おでかけの日は晴れ

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父に会う

私はおとうさんのことが結構好きだよなあ。

そんなふうに時々、すごーく時々だけどそう思う。

高校のときに一度、そんなことを日記に書いたことがある。

そういう気持ちは、きっとおとうさんもおかあさんも誰も知らないだろうし思いも寄らないことかもだけど、おとうさんのいろいろが結構好きだなあ、とそんなふうに考えている。高校のとき、美術館である宗教画を見て思ったんだ。多分、イエスが亡くなった男を腕に抱きかかえている絵で、私はそれを見た瞬間とても泣けて、そして私は、自分が死んで、それをこんな風におとうさんに抱きかかえられて悲しんでもらいたいと思っていると気付き、そんな自分がどこか哀れな気がしてまた泣けたのだった。

私はそれほど長い時間を父親と暮らしてはいない。とは言え、早くに父親を亡くした人や単身赴任で父親と離れて過ごしている人に比べたら大して言うほどの短さでもないような気もする。しかも父、まだ生きてるし。ただ私が21歳で家を出てからこの34年間、会ったのが時間にして多分、24時間よりは多くても48時間には満たないのではないか。それが人と比べて多いのか少ないのかわからない。少なくとも心の距離としてはとても離れていた。

その私が自ら父に会いに行った。父は3度結婚している。父の2番目の妻の子である私と弟(私はこの弟とは別れて育ったのだが)が、先ごろ3番目の妻であり私の継母だった人を亡くし、その四十九日を終えた父に会いに行ったのだ。弟には父の記憶はなく、成長してから会ったのはこれが3回目。父が今ひとりで住む家に行くと、私の義妹とその娘、そして私のいとこが待っていて、私たちはみんなで昼ごはんを食べに行った。

私と弟は父の話を聞いている。父は主に私たちの祖父、自分の父親の話をする。私は幼い頃、九州に住んでいたそのおじいちゃんに会うのが楽しみだったし好きだった。九州の海や神社の蝉、1ヶ月だけ通ったそこの小学校、古くて大きな家など様々な思い出があるけれども、祖父がどんな人だったか、どんな生き方をした人か、改めて聞くのはとても興味深い。

父の話を聞いていて、もしかしたらいいところばかりを紡いで少しは盛ってるところがあるかもしれないと思った。父は過去に家族に関することでいろいろ悔しい思いをしたこともあったに違いない。けれど今、86歳になる父は、自分の父親がどんなに優秀な人だったか、どんなに清廉な人だったか、それを心から誇らしげに語る。

ただ、そこから祖父、父とその兄弟、そして私たちの代から妹やいとこの子どもたちとぐるりと見渡すに、祖父の優秀な頭脳、そして学歴などを引き継いだ人間は何故かほぼいない。芸事の好きだった祖母の血をどうやらみんな受け継いでいるようだけど。さらには、次世代がみな、親世代を反面教師として生きているようにしか思えない。政治家になった祖父だけどお金儲けは下手で清貧だったという。それでその息子たちはみな、学歴は乏しいが自ら会社を興すという生き方を選んでいる。その次世代の私は、そうやって働いでお金を稼ぐことに生きる親を見て、「お金はそこそこでいい」という生き方を選んでいる。

ただ、自分の父親のことを大切に語る私の父を見ながら、様々な不満や恨みにもきちんと落としどころを見つけたのだ、と思う。

父親が語る自分の父親、私のおじいちゃんは本当に優秀で、スーパースターで、どこに行ってもおじいちゃんが一言口利きするだけで大きなことが動く政治家としての力を持った人だという。けれども、本当にそういう局面もあったのだろうし、うちのおじいちゃんごときではなんともならない案件など山のようにあったと私は思ってる。そしてきっと、武田のおじいちゃんだってすごい人だったし、私の友達のおじいちゃんもすごい人だった。亡くなったすごい立派なおじいちゃんたちが身の回りにいっぱいいる、と思うと、なんかもうほんと、どんなふうに生きたっていいや、私たちはみんな結局はとてもちっぽけで、ちっぽけだけどもそんなふうに自分に繋がる人たちはすごかったなあなんてことを単純に嬉しく思ってる、ぐるぐるした環の中のひとつにいるんだなあって思えてくる。