おでかけの日は晴れ

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神々のたそがれ 監督・アレクセイ・ユーリエヴィッチ・ゲルマン


観にいく前に既にいろいろ聞いておりましたよ。
とにかくすごい作品だ、と。
その上で、長い・眠くなる・ストーリーは訳がわからない、などなどと。
そこで、大抵はこれさえ飲んでおけば大丈夫という眠くならない系ドリンク剤を1本飲んで、さらに飴ちゃんなども適宜投入したにも関わらず、もう何故だか最初から映画を観ながら幾度か眠りの中へ。起きて映画を観ていることと夢の中の境界線が定かではなく、脳内で勝手に物語を補完しつつ見てしまうからなおさら訳がわからなくなる。
それでも翌日になり、あの映画のことを考えながら、たとえ何度か寝てしまっても何度も映画館に通い、繰り返し観ることができれば、それはとても幸福なことだと考えていた。や、幸福ということばは語弊があるな。何故ならあの映画の中の世界に幸福の存在を見つけ出すことは出来なかったから。けれど「神々のたそがれ」という作品世界の中で何度も泥まみれになることは意味のあることだと思う。

映画の内容としては、こうだ。
地球のある学者たち30人が、地球に非常に似た惑星に派遣された。その惑星の文化は現在の地球より800年ほど遅れたような世界らしい。
その惑星の王国アルカナルでは知識人狩りが行われた。
地球人であるドン・ルマータはここでは異教神ゴランの息子とされている・・・。

さて、映画にしろTVドラマにしろ、カメラが映す映像を私たちはごく自然に受け入れて観ている。カメラの存在すら意識しないままに。
ところが「神々のたそがれ」では、まず最初の映像、上から俯瞰で街を映し出すその画面からすでに、「この風景を見ている者の目」を意識せずにはいられない、そんな映像だった。普通なら映画的にこの場所を説明するという意味を持った映像のはずだが、それ以上の何かの意思、その場所からここを見ているものは一体誰だと思わせるような映像だった。
そう思っていたら、人々を、そしてルマータをカメラが映し出すにつれ、とても奇妙なことが起こっていった。人々は明らかにカメラをどこか興味深げに見ながらその前を横切るのだ。または何らかのアクションを起こそうとしたりする。
ニュース番組の中で街頭で天気予報コーナーを撮影している中で、歩行者がおどけてカメラにニヤニヤ笑いを向けて通り過ぎるとか、あれとまったく同じような感じ。カメラに映る天気予報を伝えるキャスターの目の輝きと、そうやっておどけてカメラの前に野卑な笑いをむける歩行者の目の輝きの質は明らかに違う。
そんな感じで、同じ画面の中のあるルマータと、映りこんでこちらに顔を向ける人々との差は、世界を見ているものと、見られているものとの、その違いなのだろうか。
とにかくカメラはまるでドキュメンタリーのように世界を映し出していく。
そこでわかるのは、ルマータは神として崇められているというようでもなく、祈られるわけでもなく、教えを請われるわけでもないということだ。神秘的な力を顕すわけでもなく、姿形も服装もこの星の人々となんら変わりがない。
ルマータも星の人々と同様、汚れている。何かを口にしてはすぐさまそれを思い切り吐きだす。人々は絶え間なく唾を吐き、時にルマータに向かって唾を吐くが、ルマータはそれに怒る様子もない。
ルマータの周りにいる人々が誰で・何で、そこで何が行われているのか、観ていてもいつまで経ってもわかっていかない。
思うに、私たちがすれ違った誰か、たまたまぶつかったり、または少しだけ話しただれかのことすべてを、私たちは知らない。私たちの現実には、気の利いたテロップやナレーションなど流れない。
この映画も、そんな感じなのである。
映画の中の世界ではそれぞれに意味のある出来事が重層的に起こっていても、観客にそれが十分に伝わっては来ない。
でも、それが、世界だから。
と、映画を見たあとでしみじみとそう思っている。

私は神、というものが創造するもの、人を救うもの、という存在である、同時に破壊するもの、であるということを、正直忘れていたなあ。しかしキリスト教の黙示録でも、地球の終末が語られている。終末に起こる人々の退廃、悪の氾濫、そして神の怒り。新しい世界を創造するため、旧世界は徹底的に滅びる運命にあると宗教は説く。
さて、その「神」とされるものが、たまたま他の惑星から来た姿形の変わらない男で、他の人間よりも少しだけ強い力を持つだけのものだったら。
神はたいしたことなど出来ない。唾は吐きかけられるし、人々に捕らえられたりもするし、ひとりの人の命を救うことも出来ない。
もう、仕方がない、こんなことしたいわけじゃないけれどももう潮時だ、とすべてのものを破壊してしまうぐらいのことしか出来ない。
神に破壊されてしまうこの世にいる私たちも・・・確かに相当に愚劣でどうしようもない。
この映画を観にいって、話がわかるとかわからないとかじゃなく、その世界にどっぷりはまり込んで、自らも泥の中で呆然とするような感覚は、とても意味のあることだと思う。