おでかけの日は晴れ

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待ってました!グザヴィエ・ドラン監督「Mommy」

「トム・アット・ザ・ファーム」を観て以来、心待ちにしていたグザヴィエ・ドラン監督作品!
もちろん、後追いで「わたしはロランス」をDVDで観ましたよ。

私にとって映画における「母親と子供モノ」は観たあとで過剰に痛い思いがしてしまったりするジャンルなので要注意、なんである。もう私の年ならとっくに「おばあちゃん」になっている人もいるのに、まだ私はこのジャンルに対する自分自身の脆さから抜け出せない。
しかし「Mommy」には私を身構えさせるものは無かった。
私は、愛されずに捨てられる子供の話が、なにより堪えるのだなあ。
しかし、グザヴィエ・ドラン監督の作品は、その映画の最後のシーンが決してハッピーエンドといえなくても、どこか何か希望を感じるのだよなあ。その希望、とは何かと言えば、そこに愛だけはある、というような形にならないものだけど。
例えば、話がラストシーン近く、ダイアンは妄想する。スティ−ブがちゃんと学業を修め、卒業し、恋人と出会い、結婚し・・・というどこにでもありふれた未来を。ADHDのスティーブにとってそれがとても「ありふれている」とは思えない未来を。けれど希望とはそれが結実するかどうかというものではなく、ただ相手の幸せを祈るもの、そういうものとして描かれているように思う。

15歳になるADHDの息子、スティーブ。その母親、ダイアン。そして彼らの向かいの家の、カイラ。
映画はスティーブとダイアンの母子愛について描かれている、のだけど、私にはダイアンとカイラの物語も大きな比重を占めていた。
施設で放火したためにそこから息子を引き取ることを要請されたダイアンが家に息子スティーブンを連れて帰る。家に着き、向かいの家を見る。家の中の、外からはあまり見えないような、クリアではない窓の奥にカイラの顔だけが見える。ダイアンは心の目で覗き込むようにその家を見て、探し出すかのようにカイラの顔を見つけ、そして彼女に挨拶をする。
カイラは休職中の教師。夫と娘がいる。しかし吃音に苦しんでいるようで家庭の中でも夫や娘とコミュニケーションが取れない様子である。しかしスティーブンとダイアンに出会い、彼女は彼らの間では豊かな感情も言葉も取り戻すのだ。
3人で台所で歌うシーンがとても印象的だった。
スティーブは母親ダイアンの乳房を服の上からつつく。近親相姦的なあやうさはダイアンの堂々とした母性が撥ね退ける。そんな二人を戸惑いつつも眩しそうに見るカイラ。
そして、多分、セリーヌ・ディオンの"On Ne Change Pas"ではなかったかと思うのだけど、この曲は知っているかと言ってスティーブが歌い、ダイアンが踊り、そして吃音だったカイラも美しい声で歌いだす・・・。あのシーン、とても泣けてしまったなあ・・・。
または酔って、くだらないことを言い合っておなかがよじれるほどバカ笑いするダイアンとカイラ。

映画の中ではっきりと名言していないことのひとつは、カイラは何故家の中で引きこもっていたのか、カイラの過去に何があったのか、だ。
しかし、もうひとつはダイアンとカイラ。私は実は二人はレズビアンだったという裏設定があるのでは、と思って観ていた。
先に書いた「ダイアンの妄想」の中、年老いたダイアンはやはり年老いたカイラと共にいるし。
またラスト近くにカイラが引越しすることをダイアンに告げにいったとき。その前、スティーブを精神病院に入所させたあと、ダイアンとカイラは会っていなかったのではないかと思う。スティーブの入所を決めたことを簡単に肯定しあえるほど、簡単に否定しあえるほど、そしてお互いに簡単に慰めあえるほど、ダイアンとスティーブの、スティ−ブとカイラの、そしてダイアンとカイラの愛情は単純ではなかったからだと思う。それでも引越しすることになり、やっとカイラは再びダイアンの元を訪れた。そこで彼女は言う。「私は、夫と娘を捨てることは出来ないから」と。映画の中で一言も言ってはいないが、カイラにとって実はダイアンの存在は夫と娘を捨てるかどうか、と考えるに到る存在だったということではないか。

幸せなときも抱えている不安やストレスを表しているような1:1の画面と、開放感を表す横長の画面の、まさに世界が広がる幸福感。
登場人物それぞれが抱える愛の形。それらを感じるためにまた見直したくなる映画でした。