おでかけの日は晴れ

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『ブエノスアイレス』

以下の文章は、レスリーの生前に書いたものです。
これらを書いていた時には、まさかレスリーがこんなに早く亡くなるなどと想像もせず、
彼の未来を語り、時には能天気なことも書いております。
しかし、彼の映画を見るたびに、彼の音楽に触れるたびに感じた驚きや喜びを大切にしたいから
敢えて加筆訂正はしておりません。
何卒ご了承ください

ブエノスアイレス

監督・脚本・・・ 王家衛ウォン・カーウァイ
撮影 ・・・・・ クリストファー・ドイル
美術 ・・・・・ 張叔平(ウィリアム・チャン)
出演
ファイ・・・梁朝偉トニー・レオン
ウィン・・・・張國榮レスリー・チャン

チャン・・・・張震チャン・チェン

 

1.どうしてこんなに泣けるんだろ
2.「ゲイ映画というキーワード]
3.レスリー・チャンウォン・カーウァイ 


Happy Together Trailer(long version)

1.どうしてこんなに泣けるんだろ

ブエノスアイレスを観てからの一週間、私はずっと心を乱され続けた。
効き目は遅いが非常に長く効く薬のようだった。
そう、最初のうちはまだ余裕があったのだ。見終わった後に友達と軽口を叩き合うぐらいの余裕は。しかし時間が経つごとに、心がこの映画に占領されていくのを感じずにはいられなかった。上映最終日、私は再び映画館に足を運んだ。翌日、折り良くもちょうどレンタルを開始したばかりのビデオをダビングして毎日それを見続けた。 今の自分は壊れている。心の片隅でそう意識した。その頃の私はまともに人と口をきくことさえも出来なくなっていた。いつも観ていたテレビドラマも本も何もかも受け付けなくなっている。音楽も聴けない。そしてつまらないことで気を昂ぶらせてはわけもわからず泣いていたのだ。深夜になると飽きることなく毎晩「ブエノスアイレス」を見るという生活。そして見終わるとすぐさま巻き戻して二人が一番幸せだった時まで遡り、再びそこだけを繰り返し見る。そんな日が繰り返された。まるでファイが、「このままウィンが治らなければ」と祈っているのと同じように。どちらかと言うと熱狂型ではない私にとって、こんなことは今までに無かったことだ。

一体、私のこのハマり方はなんなんだろ。
ファイとウィンに感情移入しているんだろうか。ああ、なんかちょっと違うんだよなあ。彼らの間にある、嫉妬、独占欲、束縛、それらは私の一番苦手とする感情だ。なのに、何故こんなにこの映画の物語に深く傾倒しているのだろう。
そして私はどうしてこんなにバカみたいに泣いているんだろうか。

上手く言えないんだけれど・・・。
きっとこの映画の1時間30分の中に生まれ、育ち、過ぎ去ったり壊れたりしていく「時間」が、苦しいほどいとおしいんだよなあ。多分、そういうことなんだと思う…。

ウィンは何度も「やり直そう」と言い、その度に二人はやり直そうとする。
いや、そんな明確な意思ではないか。ウィンの言う「やり直し」は「チャラにしてよ」ってことだもんなあ。
ファイは少しずつそれに気付いていく。いくらリセットボタンを押して振り出しに戻そうとしても、前のゲームはチャラにならない。痛みの記憶というデータが堆積していくだけだ。
同じ場所に戻ったつもりでも、そこは前とは微妙に違う場所。やり直し、繰り返しを幾ら試みたとしても、変化していく何かを意識せざるをえない。それはある種ポジティブなことなのかもしれない。それでも私はどうにも悲しいのだ。変化していかざるをえない、という事が。

二人の関係の中で、季節は冬が過ぎ、夏も過ぎていった。しかしウォン・カーウァイはそれを克明には描写してしない。思い切り冬服の二人は唐突に夏のシャツに変わり、夏のシーンでもウィンはまだ皮のジャケットを羽織ったままだ。漠然と永遠を信じている人間にとって、季節というものはそれほど重要ではないのだ。ただ、ファイが先に気付いたのだ。季節というものは変わっていくのだということを。そして12時。ファイの部屋に一人残されたウィンもそれにようやく気が付いた。

いや、本当はファイの目はいつだって時間を気にしていた。それも過ぎてしまう前から、過ぎていくだろうことを常に考えては、その不安に揺れ続けるタイプだ。だからこそ祈るのだ。このまま時間が動かなければ、と。それが叶わない夢だと知っているから、なおさら彼の目には不安が色濃く現われてる。

ウィンは、後半近くにファイの住んでいた部屋に今度は一人で住む。
多分、「明日」のことを考えることなんか大ッ嫌いな彼は、掃除も大ッ嫌いだろう。そんな彼がきれいに掃除をし、タバコを山ほど買ってきて並べる。前にファイが彼を一人で外に出させない為に、彼をその部屋に繋いでおくためにファイがしたように。
「俺、ここにいるから」と。
けれど、もうやり直しなんてきかないのだ。

私は、最後近くでファイはウィンのパスポートを彼に返したのかどうかが気になっていた。勿論、その前に、イグアスの滝に一人向かうファイのモノローグで、
「パスポートはまだ俺が」
と言っていた。しかしその後のシーンで、ウィンはイグアスの滝が描かれたランプシェードを見つめるうちに、ふと何かを見つけたような表情をし、そのあと、ベッドの上で泣いているカットに変わる。
私はこの時、あのランプシェードの中にパスポートが入っていると思っていたのだ。それは私の希望だった。パスポートと共にウィンはファイから置き去りにされてしまった。関係はもう終わったのだ。今はウィンはその思いに泣いている。しかしその後、返されたパスポートを手にして過去の場所に戻れば、二人はまた会えるのではないかって。とりあえず、ウィンの中にはそんな希望的楽観が入る余地がまだ残っているんじゃないかって。

でも・・・違ったのね。

ウィンがランプシェードに見たのは、滝を見下ろす二人の人影。
そして彼が見つけたのは荒涼とした「孤独」だった。ここから先はもうないのだという絶望感。永遠にだらだらと続くと思われていたものは、実はもう取り戻すことの出来ない過去になってしまっていたのだ。
どんなにタバコを買ってきて自分をこの部屋に縛り付けようとする素振りをした所で、きっとウィンはわかっていたのだ。それがただの感傷だってことは。
けれど、あのランプシェードを見ていて、ようやくはっきりと自分の孤独を突きつけられたのだ。リセットボタンを押せば再び繰り返される関係、それはウィンだけが信じていた幻想に過ぎないのだということを。

時間はただ流れていく。繰り返しはあっても二度と同じものは戻らない。
残るのは鮮やかな一瞬の記憶。
それがいつまでも気持ちを疼かせ、甘やかな痛みを持って苦しめられる。
ウォン・カーウァイの映画は、いつもそんな瞬間を思い出させる。
だから彼の映画を見るたびに、自分の中にある重なり合ったいつか見た風景を思い出して泣いてしまうのだ。

 


2.「ゲイ映画」というキーワード

この映画を紹介するにあたって、よくこんな記述を見た。それは、「この映画はゲイ映画ではなくラブストーリーだ。あくまで愛し合う二人を描いた映画だ」と。

うーん、なんかこの言葉、ひっかかるんですよねえ。なんだかよくわからない物を口の中に入れられて噛んでいるような、そんな妙な感じ。
これは、「ゲイの映画」と聞いて退いてしまう人達へのフォローなんでしょうか? どうして「あくまで愛し合う二人」の前に「ゲイ映画ではなく」がつかなくちゃいけないんでしょうか?
とは言え、それじゃこれが「ゲイ映画」だとカテゴライズするのも何だか腑に落ちない。何故ならどう考えてもウォン・カーウァイはゲイを描きたかったとは思えないからである。それはあくまでも状況に過ぎない。他の彼の映画同様、ある場所に人物を置いてみた。そのことによって生じる空気を彼は作り出しているのだから。

しかし私は、「たまたま男と男の物語だけど、本質は男と女だって一緒」という語り方は少し違うんじゃないかなと思う。関係、という問題において、それは厳密には違う筈だ、と思うからである。

ファイもウィンもどちらも「女」じゃない。ウィンがどんなに甘えても彼は女じゃないし、いくらマメにウィンの世話を焼いてもファイも女じゃない。
ウィンが縛られるのを嫌うのも、そしてファイが縛ろうとする自分に自己嫌悪を感じながらもどうしようもなくそうしてしまうのも、それは彼らが男だから。いや、勿論女だってそうだけど、でもこの映画の根底に、どんなことをしても拭い去れない「男のプライド」が滲み出ている。

この映画でトニー・レオンの演じたファイってかっこわるくありませんか?
冒頭モノクロのイグアスの滝に向かうファイの衣装も、なんかすごくバカっぽい。その後、道に迷ってウィンと喧嘩別れをする。ウィンは見知らぬ車に手を上げてヒッチハイクをしようとしているけれど、ファイはおんぼろ車に戻りながら一人泣いている。その後、ウィンと再会した時のファイは怒鳴ってばかり。ウィンが時計をパトロンから盗み、それを香港へ戻る旅費にとファイに持ってきた時も、一度は捨てるものの、ウィンが去ったのをちらっと上目使いで確かめた後、何も無かったかのようにポケットにしまいこむしぐさ。

ある意味、すごくかっこ悪いのに、それでもウィンに対する男としてのプライドを感じさせる。あんなによく泣くファイなのに、ウィンの前では泣かない。ぎりぎりの所で超然として見せる。どんなに最低の生活をしていたって、俺はこの男には負けない、そんな意志を感じさせる。 それから例えば、冒頭の二人のセックスシーン。または二人のタンゴを踊っているシーン、ファイの剥き出しの肩にしたウィンのキスでも顕著だけれど、ウィンの表情を見ると、貪欲に快感の中に陶酔し、それを享受しているように見える。ところが、ファイはそうではない。目が、ウィンのそれに比べて熱さを感じない。文字通り「目にモノ言わす」トニー・レオンなのに、ことレスリーとのからみとなると、目の中にあるべき愛情がすごく希薄としか見えないんだよなあ。これを見て、ファイという男は無防備に快感をさらけ出せない男、という風に感じたのね。だってそんなことをしたら「負け」じゃん、って言ってるように思ったの。

ウィンにとっては、気分に応じて甘えたり、誰かの愛情を享受したりすることは、ちっとも「負け」じゃないのね。ただ、彼の快感原則にのっとって、すべてが自分の気持ちのいいように流れていけばいい、と思ってる。それが彼にとっての「勝ち」でもある。それが捻じ曲げられ、従順な服従を強いられることこそ「負け」なのだ。

同性同士だからこそ、微妙に持ち続ける、相手に対する勝ち負けの意識をところどころに感じる。そんな男の姿がどことなく滑稽で、でもそれが一層、彼らの哀切をひきたたせている。そしてとてもリアルに感じられる。
と、女である私は思うんですが。「リアル」というのは、女の私から見たリアルでして、男の人はどう見るのかな?

 

 

3.レスリー・チャンとウォン・カーウァイ

この映画の後のインタビューでレスリーはもうウォン・カーウァイの映画には出たくないって言ってますね。初め、それを聞いた時はものすごく悲しかった。だってウォン・カーウァイの映画の中のレスリーの表情って、他の映画とは全然違うもん。

初めてこの映画でレスリーを見た時は、こんなにきれいな人だとは知らなかった。薄汚れているし、髪は無残にも短いし(鏡の前で髪を直すシーンなんて、「そりゃアンタ、ひよこの産毛か?」と言いたくなるよなヘアスタイルだし・・・)、他の映画の二枚目然とした所はどこにもないし。
けれど彼が出演している他の監督の映画とはある種異なる表情を見ることが出来る。多分、これがウォン・カーウァイの方法なんだろうな。
役者は、映画を作っている最中は、一体自分がどんな役なのかトータルに把握出来ていない。なにしろウォン・カーウァイはその日撮るシーンの台本を当日に渡すわけだし、しかも撮影後でも変更は頻繁なわけだし。その日その日に与えられたシチュエーションで動くだけなんだから。

そしてウォン・カーウァイは役者に「自分の持っているものを自然な形で出すように」と要求する。
ところで「持っているものをそのまま出せ」というのは、実は一番酷な要求だと思う。彼は役者が演技することを厭う。つまりそれは、この映画の世界で本当に生きている姿を見せろってことか。そして役者はとことん剥き出しにされる。自分が今まで意識しているよりも更に深く裸にされる。観る側にとってはそれは新鮮な姿だけれど、役者としては時にはもっとも消耗する方法論だと思う。

そんな方法論だからこそ、ウォン・カーウァイの映画に「スター」は不可欠なんだろうな。しかも、お飾りのスターではなく、彼のアイディアをどんどん膨らませ、広げていってくれるような雰囲気だとか力を持った俳優が。リハはなく、しかし何テイクも執拗に撮り続けていくカメラの前で、役者は様々な表情を出していく。多分、演技している他の映画では出さない顔を露出していく。だから彼の映画の中では多分彼らの本質に限りなく近いものが表出される。先に書いた、「二人の関係の根底に滲み出ている男としてのプライド」というのも、監督が意図したものなのか、レスリーとトニーという役者がぶつかり合うことで出たものなのか、判別が付かないのだ。(いや、実は後者の気がするんだけど)

そう、冒頭のセックスシーン。撮影時のトニーはレスリーに対して「負けるもんか」という感じだったらしい。そうだな、台所でタンゴを踊ってキスするシーンも。なんとなくトニーのその意志はものすごく伝わってしまう。それが見様によっては簡単に快楽に没入する表情を見せない男のプライドとして取れなくもないのだ。映画のラスト近く、チェックのシャツを着た二人が踊っているシーンもそうだ。トニーの目は、この刹那に対する不安を常に抱き続けるファイとしての目なのか、それともトニー・レオンの目なのかわからない。
役を演じている個人と役とが微妙なラインで揺れ動いていて、それが一層ウォン・カーウァイの映画の深みになっているような気がする。

またご承知の通り、ウォン・カーウァイはおそるべくたくさんのフィルムを使っている。そこには、他の映画とは比べ物にならないぐらい、登場人物たちの幾重にも広がった時間と方法の可能性が刻まれていたのだろう。
しかし編集段階で、そこからある一つの時間と方法を選び取っていく。それは、ただ振り返ることしか出来ない、なんとも切ない帰還不能な時間の物語だ。内容もそうなら、監督や役者においてもそうだと言える。その時点でたくさんの「いくつかの可能性」は確かに消え去るが、しかしそれでも剥がれ落ちきれなかった鱗のように映画のなかに微かに残っている。それが不思議な膨らみを生んでいる。

しかし・・・。これは役者にとってはつらいことだろうなあ。そりゃ映画にカットは付きものだとは言っても、ウォン・カーウァイの場合はその程度があまりにも違うし。映画の中で生きていた時間が全く違うものにされてしまうんだもんなあ。それに自分の役を自分でちゃんと作りたいって思うのが役者としての考え方だと思うもん。そう、多分、レスリーはそんなタイプなんだと思う。役者主義。それがレスリーのプロ意識だと思う。結果としての、ウォン・カーウァイの「作品」は認めざるをえない。しかし、役者として作品のコマになってしまうことは我慢ならない。

比べてトニー・レオンの方は、勿論役者としてのプライドはある。しかし彼はもしかしたらもう少し俯瞰的な立場に立てるタイプなのだろう。トニー・レオンはインタビューで、
「最初にこの映画を見た時には自分がイメージしていたものとは全然違い当惑した。しかし2回目からは監督の視点で見ることが出来、そしてこの映画に満足している」
というようなことを言ってますね。多分、ウォン・カーウァイの作品なら、彼の映画のコマになろうと彼にとってはその映画を一緒になって作っているという満足感を得ることが出来るのかもしれない。しかしレスリーの場合は、役者として自分で納得のいく演技をしたい、そしてそれを余す所無くスクリーンの上に表出したいという気持ちの方が強いのだろう。

だからウォン・カーウァイ映画にはもう出たくないって気持ちもすごく納得出来るし・・・。けれど、やっぱり「またいつか」と思ってしまいますね。彼が、「ま、友情の表れだよ」と笑いながらもウォン・カーウァイの映画に出演してくれる日を望んでいます。

 

※初出 美尾りりこ個人Web Site『快楽有限公司

ブエノスアイレス

http://cafematahari.com/r-leslie-buenos.htm

1998年12月


チャン・・・・張震チャン・チェン