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おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

「Fake」監督/森達也 出演/佐村河内守

「Fake」を観ようとシネマテークの客席に着いた。
佐村河内守ゴーストライター事件の真相が知りたい、または当時の報道が偏向していなかったかどうかが知りたい、という気持ちではなく、このドキュメンタリー映画含めた「報道」的なものと現実の距離を感じたくて、映画館の席に着いた。

その前に、ちょっと「宮地佑紀生暴行事件」の時に感じたことを。
6月30日。宮地佑紀生被告が番組パーソナリティ神野三枝さんに暴行をふるった容疑で、名古屋で人気だったラジオ番組「宮地佑紀生の聞いてみや〜ち」が打ち切りになったことが東海ラジオから普段の番組が始まる午後1時にアナウンスされた。そのニュースをYahoo!ニュースで読んだのが午後2時頃。私はすぐさまラジオを着けた。これまで宮地さん神野さんがお休みのとき、番組構成はそのままで2人のピンチヒッターとして東海ラジオのアナウンサーが行う場合があるのだけれど、まさにそんな感じの放送が行われていた。
一体どういうことか知りたくてネットで「宮地佑紀生 暴行 真相」などと入れて検索してみたところ、すぐにトップに上がってきたサイトは一見どこかのニュースについて公正中立の立場で書かれたようなサイトだった。公式で使われているプロフィール写真、番組の紹介、事件の概要、そして事件の原因らしきもの・・・。
しかしそのサイトの文章はとても変だと感じた。
まず、6月30日午後1時に公式で発表されたことがその2時間後にネットで記事になっていること。しかもその文章は数時間前に発表されたニュースの臨場感はなく、まるで報道当日よりも明日・あさってにこの事件を検索した人が見るために書いているような、凄く不思議な距離感でした。
「今回は宮地佑紀生さんを取り上げます」
に始まり、「2016年6月30日の朝日新聞デジタルでは次のように報じられています」とあるのだが、時間的にそれ、今その報道を読んですぐにこのサイトに取り上げているんだよね?なのに臨場感を消し去って、まるで冷静にこの事件を調べた上で作っているような雰囲気を出しているけれど、だからこそこれ、信用できるの?と思った。
「調べてみた」といってもあちこちのツイートの引用だけで、最後には「6月27日放送内での神野さんの暴言」が理由だったように書かれていた。ちなみにそれはすぐにデマだと証明されているが、しかしこのデマはすぐに拡散していったようだった。
そのサイトだけでなく、私もいちリスナーとして何があったか知りたくていろいろ探したのだが、とにかく検索するとトップを占めるのはどれも似たり寄ったりの、公正を装いながらただ誰かのツイートを引用するだけの、書き手の顔や立場の見えない、なんだかわからないサイトばかりだった。実際に6月27日の放送を聞いた人のツイートやブログなどが見つかればわかるだろうといろいろ見たのだが、ツイートも、またはまとめサイトも、多くがその日の放送を聞いてもいない人による番組やパーソナリティの揶揄ばかり。

いつからネットはこんなに真実に近づきにくくなったんだ?


報道があったその夜、Youtubeにアップされた「6月27日『聞いてみや〜ち』放送」を聞いた。デマになっているような神野さんの発言はない。ただ聞いていてここで宮地が神野さんの足を蹴っているらしき雰囲気がわかる箇所があった。

そして翌日。この事件は朝の全国放送のワイドショーでも報じられた。そして放送での問題の箇所。放送時の2人の喋りは文字として画面に映し出された。そして彼らとは違う別の男性と女性が、朝のワイドショーを見ている様々な年代の方たちによくわかるよう、訛りもなく、ゆっくり、丁寧に、2人の会話を再現した。それはもう、ラジオで聞いている宮地さん・神野さんの掛け合いとは全くの別物だった。

名古屋に住む私は、報道で流れるそれと実際の2人の喋りの雰囲気が別物だということはよくわかる。ところがこの事件が起きて初めて「宮地佑紀生」をテレビから知った人が受ける印象はどうなのだろう。少し柄の悪そうな写真と、そして言ってる事は確かに一字一句違わないのだけれども、印象がまるで異なる再現されたセリフ。そこから受け取るものは、どんな「宮地像」なのだろう、ということをずっと考えていた。報道はこうやって実際そこにあった人間たちの手ざわりを変えていく。現実からどんどんと離れていくんだ、と感じた。

そんなことがたかだか10日前ほどに起こったばかりだったので、森達也監督のドキュメンタリー映画「Fake」、そこに映っているもの、映さなかったもの、それはどういうものなのかを考えるために映画を観にいった。

・・・
森監督は佐村河内守の住むマンションに行く。
「私はあなたの怒りではなく、悲しみを撮りたい」、そして「私はあなたを信じます」と言う。
「悲しみ」とはなんなのか、そして「あなたの何を信じます」なのか、監督は言っていない。
佐村河内は自分の聴覚の診断書を出す。これまでの報道で自分はずっとこれを出してきた。しかしその診断書のすべてをマスコミは報道していない、ということを言い募る。
診断書には「感音性難聴」とある。しかし「障害者手帳を交付するまでではない」と診断されている。
聴覚障害の場合、6級から障害者手帳が交付されるそうだ。6級とは以下の通り。
1.両耳の聴力レベルが70dB以上のもの(40cm以上の距離で発声された会話語を理解し得ないもの)
2.一側耳の聴力レベルが90dB以上、他側耳の聴力レベルが50dB以上のもの

報道では「障害者手帳交付の必要なし」ばかりを報道して「感音性難聴である」という部分については無いものと扱っていてとても公正ではない、と佐村河内は言うのだ。
そして映画の中で佐村河内はまったく聞こえていないようである。

一体、森監督の言う「信じる」は何についてなのか。
彼が何も聞こえていないということを信じるということなのか。しかし聞こえるか聞こえないかは佐村河内守の属性であり、問題とされているのは佐村河内守の作品だとされていたものを作っていたのは新垣隆だった、ということではないのか。それについても佐村河内は「新垣は何故あんな嘘をつくのか。彼は素晴らしい技術者だ。しかし私は指示書でその作曲に関わっていた」と言う。その言葉を信じていたというのか。しかし「Fake」、この作品を見続ける我々観客の興味を牽引していくのは、監督の佐村河内への信頼ではなく、ところどころ挟み込む疑惑の目、そしてなんとなく意地悪なカットだと思う。

意地悪といえば、新垣隆の映像もそうだった。
私は新垣隆について殆ど知らない。ただ事件の後で彼と一緒にアルバムを製作した吉田隆一さんのことなら多少なりとも知っている。それで私は、吉田隆一さんと一緒にアルバムを作ったりライブ活動をし、たびたび吉田さんのツイートで語られる新垣像に対して勝手にシンパシーを抱いていた。
しかし映画の中に切り取られた新垣さんは、佐村河内守からの恨みなのか怒りなのか悲しみなのかわからないがそういった気持ちのフィルターがかけられた視線がとらえた絵、のようだった。若作りしておしゃれしてニコヤカに笑う新垣さんの写真。バラエティ番組に出演してイジられる姿、そしておどける新垣さんの姿は、どこか笑える。万華鏡のようだ。事件当時、マスコミに晒された新垣さんに対し、報道と視聴者は様々な同情やら暖かい気持ちを抱きつつもどこかプッと笑っていた。それを今またこの映画で取り上げ、「おしゃれオヤジ」を演じている新垣さんとその姿に嫌悪を示す佐村河内をプッと笑う。結局はいつまでもいつまでもカメラの向こうとこちら側で誰に対してもどちらに対してもプッと笑っているのだ。そんな風に思えるのだ。

そして最後。佐村河内は海外メディアのインタビュアーに「あなたも作曲に関わったというが指示書だけで、この言葉がどう音楽に変わったのかわからない。作曲に関わった証拠がどこにも無い。せめて弾いてみせてくれればそれは証拠になるはずだ」と言われても、それを証明することはなかった。楽譜は書けないし、これまでも書こうとしなかった。楽器は数年前に処分したという。「いや、多分もう弾けないから」と。
しかし、森監督の「あなたが本当に音楽を愛しているなら、曲が作れるはずだ。作ってくれ」の言葉に応え、彼は1曲、作曲するのだ。
さて、この曲はどうなのだろう。
打ち込みで作られたこの曲は。
私は素人なのでよくわからないが、印象としてはどこかで聞いたことのある感じの壮大な雰囲気をまとったくさい曲だった。ただ、このくささは佐村河内はきっと好きな世界観なんだろうと思える。ああこんな感じが好きなのだろうなあというメロディや盛り上げ方が立て続けに続いててどこか切り貼りされた印象だった。ある音楽系の大学生が卒業制作で作った曲を以前に聞かせてもらったのだが、それもなかなかの作品で、それとクオリティとしてどう違うのかが私にはよくわからない。その彼女は今は楽器演奏を子供たちに教えてて、一方の佐村河内は様々な交響曲の作曲者として名を馳せていたのだ。
ただ、そうして作られた「ザ・佐村河内の世界観」の音楽と、それを聞く彼を支える妻。二人の住むマンション。その曲はその閉鎖世界にとてもよく合うように感じた。

音楽と共にエンドロールが流れ、「うーん、この音楽をどう捉えるか・・・・?」などと考えていたところ、この映画にはあと少し続きがあった。
その日の撮影でこの映画の撮影も終了するだろうということを森監督は佐村河内とその妻に告げる。そして言う。
「あなたは、今、本当に私に対して話していないことや隠していることはないですか?」
佐村河内、無言。無言をずっと映している。
そして映画の画面は突然真っ暗になり、代わりに劇場の明かりがポヤーンと灯る・・・。
む・・・無言は、あの演奏の後の無言は、限りなく「隠していることは、ある」に取れる!
いや、森監督の問い掛けは佐村河内には聞こえていなくて、ただ黙っているだけ。それを森監督が映画的戦略で撮っているのか。もうわからない。本当の本当に、わからない。
何故なら、ドキュメンタリー映画が唯一無二の真実を映しているのではなく、その現場に入り込んだ監督の主観を映し出しているものなのだからか。