おでかけの日は晴れ

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「マジカルガール」

スペインのカルロス・ベルムト監督の「マジカルガール」。

何故だかポスターから勝手に

ペルセポリス」を思い出してて。そして「マジカルガール」は全編アニメかと勘違いしてた。予告を観て勘違いに気付き、なんだか面白そうだなと思って観にいったのですが。

映画観ながらふと気がついたら、私は祈るときのように両指を組んでいて、その組み合わせた両手をほどくと痺れきっていて自分の指ではないほど感覚を失ってました。あまりにも緊張しながら見ているうち、もんのすごく固く両手を組んでいたようです。
映画は、とにかく行く先が見えませんでした。流れている時間の早さもつかめません。随分年数が経ったのかと思いきや、ほんの数分先のことだったり、数日しか過ぎていなかったり、またはその逆だったり。
登場人物の過去に何が起こり、そこでの人間関係はどんな風で、それが今にどのように影響しているか。そういう時間の「線」でこの映画は語られていません。すべて「今」という「面」でしか表されていません。

白血病の少女、アリシアは日本のアニメ「魔法少女ユキコ」の大ファンで、そのコスチュームを着ることを夢見ている。父親であるルイスは彼女の願いを叶えてやりたいのだが、失業中であり、さらにそのコスチュームはとても高額なのだ。それでも、なんとしても娘のためにそれを買おうとする。

「お父ちゃん!そんなの、高額なコスチューム買わなくても、自分で作ったればいいやん!!」
とか、映画見終わったときの私はマジでそう思ったわけですよ。なぜなら、父親・ルイスがそうしてでも娘の願いを叶えてやりたいと思うその気持ちから、事態はとんでもない方向に転がっていくからです。
ところが1日経ってから、私はふと、「そうじゃない」ということを思い出すのです。
私が欲しかった「ひみつのアッコちゃん」の「魔法のコンパクト」は、そこらへんのおみやげ屋さんで売っている適当なコンパクトでよかったか?
1970年代の明治製菓の懸賞で登場した「くたくたジャガー」。あれを私はどんなに欲しかったことか。
本当の本当は、それがアッコちゃんの使っている変身のできるコンパクトじゃないことはわかっていても、コマーシャルで流れる「本物」が欲しかったんだ。「こっちでいいじゃん」と違うものを出されても悲しいだけだった。
でも、私は「魔法のコンパクト」も「くたくたジャガー」もどちらも正規の商品を持つことはなかった。そこらへんのおもちゃ屋で買ってもらったコンパクトを「アッコちゃんの魔法のコンパクト」ということにしようと思ったし、懸賞でしか当たらないくたくたジャガーによく似たものを安い値段で買ってもらって、結局それで満足したのだ。多分、私は自分の欲望に対して、それほど完全な形を求めていないのだ。

ところがアリシアは、いやもしかしたらルイスがなのか、そしてバルバラは、バルバラの夫は、ダミアンは、似たような、適当なものは決して許さない、とても完全な形を求めるタイプの人間なのかもしれない。完全なる円のようなものを。
病に冒され、生活に制限が増えてしまったアリシアにとって、願いは研ぎ澄まされていったのかもしれないし、それとも、ルイスがそう思い込んだのかもしれないのだけれど。
バルバラはもしかしたら「完全なる愛の形」を求めていたのかもしれない。それがどんなものかはわからないけれど、少なくとも彼女の夫が表す形では満足できなかったのではないか。またバルバラの夫も、自分と妻との関係における完全なる理想形を心に持っていたのではないか。
完全なるものを求める人々は、常に満足をせずとてもつらそうだ。なぜならそれは、自らが作り出す「完全なるもの」ではなく、自分の心の中で求めている、他人から与えられる完全なる愛、だからだ。それは大抵の場合、手に入れることが出来ない。
そういう姿を、この映画の登場人物から感じる。
ところで、この映画は登場人物に「完全なるもの」を探させながら、観客に対しては見事に幾つかのものをわざと欠落させている。
アリシアがラジオに投稿した「本当の望み」はなんだったか。
ダミアンはバルバラと何があったか。
バルバラの夫はバルバラに何を求めているのか。
バルバラの開けた部屋の向こうでは何が繰り広げられているのか。

観念の円。
しかし既にその面は切り取られ、真っ黒に光る断面を見せている得体の知れない多面体となっている。それを手のひらにのせながら妄想の円を探し続けている人々の群れ。
「マジカルガール」は私にとってそういう映画でした。