビングがもっと広かった覚えがあるけれど、とても狭かった。外から見たらすごく寂れていたけれども玄関には花があり、家の中もきれいになってた。リビングには母の介護ベッドが置かれてあり、そこに母の若い頃の写真と父のかっこいい写真が飾ってあった。その部屋にはとても幸せな雰囲気が漂ってた。母の最期には愛情がいっぱい満ちていたのだろう。私はそれを見たことで本当に満足して家を出た。

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なんだろこれ。この飛んでるの、うちの父。父が亡くなったらこの写真、欲しいな。

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「夜明け」

是枝監督の助監督だった広瀬奈々子初監督作。

主演は柳楽優弥

柳楽くんは顔立ちが濃くて、濃すぎて、『おんな城主 直虎』や『銀魂』などのけれん味ある役がとても似合う、と感じていた。もちろん、『ゆとりですがなにか』や『アオイホノオ』の柳楽くんも好きでしたけど。

そして、『誰も知らない』のあの柳楽くんは、もう二度とない、あの時間・あの映像の中にしかいない少年だった、と思っている。

ところが今回の『夜明け』を観ながら「ああ、あの『誰も知らない』の少年が成長したようだ。なんとか大きくなって今ここにいて、そして橋の上で泣いていたんだ」などと思ってしまうのが不思議。

 

『夜明け』は、ホモソーシャルな世界だなあ、と思って観てました。

哲さんは亡くした息子への喪失感から、拾ってきた青年シンイチを求める。従業員の宏美と再婚することはその前に決めていたのに、シンイチと出会って、死んだ息子と同じ名前のシンイチと出会って、擬似親子のようであり、師匠と弟子のようでもある男だけの世界のほうにより惹かれていっているようでした。

もう一度誰かと寄り添うならと選んだ宏美との生活だったはずですが、宏美、宏美の元夫との娘、宏美の母親の女系家族より、熟練工である従業員の男たちと息子のようで息子ではないシンイチとの男だけの世界のほうに、きっと哲さんはより惹かれている。本当に、その世界はとても煌いて見えた。

けれども、その世界の底を覗くと、そこには「秘密」や「言えないこと」や「見ないようにしてること」がある。実は彼らはかつて、そういう世界の中に生きてました。哲さんは決して妻や息子とうまくいってたわけではなさそうです。妻や息子の気持ちから少し目をそらせて生きていたのではないでしょうか。シンイチ、ではなくて光も、多分そのように生きてきたのでしょう。家族を失った哲さんと、生きる意味を失っている光が出会い、そこで生まれた小さな世界にもまた、秘密と言えないことと見ないようにしていることが降り積もっていきます。

「シンイチ」を剥ぎ取った「光」が再び選んだ世界は、哲さんを傷つけたでしょう。光だってずっとシンイチのままでいられたらという想いはあったでしょうし、そんなあやふやなままの夢を見ていたかった、と映画を観ている私は思いました。それでもまた、もう一度新たな世界を選びなおさないといけないのでしょう、光は。

もうなにも見ないことにして生きていくことを、やめるために。

夜が終わって、また朝が来る・・・・。

 

  • 青年「シンイチ」/芦沢光 柳楽優弥
  • 庄司大介(木工所の従業員)YOUNG DAIS
  • 米山源太(木工所の従業員)鈴木常吉
  • 成田宏美(哲郎の恋人)堀内敬子
  • 涌井哲郎  小林薫


映画『夜明け』予告編

それにしても。柳楽くん、ほんっと顔のパーツが1つ1つ、美しいわ。。

 

 

小さな奇跡の集まり

昨夜。

大きなスーツケースとデイパックを持った男性のお客様がふらりといらっしゃった。

ワインとサラダを注文され、その後うちの店の名前「春光乍洩」について質問されたので、その意味を簡単にご説明した。

そのあと、「この店は映画関係者や・・・あと作家がよく来るの?」

壁の川上未映子さんのサイン色紙を見てそうおっしゃる。

川上未映子さんはちょっとご縁があって、うちでライブをしていただいたことがあります」と私は答えた。

「僕、ちょうど今、新幹線の中でその方のダンナの本を読んだばかりで」とその方はおっしゃるので「阿部和重さんの、ですね」と答える私の中に、何かしら小さな縁とこの男性への興味が沸いてきた。

名古屋の方ではなく遠くからいらっしゃったというその方と、シネマスコーレやシネマテークの話を交わす。その方はある映画を撮り、その映画はシネマテークで上映されたとのことだった。その後、店内に置いてある雑誌を1冊、手にとられた。2013年の「映画芸術」。これはうちの雑誌ではない。現在「原恵一映画祭 in 名古屋」のメンバーが今週までと置いていった原恵一監督に関する書籍や雑誌のうちの1冊だった。それを男性はパラパラと見たのち、「ああ、やっぱり。見覚えのある表紙だと思った。僕、ここに寄稿しているんですよ」

ページを開くと、2013年公開の、ちょうどスコーレで公開したある映画に関する批評が数ページに渡って掲載されていた。改めて私はそこでお名前を知る。

Wさん。某TV局のチーフディレクター・映画監督・ノンフィクションライター、それらの活動は主に戦争に関連するドキュメンタリー作家のようであるそうなのだ。

ますます不思議じゃないか。この1週間だけ置いてある雑誌。ふらっと来店した男性がそこに寄稿していたとは。

さてWさんは福岡の方。今日はドイツ在住で現在一時帰国している、元大学教授に会うために名古屋にいらっしゃったそうなのだ。さらに今日中にまた東京へ行く予定らしい。その元教授から電話がかかってきた。きっとこのあと、どこかの料亭とか、静かなレストランとかで待ち合わせかなと思いきや。

Wさんは電話で「僕、今、とても素敵なところにいるんですよ。シネマスコーレの隣で(隣じゃない!)、なんてったっけ、路地の?マタハリ?っていうところ?」とおっしゃってる。それで、その元教授の方たちはうちにいらっしゃるというのだ。今の説明でわかるんだろうか?と思ってしばらくしたら、3人の男性たちがいらっしゃり、その中の真っ白な髪の上品そうな男性が

「ああ、やっぱり! 僕、ここに来たことがあるよ。懐かしいなあ。僕は趙博さん

パギさんと古い友達でね、パギさんに連れてきてもらったことがあるよ」とおっしゃる。「もしかしてライブにいらっしゃったんでしたか? えっと、2007年の?」

「2007年! わあ、もうそんなになるかあ!」

 

名古屋駅に近いとはいえ、こんな見つけにくいところにある小さな店に、何の情報もなくふらりといらした男性がここへ来る前に読んでた小説は安部和重さんのもので、その配偶者の川上未映子さんのサイン色紙が店内でその方をお迎えし、さらにかつて寄稿した映画批評が載っている雑誌がお迎えし、そしてわざわざ名古屋で途中下車して会いに来た元大学教授はマタハリにかつてライブで来て下さったことがあって・・・。

それらはみんな、別に大したことじゃないちいさな奇跡で、でもそれはみんながなんだか笑顔になって「わあ、不思議だねえ」「やっぱりね、なんか繋がってるんだよな」と言い合えるようなことで。

そして、自分の好きなもの、楽しいもの、自分にとって大切な人たち、そういったものがこの場所で小さく繋がったこと、それがうちの店だったことが、いつだって私には誇らしい。ああ、店ってほんとにいいな。そういう場所になれたりするから。いつもいつもいつも、こういう瞬間に出会うたびに飽きることなくそう思う。

 

私は私とこの件について語り合いたい

季節の変わり目のせいか、それとも週末に大き目の案件が控えている緊張のせいか、僅かに気持ちが下がり気味なのです。そう、ほんと、僅かに。

それでも今日の私は、千葉雄大くんと田中哲司さんの、「音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!」での妖しげな絡みを思い出すだけでもう、にやにやとしちゃうんである。

三木聡監督で阿部サダヲ吉岡里帆主演のこの映画で千葉雄大はレコード会社の男として最初のシーンからずぶ濡れだしのたうちまわるし、かなり大変なシーンが続いているんだけど、なんのご褒美なんだか、途中で下着1枚の千葉雄大とビキニパンツだけの田中哲司演じる「社長」の絡みがあるんですよ。

それをね、ふっと思い出しては1分ぐらいにやにやにやにやしてしまうのが今日の私。

20年ぐらい前だったら即刻、このシーンから広がる千葉雄大田中哲司のアナザーシーンを脳裏でどんどん展開させていってたかもしれないが、さすがに私も55歳になるヲバチャンなので、炬燵に入ってするめでも噛んでるような心境でいつまでもにやにやして日がな過ごしてしまうのである。

いやー、ほんと、なんでだろねえ。

千葉雄大くんは、ライターであるメガネ女子の胸元に手を入れて乳首を弄んでるようなシーンもあるのだけれど、そこに私がにやにやするポイントは皆無である。

なぜだ。相手は禿げカツラを装着してる田中哲司なのに!

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なんてゆーか、環境や生育歴などで培われたものではない、きっと生まれた時から私の細胞に組み込まれている「にやにやする遺伝子」みたいなものが間違いなくあるのだ。こーゆーシーンでにやにやしてしまうのは、これは私だけど私じゃなくて脳内のなんやらのせいだ! 

私はそんなことをもうずっと長いこと考えている。

このことについてなにか明確な答えもない。ただできることなら私はこの件を、10代の私、20代の私、30代の私、40代の私と私だらけで一晩中語り合いたい。何故、私たちの「萌え」は「ここ」にあるのか、ということを。

 

ま、それにしても。

気持ちが下がってるときでも「萌え」さえあればすぐに幸せになっちゃうって、もうどんだけ幸せなことか、と思いますね。


『音タコ』SIN+EX MACHiNA「人類滅亡の歓び」ミュージックビデオ(ショートver.)

欲しいもの

なんとなーく欲しいものがあって、昨日も今日もショッピングモールの長い通路を歩いた。

一体、私は昔からこうだったのだろうか。それともここ数年のことなのだろうか。

私はただショッピングモールの通路を歩いているだけだ。

歩きながら通路沿いにディスプレイしてあるものをぼんやり眺めて通り過ぎるだけだ。

なぜか店内に入らない。

1つ1つの店に入って物を探すのがめんどくさいのか? 声をかけられるのがいやなのか。実は欲しいものは漠然としていて、でも本心からそれを見つけようとは思っていないのか。こんなふうに欲しいものに対してぼんやりとした自分がいやだ。

ああ、何が欲しいんだろう。

心安らぐ香りが欲しい。香水は直につけないけれども、ハンカチに少しだけつけ使うときにふっと気持ちが安らぐためのいい香りのものが欲しい。

ざっくりしてるけどやわらかい、シンプルなワンピースが欲しい。店で着るための。

万年筆のインクが欲しい。万年筆も出来れば欲しい。

たったそれだけなんだけど、結局見つけることもしなかったし、だから買うこともなかった。無印良品で小さな化粧水のボトルを買っただけだった。

自分の好きな店が1軒だけあって、その店のラインナップをとても信頼してて、私はそこに行けばなんでも買える。そんな店があったらいいのになとちょっと自堕落なことを思っている。

夜のざわざわ

なんとなく、すごくさみしくて切ない気持ちでいる。

理由はあるようでないようで。いや、多分いくつかあって、それはどれもひとつずつがとても細かくて小さい。

いわゆるこれは、ただの「気分の波」のようなものなのだろうか。そうだとしても、心がちいさくざわめいていて、別にそれを無視してこのまま布団に入り眠ることは出来るのだけれども、せっかくの休日の夜、このざわざわに少しでも向き合わないと勿体無いような気がしている。

だから、こうして文字を打っている。

ずっとこれまで、何かを書かずにはいられなかった。

13歳から30歳半ばぐらいまではそれは日記で、あるときからは芝居の戯曲になり、そしてあるときからはネットの掲示板やブログで。

でも、ここ最近、私は本当に何も書いていない。

感じたちょっとしたことをツイッターに書いてたけれども、それも殆どしていない。ツイッターには主に店のことを書いている。店のことを考えると書く内容にも制限がかかる。いや、以前は制限など自分に課していなかったな。最近では無意識に制御している。

または書きたいことがあっても日々のあれこれに埋もれ、それをする優先順位が下がっている。今、私が自由な時間に一番時間を割いているのは英語の勉強だ。

そうしているうちに、自分の中で感じたことを文字にする習慣が、いや習慣と言うよりも情動が薄れていっている。多分これは年齢のせいもあると思う。

ほんと、年を取っていくとこんな風になってくってことを知るよ。老いに入っていったら、好きなことはちゃんと自分の生活の中でそれをやっていかないといけない。そうしないと、どんなに好きなことだって心の中でそれが薄くなっていくからだ、たぶん。

本を読む。英語の勉強をする。映画を観る。音楽を聴く。心に生まれた何かをそっと文字にする。

自分にとって大事なそれらを大切にしていくということは、それを細く長く続けながら楽しむことだ。

 

こうやって書いていると、私の中に、本当に小さくてきっと他人にはどうでもいいことなのだけれども、書きたいことがいくつもあることに気がついて嬉しい。

今日、私が何に憧れて何を苦手に思ったかとか。

仮面ライダージオウ』の変身シーンの美しさについて、とかそんなことも。

 

私の友達が、殆ど非公開で私を含めた少ない人だけにアドレスを教えてくれてる日記サイトがあって、そこに書かれているその人の日常の思いは私にとって宝物のようなもので、私もそんな風にひっそりと、人の目を気にせずにここに書いていけたら、と思ってる。

 

劇団どくんご「誓いはスカーレット」観ながら思っていた超個人的なあれこれなど

豊橋市松葉公園でのテント芝居「どくんご」の「誓いはスカーレット」、観てきました。

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実は私は24歳辺りから32歳までの9年間、劇団に所属し、芝居をしていました。

その頃の私は、仕事中も芝居のことばかり考えていられる仕事に変えました。仕事の合間合間にストレッチをし、仕事をしながら頭の中でずっとセリフを覚えることに使い、セリフを覚えた後はずっとイメトレをしていました。仕事をしながらワープロを開いて台本を書いていたときもありました。

 

私達の劇団は、サプライズを大切なものと考えていました。衣装で、舞台セットで、演出で、観に来てくれた人に驚きを与え、それが夢や感動に繋がってくれればいいと思っていました。

そのためには、開演するまで私たちの衣装やメイクした姿を観客に見せることはしません。舞台セットも暗闇の中で隠されていました。

しかし。どくんごでは。

すでにメイクをし、衣装を着た役者が舞台上に置かれた受付でお金の精算をしたり客入れをしてます。舞台セットは隠されておりません。

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お客さんも缶ビールや缶チューハイ飲みながら観劇の人もいるし、ちょっと新鮮に感じながらもなんとなく「なるほどなあ・・・」と思ってました。

 

ただ、そこから芝居が進んでいくにつれ、正直言って「なんだろう?」「なんだろう??」っていう気持ちがどんどんと膨らんできました。

ある幕で出番を終えた役者たちは舞台の横の観客にまるっと見える場所にいて、楽しそうな顔で舞台を見ていたりしています。それは演じている顔なのか、素の顔なのか? わかりません。ただ、衣装をつけメイクもした役者が出番が終わったあとで素の顔を見せて舞台の横の見えるところにいる芝居なんて、私は初めて観たし、そういうことを考えたこともありませんでした。

例えば後半、テント芝居の後ろの幕が開かれ、向こう側の風景、それは舞台上の異世界ではなく公園の向こうの広がる普段の風景で、そこでは道を歩くサラリーマンや2人でサッカーのパスをしている男性たちや散歩の親子連れがいます。私たちが芝居を観ているその視界の背景に、薄暗がりの松葉公園にいる普通の人たちが入り込みます。もしも、彼らのパスしそこなったサッカーボールが舞台の中に入ってきたらどうするんだろう。酔っ払ったサラリーマンが入ってきたらどうするんだろう。私たちの劇団だったら、「そういったハプニングもある程度想定しつつ、でも絶対に芝居を壊されないように厳重に注意を配る」ということに神経をつかいました。でも、どくんごの人たちは万が一に対応する人員を割くこともせず、なんていうかとにかく自由というか、気持ちがとても広いのだなあと感じました。

ああ、どくんごには私たちの劇団が持っていたストレスが何もないのかも。

私たちの劇団では上演前に姿も存在感も消し、明かりがついた途端にどこからともなく登場し、退場したらまた存在を消し、何が起こっても芝居を中断されないように周囲に細心の注意を払い・・・などなどの緊張感で舞台を作っていたのだけれども、どくんごにそれはまったくない。

しかし、です。そんな劇団が何故こんなことが出来るのか。

最初のピストルを持った男女の、あの動きはきっちりと演出で決められたものでセリフと動きがピッタリと合っている。「わたし、見ちゃったんです」から始まる幕は、4人の役者のセリフの呼吸から動きのシンクロ度がとても高い。桃太郎の話の芝刈りから芝生の高さへと話がどんどんと変わっていくポンポンポーンの変な外人の男の幕、あれなんてもう、どこまで台本で言語化されているんだろう? そしてすべての役者のセリフは、しっかりと舞台上の相手にかかり、どんな意味不明なセリフだろうとどこへも届かずぽとんと落ちてしまうような、そんなセリフは1つもない。

「自由」という言葉のニュアンスの近くにある「ゆるい」みたいな単語とはまるでかけ離れたところにある彼らの芝居、本当にもうこれは一体どうなっているんだろう、と思いながらずっと観ていました。

 

そうだわ、私は昨日も芝居の話をしていたんだった、と唐突に思い出しました。

かつての芝居仲間が来てくれて、その時に私たちが若い頃に知り合い、そして今もずっとお芝居をしているある男性のことを話していたのです。私の友人はその彼のことを最大限の尊敬をこめて「芝居に魂を売った男」と言っていました。

そうだ。20代の頃、同じように舞台に立ってた私たちがいて、私たちより若い子だとか後から入ってきた子が私たちより先にやめ、私は芝居のことばかりを考え、そんな時間があったということがそれほど遠い記憶でもなく、まだどこか身近な過去として自分のそばにあります。そのときの私はずっと芝居をやっていきたかったし、そうあればどんなに幸せかと思っていました。しかし30歳を少し越えた頃から1年のうちの結構長い時間を芝居に費やすことが苦しくなってきました。もっと好きな人のそばにいる時間が欲しい。映画をもっと観たり本を読んだりしたい。なによりもう、芝居の台本を書けなくなった・・・。そうして私は33歳で劇団から去り、喪失感も数年間はじわじわとあったけれどもどことなく肩の荷を降ろしたような気もしていました。

そうだなあ。20代後半の私は、芝居をやめる選択をするとは思ってなく、そして一体誰が続けていくのか、そんなことも勿論知る良しもなかったです。

あれから20数年が立ち、私は50代半ばになり、ここでひとつの結果が見えてきました。

あの人と、あの人は、まだ芝居をやっている、とか。

あの人と、あの人は、あんなにうまかったあの人は、もう芝居をやっていない、とか。そしてあの時は気付かなかった、芝居がうまい一役者だと思っていた男性は、「ああ、芝居に魂を売った男なのかもなあ」と今は思う。そんな風に私たちはある程度長いスパンで私とそれぞれの人たちの人生を省みることの出来る、そんな年齢になってしまったことに気付きました。

昨夜の私の目の前には、かなり長くこの芝居の世界にいる人が、生活が芝居の人たちの芝居が繰り広げられている。

観客は、どこでもそうなのか、豊橋の観客がそうなのか、すごくあったまってて、最初から結構ドカンドカンと笑っている。目に焼きついた美しい光景があり、すごく面白いアイデアがあり、ずっと芝居をやり続ける人には生まれてこなかった(のかもしれない)私が、ああいつかの私がこんな面白いことを発想できたら、こんな風に寛い気持ちで芝居に向き合えていたら、などと思いつつも、本当に、すこぶるやわらかい気持ちになって芝居を愉しんだ夜でした。