おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

シン・ゴジラ

この数日、ツイッターをまともに見ていなかった。
見てもなるべく薄めで。または目線をずらして。
それでも「シン・ゴジラ」という単語が目に入ってくるのだから、なあ。
「ネタバレはしていない」とかいうのにも、じゃあバレては困るネタ的要素があるってことか?と思うし、「良かった!」とかいうもっとも短い感想でもさ、それが幾つも幾つも流れてくると、待ってくれよ、良かったかどうかもまずは自分で感じるから、と激しく流れてくるツイートに待ったをかけたくなっていた。

そんな数日でしたが封切り4日目の今日、観てきましたよ!

IMAXでの美しい映像に、どーんと出てくる、あえて目の粗い昔風の東映のロゴ。そして「シン・ゴジラ」のタイトル。
海。画面下の大きさも書体もちょっとした引っ掛かりを見るものの心に残すテロップ。
誰も居ない船。
庵野監督のかつての特撮映画に対する愛情、そして細部までちりばめられた庵野監督の作品である証、それらがたった1分ほどの間にひしひしと感じられた。

多分、多くの警察ドラマでは、凶悪犯罪はほぼすべて東京で起こっていて、それを石原裕次郎率いる署の刑事たちが、または舘ひろし柴田恭平が、みんな単独捜査で解決してきた。
また、謎の生物、または怪獣、または怪人、宇宙はすべてその部内でから発信されるし、またはヒーロー的な男が変身したりして悪と立ち向かっていく。
ところがこのゴジラは、まさに「3.11」後の私たちが必要としたゴジラの物語だった。ゴジラという災害に見舞われたとき、必要なのは緊急の判断と対処であるのだが、政治家たちの政治家生命と、そして何より人命を守るため、誤った判断は出来ない。すべての災厄を肩代わりしてくれるカリスマもヒーローもどこにもいない。それが現実だ。混乱を防ぐためにも結局は一つ一つ会議を重ねるしかないし、最後に「Go」と言って判をつく人間が必要だ。現実のその煩わしさ、しかしそうして進むことしか出来ないのだということをエンターテイメント作品の中でしっかり描いたってことは、本当に凄いと思う。
また、たくさんのキャストが発表されていたが、多くはみなカメオ出演のような扱いかと思いきや、それぞれの個性をきっちりと演出されていてこれもとても面白かった。

ところでこの映画のキャッチコピーが「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」。うまいなあ。映画は予告が過剰だったりキャッチコピーが陳腐だったりするものが数多くあるけれども「シン・ゴジラ」に関しては予告も、チラシのデザインも、キャッチコピーも何もかも秀逸だと思った。
映画の中ではいろいろな形をもって「現実」と「虚構」、その2つの間で私たちを揺さぶってきた。
確かに虚構であるゴジラが現れた場合の日本を極めて現実的に描いた作品だと思うけど、その「現実」部分を構成する中に、「進撃の巨人」での長谷川博己石原さとみ、またはドラマ「デート」でもいい共演を見せていた長谷川博己松尾諭、という虚構のタッグを重ねあわせてしまい、これまたなんだか不思議な後味がある。
また、エヴァンゲリオンの「ヤシマ作戦」の時に使われたテーマ曲が「シン・ゴジラ」でも使われているが、この曲にワクワクすると同時に庵野作品としてのリアリティを感じる。ところが従来の伊福部昭ゴジラでの曲も使われていて、こちらも勿論「ゴジラVSメカゴジラ」の曲などは嬉しくてついつい座席の上で体を揺らしたくなるが、この曲にはゴジラというルビを振られた「虚構」をとても感じる。
観ているうちに結構魅力的に思えてきた大杉漣演じる内閣総理大臣柄本明官房長官余貴美子防衛大臣手塚とおるの文科大臣などがまとめていっぺんに死んでしまい、世代交代を求められるというのも、これまでの現実ではなかったけれどもゴジラが相手ではあるかもしれない。
ゴジラによる実際の破壊の恐ろしさは勿論のこと、今現在、「国」を単位として作られている人間の集団、その機能が崩壊していくことと混乱、その恐ろしさにも震える作品だった。そしてそんな中、純粋に自分と「国」という名のもとにある様々なもの・・・命とか想いとかそういうものを守るために動き続ける人への賛歌でもあったと思う。

人は大なり小なり「やるしかない!」という状況に直面することがあると思う。
いきなりゴジラに侵攻された日本もそうだが、「『ゴジラ』を作りませんか」と東宝に言われ、そこで「やる」と決めた庵野監督とそのスタッフもまさにそうだったと思う。たった一人で何もかも解決してくれるヒーローなどいない。すべての人が時に限界以上だとしてもやることをやるしかない状況。
生きていると、そういうことってあると思う。
シン・ゴジラ」はそんな時に力をくれる映画、またはそうだった時の自分を慰撫してくれる映画だと思う。