おでかけの日は晴れ

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『ラストレター』(ネタバレあります)

 

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STAFF

監督・原作・脚本・編集 岩井俊二

撮影監督 神戸千木

音楽 小林武史

CAST

岸辺野裕里・・・松たか子

遠野鮎美・10代の遠野未咲・・・広瀬すず

岸辺野颯香・10代の遠野裕里・・・森七奈

乙坂鏡史郎・・・福山雅治

10代の乙坂鏡史郎・・・神木隆之介

阿藤陽市・・・豊川悦司

サカエ・・・中山美穂

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ひとつの丸い玉葱が目の前にあったとして。

それを1枚、1枚、剥いていく。

そんな喩え方はおかしいだろうか。それなら、花でもいい。花びらの多い花。

もう少しほかに喩えるものを考えたいところだけれど、イメージとしてはいちまいいちまい、何かを剥いていくようにして物語がほどかれていく、そんな映画でした。

ごうごうという水音がして、そして最初に滝のシーン。

制服を着た女の子ふたりと、はしゃいでいる少年ひとり。女の子ふたりの制服が違うのが気になる。

そこに映っている子供たちの誰かが死ぬのかと思った。はしゃいでる男の子が足を滑らせて転落するのか、それとも滝の近くまで歩いて進む、寂しげな風情の女の子がこの場所に残されて死んでしまうのか。この冒頭には、どこかしら死の雰囲気があった。

するとスマホに着信があり、はしゃいでる少女の「はじまるみたい」というセリフ、そして彼らを待つ喪服を着た松たか子。彼らが走っていく先は、今からお坊さんの読経が始まらんとする古い家で行われている葬式の場。死は、あの川の向こうではなく、この家の中にあった。

故人を偲ぶ老人二人は故人の両親か。老人を演じているのは鈴木慶一と先日亡くなった木内みどり木内みどりの隣に滝で濡れた少年がストンと座るので、故人はこのはしゃいでる男子の母親かと思うのだけれど彼は軽く払われてふたつ席を空けたところに座る。木内みどりの隣に座るのは、寂しげに滝を見つめていた少女、広瀬すずだった。その隣に座る松たか子の雰囲気に神妙さはあってもそこにはまだ悲しみが見えない。葬式が終わって位牌を持つのが広瀬すずだったので、故人はは彼女の親なのかと思う。

それでもまだ人間関係がはっきりしない。葬式後に、やはり顔が似てるねと言って遺影が映ればその顔は広瀬すずのようで、亡くなったのは広瀬すず演じる少女の母親であるとわかる。泣くでもないけれど沈み込むような静かな佇まいの広瀬すずとは違い、彼女とは違う制服を着て子供らしく走ったり動いたりしている森七奈演じる少女は、松たか子の娘なのだと、ゆっくりわかっていく。

松たか子演じる裕里は、亡くなった姉、未咲の死を告げるために未咲の同窓会に出席する。しかし彼女は未咲と間違えられて訂正もできずその場にいるが、会場にいる乙坂鏡史郎に目が止まった途端、急いで退席しようとする。折しも会場では姉、未咲が高校の卒業式で読み上げた卒業の辞が。乙坂は退出した裕里を追いかけ、メルアドを交換し、そして未咲をずっと20年間好きだったとメールを送る。その後、裕里は自分の住所を書かずに一方的に乙坂に手紙を書く。しかし乙坂が未咲の実家に手紙を送り、それに未咲の娘、鮎美が返信する。乙坂の手紙から、高校時代の乙坂が未咲に手紙を送っていることがわかる。3つの地点から交錯していく手紙。そこから裕里の今と過去、乙坂の今と過去、そして未咲の過去がひとつひとつほどかれていく。

 

登場人物の名前がとても示唆に富んでいる。

乙坂鏡史郎。まるで推理作家のペンネームのようで、福山雅治演じる男の本名なのだ。彼は物語の中に置かれた鏡。これまで登場人物たちの中で見えていなかった、未咲を中心としたあちらとこちら側の世界を映し出すような。

裕里の今と過去。乙坂の今と過去。

姉妹である未咲と裕里。親子である裕里と颯香。

森七奈が演じ分ける10代の裕里と、裕里の娘である颯香。

広瀬すずが演じ分ける10代の未咲と、未咲の娘である鮎美。

賑やかでいきいきとしているかつての高校と、廃墟となった其処。

そして生と死。

手紙と言うものはあちらからこちらへ、こちらからあちらへと送られるものだが、そのやりとりの中で、あちらとこちらの像がひとつずつ結ばれていく。

他にも名前では、裕里の現在の苗字「岸辺野」は彼岸のこちら側を想起させるし、「未咲」という名前が未だ咲ききってないまま花を落としてしまった切なさを感じさせる。

 

そして俳優たちの素晴らしさよ。

すでに20代となっている広瀬すずが、鮎美という不安定で可憐な少女としてのからだを演じている。そして森七奈演じる颯香は鮎美よりはもっと幼く、そして瞳に恋を溢れさせた裕里を演じている。森七奈の動きやセリフのリアリティが素晴らしい。そしてふたりの少女がカメラの中でひらひらと舞っている。それは本当に不思議な映像で、少し薄暗い古い家の中で彼女たちは本当にひらひらと映像の中を横切るのだ。ただその美しさだけで私は少し涙ぐむ。

そして例えば物語の終わり、乙坂が未咲の遺影を前にしたシーンでは、鮎美は鮎美だけで映され、乙坂が話すシーンでは乙坂の横にぼんやりと颯香が映っている。それがまるで向かい合う未咲と乙坂、そして乙坂の斜め後ろに部活の後輩である裕里が少し距離を置いて存在してたかのように。

それから、乙坂が廃校となったかつての高校で出会った、ボルゾイを連れた鮎美と颯香のなんという美しいこと! 乙坂の前に過去と未来、未咲と裕里と高校時代が交錯するシーン。乙坂が息をのむのと同じタイミングで私も息をのんだ。もうほんとうに、どのカットもなにもかも最高だ。

そして松たか子演じる裕里が東京に戻る乙坂と握手をして、「やったー!私、初めて先輩と握手しちゃったー!うわあーー!」と言うセリフ。これを聞いて、この役が松たか子で本当に良かったと思った。ずっと恋していた先輩に会ってしまい、そしてその先輩はずっと姉である未咲のことを思っていたのだけれども、それを聞いてきっと少しは胸がチクリとしたかもしれないけれども、それよりただ握手しただけでも嬉しいというあっけらかんとした、まさにこどもの頃の恋の思い。それ以上でもそれ以下でもない、ひなたのような幸福感。これを演じられるのは松たか子しかいないかもなあ。

さらに、トヨエツとミポリン。まさに怪優による怪演だった、ふたりとも。

トヨエツはもう怖すぎた。すごい迫力で徹底的にクズな男を演じている。未咲の人生に最初からお前はいない。そうやって乙坂がずっと抱き続けていた思いを叩き潰す。そのトヨエツに寄り添う女をミポリンが、妊婦でありそしてはすっぱな風情をしているが、きれいな顔立ちが凄まじい。

 

『ラストレター』は本当に繊細で丁寧に作られた映画だ。

それぞれの人がその瞬間瞬間に胸に抱く、胸に抱き続ける、恋という想いを描くため、この映画は繊細に紡がれている。

そしてそれがひとつひとつほどかれていく速度は最初から最後まで澱むことなく、最後の最後まで静かな驚きとともに目の前に開かれていった。

そう、最後の、鮎美が開くことのできなかった未咲の残した手紙、あれがまさか、「それ」だったとは!!その瞬間、「うわ!もう!そう来たか!!」という想い。

 

夢を叶える人もいるでしょう

叶えきれない人もいるでしょう

  

最初はあの卒業の辞にこの言葉を置くなんてすごいなあというか、あまりに大人だなあというか、そう思ったのだけれど、最後の最後でまたこの言葉が効いてくる。10代の、不安を抱えながらもきっと望みをいっぱい持っていた未咲のその後は、夢を叶えきれない人、の側にあるのか。死を前にしてその文字を見た彼女の絶望と、それでも未来を夢見た日々のあったことを娘に残さずにはいられなかった想い。こんなシーンは絶対に泣くに決まってるので、絶対に泣くまいなんてことを偏屈な頭で思っていたのだけれども、もう決壊ですよ。

この映画は川から滝へと向かう映像に始まり、最後、カメラはその滝からまた引いて戻っていく。それがまた静かに胸を打つ。
魂が還っていくのだな、とふと思う。未咲の。そして乙坂も鮎美も裕里も、優しい未来に向かっていくのだなと思わせる。

驚きはそれだけでなく、エンドロールの「カエルノウタ」。素晴らしい表現力で歌うのは森七奈。松たか子に少し似た声。そして作曲は小林武史

米津玄師やKing Gnuらがここ数年の日本のポップスのメロディとリズムを新しく変化させている。比べて小林武史といえば初期のミスチルとかMY LITTLE LOVERなど90年代を牽引していたメロディメイカーだ。その小林武史が今もなお、こんなにすごいメロディの曲を作ってて、さすがというか、聴いたらもう号泣しかなかった。
 
 
『ラストレター』、こんなふうに最後まで驚きと感動を見せてくれる映画だった。
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追記
二回目を観てきました。
実は一回目を観終わったとき、一緒に観た友達とカメラの良さについて少し語りあいました。私は映像をひらひら横切る少女たちのシーンを見て、この作品の中で美しく生きる10代(という設定)の少女二人についての映像を思った。友達は「あのカメラはおかあさん目線ではないか」と言い、私は「そんなことは思わなかったな」と答え、それに関しては家や道や川を真上から撮ったドローン撮影のシーンのことかな、とその時は思った。
しかし二回目を見ている最中、乙坂が手紙の住所をもとに裕里を訪ね、ふたりバス停の前で話しているシーンのときにはっと気が付いた。映像が、不思議な揺れを見せていることに。話している乙坂と裕里。カメラの視点はほぼ同じ場所にあるにもかかわらず、固定カメラではなくて微妙に左右に揺れている。まるで誰かのまなざしのように。誰のか。それは遠くからここを見ている、亡くなった未咲ではないのか?それに気づくと、どのシーンもみな、本当に微妙に揺れていることがわかる。未咲は亡くなったあとでこうしてすべての場所にいるすべての人々を眺めていたのだ、きっと。この映画の中に高校を卒業した後の未咲をあえて描かなかったのだなと思っていたけれども、それは少し違ってて、この映画自体は、未咲が見ているものだったのではないか。未咲は視線だけをこの作品の中に濃厚に残していたのだ。残してきた鮎美と乙坂を、あの「卒業のことば」に導くために。