おでかけの日は晴れ

現在はこのブログにあるものすべて下記のサイトに移行し2021年7月6日でこちらは停止しました。以降は、左記の新サイトをどうぞよろしくお願いします。 https://ameblo.jp/mioririko

『象は静かに座っている』

1988年山東省生まれの胡波(フー・ボー)監督。

長編の『象は静かに座っている』完成後、この世を去る。享年29歳。

234分の作品。

静かでとても淡々とした映画を想像していた。

が、違っていた。

音楽が入る箇所はとても少ないが、きっと若く新しい中国の才能ある音楽家が作ったのではないか、と想像させるような音楽で、そのどれもに心を揺さぶられる。

そして灰色の多い印象の映像。静かに俳優たちの後ろ姿を追い、そして後ろから彼らの見ている風景をじっと見つめる長回しの映像。それらには長い作品ながらまったく無駄を感じさせなかった。様々なことに倦みつつ、それをいくたびも呼吸を浅くしながらも腹におさめ、時間が過ぎることを待つ人々。その呼吸、その時間と共にこの映画はあり、そのための234分だった。

 

北京から南東50km離れた、文京区ではないその荒れた街にはいい学校もなく、高層のアパートは乱立しているものの、どこも部屋は狭く荒れている。

ユー・チェン。多分、唯一の友人がいて、その友人の家で、友人の妻と寝る。そこに帰ってきた友人はチェンの姿を見て、絶望して窓から飛び降りて死ぬ。

ウェイ・ブー。高校生。学校では実業家の息子で学校を暴力で支配するシュアイと揉めている。家では元警察官で足に大きな怪我を負っている父親に疎まれている。

ファン・リン。高校生。ブーの友達。母子家庭。家では仕事の愚痴ばかりで一切家事はしない母親との関係は最悪である。

ワン・ジン。娘と娘婿、そして孫娘との4人ぐらい。娘婿は静かな口調で「娘の将来のために文教地区に引っ越したいが、そこは家賃も高く家は狭く、とてもお義父さんを連れて行けないので老人ホームにはいってくれないか」と頼む。それを断るワン。

この映画はその4人の物語。

人や様々なモチーフ、起こる事件などが少しずつ重なっていくのは、ほんとうによく練られた脚本のせいもある。234分がずっと飽きもせず、ずっとどうなるのだろうという気持ちで見続けていた。

 

ところで、私は香港映画が好きで、そして中国映画にも好きな映画や監督がいっぱいある。それらを通して中国や香港、台湾などを感じたり好きになったり理解しようとしていたりする。そしていろいろ知っていくうちに気持ちはいろいろと複雑になっていく。理解したいが出来ないところ。好きだけど好きになれないところ。そういうものがあることを認めざるを得ない気持ちになっている。とても個人的で身近な例で言うと、何年か前にうちの店の隣に中国人オーナーが店を構えた。最初から何も挨拶はなく、こちらから挨拶に行き、一度食べに行き、会えば話をしていたのだが、次第に様々なことが起こるにつれその店は、うちの店を含む周囲の店と決裂した。今日、この映画を観ていると、その登場人物の多くはどんな状況でも絶対に謝らない。4人の登場人物はそれぞれ、いろんなことに巻き込まれる。理不尽な目にあう。例えばワン・ジンは自分の犬を他の犬に噛み殺される。その怒りと悲しみで飼い主の元に訪れるが、そこに謝罪はない。一切ない。「証拠はあるのか」と言われ、さらに責任はいつしか転嫁され、被害を受けた側がまるで反対に加害者であるかのように詰られる。わあ、これだこれだと映画を観ながら思う。私たちが隣人から受けたあれこれはまさにこれだと。そしてこの映画を観て不思議な気持ちになった。こういう、いわゆる中国的な対応を受け、この登場人物たちは心底うんざりした様子でじっと耐えている。耐えてはいるが、もうその辛抱も表面張力いっぱい、といった様子。そうか、おなじ中国人同士でもこんな対応にもううんざりなんだ、と。

いろんな思惑、経済的格差、政治的状況で、中国という大きな国はずっと揺らいでいる。こんなに広いのに、どこへも行けないのか。どこへ行っても同じなのか。様々な人が、作品が、監督がそう問う。ジャ・ジャンクー監督の『帰れない二人』もすごくよかった。そしてこのフー・ボー監督の『象は静かに座っている』に映る様々な景色も、そして人の心の中の荒地も、とても突き刺さった。

そうそう、改めて中国の地図。舞台は北京の南東、河北省石家荘市陘県。そこから北京まで行き、バスで瀋陽を目指し、さらに内モンゴル満州里を目指す。2300kmの旅。日本で言えば札幌から鹿児島までの距離らしい。

f:id:mioririko:20191126223637j:plain

 


『象は静かに座っている』予告編