「溺れるナイフ」
監督・山戸結希
キャスト
望月夏芽 - 小松菜奈
長谷川航一朗(コウ) - 菅田将暉
松永カナ - 上白石萌音
「溺れるナイフ」が私にとってどうだったか、を言葉にするのは難しい。
瑣末なことしか言えない。
劇場は平日の午後なのに若い女の子たちがいっぱいで、いつも私が映画を観てる環境と全く違っていた。女の子たちは何人かで来ていて、映画の始まる前にあちこちで「『溺れるナイフ』を観に来たワタシと友達☆」みたいな写真を自撮りモードで撮っていた。そんな光景、初めて見た。今考えると、この映画は、はしゃぎながらそんな写真を撮りながら心の中では「くそっくだらない!」と力強く黒く思っている女の子のための映画なのかもしれない。
最初のシーン、ファーストカットの撮影されている小松菜奈ではなく、禁止されている海へ歩いていく小松菜奈、そして海の中に落ちた彼女のモノローグがタイトルと共に表れるシーンは、とてつもなく「山戸結希」印で一気に高揚して涙が出た。
小松菜奈。彼女はどうなんだろう。特別な女の子、夏芽。
映画を観ながら幾つかの小松菜奈を同時に思い出していた。
「渇き。」の小松菜奈は圧倒的だった。その毒々しさ、美しさが。
「バクマン。」の小松菜奈の可憐さ。手の届かない遠いところにいる女の子。どちらもその映画のアイコンになりうる美しさだったり可憐さだったり毒だったりして、どちらも監督の彼女を撮る気迫を映画の中に感じた。
「溺れるナイフ」には、私にはそういう小松菜奈があまり感じられなかった。この子は本当に綺麗な子なの?誰よりも特別な子なの?今ひとつそこがわからなかった。ただ、禁じられた海へと歩く姿、森の中での撮影中、コウに出会って走り出すところ、港でコウを追って走る姿・・などなど、風景の中でその全身が映る絵の中で私は彼女を魅力的に感じていた。可憐な洋服が濡れたり汚れたりすることを全く厭わず海に落ち、セーラー服が汚れることも構わず川の中に身を落とし、撮影用の衣装が泥まみれになっても平気でやわらかい黒い土の上に身を委ねる。
山戸監督が描き出す少女の美しさは、他の監督が描いたヴィジュアルとしての美ではなく、少女の精神性だったと思う。
私は夏芽の言う「海も山もコウちゃんのものだ!私もコウちゃんのものなんだー!!」というセリフが割りと冷えた。この映画を観ててああすごくいいなと思いつつ、こういうセリフでとても冷めた。冷めつつ、ずっと考えていた。
コウちゃんのもの、というセリフと、着ている服が汚れることを厭わないところが、似ている。自分の身などさっさと捨ててしまえる、というところが少女なのか。
しかし彼女は自分をレイプしようとした男に対し、「殺して!」という。私を殺して、ではない。そいつを殺して、である。彼女は何なら捨ててもよく、そして何を捨ててはいけないのか。少女のルールとは。少女の尊厳とは。今、そういうことをなんとなく考えている。
存在としての小松菜奈の美しさがわからない、と書いたが、存在としての菅田将暉は本当に美しかった。最初の登場から、後半の火祭りで踊る菅田将暉の美しさは圧巻だった。そしてこれまでの尊厳を失ったことに泣く姿の痛ましさも。彼は十分に特別だったが、正直言えば「コウ」という少年の生き様をもっともっと映画の中で感じたかった。
この映画をはみ出して存在感を見せ付けた重岡大毅くんとか、中学と高校で劇的な変化を演じた上白石萌音とか、最高の布陣ではあったが、とにかくこの映画に関しては夏芽とコウについて思わなくてはいけない。少女とは。少年とは。そして特別とはなにかとは。
そして、いいとか悪いとか、そういう評価ではなく、そこにあった一瞬のきらめきと痛みの風景を心の中にとどめておきたい、と思う映画だった。