おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

『東宮西宮』

自分の大好きな映画を誰かに薦めたくなる。

しかもそれが現在、なかなか見ることが叶わない作品であればあるほど。

私はすごくいろんな人にこの『東宮西宮』を薦めたい。

是非、この映画がリマスターされて、再び映画館で上映される日が来ることを願ってやまない。

1996年中国製作、日本では1998年に公開された中国映画『東宮西宮』を。

●監督 張元

●キャスト アラン・・・・司汗

     小史・・・・・・胡軍

     バスと呼ばれる少女・・・趙薇

●あらすじ (なかなか手に入らない作品なのでかなり詳細に書きます)

北京のとある公園の公衆トイレ。その付近はゲイの男性たちが出会うハッテンバになっている。そしてそこに集まるゲイの人々を見張り、取り締まるための警察もいる。

小説家アランはそこに行く。一度はある警察官から尋問され、賄賂をせびられるがうまく逃げる。次にはその公園で出会った男と木の陰で抱き合っているところを、警察の男、小史に捕まえられる。しかしアランは小史を誘うような目で見つめて、いきなり小史の頬にキスをして逃げる。呆然としたまま立ち尽くす小史。

そして三度目。数人のゲイの人々が警察に捕まり、小史はその中にいるアランを見つける。小史はアランを尋問するため、誰もいない警察の執務室へと連れていく。

アランを跪かせた姿勢で調書をとるために尋問する小史。アランは自らの性癖を語っていく。母親に愛された子供時代、高校時代の誰とでも寝る同級生の女子、しかし自分は男性への憧れが募っていったことやいろんな大人から凌辱された過去を語る。彼の話のどれもが被虐の歴史であった。そしてアランは警察官の小史に「あなたに捕まえてほしかった。あなたを愛してる」と伝えるのだった。とまどう小史。小史は、トランスセクシャルの女性から没収した赤いワンピースとハイヒール、そしてヘアウィッグをアランに渡す。これを着ろと。アランは抵抗する。私は、そうではない、女装はしない、と。しかしそれを強要する小史に屈し、アランは女装をする。その姿にまた動揺する小史は・・・・。

 

中国は過去においては同性愛に対して寛容だった時期もあった。しかし文化大革命の1979年から同性愛は拘留や罰金の対象となったり、また矯正の必要な病気だとみなされるようになった。2000年以降は精神疾患でもなく犯罪とみなされることもないが、それでも公式にはLGBTの権利は認められていないし、ゲイ映画やドラマも公式に上映することを認められてはいない。インディーズでのゲイ小説やコミックは現在でも摘発の対象となっていることは周知の通りである。

この「東宮西宮」は1997年のカンヌ映画祭「ある視点」に出品されている。ところが張元監督は中国政府からパスポートを取り上げられ、出国叶わず映画祭に出席することが出来なかった。ゲイ映画である、ということが中国政府の怒りを買ったからだろうか。

ゲイ映画、という意味では、本当にこの映画はゲイの人々を丁寧に取材し、作っているように思う。日本でも未だ多くの人がトランスジェンダーとゲイの違いさえわかってない場合もあると思うが、1996年に中国で作られたこの映画の中では、なにもかも一緒にして「反社会的であるが矯正可能な精神疾患」としか捉えていない小史に対してアランのセリフが、その様々な性の形を語っていくのだ。

更にこの映画は、ゲイのアランと彼に翻弄される小史の姿を通して、もうひとつ大切なことを語っている。抑圧されているのは勿論、ゲイだけではなく、自由な思想である。そして抑圧しているのは警察官の小史だけではなく、それは「中国」という国なのだ、と。私にはこの映画はそんな風に見えた。同じ国民であるはずなのに常に見張り、何かあれば住所・民族・生年月日などすべて記載された身分証の提出を求められる。アランの姿からそのような抑圧の中に生きていることが示される。しかし、この映画の不思議な部分、それはアランは被虐の中から快楽を導き出し、抑圧するものを誘い、「愛している」と言う。その言葉に抑圧者が揺れていく、という構造がとても面白い。それはまさに新しい革命の力を示唆しているようだ。

 

小史以外他に誰もいない警察の中、アランは小史に向かって自身の性にまつわる過去を語る。恋人だと思っていた男からの裏切りだったり、またはSM的な性行為だったり。それを聞く小史の脳内では、いつしかアランを犯す男=小史になっている。その演出がとても面白い。小史はその自身の妄想に追い詰められていく。それまで否定していた同性愛という関係に、小史の欲望は惹きつけられていくのだから。小史はそんなアランを後ろ手に縛る。アランを跪かせて彼の頬を張る。それは本来、相手を罰する行為だった。しかしその行為ひとつひとつが、淫靡な愛の行為に変容していく。アランの目はますます妖しく輝いていき、彼の呼吸すらエロティックに響いてくる。

クライマックスに、小史はアランを女装させるが、そこに現れるのは男とも女ともつかぬ、妖艶な何者かであった。アランは全身から小史を誘っている。そのアランの手を掴み、キスをし、荒々しく引きずれば、アランはまるでか弱い者に変わる。埃をかぶったような固いベッドに押し倒し、赤いワンピースの胸元を広げる。そこに現れるのは、女のやわらかな胸ではなく、硬い薄い男の胸だ。動揺、動揺、動揺。凄まじい動揺。彼はホースを取り出し、そこからめちゃくちゃにアランに対して放水する。それは小史の抵抗、または拒絶と見るか、それとも性交のメタファーか。

最後、放水されてウィッグも取れ、無残にも引きちぎられて胸元が開いたままの赤いワンピースを着て、濡れたままの顔で上を仰ぎ見て笑うアランの顔には、屈辱や敗北の影はなく、勝利でもまして愛の獲得でもなく、それでも何かしら明るい陽射しが、このカオスな一夜が明けて仰ぎ見る朝日のような眩しさと痛さが感じられる。

ゲイであるアランの人生、そして抑圧されているそれぞれ中国人の人生のこの先には、きっと望む未来がある。いつかきっとそこにいくのだと、そういう意思をこのラストシーンから感じるのだ。

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