おでかけの日は晴れ

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『パラサイト 半地下の家族』

 

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ポン・ジュノ監督の作品。

殺人の追憶』『母なる証明』『グエムル 漢江の怪物』『スノーピアサー』など観終わったあとに奇妙に後を引く苦さを噛みしめつつも、「ポン・ジュノ監督、めっちゃ最高ーーッ!!」という気持ちがまず最初、胸にガーーッとやってくる。

『パラサイト 半地下の家族』もまさにそうだった。前評判も、そして観てきた人たちの感想もみな上々だったけれど、本当にそれを裏切らない。観終わってゆっくり映画を振り返れば、良かったことばかりがひとつひとつ胸に去来していく。

まずは映画の中の様々な構図が素晴らしいと思った。庭から撮るパク一家の大邸宅の窓の大きなリビング、芝生の広い庭、地下への扉を隠した美しい飾り棚などなど、大邸宅を映す構図は横の広がりを感じさせる。

しかし、貧しいキム一家が住む半地下の家に関する映像は、まるでスクリーンの横幅までが狭くなったかのように感じる。それはスクリーンのこちら側から向こう側へと映された狭い廊下、奥の何故か高いところにしつらえた便器、大水のときの石段の上から下へと流れる雨水など、構図が上下、縦のラインを意識した映像だったからではないか。

話のテンポは良く、そして意外なところに展開していくのでストーリーとして中だるみなくまったく飽きさせないところがとてもいい。

格差社会が描かれている。どの国もそうだが、ずっと古い時代には貧しいものには教育や情報が施されてはいなかった。しかし現在は、スマホさえ手にしていれば貧しくても情報を得、そして知識も得ることができる、という設定は面白い。富むものと貧しいものが唯一、共通として持っているアイテムがスマホなのである。キム家の子供たちが野良Wi-Fiを拾ってそこから得た知識を使う部分などに、今を感じさせる。

それから考えてみるとこの作品の中に「悪いひと」がいない、という設定も新鮮だった。大抵の話では、キム・ギテクの妻、チュンスクが強欲な女だったり非道だったりする。またはパク・ドンイクが情け知らずで拝金主義、または家庭を顧みない男だったりし、妻ヨンギョがわがまま、育児放棄、冷酷、などと相場が決まっていたりする。しかしこの映画の彼らはそうではなかった。富める人々、ドンイクもヨンギョも使用人を蔑むことなく、生活を支えるパートナーとして考えている。彼らはすべて、多少ダメなところがあったとしても、憎まれるべき存在でなく、おはなしとしての「悪いひと」でもない。そしパク家の人々が金持ちであること、キム家の人々が徹底して貧乏であること、その理由は彼らの才覚や努力や性格が影響しているかもしれないが、しかしそこには彼らそれぞれの動かしがたい運もあったように受け取れる。

キム家の人々はすぐに気付く。彼らの計画がこんなに早く進むのは、お金持ちのパク家の人々が、豊かであるが故の人の好さを持っているということを。それなら貧しいものは卑しく、猜疑心だらけで、狡猾で、非道なのか、といえば、キム家の人々もそのようには描かれてはいない。生活のために大胆な計画を遂行し後半に思いもよらぬ展開になっても彼らは小心であるし、決して自分のために誰かの存在を抹消しようとは思ってはいない、基本的にはどこにでもいそうな小市民だ。

そう思い、また私はこの映画の最初から最後までを脳内で素早く再生しながら思い出していた。駆け抜けるように進んでいくこの映画の様々な部分が面白い。そして最後にギウが夢想するシーンがとても儚く美しい。ギウは夢見る世界に辿り着けるのだろうか。この半地下の家から抜け出せるのだろうか。そんなことを思う。

そして私が最後に感じたこと。それは、このどうしようもない格差のある世界、自然災害に襲われてあっという間に大切なものを失ってしまう世界、いつでも政治的に不安定であることを抱え持つこの世界という物語を、私はまたエンターテイメントとして消費しているのか。何かヒヤリとした気持ちにさせられた。