おでかけの日は晴れ

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「アクトレス 〜女たちの舞台〜」

オリヴィエ・アサイヤス監督
キャスト
マリヤ・エンタース(ジュリエット・ビノシュ
ヴァレンティン (クリステン・スチュワート
ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ

「アクトレス」予告編

年を経ていく往年の女優、かつての作品のリメイク、それに関わる新進気鋭の美しい女優、個人秘書・・・というキーワードから、私はクローネンバーグ監督の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」が頭をよぎっていた。
ついでにこちらが「マップ・トゥ・ザ・スターズ」の予告編。

結局、想像したのとは全然違ってたんですけどね!

さて。
映画を観る前に情報を入れたくない方はここから先は読まないで下さいね!

最初のシーンは揺れる電車の中。
マリアと彼女の個人秘書ヴァレンティンがそれぞれせわしなく電話をしている。
離婚調停中のマリアは弁護士と。ヴァレンティンはマリアのスケジュールに関するあれこれを。彼女たちはこれから、劇作家ヴィルヘルムが受賞した賞を彼の代理で受け取るために、特急列車でスイスに向かう最中なのだ。ヴァレンティンは連絡が取れないヴィルヘルムの妻に、または授賞式の関係者に、そしてマスコミに、と忙しく電話をかけたり受け取ったり。
列車の外の景色は広大で美しいのだけど、列車に乗って進んでいく道がどこか後戻りできないような、険しい行く末を暗示しているかのように思えてくる。
この最初のシーンから、なんとも言えない緊張感が漲っていたのだ。音楽や効果音がそれを盛り上げるわけではない。マリアとヴァレンティンの言葉や声や関係がそれをはっきりと明示させているわけではないのだけれども、とても奇妙な緊張の糸が全体に張っていて、私はこのシーンを観ながら、マリアにとってヴァレンティンは何者か、劇作家ヴィルヘルムとは何者か、電話に出ないヴィルヘルムの妻とはどんな女なのか、ということにピキピキと頭をめぐらせていた・・・。

亡くなった劇作家ヴィルヘルムの過去の作品「マローヤのヘビ」。
マリアは18歳の時、主役のシグリッドを演じた。
この作品のリメイクの話が来る。しかし今回マリアが演じるのは、勿論若く美しく自由なシグリッド役ではなく、シグリッドに翻弄される会社経営者の40歳の女性、ヘレナ役。
マリアはヴィルヘルムの妻が用意したスイスの高級山岳リゾート「シルス・マリア」という地にヴァレンティンと二人で滞在し、「マローヤのヘビ」のヘレナのセリフを入れながら、ヘレナを演じるための個人稽古をする。

私はこの映画をずっと後半まで、「関係性の映画」として観ていたのです。
マリアの秘書ヴァレンティン、
かつて「マローヤのヘビ」で共演した、過去にマリアと関係のあった俳優ヘンリク、
新しくシグリッドを演じる新進気鋭の女優ジョアン。
彼らとマリアとの関係はすべて緊張感があり、この映画は一体、誰とどう転がっていくのか、そこを注視していた。そして最初は、新しくシグリッドを演じることになったジョアンとの関係の行く末がどうなっていくのか、この映画の要はそこなのだろうと思っていた。
ところが。映画はマリアと個人秘書ヴァレンティンとのシーンをかなり長く描いている。
ヴァレンティンはもしやマリアとは親子? もしや彼女たちはレズビアン? 観ながらそう思ったりするが、少なくとも親子ではない。お互いに通う親密さ、信頼、友情、尊敬、愛情・・・。それらの感情の似ているようで少しずつ違う何かがこの映画ではとても丁寧に描かれていたように思う。
他に誰も居ない別荘でマリアのセリフ合わせを手伝うヴァレンティン。二人のセリフが芝居と現実を交錯していて、さらに映画は不思議な緊張感を増していく。
そして。ヴァレンティンはある日、マリアを残して去っていくのだ。
その理由は何なのか。ヴァレンティンは一体、心の底では何を思っていたのか。明確なところはわからないまま、観ている私たちは映画からヴァレンティンが喪失したことに小さく傷つきながらも、スクリーンを眺めていたのではないだろうか。

しかし、マリアは新しい個人秘書を雇い、「マローヤのヘビ」のリハーサルも大詰めに入っている。
そこで、私はやっと気付いた。
うわ、この映画、タイトルの「アクトレス」そのものの映画だ!と。
(しかし、ちなみに原題は「Clouds of Sils Maria」、シルス・マリアの雲、でした)
マリアと誰かとの関係性の映画ではない、マリアという女優、その生き様の物語なのだ、と。
かつて関係のあった俳優ヘンリクとは確執もあったし嫌悪も、そしてずるい甘えもあり、更には友情も芽生えてる。
新進気鋭の女優、ジョアンに対して、嫌悪もあり軽視もし、怖れもあり、同業の女優として冷静に認めている部分もある。
しかし、誰と出会い、何を感じ、心が乱されたり高揚したりしても、結局はこの映画の最初のシーンの、美しい高原を、険しい山の中を、夜を、朝を、ただひたすら走りぬけていく列車のように、美しいと賞賛される季節から年を経ていくという現実を、体に蓄えられる脂肪をまといながらも後戻りすることなく走り続ける「女優 マリア」の映画だった・・・!
最後のシーン、やっと映画を観ている私たちの前に表れた「マローヤのヘビ」という芝居はどんな内容なの? そしてジョアンとマリアの関係は? 女優同士の戦いは?という疑問を軽く一蹴して、いさぎよくも鮮やかに映画の幕は降ろされる。最後まで緊張の糸を切らさないまま。
その芝居とか、二人の関係性がどうかとか、そんなことはどうだっていい。
ただ、「マリア」という女優の生は、これからもまだ続いていくのだ、と、それを示唆しているかのように。
観終わって、「うわっ、やられた!!」って思いましたよ。