おでかけの日は晴れ

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わたしは腐女子として考える

昨日は 腐女子のわたしと友人腐男子ゲイふたりの3人でオンラインミーティングを行いました、の2回目でした。

1回目はこちら

mioririko.hatenadiary.jpちなみに1回目のミーティングについて書いたブログでは友人たちを男性とのみ書き、セクシャリティについては書いてませんが今回は冒頭で改めて書きました。今回書くことは、彼らがゲイであるということが重要だと思うからです。ちなみにわたしは感覚的にバイセクシャルなのかなと思ってたのですが、今更ながらネット診断をしてみたり、彼らからバイセクシャルパンセクシャルの違いを聞くにつれ、性志向としてはパンセクシャルだろうと思います。

 

さて昨日もいっぱい話したなあ。気が付いたら5時間半も!

今回はタイドラマ『Why R U?』について話そうって言ってたんですが、台湾の『約定』の話から始まり、それから『Why R U?』や『YーDestiny』などに登場する俳優のお互いの好みの話になり・・・。 腐女子のわたしとゲイの彼らとは好みが殆どかぶりません。それぞれの俳優の好みの違いがすごく面白かったです。わたしの場合は見た目が優先しません(顔など覚えるのが苦手で、視覚的要素がどうやら優先しないタイプだからだと思います)。顔や雰囲気よりも芝居がうまいとか、計算された演技をするとか、俳優としての野心を感じるとか、そういうところから俳優を好きになっていくようです。そしてそういうタイプの俳優はBLでいうところの「受け」側を演じることが多いような気がするんですよね。

それに対して友人は言います。「僕らはまず見た目なんですよ」と。好みはそれぞれですが、ガタイがいいとかマッチョとかぽっちゃり型とか髭がとか体毛がとか、その見た目からまず「イケる!」みたいに入っていくというんですね。なるほど~。

そんな話で盛り上がりつつ、タイドラマ、台湾ドラマ、アメリカンドラマ、日本ドラマの比較になっていきました。

友人の一人はNetflixで配信されているアメリカの医療系ドラマについて推します。男女数人の医師メンバーの中にはゲイの医師もいるということ。そしてセリフの端々にLGBTに対するエンパワーメントを感じる、と言います。

「最近は特に、ドラマの中にそういったエンパワーメントを感じるものが好きなんですよ」と彼は言いました。かつては、マイノリティであるがゆえに引き起こされる悲劇を描いた作品のほうが多かったと思います。そうやってマイノリティの存在を世に問う、という方法論はあります。でも、それではいつだってずっと悲劇なの?報われないの?辛い思いをしないといけないの?ってことですよね。今はそうではなく、いろんな人たちに明るい未来を提示したり希望を与えてくれたり、または様々な指針を与えてくれる作品作りが盛んです。それは決して「甘い内容に溺れて悲惨な現実を見ない」ということではない、と思うのです。わたしはタイや台湾のBL作品を観たり、そして彼らと話すことでそのことを強く意識するようになりました。

そして台湾BLドラマ、タイBLドラマの変遷という話にいつも通り花が咲きました。とくにタイBLドラマにおける様々な意識のアップデートはほんとうにすごいよね?!というところはわたしたちの全会一致するところ。

例えばタイBLで今なお人気を誇る大ヒット作『Sotus』が2016年。あの作品の中にあるLGBTに関する感覚や捉え方、セリフの言葉選び。それらは「もう今ではちょっと古い」と友人は指摘します。しかしその頃からたったの5年で意識はアップデートされ、新しいBLドラマに反映されています。例えば2021年の間違いなく問題作となった『Lovely Writer』。Tee Bundit Sintanapatadee監督は自ら監督した2020年の大ヒット作『TharnType』を翌年、『Lovely Writer』内で自己批判を入れつつ描きました。この作品はこれまでのBLドラマをまた一歩進めたものになっていると思います。これは本当にすごいことじゃないですか?

そこで「では日本のドラマはどうか?」という話に。

古くから日本のドラマには、ゲイを描いたり、または登場する作品は幾つもあるよね、とわたしたちは思いつくまま『同窓会』『必殺仕事人』『悪魔のようなあいつ』『剣客商売』などのタイトルをあげました。友人が2018年の『隣の芝生は青く見える』はどう?と言いました。実はわたしはあのドラマをほぼ観てないんですよ。それでも「わたさく」は知ってたし、当時のツイッターのわたしのTLではわたさくはとても人気でした。「あれ、第1話放映後にわたさくのキスシーンにクレーム入ったんだよねえ・・・」と友人が。「え、マジで?!」とわたし。深キョンのドラマと言うよりはみんな眞島秀和北村匠海演じるわたさくにハマってると思ってたのにィ~。ゲイカップルのキスシーンを不快だと言ってクレーム出す人がいる・・・それが 腐女子のわたしとしてはちょっと信じられない感覚です。

この数年ですと『おっさんずラブ』『his』『ポルノグラファー』『きのう何食べた?』『チェリまほ』『Life 線上の僕ら』・・・他、様々な作品が作られています。わたしたちはどの作品もそれぞれ楽しんでいるし、それぞれに大好きなものも幾つかあります。それでも、制作者の中に当事者はいないのではないかとか、捉え方が表層的ではないかとか、そういった問題点を上げられる作品は幾つもあります。

恋愛で結びついた関係の先にはセックスもあるわけで、そこを日本のドラマでまるっと描いていないというところにわたしは昔から不満を持っています。昨日はこの話は出なかったのですが2015年『偽装の夫婦』にはそういう苦い感想が残っています。沢村一樹演じるゲイ男性と天海祐希演じる独身女性が家族からの圧力で偽装結婚をするという話でした。最後はふたり、かけがえのない人生のパートナーとして本当に結婚するのです。しかし男性の性志向はゲイのままですし、女性はその彼に昔から愛情を感じています。だからこそ、その後の彼女の性欲はどこに向かえばいいのか?というのがわたしの疑問点です。それに関してドラマは一切触れていません。

現在のタイドラマでは、それぞれの性志向、性欲、そういったことにも過激ではなくごく当たり前のこととして描いています。多分、予算の問題なのか、日本のドラマの方が音の良さや映像の美しさ、ロケの多さなど、品質としてのクオリティで勝っている点は多いです。でもわたしたちが見ているBLドラマに関しては、描こうとしている内容、様々な意識のアップデートなどは日本のドラマよりもタイのほうが勝っているのではと痛感するのです。

それからわたしたちの話は『I Told Sunset About You』と『I Promised You The moon』の話になりました。

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I Told Suset About You

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I Promised You The moon

わたしたち3人とも新作の『I Promised You The moon』は未見です。友人が言うには日本だけでなく様々な国でこの新シリーズが物議をかもしているそうで、その理由はどういう点にあるのだろうということを話しました。いくつかの国の視聴者の声をネットで読んだ印象ですが、どうやら多くの視聴者が恋愛関係における1対1信仰というか純愛信仰と言うか一人の人と添い遂げるということに重点を置きすぎてはいないか、という話になりました。観ている我々にだって過去や迷いや紆余曲折はあると思うのですが、フィクションの世界を観る時、自分が愛していたカップルのどちらかのキャラクターの心が揺れ移ろうことに対する拒否反応はなんだろう、というのがわたしの実感です。

よくBLドラマで使われるセリフで「俺はお前が男だから好きなのではなく、お前だから好きなんだ」的なセリフ。または「俺はゲイじゃない。けれどお前だから好きなんだ」ってやつ。友人たちは以前から「このセリフには隠れたホモフォビアがある」と指摘しています。わたしは「これは純愛信仰、または1対1信仰から来るセリフではないか?」とも思うんですよ。

そんな話から今度は「カップリング固定についてどう思う?」と言いました。

要は「左右固定」というものです。例えば『Love by Chance』で言えばAePete。

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Love By Chance

攻めのAe(Perth)と受けのPete(Saint)でAePete、というBL的表記です。そこではPeteAeというのはありえない、ということなのでしょう。

しかしですね、AeがPeteよりも小柄というところがこの作品のひとつの萌えポイントとなっていて「そこ、さすがNew監督じゃない?彼はちゃんとわかっているよ!」と友人が言いました。そしてさらに興味深いことにあの作品のスピンオフ『Reminder』ではSaintが攻め、Perthが受けに、そして『2wish』でもTinとCanの関係性が逆転してるっぽいんですよね。

ゲイである彼らは言います。「攻め」「受け」っていうのが固定ってのが感覚としてありえないんだけど、と。ゲイ用語ではタチとネコ。タチの数のほうが圧倒的に少ないんですよ、と円グラフを提示してくれながら説明してくれました。もう一方の友人も「出会ったらお互いネコ同士だったので仕方なくどちらかがタチ役で、とか、ネコだった男性が歳を重ねるにつれタチに変わることは大いにありうるよ」と語ります。「ほ、ほう~~~」とわたし。いや、ここではタイ式に「お、ほぉーーー⤴」と言いたい気分よ。

友人はゲイの関係を男女の関係に仮託するのは違うと思う、と言い切ります。もしかしたら「妻」と呼ばれたいゲイ男性はいるのかもしれませんが、わたしの友人ふたりは自分とパートナーを指す場合「夫と夫」と表記しています。わたしもBLの「受け」を極めて女性に近く描くのは、私の嗜好としては好きではありません。仮に男女だとしても、女性がいつも「受け」る側とはとても思えないのです。そういう意味で左右で表す「攻め受け」そしてそれを固定すると言う考えにわたしは不自由さを感じています。(ちなみにアメリカではタチ・ネコで左右表記することがなく、発音しやすいほうを先に持ってきたり、またはふたりの名前をミックスして表記したりするそうです)

それでわたしたちは、わたしたちの愛するアジアBLドラマがもっともっと自由になっていけばいいよね、という話になりました。関係性なんて、それがセックスにおいてもそうでない部分でもどんどん変わっていくし、それを当たり前のこととして描いたほうが面白いよね、と。

そうは言っても攻め・受けっていう関係の話は彼らもわたしも萌え転がってしまうわけです。きゃっきゃしながらこんな話をしました。例えば台湾のHIStory3『那一天』で言えばハオティエンが攻め、という設定なのでしょうけど「ハオティエンが受け、シーグゥが攻めのほうが良くないですかぁ?」と友人が言います。私は頭の中で彼らのシーンを巡らせます。「ハオティエン・・・、それ、アリだね!」とわたし。「『約定』のメインCPってどっちがどうなんだろう。僕としてはアーロン・ライのほうが受けのが萌える」「なんかわかる~」・・・みたいな感じで。ほんと、背の高いほうが、ガッチリしたほうが、年上の方が「攻め」みたいな感覚にはやはりベースとして「男女こうあるべき」な刷り込みがあると思うんですよ。で、反対に言えば「萌え」とはその刷り込みや思い込みを裏切るところにあると思うんです。

そうね、萌えって、それは「自由」に直結してるわよっ❤

あとね、友人がこう言ったことにも私ははっとしました。

「NHKの大河ドラマや朝ドラの登場人物の中にLGBTが登場してほしい」って。

うわーーって思った。ほんとそうだよね! それについて今まで思い至らなかった自分をすごく反省したわ。すごい脇役とかまたは道化とか都合よくメインキャラに説教したり教え諭したりする役とかじゃなく、普通に、当たり前に、登場してよくない?だって実際にそういう人たちはいっぱいいるんだもの。当たり前に生活しているんだもの。たくさんいる登場人物の中にLGBTの登場人物がひとりもいない、なんてほうが不自然な話だよね。

そんなわけで昨日もこんな話をしながらとても楽しい時間を過ごしました。

これを読んでくださった誰かとも、いろんなお話が出来れば嬉しいです。