おでかけの日は晴れ

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「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

観たまんますぐの走り書き。説明もあまりなく書きます。

「リアリズム」とは・・・・!
それを巡る作品でした、私にとっては。

例えば、手持ちカメラを多用して撮影された、ワンカット(風)のカメラ。臨場感を生むし、何より途切れなく映し出されているはずのカメラが時間を飛び越し、場所を軽々と移動しながらも繋がっているその面白さ。そのアイデアや技巧が本当に素晴らしいし楽しかった。
しかし何故そんなことを、と考えると、つまり人の目とは1台のカメラなのである、ということではないかと思った。映画であれ、常にそのシーンを見ている人の目は1つ、それがリアルでしょう?と言っているかのようだ。
しかし、この映画は主役であるリーガンの視点だけではないので、そこには矛盾が生じる。

例えば映画におけるBGM。
私たちの生活には、そこの場所にある生活音があり、時には隣の部屋から聞こえる音楽があったりはするものの、心情に合わせて劇的に盛り上げる音楽が都合よく流れたりはしない。それがリアルである。
しかし、「バードマン」の中ではリーガンの心情に合わせて激しいドラムソロが展開され、観ている私たちの心をリーガンの心に沿わせるよう追い詰められたり不安になったりするのだが、そのうち映画の中で、ドラムを叩く男が登場する。
「はい、そうですよ、リアルではドラムなんて鳴りません。聞こえるのだとしたら、そこに『ドラムを叩く人』がいるからです。例えば路上に。例えば部屋の中に。ほら、『男』に近づけば音も近づくし、離れていけば音も遠ざかっていくでしょう?これがリアルってやつです」
とまるで言ってるみたいに。
しかし、路上で、またはどこかの部屋でドラムを叩く男がいる、という世界が本当にリアルなのでしょうか。

演じるってなんでしょう。
マイクは舞台こそが自分の本当の生だと言う。
贋物ばかりのセット。水を飲んで酔っ払う演技。そんなものはくだらない。ジンを飲むというシーンなら本当にジンを飲むし、酔っ払うシーンなら本当に酔っ払う。
演じるってなんでしょう。
リアリズムが100%のものだとしたら、その100%に限りなく近づくということでしょうか。
演じるということは嘘をつくということであり、そして嘘をついてはいけないということでしょうか。
その役柄になりきり、台本に書いてあるセリフを喋っているが、まるで今、自分が感じたことのように、話すように、喋る。

リアルな世界では、リーガンはかつて映画「バードマン」を演じていた男だった。しかしいつしかリーガンの中に『バードマン』は超自我として存在しているし、『バードマン』の声やまとわりつく世界がリアルになっていく。

最後に演劇批評家の重鎮、タビサは、リーガンの最後のシーンを「これまで停滞していたアメリカ演劇界を揺るがすスーパーリアリズム」というようなことをNYタイムズに書いています。
素晴らしく演じるということは、死ぬシーンで本当に死のうとすることでしょうか。

現実の世界では、「バードマン」を演じたリーガンを覚えている人はいるけれど、それよりも人々を熱狂させるのはSNSの世界の可愛い猫の動画や誰かのゴシップ記事などで、そこに「イイネ!」をしたり動画の再生回数で人気を計ること、それこそがリアルだとリーガンの娘、サムは言う。
その一過性のクリックがリアルなのか、それとも語り継がれる作品を作ることがリアリティある生の証なのか・・・。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、やりなおしも待ったもきかない演劇という時間芸術の幕開けに関する面白さも持ちながらも、様々な目線、技法、脚本、映像からリアルというものは一体なに?という問い掛けを執拗にしてくる映画でした。

リアルとは・・・・!
まったく関係ないけど、この映画の前にもうひとつ、「リアルとはなんだろう」と思った作品を挙げておきます。
1年前に活動を停止してしまった、女子中学生のせつない気持ちを歌うガールズポップデュオ 「たんきゅん」。
みやまゆとチャンユメというふたりの女子中学生、という設定ですが、みやまゆはイカ天世代の私たちには懐かしい「マサ子さん」のボーカリストだそうで、チャンユメはごーきゅんこと郷拓郎という男性らしいです。ごーきゅんによる楽曲がとてもいいのですが、しかし二人の声は本当にキュート。そしてみやまゆとチャンユメが手をつないで立っているシーンでなんだか泣けてきそうになるのはなんででしょう。
女子中学生ではないふたりによる、リアルな女子中学生感。
リアルと嘘と演じる、とは・・・なに?