おでかけの日は晴れ

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「トム・アット・ザ・ファーム」

この間から、ネットで「トム・アット・ザ・ファーム」という文字を見るだけで心が跳ね上がるのを感じる。ドキドキする。
え、ちょっと待って。なんだ、これは。
恋か? 一体、何に?
トムに、ではなく、グザヴィエ・ドランに、でもなく、何、とかわからないのだけど、この、知りたい・なんだかわからないものを探したいというどこか狂おしい思い。私はそれを「恋」なのだと思っている。

「トム・アット・ザ・ファーム」を観にいった。
恋人、ギョームを失い、悲しみ方さえ喪失したトムの心情を埋めるかのような、古い、きっと誰もが耳にしたことのある、冒頭で使われるミシェル・ルグランの「風のささやき」。
それにのって流れる空撮による田園風景。長い一本の道。
誰もいない家の怖さ。
葬儀のあと、何故あの家に戻る、トム。
暴力を振るう男との官能的なタンゴ。
そして、そして・・・。
最後、やっと戻った街の風景がなんだかすごく懐かしくて、開放されたような気持ちになりつつも、それでも映画が終わったあとに一体私はなにを、どう決着させていいのだ?という気持ちになった。
最後の最後に残った疑問が、エンドロールが終わっても自分の中で答えを探し出せず、どう処理していいかわからなかったのだ。

トムがあの家から逃げることを決めたきっかけはなんだったのか。
アガットはどこへ行ったのか。
フランシスはどこに行ったのか。
目が覚めたトムは何故、隣の空のベッドを見つめていたのか。
どうしてスーツケースを捨てたのか。
最後のフランシスのジャケットの「USA」の文字、そしてエンディングの曲に出てくる「アメリカにはもううんざりだ」という曲は何を表しているのか?


映画を観た数日後。
目覚める前の浅い夢の中で、「私」が現れて、私に問うた。
「『トム・アット・ザ・ファーム』、どうしてもっと深読みをしてみないの?どうして観てるだけなの?」と。
「私」にそう言われて私ははっとした。
そうだ例えばあのタンゴを踊るシーン。フランシスの荒っぽいイニシアチブに任せて踊る、口を半開きにしたトムの顔がなんて色っぽいんだろうって思ったのだけど、つまり、何故あんな表情か、ってことだよね?
「そうそう」と煽る「私」。
つまり、あれは勃起している、だからあんな表情だ、と考えていいよね。そして踊っているフランシスにそれが全く気付かれないというわけはない。フランシスは最初、ホモフォビアのように見えるが、トムが勃起していることを許しているということは実は彼も勃起していると考えてもいいかな。つまり、あの時点で彼らにはお互いへの欲情があったということではないか?

その後、ずっとこの映画のことが頭を占め続けて。
トムがそれまで生活していた場所へ帰還したと感じたラストシーンも、知人は「いや、あれは、最初にあの農場へ引き返したカットと同じだからつまり、再びあの農場へ、フランシスの元へ戻ったのだと思う」と言い、さらに私は揺らいだ。映画は明確な答えなど提示してないが、それでも答えは映画の中にしか探しだせない。もう一度、私もあの場所へ戻ろう、と翌週、もう一度この映画を観にいった。

そして私なりに彼らを推理してみる。

冒頭の青いインクの文字。
恋人を失ったトムは、そこで最後に書き綴っている。
「代わりを見つけるしかない。」
代わりとは、新たな恋人を指すかもしれないが、彼を支配する新たな感情、とも取れる。
そこで彼は、恋人の面影を宿す恋人の母親と兄に、しかも暴力と命令でもって服従しようとする兄、フランシスに彼の精神を委ねてしまう。

トウモロコシ畑でフランシスに殴られるトム。
映画の画面が、その上下が、ゆっくりと狭くなっていって端の黒が画面を狭くしていく。恐怖でトムの視野が狭窄していくかのようだ。大写しになってたトムを殴るフランシスの上半身も、黒の中に少しずつ消えていく。
外で二人で酒を飲み、そしてまるで激しい抱擁を交わす代わりに、熱いキスを重ねて舌を絡ませる代わりに、フランシスによって首を絞められるトムの、あの官能的なシーン。そこでも画面の上下が急に狭くなっていき、まるで気を失う寸前のトムの視界のようだ。
最後、トムを追うフランシスのシーンでも、その恐怖でまるで心がぎゅっと強張っていくのに連動するように、画面がするすると上下が狭くなっていった。そして音だけの車のエンジン音。トムがこっそり逃げ出して車を奪ったということがわかるその瞬間に画面のアスペクト比が元に戻っていた。
トムはあの家にいる間、ずっと何もかもをも見ず、まるで薄目だけで世界を見るようにして、心を狭く閉ざしながら、あの場所に自分を馴染ませていたように思える。

トムとフランシスの関係はどう変化していったのか。
アガットは、息子ギョームが家を出て行ったあともずっとギョームのベッドと整え続けた。そして客であるトムに、そのギョームのベッドを使わせる。しかもその部屋は、片側にギョームのベッド、そして片側にはフランシスのベッド。この家の中でアガットはいつまでも「母親」という支配者であり、トムに対してもフランシスに対しても、大人に対する対応とは思えない。
しかしアガットに逆らうことなく、二人はその部屋で寝起きし、共に農場の仕事をする。
ところが最後、町の人がフランシスを恐れる理由、彼が孤立している理由をトムはバーで知ることになる。
その理由が、彼が翌日家を出ることになったきっかけになったのだろうか。
いや、彼は、その話を聞いてもフランシスを恐れなかったのではないか。
ギョームの名誉を守るために暴行を働いたフランシスに対して、少しばかりのの共感がそこに生まれたのではないか。彼は静かに行くバスを眺めている。そしてそこに乗ったサラを、きっとフランシスの車の中である程度の性的な何かを行ったサラを冷ややかに眺めている。そして彼はそのバスに乗ろうとはしていない。
朝、一人目覚めるトム。隣の、空のベッドに目をやっている。
このシーンで、これまで部屋の両端に離れていた彼らのベッドが、くっつけられていることに気付いた。しかもトムが目覚めたベッドはこれまでフランシスの寝ていたほうのベッドだ。くっついているもうひとつのベッドは空である。(それはフランシスが今ここにいない、ということだけでなく、再び空になったギョームのベッド、という印象をじわじわと漂わせている)
ギョームとフランシスに関する過去の話を聞いた帰り、トムはフランシスの車に戻り、部屋に戻り、そして彼らは性交したな、と私は思う。
ベッドから降りたトムの足元に箱がある。それはその前の日の夜、アガットが持ってきた箱だ。中にはギョームの過去の手紙や手記が入っている。アガットはそれを読んでいないと言う。アガットはそれをサラ(ギョームがアガットを偽るために、いやフランシスがギョームにアガットを偽るようにと命じて作ったいつわりの彼女)に読めと迫った。ギョームの恋人なら読みたいはずだと。
一体、その箱が、今、トムのベッドの足元にあるのは何故だ。誰が持ってきたのだ。もちろんこれはアガットだろう。そのアガットは、フランシスとトムのベッドがくっつけられているのを見たはずだ。もしかしたら性交したあとの抱き合って眠る彼らを見ているのかもしれない。さらに、読んでいないと言っていたあの箱の中身、ギョームの手記を、アガットは既に読んでいたのかもしれない。
目覚めたトムはリビングに行き、アガットがいないことに気付く。彼はアガットの名を呼んであちこちを探す。家の中にも、農場にも、どこにもいない。
そこで急に彼は、この家から出て行こうとするのだ。理由はフランシスの過去の暴行ではない。アガットがすべてを知っていると気付いたからではないか。そしてアガットは、彼女も偽りと思い込みで塗りこめられたこの場所に幽閉されていることに耐えられなくなって家を出たのではないだろうか。
そのアガットを思い、そこで初めてトムも、自分の今居るこの環境がとても歪んでいて閉塞的な場所だということに気付いたのではないだろうか。

フランシスの車を奪い、かつてトムが住んでいた都会の街に戻る。
そして信号で止まり、信号が青に変わる。
彼は・・・・再びハンドルを切ってあの農場がある場所へ戻るのか。それとも元居た場所に帰るのか。
1回目は帰ると思って観たのだが、2回目に観たときは、帰るとか戻るとかではなく、そのどちらにも行き場がない、というエンディングではないかと思った。フランシスの一方的な感情と暴力に支配されてずっと生活をすることはできない。しかしこれまでの場所にギョームはもういなくて、自分が空っぽなことには変わりがない。今のトムにとって、信号は青を示していても、どこにも行く先などないのだ、今は。という終わり方なのだと思った。