おでかけの日は晴れ

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『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

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カナダのグザヴィエ・ドラン監督。

若い監督、とつい言ってしまうけれど、2009年『マイ・マザー』で鮮烈にデビューを飾ったとき彼は確かに19歳だけど、現在はもう30歳なのか。

とはいえこの映画は2018年製作だから28歳。

しかしこの作品の子役、ジェイコブ・トレンブレイの演技が素晴らしく、結局人は、若いとか子供とかそういうことではないのだ。子供は子供の時、世界の中の大切なことを既に知っているし、20代にはそれ以降の人生のすべてがそこに既にある。作り手である彼らからも、そして映画の内容からも、そんなことを改めて思う。

 

(この先、映画の内容に触れています)

2008年、イギリス。ルパートは母親に詰め寄る。僕宛てに手紙は届いていなかったかと。

「届いていない。いや、届いたけどそれは誤配であなた宛てではなかったからホテルのフロントに戻した」明らかに嘘をついているような母親の返事。

ルパートは、その手紙は、ドノヴァンから届いたものじゃないのか?僕はやっと彼に会えるかもしれないのにと言い募るその時、テレビのニュースでアメリカの俳優、ジョン・F・ドノヴァンが29歳で亡くなったというニュースが流れる。

2018年プラハ。21歳になったルパートはオードリー・ニューハウスという女性ライターの取材を受ける。しかしコンゴ出身で社会派ライターのオードリーは、ルパートへの取材にあまり興味がないようだ。ルパートは子供時代の5年間、ドノヴァンと100通に及ぶ文通をしていた。彼と直接会ったことはない。そのことに関してルパートは手記を発表した。しかしオードリーは取材にあたってその本を読んではおらず、ルパートのことも誇大妄想狂による暴露ネタぐらいにしか思っていないように見える。そのオードリーにルパートが過去について語る。それはルパート自身のこと、そしてドノヴァンからの手紙で彼が知りえたドノヴァンの苦悩。

映画の導入はこんな感じだ。

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最初、オードリーの取材態度は熱心とはいいがたい。なぜ私がこんな話を取材しないと・・・という顔をし、飛行機で次の取材場所に行かねばならないため、さっさと切り上げたいようだ。それに対してルパートがこのようなことを言う。あなたはコンゴの出身。政治や環境、そして人種差別。世界で起きている様々なニュースだけが大事で、ドノヴァンと自分が置かれている問題はそれほど矮小なものか、というようなことを。例えば彼らがゲイであること。恋人が出来ようともそれを隠して生きていること。隠しているがそれでも周囲がそれを暴き彼らを晒し物にしようとすること。家族との間に軋轢が生じていること。それらの無理解や差別は、世の中において、いやあなたにとってそれほど矮小なことと思えるのか、と。

私はドラン監督の作品はほぼ観ているのだが、この作品はこれまでの作品の中でもっともメッセージを強く打ち出してる映画だと思った。

この取材中におけるルパートとオードリーの会話がそうだ。

世界で起きている様々な問題の大小ってなんだろう。結局はミクロな、小さなひとりとひとりの話であり、どの問題もその小さな人と人との集合体が膨れ上がって対立する、すべてはただそれだけのことの筈だ。

・ ・ ・

幼いルパートは学校でも家でも孤独。ただ、テレビドラマの中のドノヴァンに熱狂した。そして彼に手紙を書いた。それに対してドノヴァンは返事をくれ、そこからふたりの文通が5年間続いたのだとルパートは言う。当時、ルパートはそのことを母親にも、勿論学校のクラスメイトにも先生にも言わなかった。誰もが信じない、とは思っていなかった。そうではなく、お互いの孤独な魂はふたりだけで共有できるもので、それを壊すことなく大切にしたかった、という想いだったのだ。ルパートは幼かったし、そのことをドノヴァンも知っていたはずだが、確かにルパートだけが彼の苦悩を理解したのだ。

そんなことがあるだろうか。映画の登場人物たちは誰もが思う。ルパートは嘘をついている。またはドノヴァンは小児性愛者か。そうやって離れた場所にいる彼らをそれぞれに追い詰めていく。

しかし。胸に手を当ててゆっくり、深く、自分の子供時代に潜ってみてほしい。私たちが子供だった時、それは本当に経験がないゆえに何も知らない、無邪気で未熟な存在だったか。例えば11歳とか12歳の頃。そう、本当にグザヴィエ・ドランはそのことをよく知っている。この年頃の私たちって、ある種の明晰さを持っていた。家族の中におけるバランス、またはアンバランス、大人が子供に隠している何か、学校の中の人間関係におけるいろんなことを、ちゃんと心の中で明晰に理解している。そして孤独について正しく理解していた。私たちは皆、そんな時間を持っていた、と思っている。

ドランの作品にはその思いがいろんな形で表れているけれど、この映画ではその点もとてもストレートに描かれていたと思う。

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グザヴィエ・ドランの映画を特徴づけるいろいろなものにもいつも心惹かれる。

例えばドノヴァンの幼馴染であり同じく俳優、そして公的には彼女ということになっているエイミー。この女性がメイクや顔の骨格なんかが、ドラァグ・クィーンのようで。こういった雰囲気の女性を登場させるのがとてもドラン監督っぽい。それから愛と無理解と孤独を煮しめて、それが涙やら汗となってアイラインを滲ませるような母親という名の厄介な関係の女、そういう人が登場するのもこの監督らしい。

それから、ドラン監督の脳内世界にはいつも音楽がかき鳴らされているのではないか。まるで優れたPVのように。とても劇的に。彼の映画における音楽の使い方はそれを思わせる。ドノヴァン、という男が現れる時、そこに音が生まれて世界を形作っていくようだった。そういうところもいつも好き。