おでかけの日は晴れ

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「チョコレートドーナツ」は甘い物語ではなかった。

人生の中にほんの僅かにあった甘い過去、それをずっと希求し続けた、そんな物語だった。
1979年のカリフォルニア。クラブでドラァグ・クイーンとしてショー・ダンサーを務めるルディと、弁護士のポール。ルディの隣人で、爆音で部屋からT.REXを流し続ける麻薬中毒者の女の子供でありダウン症のマルコ。
マルコは麻薬保持で捕まった母親に置き去りにされる。公的機関が彼を専門の施設に保護しようとするが、ルディとポールが引き取り、マルコをダウン症の子供専門の学校に通わせ、そして家族としてマルコを育てた1年間。しかしその間にルディとポールがマルコを引き取るために「いとこ同士」と偽ったことが発覚、そして二人がゲイだと判明するとマルコは再び彼らから取り上げられ、ルディらはマルコを正式に家族として迎えられるよう裁判を行う。
1980年代初頭のアメリカは、麻薬中毒者の息子でダウン症患者である少年を公的機関で保護するという仕組みはちゃんと存在している(それがルディたちには、マルコにとって好ましいとは思えない場所であるとしても)。
裁判も、ちゃんと行われる。
そして1980年初頭のアメリカでは、まだゲイだというだけで解雇される。
裁判の審査は公正を期されたと思う(ルディや私たち観客はそうとは思えなくても、審議は尽くされたのだ)。そして裁判官の判決は、「ルディとポールがマルコに与えた愛情と教育については大きく認める。しかし彼らが自らの同性愛傾向をオープンにする限り、その悪影響をマルコに与えないとも限らない」という理由だった。つまりここでも「同性愛者は悪影響を及ぼす」のだと差別している。
一体、何故差別されるのだろう、とか、母親が麻薬常習者でしかもダウン症の子供はどのように生きていけばいいのだろうとか、じりじりするような絶望がいっぱい。だからこそ、ルディが歌う「Come to Me」や「I Shall Be Released」が、とにかく胸を打つ。なんでかもうルディの歌が、このシーンだからとかこういう歌詞だからとか、そういうのを飛び越えて理由もなく涙が出てくる。
現時点での絶望、しかしそれでも持ち続ける未来への希望が歌を生む。
15歳だったマルコの人生の殆どは孤独と苦痛に満ちていたのかもしれないが、きっとかつてあった母親の愛情、チョコレートドーナツの記憶、そしてやっとルディたちに保護されて得た、安全で愛情に満ちた1年間。その甘い記憶が、再び孤独の中に閉ざされようともマルコの希望を消さなかった、筈だ。

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ところで、この映画の公式サイトを見てみると、「ゲイもダウン症も関係なく、魂のレベルで求め合う愛」という言葉が出てきて、私はいつもこういう言葉に違和感を感じる。
映画を見てて
「何故ルディはダウン症の少年を家族として受け入れたいと思ったのか。たまたま置き去りにされた隣人の子が彼だったからか。
引き取った少年よりも年を取っている自分が先に死んだら、または自分自身が経済的に破綻したら、ダウン症の子供はその後どう生きていくのか、責任が取れるのか。
または、目の前に現れた愛情を必要とする子供すべてに彼は手を差し伸べるのか?どうか?」という問いが私の中でずっとあった。
ルディはどうなの?と思いながら、じゃあ私はどうなの?と。苦い問いだ。もし目の前に手をさしのべることをしなければ命に関わるナニカを見つけたとき、そのすべてに自分は関わるのか。苦い問いであり、YESでもNOでも苦い答えになると思う。そんな苦さをずっと映画の中に感じていたのだが、見終わってしばらくしてあっと思ったのだ。
確かにルディは愛情深い男だが、彼もまたマルコの存在を必要としたのだ。ダウン症のマルコを。この時代において、マルコだけが今も、そしてこの先も、ルディとポールを同性愛者だいうことで差別しない存在なのだ。「見返りを求めない愛」なんて言葉があったけど、そうじゃなく、ルディとポールが注ぐ愛情を、マルコもまた信頼と愛情で返すことの出来る唯一の存在だったのだ。
様々な絶望の裏に小さく感じるずっと先の希望。この映画に感じたのはそれでした。