おでかけの日は晴れ

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ヴィオレッタ

母親の「あなたを愛してるのよ!」と叫ぶ声に振り向かず、ヴィオレッタは森の中にまっすぐ走っていく。このエンディングとバックに流れる音楽に、エンドロールが終わってもまだ涙が止まらなかった。映画館を出て少し歩いた道端で、「映画の最後のシーンでやっと彼女は逃げることを選べたんだ」と思ったらまた泣けた。


受けた傷を癒すために、人はどのような過程を取っていくのだろう。

自分の周囲の現状すべてに恐怖する。
傷を負った自分を嫌悪する。
理解してくれない周囲を憎む。
傷つけた相手を憎む。
他の何かに依存する。
自分に起きたことを客観視してみる。
相手を赦す。
・・・・・・・・・・・・・・。
こんな感じだろうか。そして「ヴィオレッタ」を撮ったエヴァ・イオネスコは今、どのあたりにいるのだろう。



私が「ヴィオレッタ」を観る前に知っていたのは、これがエヴァ・イオネスコの自伝的映画であること、エヴァ・イオネスコは12歳ぐらいの頃に「思春の森」に出演し、裸体を晒し、セックスシーンを演じていたということだ。
思春の森」は、思春期が訪れたばかりの10代半ばの少年少女の愛と性を描いた1977年のイタリア映画。
毎年、休暇を別荘で過ごす少年と少女は親に秘密で森で遊ぶ。多分、それまで子供のように遊んでいたのだが思春期を迎えた少年にこれまでにない変化が訪れている。そして彼らは森である美少女に出会うのだ。
映画の中には非常に露わなセックスシーンが出てくる。エヴァ・イオネスコは未発達の裸体で、やはり裸の少年の上に跨り、快感を演じていたと記憶している。多分、エヴァ自身は性体験がなく、しかしそのシーンをたくさんの大人の前で演じ、更に世界中の人間がそのフィルムを観るのだ。その時、エヴァの母親、幼く美しいエヴァを妖艶に撮っていた写真家であるイリナ・イオネスコは、その出演に際してどのような立場を取っていたのだろうと私は思っていた。金のために娘を売ったのか。美しい娘を実は憎んでいたのか。
そのエヴァ・イオネスコが撮った「ヴィオレッタ」には、映画「思春の森」については一切触れていない。ヴィオレッタという少女と、彼女を被写体として写真を撮っていた母、アンナと彼女の作品についてのみ描いている。
ヴィオレッタ」を観て意外だったのは、この作品は母親を決して糾弾してはいないということだった。
ヴィオレッタの母親アンナは自分の名声や冨のためではなく、ただ自身の芸術的表現欲求のためにヴィオレッタを撮っている。そしてアンナはヴィオレッタ以上に性的に傷ついていて、しかも写真家として生きることでその過去を乗り越えているようにも見える。アンナを一人の女の生き方として決して否定はしていない。ただ、そのアンナの元で被写体となった娘ヴィオレッタは、幼い彼女の社会生活を、少女から大人へと徐々に形成されるべきものを壊されていった。
ヴィオレッタ」を撮ったエヴァは、母、イリナ・イオネスコを許していたのだろうか。女として理解できても母親としてはどうだったのか。この映画でこんなにアンナを肯定的に描いてよかったのだろうか。肯定的、というと首をひねる人もいるだろう。でも少なくとも私にはそう思えたのだ。親から虐待を受けた子供は、それでも親をどこか守ろうとする。私にはこの映画の端々からそういう姿を感じていて、どこか痛ましい思いがしていたのだ。
しかし、映画の最後になって、やっと、母親の求める彼女の髪形や衣装を脱ぎ捨て、背中を見せて逃げていくヴィオレッタの姿に、ああやっと!ヴィオレッタは、そしてエヴァは、まっすぐに逃げることを選んだんだ!と思ったら、私は泣けて泣けて仕方がなかった。

ところで「美しすぎる娘は、母親を狂わせた」というキャッチコピーに、どうしても違和感を感じるなあ・・・。