おでかけの日は晴れ

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ニンフォマニアック

平日にも拘らず満席の客席で観たvol.1。
面白かったわー。と迷った挙句に結局それを観た当日のツイッターではそう書くしかなかったが、とても簡単にそう言い切れない感情が渦巻いていた。手放しで面白いーとか好き好きーとか言えないのは、映画の端々にこちらに向けて「悪意」という感情が顔を覗かせているように思えたからだった。勿論それすらも面白いのだけれど。
シャルロット・ゲンズブール演じるジョーの話に挿入されるセリグマンの思索的な対話。その構成はとても面白い。
それにしても「ミセスH」という女性の設定、また「せん妄」の章におけるハンサムで知的で冷静でジョーの理解者だった父親の、死の間際の醜い狂い方のその見せ方、そこにラース・フォン・トリアー監督が人に持つ最終的な不信、または奥底に澱む悪意、そういったものを感じたのだ。静寂の上から突然激しくたたきつけるような音楽の入れ方にも、私はそれを監督の挑戦的な悪意だと感じたのだ。
それでもvol.1を観終わったあとの私は、観たい観たい、すぐさまこの続きを!と渇望していた。

そして約1ヵ月後。
その日の朝見た夢は、知人のハンドバッグの中を覗き込むと、そこに剥き出しの1本の煙草が見えた。私はそれを躊躇も無く勝手に取って吸おうとして、ハッと気づいて煙草を元に戻した。他人の鞄から勝手に取り出した後ろめたさの他に、私はタバコをやめたのに今吸いたいと思っていて、しかし一度吸ったらまた喫煙習慣が戻るのではと怯えている、そんな夢だった。どうしよう、私はまた1日中、煙草を吸いたい吸いたいと思う生活に戻るのだろうか。それをやめるための苦労を再びせねばならないのか。
そんな夢を見た午後、「ニンフォマニアック vol.2」を観にいった。
vol.2は1に比べると上映2週目にして観客の少なさにまずは驚いた。
1と同様に、「ニンフォマニアック」は映画の中のジョーが語る彼女の話が勿論中心だけど、幼い頃からの性への好奇心や自身の子供に対する後ろめたさなどの様々な感情が女性だからという点で更に抑圧されてないかと問うセリグマンのアプローチや、小児性愛欲求を持った男に対して嫌悪を示すセリグマンに対して、欲望を完全に抑えて生活する小児性愛者の孤独に共感するジョーの言葉とか、そういった本編に絡まる糸のような様々な会話が面白い。
そして、子供時代から語っていったジョーの話が進み、気がつくと映画冒頭の、セリグマンに助けられる前の、彼女が暴行を受け道に倒れていたあの少し前の時間まで時間は進んでいるのだ。ずっと、とても過去のことだと思って追っていたジョーのストーリーが、突然自分の背中の真後ろにピタリと張り付いたかのようなゾクゾクする驚き。
そして、最後の最後、セリグマンの変容は理性・知性・公正さ・信仰心・寛容・優しさ・・・などを持とうとし、そのように生きてきた人でさえ、何かの欲望の前では簡単に醜悪な存在に変われるのだということをトリアー監督は私たちの前に突きつける!
どこか打ちのめされたような気分だった。