おでかけの日は晴れ

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「屍者の帝国」と「岸辺の旅」

19世紀末。ヴィクター・フランケンシュタインが屍体の蘇生技術を確立した。そこに21gの魂は存在しない。魂(霊素)の代わりに擬似霊素というデータを入れることで屍者は蘇り、産業革命の労働力となったり、または戦争における兵士として使われている。
主人公で優秀な医大生だったワトソンは、盟友フライデーと共に屍者と魂の研究をしていた。そしてフライデーの死後、彼の墓を暴き、個人的に屍者を蘇られるという禁忌に手を染める。
・・・というのが「屍者の帝国」における設定です。
舞台が19世紀末なので、そこに登場する様々な機械のアナログさを取り入れた意匠が素晴らしく美しい。
屍者フライデーと共に行動しながら、フライデーの魂を再構築させる技術を探し続けるワトソン。物質化し、動き回ってはいる屍者と生者の圧倒的な違い。

さてその後見た黒沢清監督「岸辺の旅」では、3年前に行方不明になった夫優介が妻瑞希の元に戻ってくる。「ごめん、俺、死んだんだ」と。
そこに足がないわけでもないし、向こうが透けて見えるわけでもない。どうやら自分以外の誰かにも見えるらしい。死んでも、なかなか消えることが出来ないでこうやって彷徨うことが出来るらしい、死者は。そして、この3年で訪れたいろんなきれいな場所に行こう、と優介から誘われる。
生きている瑞希と死んでいる優介のふたりの旅。
映画の冒頭から、微妙に視線がどこに注がれているのかわからないようなカットがあり、そしていつも通り、どこかに何かが潜んでいるような気配があり。
ただ、今回の映画の死者、または異形の者は、見えてはいけないものがふと見えてしまったわけではないのだ。普通に歩き、餃子を作ったり科学の講義をしたり。歩いたりバスに乗ったり笑ったり。
生者と死者を分けるものが一体どこにあるのかがわからない。死者ではあるがそこには生者の時と同じ魂があるのだ。
ところで。
私は先ほど、コンビニに行くために明かりの少ない夜の川に架かる細い橋を渡った。その時、確かに向こう側からその橋を渡ってくる人影が見えたと思ったのだが、橋の途中でその人影がもうどこにもないことに気がついた。どこで見失ったのかと橋のそばの草むらを見ても誰もいない。
橋を渡ってもう少し歩いたら鉄が軋む高くてか細い音が急に聞こえた。一瞬、ビクッとした。
コンビニで買い物をした帰り、いつしかずっと等距離で背後から足音が聞こえていた。振り返ればきっと普通に私の後ろを歩く人の姿が見えるのだろう。振り返らねば、ただなんとなく不安に繋がる足音だけが続くのだろう。
私は黒沢映画のことを思った。
違和感。
黒沢清の映画の怖さとは衝撃を伴わないが、いつもはそこにはない「違和感」なのかもしれない。違和感を目の当たりにした時の、なんともいやなざらっとした気持ち。それらを映画として表現するのが本当にうまいよね、黒沢監督って。
ずれた視線も、どこかから吹く風も、いつのまにか放置された食べ物の器も枯れた鉢植えも、昨日まで生活していた場所が廃墟だったのも。