おでかけの日は晴れ

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God's Own Country

私はこの映画を、生きる、というシステムの映画だと感じた。

God's own country.

神の恵みと地、と呼ばれるイギリス、ヨークシャー州。

父親の牧場を継ぎ、たったひとりでそこで働くジョニー。ジョニーはこわい目をした父と祖母と共に過ごしている。

 

この物語をジョニーとゲオルグというふたりの男の関係で描いたのはとても面白い。男性と男性。それは自然ではない、特殊なことなのか。

この作品はジョニーと移民の娘、という設定で描いていたら行き着くことの出来ない物語だったと思う。

「自然」とはなんだろう。

そこに牛がいる。羊がいる。厳しく広大な土地がある。それが自然か。

しかし牛も羊も人の手を借りて食べ、出産し、死ぬ、家畜だ。

女がいて、その息子がいて、さらにその息子がいる、血縁で繋がった3人。その構造が果たして自然か。男と女が結ばれること、家を継ぐ、親の面倒を見る、そうした、いつの時代からか正しいとされた構造が自然か。

ジョニーは男を見て発情する。それは動物の目のようで、どっちが力が強いか、オスとして強いか見極める。欲望はあっても愛ではなく征服。キスはしない。ただ後ろから挿入し、射精すればそれで終わり。その行為は動物としてとても自然に思えた。

ジョニーとゲオルグとの間にも、動物としてのとてもシンプルな構造があった。どちらが強いのか。その強さは力なのか、人種なのか。それとも智恵なのか。ジョニーはゲオルグの強さに負かされたとき、強さとは何かと言うことに初めて行き当たる。

「自然の素晴らしさ」を口にする人がいるけれど、自然とは強さで縦割りにされたシンプルで残酷なもので、人にとって生きるとは、それよりももうちょっと愉快に生きていく方法を探すことではないか。

親から受け継いだ牧場の仕事を拒否することなく、こわい目をした父親と祖母の下で暗い眼をして生きていたジョニーは、ゲオルグに出会ったことで強さや男女差や職や学歴や人種で上下が分けれらるのではなく、複雑で豊かな関係を知る。ふたりでもう少し愉快な気持ちで牧場で働き、生きていく道を模索する。生きるとは、そういうことなのだなあということを感じた1本だった。

 

finefilms.co.jp


映画『ゴッズ・オウン・カントリー』予告編

 

 

 

 

 

母の葬式

今日は私にとっては血の繋がっていない母の葬式だった。私は10歳から20歳までをその母とその家族、私の実父、そして新しい妹たちと共に暮らしていた。

葬儀のはじまる45分ほど前に着いたのだけど、私は葬儀の場のどこでどう振舞ったらいいのかわからない。斎場の人にご記名をと言われ、一応親族の私が記名するのかどうかよくわからない。受付で香典を出したのだけど、家から長いこと離れている私には受付をしてる女の子たちが誰なのかわからないし、そして何と言えばよいのか。「このたびはご愁傷様でした」ではおかしいよね。黙って香典を出し、返礼品も黙って手を振り断った。

葬儀の時間まで随分ある。斎場を覗くと母の棺の前に一人座ってる父を見つけ、近寄って声をかけると、父の目は泣きはらしたあとのようで、そしてひとことふたこと言ったあと静かに泣き出した。私は父の肩に手を回して肩や背中をそっとさすった。そんなことをするのは初めてのことだった。控え室を覗くと10歳下の妹がチャキチャキと采配を振るっていた。

「お姉ちゃん来てくれてありがとね!」と言い、「お姉ちゃんは親族の席で、一番前の左のほうに座って」と言う。父が座り、妹夫婦が座り、私と武田はその隣に座った。本当に私は参列者の顔を見ても誰が誰やら殆どわからない。しかもみんな喪服なので時折武田の顔さえ見失う。母のことは秋に一度見舞っただけでそれ以来今日まで何一つしていない。その私が親族の席にいてどう振舞えばいいのか、とにかくわからないのだ。

そして私はそこにいて、なにひとつ悲しくないのだ。棺の中にいる母を見ても。飾られている母の写真はちゃんといい顔をしていて、他人事にように良かったなあと思う。でも母の死に対して悲しみがまるでないのだ。泣いている父や弔辞を述べようとして号泣してしまう妹の姿に私はとても心を打たれているのだけれど。

出棺のときに知らない人たちが何人か泣いていた。母には泣いてくれる友人がいるということに私は少しびっくりしていた。火葬場に行き、妹の子供たちが棺の中の母に「ありがとう!」と声をかけて泣いていた。それにも驚いた。そうか、君たちにとって祖母であるあの母は「ありがとう」っていう存在だったんだ。私は、あの母のことをこんな風に悲しんでいる人たちがいることに驚きと共にしみじみと感動しているし、そして悲しんでいない私はこの人たちのそばにいるべきではないという思いもしていた。

火葬場で私はみんながいる控え室ではなくロビーで所在無く待っていた。

随分経って妹と、子供のころから妹の身近にいてくれてる人たちが多分ぽつんとしてる私を気遣って来てくれた。妹は、母の葬式という節目になっても何もしない私を責めることもしない。本当にそんなこと現実なんだろうか。「家」から逃げ続ける私を誰も責めないなんて本当のことなんだろうか。そんな気持ちもある。そういう気持ちを妹にどう伝えればいいのか。母の介護から最後まで看取った妹やその周囲の人たちに感謝しかないことを伝え、そして母のことをいろいろと話した。

母については「不条理なことを言って怒る」「本当に酷いことを言われた」「キツい人だった」など散々なことをみんなが言う。いわゆるメロドラマ的な、血の繋がっていない子供である私に対してだけそうだったのではないということは私も子供の頃からわかっていた。母はいつでもすべてのことを犠牲にして働いて金を得ることをずっと自分に課していた。自ら体を痛めつけるような生活をし、痛みこそが自分の人生であると誰かに訴えているような生き方だった。母は誰に対しても鬼のようで、手負いの獣のような人でもあり、私を含め子供たちは愛情をかけてもらったという実感が無い。それで私は成人してから家を去り、もうひとりの妹も後年、自死を選んでしまった。

しかし、その母が後年、とても変わったとのことらしい。私を含めた3人の娘に寄り添わなかった分、孫を愛したのだろう。仕事をやめてからは本当に穏やかな人になったらしい。「あんなに苛められた」「酷い扱いを受けた」という人たちが葬儀場で、火葬場で、涙を流している。

本当に、本当に、私は母の死に立ち会わなかったことを悔やんでもいないし悲しくも無いのだけれども、最後に闘病している母の時間に寄り添ってくれた人たちや死に際して泣くたくさんの人たちがいることに静かに感動していた。

私は、昨年秋に見舞ったとき、あの全身で怖くて、私を否定してばかりの母が私を見て「ああ、なんか幸せそうな顔をいい顔をしてる。幸せなんだね」と言ってくれて、ああこれでもう私はいいや、と思った。多分、殆どの人が結局はあの母の人生について同情している。多くの人がかつては母のことを憎んでいた。それでもあんな生き方だったのは母の生きた時代と、そして彼女の生育歴のせいだったのだろうと知っているし、時間が経ってもうなんか全部許そうって思っているのだろう。私は憎しみではなかったけれど、愛情を得られなかったということだけが何よりつらかったな。でもそれも、この言葉を得たからもういいや。満足です。そして18年前、何より母に愛されたいと思いつつ自死した妹も、母を待ちわびているに違いない。それもひとつの幸せな帰着のように思える。

 

久しぶりに実家に立ち寄った。私が途中からあの家の子供になり、更に母に子供が生まれるということで建てた家だからもう45年が経っている。リビングがもっと広かった覚えがあるけれど、とても狭かった。外から見たらすごく寂れていたけれども玄関には花があり、家の中もきれいになってた。リビングには母の介護ベッドが置かれてあり、そこに母の若い頃の写真と父のかっこいい写真が飾ってあった。その部屋にはとても幸せな雰囲気が漂ってた。母の最期には愛情がいっぱい満ちていたのだろう。私はそれを見たことで本当に満足して家を出た。

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なんだろこれ。この飛んでるの、うちの父。父が亡くなったらこの写真、欲しいな。

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「夜明け」

是枝監督の助監督だった広瀬奈々子初監督作。

主演は柳楽優弥

柳楽くんは顔立ちが濃くて、濃すぎて、『おんな城主 直虎』や『銀魂』などのけれん味ある役がとても似合う、と感じていた。もちろん、『ゆとりですがなにか』や『アオイホノオ』の柳楽くんも好きでしたけど。

そして、『誰も知らない』のあの柳楽くんは、もう二度とない、あの時間・あの映像の中にしかいない少年だった、と思っている。

ところが今回の『夜明け』を観ながら「ああ、あの『誰も知らない』の少年が成長したようだ。なんとか大きくなって今ここにいて、そして橋の上で泣いていたんだ」などと思ってしまうのが不思議。

 

『夜明け』は、ホモソーシャルな世界だなあ、と思って観てました。

哲さんは亡くした息子への喪失感から、拾ってきた青年シンイチを求める。従業員の宏美と再婚することはその前に決めていたのに、シンイチと出会って、死んだ息子と同じ名前のシンイチと出会って、擬似親子のようであり、師匠と弟子のようでもある男だけの世界のほうにより惹かれていっているようでした。

もう一度誰かと寄り添うならと選んだ宏美との生活だったはずですが、宏美、宏美の元夫との娘、宏美の母親の女系家族より、熟練工である従業員の男たちと息子のようで息子ではないシンイチとの男だけの世界のほうに、きっと哲さんはより惹かれている。本当に、その世界はとても煌いて見えた。

けれども、その世界の底を覗くと、そこには「秘密」や「言えないこと」や「見ないようにしてること」がある。実は彼らはかつて、そういう世界の中に生きてました。哲さんは決して妻や息子とうまくいってたわけではなさそうです。妻や息子の気持ちから少し目をそらせて生きていたのではないでしょうか。シンイチ、ではなくて光も、多分そのように生きてきたのでしょう。家族を失った哲さんと、生きる意味を失っている光が出会い、そこで生まれた小さな世界にもまた、秘密と言えないことと見ないようにしていることが降り積もっていきます。

「シンイチ」を剥ぎ取った「光」が再び選んだ世界は、哲さんを傷つけたでしょう。光だってずっとシンイチのままでいられたらという想いはあったでしょうし、そんなあやふやなままの夢を見ていたかった、と映画を観ている私は思いました。それでもまた、もう一度新たな世界を選びなおさないといけないのでしょう、光は。

もうなにも見ないことにして生きていくことを、やめるために。

夜が終わって、また朝が来る・・・・。

 

  • 青年「シンイチ」/芦沢光 柳楽優弥
  • 庄司大介(木工所の従業員)YOUNG DAIS
  • 米山源太(木工所の従業員)鈴木常吉
  • 成田宏美(哲郎の恋人)堀内敬子
  • 涌井哲郎  小林薫


映画『夜明け』予告編

それにしても。柳楽くん、ほんっと顔のパーツが1つ1つ、美しいわ。。

 

 

小さな奇跡の集まり

昨夜。

大きなスーツケースとデイパックを持った男性のお客様がふらりといらっしゃった。

ワインとサラダを注文され、その後うちの店の名前「春光乍洩」について質問されたので、その意味を簡単にご説明した。

そのあと、「この店は映画関係者や・・・あと作家がよく来るの?」

壁の川上未映子さんのサイン色紙を見てそうおっしゃる。

川上未映子さんはちょっとご縁があって、うちでライブをしていただいたことがあります」と私は答えた。

「僕、ちょうど今、新幹線の中でその方のダンナの本を読んだばかりで」とその方はおっしゃるので「阿部和重さんの、ですね」と答える私の中に、何かしら小さな縁とこの男性への興味が沸いてきた。

名古屋の方ではなく遠くからいらっしゃったというその方と、シネマスコーレやシネマテークの話を交わす。その方はある映画を撮り、その映画はシネマテークで上映されたとのことだった。その後、店内に置いてある雑誌を1冊、手にとられた。2013年の「映画芸術」。これはうちの雑誌ではない。現在「原恵一映画祭 in 名古屋」のメンバーが今週までと置いていった原恵一監督に関する書籍や雑誌のうちの1冊だった。それを男性はパラパラと見たのち、「ああ、やっぱり。見覚えのある表紙だと思った。僕、ここに寄稿しているんですよ」

ページを開くと、2013年公開の、ちょうどスコーレで公開したある映画に関する批評が数ページに渡って掲載されていた。改めて私はそこでお名前を知る。

Wさん。某TV局のチーフディレクター・映画監督・ノンフィクションライター、それらの活動は主に戦争に関連するドキュメンタリー作家のようであるそうなのだ。

ますます不思議じゃないか。この1週間だけ置いてある雑誌。ふらっと来店した男性がそこに寄稿していたとは。

さてWさんは福岡の方。今日はドイツ在住で現在一時帰国している、元大学教授に会うために名古屋にいらっしゃったそうなのだ。さらに今日中にまた東京へ行く予定らしい。その元教授から電話がかかってきた。きっとこのあと、どこかの料亭とか、静かなレストランとかで待ち合わせかなと思いきや。

Wさんは電話で「僕、今、とても素敵なところにいるんですよ。シネマスコーレの隣で(隣じゃない!)、なんてったっけ、路地の?マタハリ?っていうところ?」とおっしゃってる。それで、その元教授の方たちはうちにいらっしゃるというのだ。今の説明でわかるんだろうか?と思ってしばらくしたら、3人の男性たちがいらっしゃり、その中の真っ白な髪の上品そうな男性が

「ああ、やっぱり! 僕、ここに来たことがあるよ。懐かしいなあ。僕は趙博さん

パギさんと古い友達でね、パギさんに連れてきてもらったことがあるよ」とおっしゃる。「もしかしてライブにいらっしゃったんでしたか? えっと、2007年の?」

「2007年! わあ、もうそんなになるかあ!」

 

名古屋駅に近いとはいえ、こんな見つけにくいところにある小さな店に、何の情報もなくふらりといらした男性がここへ来る前に読んでた小説は安部和重さんのもので、その配偶者の川上未映子さんのサイン色紙が店内でその方をお迎えし、さらにかつて寄稿した映画批評が載っている雑誌がお迎えし、そしてわざわざ名古屋で途中下車して会いに来た元大学教授はマタハリにかつてライブで来て下さったことがあって・・・。

それらはみんな、別に大したことじゃないちいさな奇跡で、でもそれはみんながなんだか笑顔になって「わあ、不思議だねえ」「やっぱりね、なんか繋がってるんだよな」と言い合えるようなことで。

そして、自分の好きなもの、楽しいもの、自分にとって大切な人たち、そういったものがこの場所で小さく繋がったこと、それがうちの店だったことが、いつだって私には誇らしい。ああ、店ってほんとにいいな。そういう場所になれたりするから。いつもいつもいつも、こういう瞬間に出会うたびに飽きることなくそう思う。

 

私は私とこの件について語り合いたい

季節の変わり目のせいか、それとも週末に大き目の案件が控えている緊張のせいか、僅かに気持ちが下がり気味なのです。そう、ほんと、僅かに。

それでも今日の私は、千葉雄大くんと田中哲司さんの、「音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!」での妖しげな絡みを思い出すだけでもう、にやにやとしちゃうんである。

三木聡監督で阿部サダヲ吉岡里帆主演のこの映画で千葉雄大はレコード会社の男として最初のシーンからずぶ濡れだしのたうちまわるし、かなり大変なシーンが続いているんだけど、なんのご褒美なんだか、途中で下着1枚の千葉雄大とビキニパンツだけの田中哲司演じる「社長」の絡みがあるんですよ。

それをね、ふっと思い出しては1分ぐらいにやにやにやにやしてしまうのが今日の私。

20年ぐらい前だったら即刻、このシーンから広がる千葉雄大田中哲司のアナザーシーンを脳裏でどんどん展開させていってたかもしれないが、さすがに私も55歳になるヲバチャンなので、炬燵に入ってするめでも噛んでるような心境でいつまでもにやにやして日がな過ごしてしまうのである。

いやー、ほんと、なんでだろねえ。

千葉雄大くんは、ライターであるメガネ女子の胸元に手を入れて乳首を弄んでるようなシーンもあるのだけれど、そこに私がにやにやするポイントは皆無である。

なぜだ。相手は禿げカツラを装着してる田中哲司なのに!

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なんてゆーか、環境や生育歴などで培われたものではない、きっと生まれた時から私の細胞に組み込まれている「にやにやする遺伝子」みたいなものが間違いなくあるのだ。こーゆーシーンでにやにやしてしまうのは、これは私だけど私じゃなくて脳内のなんやらのせいだ! 

私はそんなことをもうずっと長いこと考えている。

このことについてなにか明確な答えもない。ただできることなら私はこの件を、10代の私、20代の私、30代の私、40代の私と私だらけで一晩中語り合いたい。何故、私たちの「萌え」は「ここ」にあるのか、ということを。

 

ま、それにしても。

気持ちが下がってるときでも「萌え」さえあればすぐに幸せになっちゃうって、もうどんだけ幸せなことか、と思いますね。


『音タコ』SIN+EX MACHiNA「人類滅亡の歓び」ミュージックビデオ(ショートver.)

欲しいもの

なんとなーく欲しいものがあって、昨日も今日もショッピングモールの長い通路を歩いた。

一体、私は昔からこうだったのだろうか。それともここ数年のことなのだろうか。

私はただショッピングモールの通路を歩いているだけだ。

歩きながら通路沿いにディスプレイしてあるものをぼんやり眺めて通り過ぎるだけだ。

なぜか店内に入らない。

1つ1つの店に入って物を探すのがめんどくさいのか? 声をかけられるのがいやなのか。実は欲しいものは漠然としていて、でも本心からそれを見つけようとは思っていないのか。こんなふうに欲しいものに対してぼんやりとした自分がいやだ。

ああ、何が欲しいんだろう。

心安らぐ香りが欲しい。香水は直につけないけれども、ハンカチに少しだけつけ使うときにふっと気持ちが安らぐためのいい香りのものが欲しい。

ざっくりしてるけどやわらかい、シンプルなワンピースが欲しい。店で着るための。

万年筆のインクが欲しい。万年筆も出来れば欲しい。

たったそれだけなんだけど、結局見つけることもしなかったし、だから買うこともなかった。無印良品で小さな化粧水のボトルを買っただけだった。

自分の好きな店が1軒だけあって、その店のラインナップをとても信頼してて、私はそこに行けばなんでも買える。そんな店があったらいいのになとちょっと自堕落なことを思っている。

夜のざわざわ

なんとなく、すごくさみしくて切ない気持ちでいる。

理由はあるようでないようで。いや、多分いくつかあって、それはどれもひとつずつがとても細かくて小さい。

いわゆるこれは、ただの「気分の波」のようなものなのだろうか。そうだとしても、心がちいさくざわめいていて、別にそれを無視してこのまま布団に入り眠ることは出来るのだけれども、せっかくの休日の夜、このざわざわに少しでも向き合わないと勿体無いような気がしている。

だから、こうして文字を打っている。

ずっとこれまで、何かを書かずにはいられなかった。

13歳から30歳半ばぐらいまではそれは日記で、あるときからは芝居の戯曲になり、そしてあるときからはネットの掲示板やブログで。

でも、ここ最近、私は本当に何も書いていない。

感じたちょっとしたことをツイッターに書いてたけれども、それも殆どしていない。ツイッターには主に店のことを書いている。店のことを考えると書く内容にも制限がかかる。いや、以前は制限など自分に課していなかったな。最近では無意識に制御している。

または書きたいことがあっても日々のあれこれに埋もれ、それをする優先順位が下がっている。今、私が自由な時間に一番時間を割いているのは英語の勉強だ。

そうしているうちに、自分の中で感じたことを文字にする習慣が、いや習慣と言うよりも情動が薄れていっている。多分これは年齢のせいもあると思う。

ほんと、年を取っていくとこんな風になってくってことを知るよ。老いに入っていったら、好きなことはちゃんと自分の生活の中でそれをやっていかないといけない。そうしないと、どんなに好きなことだって心の中でそれが薄くなっていくからだ、たぶん。

本を読む。英語の勉強をする。映画を観る。音楽を聴く。心に生まれた何かをそっと文字にする。

自分にとって大事なそれらを大切にしていくということは、それを細く長く続けながら楽しむことだ。

 

こうやって書いていると、私の中に、本当に小さくてきっと他人にはどうでもいいことなのだけれども、書きたいことがいくつもあることに気がついて嬉しい。

今日、私が何に憧れて何を苦手に思ったかとか。

仮面ライダージオウ』の変身シーンの美しさについて、とかそんなことも。

 

私の友達が、殆ど非公開で私を含めた少ない人だけにアドレスを教えてくれてる日記サイトがあって、そこに書かれているその人の日常の思いは私にとって宝物のようなもので、私もそんな風にひっそりと、人の目を気にせずにここに書いていけたら、と思ってる。

 

劇団どくんご「誓いはスカーレット」観ながら思っていた超個人的なあれこれなど

豊橋市松葉公園でのテント芝居「どくんご」の「誓いはスカーレット」、観てきました。

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実は私は24歳辺りから32歳までの9年間、劇団に所属し、芝居をしていました。

その頃の私は、仕事中も芝居のことばかり考えていられる仕事に変えました。仕事の合間合間にストレッチをし、仕事をしながら頭の中でずっとセリフを覚えることに使い、セリフを覚えた後はずっとイメトレをしていました。仕事をしながらワープロを開いて台本を書いていたときもありました。

 

私達の劇団は、サプライズを大切なものと考えていました。衣装で、舞台セットで、演出で、観に来てくれた人に驚きを与え、それが夢や感動に繋がってくれればいいと思っていました。

そのためには、開演するまで私たちの衣装やメイクした姿を観客に見せることはしません。舞台セットも暗闇の中で隠されていました。

しかし。どくんごでは。

すでにメイクをし、衣装を着た役者が舞台上に置かれた受付でお金の精算をしたり客入れをしてます。舞台セットは隠されておりません。

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お客さんも缶ビールや缶チューハイ飲みながら観劇の人もいるし、ちょっと新鮮に感じながらもなんとなく「なるほどなあ・・・」と思ってました。

 

ただ、そこから芝居が進んでいくにつれ、正直言って「なんだろう?」「なんだろう??」っていう気持ちがどんどんと膨らんできました。

ある幕で出番を終えた役者たちは舞台の横の観客にまるっと見える場所にいて、楽しそうな顔で舞台を見ていたりしています。それは演じている顔なのか、素の顔なのか? わかりません。ただ、衣装をつけメイクもした役者が出番が終わったあとで素の顔を見せて舞台の横の見えるところにいる芝居なんて、私は初めて観たし、そういうことを考えたこともありませんでした。

例えば後半、テント芝居の後ろの幕が開かれ、向こう側の風景、それは舞台上の異世界ではなく公園の向こうの広がる普段の風景で、そこでは道を歩くサラリーマンや2人でサッカーのパスをしている男性たちや散歩の親子連れがいます。私たちが芝居を観ているその視界の背景に、薄暗がりの松葉公園にいる普通の人たちが入り込みます。もしも、彼らのパスしそこなったサッカーボールが舞台の中に入ってきたらどうするんだろう。酔っ払ったサラリーマンが入ってきたらどうするんだろう。私たちの劇団だったら、「そういったハプニングもある程度想定しつつ、でも絶対に芝居を壊されないように厳重に注意を配る」ということに神経をつかいました。でも、どくんごの人たちは万が一に対応する人員を割くこともせず、なんていうかとにかく自由というか、気持ちがとても広いのだなあと感じました。

ああ、どくんごには私たちの劇団が持っていたストレスが何もないのかも。

私たちの劇団では上演前に姿も存在感も消し、明かりがついた途端にどこからともなく登場し、退場したらまた存在を消し、何が起こっても芝居を中断されないように周囲に細心の注意を払い・・・などなどの緊張感で舞台を作っていたのだけれども、どくんごにそれはまったくない。

しかし、です。そんな劇団が何故こんなことが出来るのか。

最初のピストルを持った男女の、あの動きはきっちりと演出で決められたものでセリフと動きがピッタリと合っている。「わたし、見ちゃったんです」から始まる幕は、4人の役者のセリフの呼吸から動きのシンクロ度がとても高い。桃太郎の話の芝刈りから芝生の高さへと話がどんどんと変わっていくポンポンポーンの変な外人の男の幕、あれなんてもう、どこまで台本で言語化されているんだろう? そしてすべての役者のセリフは、しっかりと舞台上の相手にかかり、どんな意味不明なセリフだろうとどこへも届かずぽとんと落ちてしまうような、そんなセリフは1つもない。

「自由」という言葉のニュアンスの近くにある「ゆるい」みたいな単語とはまるでかけ離れたところにある彼らの芝居、本当にもうこれは一体どうなっているんだろう、と思いながらずっと観ていました。

 

そうだわ、私は昨日も芝居の話をしていたんだった、と唐突に思い出しました。

かつての芝居仲間が来てくれて、その時に私たちが若い頃に知り合い、そして今もずっとお芝居をしているある男性のことを話していたのです。私の友人はその彼のことを最大限の尊敬をこめて「芝居に魂を売った男」と言っていました。

そうだ。20代の頃、同じように舞台に立ってた私たちがいて、私たちより若い子だとか後から入ってきた子が私たちより先にやめ、私は芝居のことばかりを考え、そんな時間があったということがそれほど遠い記憶でもなく、まだどこか身近な過去として自分のそばにあります。そのときの私はずっと芝居をやっていきたかったし、そうあればどんなに幸せかと思っていました。しかし30歳を少し越えた頃から1年のうちの結構長い時間を芝居に費やすことが苦しくなってきました。もっと好きな人のそばにいる時間が欲しい。映画をもっと観たり本を読んだりしたい。なによりもう、芝居の台本を書けなくなった・・・。そうして私は33歳で劇団から去り、喪失感も数年間はじわじわとあったけれどもどことなく肩の荷を降ろしたような気もしていました。

そうだなあ。20代後半の私は、芝居をやめる選択をするとは思ってなく、そして一体誰が続けていくのか、そんなことも勿論知る良しもなかったです。

あれから20数年が立ち、私は50代半ばになり、ここでひとつの結果が見えてきました。

あの人と、あの人は、まだ芝居をやっている、とか。

あの人と、あの人は、あんなにうまかったあの人は、もう芝居をやっていない、とか。そしてあの時は気付かなかった、芝居がうまい一役者だと思っていた男性は、「ああ、芝居に魂を売った男なのかもなあ」と今は思う。そんな風に私たちはある程度長いスパンで私とそれぞれの人たちの人生を省みることの出来る、そんな年齢になってしまったことに気付きました。

昨夜の私の目の前には、かなり長くこの芝居の世界にいる人が、生活が芝居の人たちの芝居が繰り広げられている。

観客は、どこでもそうなのか、豊橋の観客がそうなのか、すごくあったまってて、最初から結構ドカンドカンと笑っている。目に焼きついた美しい光景があり、すごく面白いアイデアがあり、ずっと芝居をやり続ける人には生まれてこなかった(のかもしれない)私が、ああいつかの私がこんな面白いことを発想できたら、こんな風に寛い気持ちで芝居に向き合えていたら、などと思いつつも、本当に、すこぶるやわらかい気持ちになって芝居を愉しんだ夜でした。

描かれていないことが真実ではないか、の、『告白小説、その結末』

先日、店に来たあるお客さんが、今話題になっているある作品について語気を少し強めておっしゃってました。

「僕はね、以前、その職業に就いていたからそう思うんだけど、その職業についてもっと掘り下げて描いて欲しかった」

その人は酒のせいだったのかも知れないけれども目を潤ませながらそう訴えていました。しかしその作品は、その人が昔関わっていた職業について掘り下げる作品ではありません。作者の意図は違うところにあるのです。しかしそれを言っても仕方がないと思い、そうですかと答えながら、感想というものは怨念から成り立っているのだなあ、とそのとき私は思いました。その人が「この作品にこのことが描かれていない」と思うのは、その人自身が持っている様々な思い出、愛着と多分怨念が残っていて、そこを描いている作品を読みたい、または観たいと感じているからに他なりません。

作品の中に描かれていること。感想はそこのみにとどまりません。時として描かれていなかった部分に対しても激しく心が揺さぶられたとき、そこには自分自身の人生に対する怨念があったりするのでしょう。個人の怨念は物語の描かれなかった部分を補完し、自分の中で独自の感想となって広がっていったりするのだなあと、そんなことを考えていたここ最近。

 

ところで『告白小説、その結末』はそういう感想の持ち方とは違う辿り方をする映画でした。

作家・デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。デルフィーヌの執筆作業を邪魔しないために別居しつつもデルフィーヌを精神的に支えようとする夫・フランソワ(ヴァンサン・ペレーズ)。そして彼女にファンだと言って近付き、そして彼女と同居する、フランス語で「彼女/ELLE」という単語と同じ名前のエル(エヴァ・グリーン)。

映画を観ている間は、疲弊しているせいでガードが甘くなっているデルフィーヌの迂闊さにハラハラし、そして真っ赤に塗られた大きな唇の口角をキュッと上げて笑いながらどんどんと近付いていくエルの怖さにおののきながら観ていました。真っ白なままのワードの画面を前にしたデルフィーヌの焦りと不安に同調し、骨折した足の痛みを共に感じ、そして彼女の追い詰められていく状況をに震え、デルフィーヌが地下室へ降りていくシーンなど恐怖で心が凍りそうになり、「やめて、何故そんなところへ行く?!」とか「誰か助けて!」とか「デルフィーヌ、逃げて!」と心の中で叫んでいるような、私は素直な観客でした。

ところが映画が終わって、しばらく空白の後、頭の中でゆっくりと今観たばかりの映画のあれこれを再生せねばなりませんでした。そして気付いたのは、この映画は「描写されていないこと」について頭の中で想像・創造していかないといけない映画ではないか、ということでした。

この映画の見方は少なくとも2つ以上に分かれると思います。

1つは作家とサイコパス女の話。

そしてもう1つ。この物語は作家のデルフィーヌの脳内世界を映像にしたものではないか。

ネットでいくつかの感想を読んでいると「妄想オチ」という言葉が散見しています。私も最初はそのように思ったのですが、今はそう言って片付けてしまうのは惜しいと思っています。

何かを考えるとき、それが自分の過去に関連する内容だった場合、脳内にそのときの自分の姿とその場にいた自分の周りを取り巻く人たちを再現し、そのときの会話や行動を脳内でなぞりながら考えを詰めたり別角度から捉えなおしたりします。この映画はそれに近い形であり、デルフィーヌ自身が自分をこのようだと捉えていたのが「作中に現れるデルフィーヌ」だったのではないかと思うのです。あそこで描かれていた、少々平凡に見えなくもなく、疲労のせいで目が虚ろであるがどちらかといえば善人であるデルフィーヌは、彼女自身が捉えている自分像であり、もしかしたら他人にはそうは見ていないのではないか。そのようなことはこの映画の中で描かれていません。しかし、そういうことを想像する映画だと思ったのです、この作品は。

そうすると、では、あのジュースミキサーを破壊したのは誰だったのか、熱いスープを扉に投げつけたのは誰だったのか、子供たちは何故彼女の元から離れたのか、夫はデルフィーヌに対してどう思っていたのか。映画を観終わったあとで映画に描かれていることをひとつひとつ取り上げながら、「そこに描かれていなかったこと」について検証していくことに熱中してしまいました。

そういえばですよ?子供たちは成長して作家である母親の元から巣立っていったことがデルフィーヌのセリフから窺えますが、もしかしたら母親としてのデルフィーヌはエキセントリックでヒステリックで子育てには向いていなくて、子供たちはその彼女の世界から離れた航空業界での仕事を選び、彼女の元から離れたのではなかったか、とか。もしかしたら彼女の元に寄せられる辛らつな手紙は彼女の子供たちのものではないのか、とか。

そういえば途中で風変わりな「飛び出す絵本」が出てきます。開くと絵本から飛び出すのは異形の悪魔やモンスター。絵本の扉を手でそっと開くとその向こうに現れるのは大きなゴキブリ。もし私なら、子供の頃の私なら、この絵本は開けません。自分の部屋にあることさえ恐怖します。デルフィーヌは彼女の子供たちにこの絵本を与えたのでしょうか。絵本を開くデルフィーヌは微笑んでいます。彼女は、このような風変わりな絵本を子供に与えたことに満足しています。しかしそこに描かれていない、彼女の子供たちはどうだったのでしょうか。

また、映画の前半にはデルフィーヌの精神と肉体の疲弊が描写されています。サイン会も長く続けられない。関係者が開くパーティ、個展、イヴェントに促されてとりあえずは顔を出すがすぐに帰ってしまう。それは彼女が自分について精神的な疲弊、または鬱状態ではないかジャッジしていたのではないでしょうか。しかし実のところは彼女には社会性が多少なりとも欠如していたのではないか、と考えられなくもないのです。「講演会を無断でキャンセル」が真実であり、そこを補完するための「半ば強引に身代わりで出て行ったエル」だったのではないか、とか。

そのように、『告白小説、その結末』のシーンをひとつひとつを思い出していって検証しなおしていていく最後に辿りつくのは、では私の脳内にいる私はどのような人で、他人は私についてどう感じていて、私の捉えている世界はどのようなもので、それが他人についてはどのようになっているのだろう、などなどとそこにある差異を改めて感じながらこの不確かな世界を再確認する、そういう作品だったと思うのです。

 

告白小説、その結末

監督:ロマン・ポランスキー

脚本:オリヴィエ・アサイヤスロマン・ポランスキー

音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーン


映画『告白小説、その結末』2018.6.23(土)公開 予告編

今朝の夢 実家編

今朝見た夢は、手触りとか明かりの光度とか色とかがとても鮮明な夢だった。

場所は私が10歳から20歳まで住んでいた実家。

ちなみに私は6歳の時両親が離婚して数年は母方の実家に、そして10歳の時に再婚した父親の元に移り、父親と新しい母親の家族(祖父母・叔父・叔母)、そして新しく生まれた妹2人と共に住んでいた。

夢では時折、その当時の実家に何かの用事で立ち寄る。

夢の中ではいつも、私が11歳の時に建てられた2階建ての家には誰もいない。誰もいない中、いつでも私はこっそりとそこに行くというパターンだ。

今朝の夢でも、友達と一緒に実家を訪れる。夜。玄関の明かりは煌々と灯っている。友達は何故か真っ白のつなぎを着ている。簡単な用事を済ませて家を出ようとして、家の中の電気を消し忘れたことに気付き、もう一度家の扉を開ける。そしてリビングに入ると、そこに裸の小さな女の子がひとり、いた。本当に小さな子。多分、3歳にもならないような小ささだけど、ちゃんと歩くし、会話も出来る。何故か誰もいない家の中でそんな幼い子供がたった一人でいるのだ。

私が子供のころ、両親はスナックを経営していて帰宅は午前3時頃だった。夢の中でもそうで、この小さな女の子は誰も居ない家の中にいる。それにしても小さすぎる。抱くと湯上りのように体は熱くてほかほかしている。この子供に着せる服を探そうと思って家の2階に上がる。20歳まで住んでいた私の部屋はそのままで、衣裳ケースの中には私の服までもが残っている。『何故こんなものが残っているんだろう』と思いつつ、子供に合いそうなTシャツを探す。周囲にはこの子供が蚊に刺されないためか蚊取り線香があちこちに焚かれ、今は灰になっているあとがいくつもあり、蚊に刺されないためとは言え、火事になったらどうするんだと心配になる。

そうやって私が服を探していて気付くと、なんと家の壁の一面だけが朽ちて崩れている。崩れた向こうに私が10代まであった祖父母の木造の日本家屋が見える。しかしそこに住んでいたのはものすごく憎憎しげな顔でこちらを睨んでいる太ったおばさんの顔だった。そのおばさんは夏にみんなが着る「アッパッパー」と呼んでいた木綿のだらしないワンピースを着ていて、縮れた黒髪をきゅっと結わえてて、日に焼けた頬は盛り上がってて目は小さい。そしてこちらを黙って睨んでいる。ああ、この子供がここにいることが気に入らないのだ、と思う。

私の場合は・・・。私はこの家に10歳で来て、血の繋がってもいないおばあさんが私の面倒をとても見てくれた。両親は夕方から私と妹たちを残して店に出て行ったけど、おばあさんがそばにいてくれたから大丈夫だった。でも、ここではこの見知らぬ裸の、そしてきっとこの家の人とは血が繋がっていない子供がたったひとりでいて、それを見つけてしまった私は一体どうしたらいいんだろう、と途方にくれてしまう夢だった。

今見たばかりの夢

はじめてみた夢なので書き残しておく。

こたつに若い男3人と私が入っている。私も多分若い。

私の目の前にいびつな形をした小さな薬が2個か3個入っている袋が置かれている。これを飲めばすぐに死ぬことが出来るらしい。どうやら私たちは全員で服毒自殺をするという設定のようだ。

「これを飲めばいいんだね」と私は言う。

他の人は返事をする代わりに黙ったまま、それを飲んだ。

私も袋を開けて口にした。2包あったけどよくわからなくて1包だけ口に入れた。薬は苦かった。急いで目の前にあった湯のみ茶碗を手にするけど、なんだよう、お茶は少ししか入ってないじゃないか。水を飲みに台所に立つのがちょっと怖かった。ひとりだけそのこたつから離れるのは。それで少しのお茶で薬を飲み下した。

そして私はこたつに足を入れたまま、床にごろんと横になった。となりには黄色の安っぽいトレーナーを着た髪が肩以上まで長く伸びた若い男の子がいる。私はその男の子の背中にそっと自分の体を寄せた。その男の子の手が私の乳に伸びてきた。私の反対側に座ってたむっちりした体型でちょっとおっさんくさい雰囲気の男の子(多分、この中のリーダーっぽい)の手がおずおずと私の足のほうに伸びてきた。もうすぐやってくる苦しみをじっと待つのは怖くて、せめてこうしてないとな、と私はそんなことを思ってる。黄色のトレーナーの男の子が「来た」と小さな声で言った。「来た?」「うん、苦しい」

ああ、いよいよ苦しくなって死ぬんだ。「痛い」と男の子が言ってる。わたしは彼の背中をゆっくりと力強くさする。「もうすぐ楽になると思うよ」と言って。

私はまだ苦しくならない。そして男の子の静かだけど力強い痛みは結構長く続いてて、私は「あーあ、やっぱり飲まなければ良かったかなあ」と地味に思っている。「こういうふうに思うなんて一番ダメなパターンだしあんまり考えたくないけど」と思ったところで、ああこれは夢かと気付き、だったら苦しくなる前にさっさと目覚めようと思って夢から離脱しました。

男たちの物語

名もなき野良犬の輪舞』、犯罪組織、警察、潜入捜査などを描いた韓国のクライムドラマ。友達からの強いプッシュで観に行った。作品としても面白いのだが彼女いわく「りりこさんの萌え要素もある」という。


不汗党(名もなき野良犬の輪舞) Fanmade Trailer (Japan ver.)

さて観て、ちょっと待て、ソル・ギョングこんなに若かったっけと目を疑った。

同じ2017年に製作された『殺人者の記憶法』では肌の質感も老人のようだったけれど、今回は大泉洋とか、または若い頃の小林薫みたいな感じじゃないか?

ちなみに小林薫といえば私は『キツい奴ら』(1989年)を思い出すのだが、小林薫玉置浩二が金庫破りのコンビだった。この物語にはマドンナ的存在がいるのだけれども演出が久世光彦のためか、小林薫玉置浩二の間にとても腐女子を萌えさせるイイ感じのナニカがあったのだよ。

さて『名もなき野良犬の輪舞』は構成も面白く、役者もいい、最後までハラハラしてドキドキして、そしてビビりの私は「絶対にヤクザの世界には入りたくないし、そして刑事になって潜入捜査もしたくない!」と心底震えながら思うのだけれどさて、友達の言ってた私にとっての「萌え要素」に関しては、うむー、どうなんだろう。

確かにソル・ギョングのコンビとなるイム・シワンは可愛いし、風貌も素敵だし、とてもいいのだけど、なんだろうなあ・・・。

例えばその『キツい奴ら』小林薫玉置浩二


"kitsuiyatsura" "ラヴユー東京"

男たちの挽歌』でのチョウ・ユンファレスリー・チャンとか。

そういえば香港映画や日本映画での男たちのバディものに腐女子萌え要素は満載なんだけれど、韓国映画には同じようなバディもの、クライムサスペンスなどいっぱいあるのに萌え要素を私は感じないのは何故かな。

「君の名前で僕を呼んで」

君の名前で僕を呼んで』(Call Me by Your Name)

監督 ルカ・グァダニーノ

脚本 ジェームズ・アイヴォリー    

出演者 エリオ/ティモシー・シャラメ、 

    オリヴァー アーミー・ハマー、 

    エリオの父 マイケル・スタールバーグ

 

予告編では、Sufjan Stevensによる“Mystery of Love”という曲にすっかりやらられてしまってました。これが流れるだけで何故か泣ける。


“Mystery of Love” by Sufjan Stevens from the Call Me By Your Name Soundtrack

以下ネタバレあり。観る予定の方は観ないほうがヨイです。

 

17歳のエリオと24歳の大学院生のオリヴァー。

観ながら、この映画の中の彼らを見つめながら、正直言っちゃうと「あー、ほんとに若いってことは性欲に振り回されるってことだよなー」なんつーことをも思ってたのは、まさに私が年を取った証拠。昔はそんなこと思いもしなかった。登場人物と一緒に触れそうな距離にドキドキしたり、ゾクっとしたり。でも大変残念なことにこの年になるとそういう感覚から距離が出来て、エリオもオリヴァーも彼らを慕う女の子たちも自分の中の性欲でいっぱいいっぱいになっていることを「あー・・・」みたいな感じで眺めていた。

勿論、映画はとても良くって、エリオの恋の始まり、どうしていいかわからない戸惑い、不安、初めてのキス・・・、などを一緒にドキドキして観ていたんだけど。そして最後の別れも・・・。

でも、今の私に一番響いたのは、エリオの父のセリフだった。

エリオが同じ男性であるオリヴァーに恋をしたのは、エリオの母も父も気付いていた。さらに、エリオのためにひと夏の思い出、もうすぐエリオたちの前から去るオリヴァーとのふたりだけの時間を作ったのも彼らの父母だった。

当事の多くの親たちは許されない同性への愛(映画の時代は80年代。かつては同性愛は犯罪とみなされていたし、犯罪ではなくなっても精神異常者とみなされる風潮があった)に対し大きな反発を見せただろう。しかしエリオの父は「私たちはそのような親ではない」と言う。そしてエリオの父の長いワンカットでの長セリフ。これがほんとうに良かった。

エリオを聡明だと言う。オリヴァーのことも聡明だ、そしてふたりとも善良だと最初に言う。聡明で善良だから二人の恋愛を一時の過ちとして封印しろと言うのかなあと思っていたら、そうではなかった。

エリオに、この恋の痛みを忘れようとしなくていいと言う。いくらでも泣いていいと言う。恋する気持ちを抑えたり忘れようとすることで心はどんどんとすりへっていく。しかしそれでは生きていくうちに体も心もすりへってしまう。感情を抑え込まず、恋も痛みも悲しみも感じることが生きていくことの喜びだ、と彼に静かに伝える。そして、恐れずに彼との友情を、友情以上の関係を結べたその経験は素晴らしいことだと肯定するのだ。何故なら・・・エリオの父はそう出来なかったから・・・。

 

夏の日のオリヴァーとエリオの別れに、その悲しみを包むエリオの父の言葉に、そしてその冬のオリヴァーとの本当の別れの悲しみに、すごく打たれた映画だった。

 

それにしても。

はああああー・・・。

エリオを見ながら「性欲ってやつは・・・」と思った私はかなり心が磨り減っていたよ・・。

 

『レディ・プレイヤー1』の世界

私がスピルバーグの作品をほぼ観たことがないというと、友達はみんなああなるほどねなんかそんな感じすると言う。しかし話してる内に、え『ジョーズ』も?『インディ・ジョーンズ』も?それテレビで観てない?とか、『未知との遭遇』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も観てないだなんてそんなのアリか?という感じになってくる。なんていうか昔の私は大作映画をまったく観ようと思ってなかったんだ。

スピルバーグで観たのは2011年の「戦火の馬」のみ。そんなわけで「レディ・プレイヤー1」にもまったく興味がなかったんだ。でも予告編を観て、あれ、これ好きなヤツじゃないか?って思った。


映画『レディ・プレイヤー1』日本限定!本編冒頭映像(オアシス編)【HD】2018年4月20日(金)公開

 

それで映画観に行って思ったんだ。私はこういう世界設定に結構グッとくるんだってこと。

私が子供の頃にドラマや映画に出てくる「未来」。アイテムは空飛ぶ車、テレビ電話、どこかにあってなんでも管理してる巨大コンピューター、なんでもやってしまうロボット、人が着てるのはなんかキラキラした全身スーツ・・・。そしてどこまでもハイテク化した世界の脅威は、終極的な核戦争後の世界だったり、AIが発達して人間に近くなったロボットの氾濫だったり、未知のウイルスや大規模災害や宇宙人襲来だったり。

21世紀は、未来でSFだった。そして今生きてる2018年も未来でSFだったのに現在になってしまった。かつて描かれていた「未来」に追いついてしまったときにひとつひとつ答えあわせをしていくと、随分思い描いてたものと違ってることに気付く。

インターステラー』で地球滅亡の脅威となったのは異常気象だった。『コングレス未来学会議』で描かれていた世界も貧困によるディストピアだ。

戦争でもウイルスでもなく、私たちが子供の頃に想像していた右肩上がりの豊かさでもなく、経済の下落によるディストピア。未来が今よりも貧しくなっているなんて・・・。それは80年代を生きてきた日本人の私にとっては正直言って本当に驚くような未来なんだ。

殆どの人間がスラム街で生活をしている『レディ・プレイヤー1』の世界。この設定は私の琴線にとても触れるものだった。

 

そして映画は・・・・、

もうむっちゃ面白かった!!

いろいろ、避けた!!(車とか、斧とか!) 

観てよかった!!

最後、泣いちゃった!!

細部までにいろいろ感情を揺さぶられる作りになってるエモーショナルな作品でした♥

 

「リズと青い鳥」

多くのアニメ作品の中の少女たちは、「わたしたち」ではありませんでした。

「わたしたち」は、あんなに可愛くはなかったし、可憐ではなかったし、キラキラでもなくキャピキャピでもなく、けれども自分を特別だと思ってて、けれど突然そう思えなくて絶望して、自分は結構いいひとだと思ってたのにやっぱりいやなやつだよなって思えたり、そういう、そういう、なんていうか決して映画やドラマの中には出てこないもっと――――――、普通のおんなのこ。

でも「リズと青い鳥」の女の子たちは、まさにそういう普通のわたしたちが描かれている作品でした。

 

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なんか、すごくないですか?この絵。

すごくリアルに描かれた教室の机と椅子と床と譜面台。

その背景のリアルさとは質感の違う、陰影や肉体の比率は省略されたりデフォルメされた絵で描かれた、楽器を奏でる細身の女の子ふたり。

そして窓の向こうは、またその少女たちの絵とはタッチの違う、色彩鮮やかで、ちょっと昔のアニメを思わせるような絵。

「ずっとずっと、一緒だと思っていた。」というコピー。

観る前からなにごとかの不穏さは感じていたけれども、観終わってからこの絵を観ているだけで何故だか涙が出てきて困る。

机と椅子だけのこの静謐な場所は、彼女たちの心を守る場所でもあり、育てる場所でもある、でも閉じられた鳥かごだったのか。ここにいる彼女たち。そしていつかここを出て行く彼女たち。その時間を思い、私はなんだか泣けてくる。

 

(もしもこれから観るのならば出来れば何も、予告編も何も観ず、もちろんこれも読まずに観てほしい。)

 

鎧塚みぞれが、学校の校門の近くで座って待っている。

同じ高校3年生、吹奏楽部フルート奏者の希美が来るのを待っている。

希美がやってくる足音に耳を澄ませている。

みぞれは希美の後ろを歩く。希美の揺れる髪や彼女が下駄箱から取り出してぞんざいに床に落とした上履きや脱いだ靴や先に階段を登る足をずっと見ている。

この時の音が、ピアノの音がぽつり、ぽつりと零れるように響くのだが、まるで言語化されずに想いだけがあるみぞれの心情のようだ。

みぞれは希美のことが好きなんだなとわかる。その目線の先にあるものは女の子ならではのフェチだ。女の子は誰かを好きになるとこんな風にその人を探し、こんな風に静かに見つめている。それを丁寧に描いていて、すごくいいと思うのと同時に少し苦しい気持ちになる。みぞれの思いにつらい予感がする・・・。

 

この映画を観にきた人たちの多くが「響け!ユーフォニアム」2期を観ているだろう。だから「みぞれと希美」というだけで不穏な何かを感じてこのスクリーンの前に臨んでいたのではないだろうか。

テレビ版「響け!ユーフォニアム」2期の前半でみぞれと希美は登場した。物語の主人公は北宇治高校吹奏楽部1年ユーフォニアム奏者・黄前久美子。初めての夏合宿で久美子は2年・3年の先輩たちに翻弄されることになる。かつて退部したフルートの希美が復帰したいとやってきた。それに反対する副部長のあすか先輩たちや激しい拒否反応を示すオーボエ奏者のみぞれらに久美子は振り回されるのだ。

ちなみにこの時のみぞれは2年生。中学時代、自分を吹部に誘ってくれた希美が唯一の友達だった。しかし希美は1年生のときに部内のゴタゴタに嫌気がさし、みぞれに黙って退部し、みぞれはそのことで激しいトラウマを抱えることになったのだ。希美の登場でみぞれは心を乱し、演奏にも集中できなくなっていく。しかしこの合宿で間に入ることになった久美子の奮闘により、みぞれと希美は和解をしたのだ。それはもう「ヨカッタヨカッタ」となるべきところだが、そこに不穏な余韻を残していったのが、2期後半のメインになっていく「あすか先輩」だった。彼女は久美子に対してだけ微妙な反応を残すのだ。そこに描かれていたみぞれは「繊細・臆病・孤独」という閉じた女の子だったが、その彼女を評して「ずるいわね」とあすかは呟くのだ。

 

そういったことがあるから、明るい表情で前を歩いていく希美と彼女を熱い目で見つめ続けるみぞれなんて不穏な予感しかなかったのだ。

 

彼女たちは高校3年生。その年の吹部のコンクール自由曲は「リズと青い鳥」。その作品の中ではオーボエとフルートの掛け合いがあった。希美は「まるで私たちみたい」と言って「リズと青い鳥」の絵本をみぞれに渡す。ひとりぼっちで暮らすリズの友達は森の動物、そして青い鳥。そんなリズをずっと見ていた青い鳥は少女の姿になってリズの元にやってくる。明るくて奔放な少女と一緒に暮らしはじめたリズは世界の色が一新し、生活が楽しくなる。しかしある日、少女は青い鳥の化身だと知ってしまう。鳥は冬になったら暖かい地へ渡らないといけない。リズはまたひとりぼっちになってしまうことを悲しみながらも少女と別れる決心をするという物語。

みぞれは、希美と離れることを恐れている。だから「私は青い鳥を逃がしたりできない。閉じ込めておく」と思う。希美は「ハッピーエンドがいいよね。青い鳥もまた帰ってきたらいいんだし」と思っている。ふたりとも、リズがみぞれで、青い鳥は希美だと思っている。

 

コンクール曲「リズと青い鳥」。オーボエとフルートの合奏の息が合わない。それはみぞれの解釈のせいか。フルートの先輩として後輩に慕われる希美を見ていてまたひとりぼっちになるのではという不安。更に彼女は自分自身のことが決定できない。自分が何をしたいのかわからない。希美が吹奏楽部に誘ってくれたから自分はここにいる。音大を勧められたけどそこを目指すのかどうかも決定できない。でも希美が同じ音大に行くというなら私も行くと言う。そんな彼女のことを1年前、あすかは「ずるいなあ」と感じていたけれど、みぞれは自分がずるいだなんてきっと思ってはいない。後輩のトランペット奏者 高坂麗奈は「先輩の本気の音が聞きたいんです!」とみぞれにつめよるが、「自分の本気の音」がまだみぞれ自身に聞こえていない。

そんなみぞれに、木管指導者の新山は言う。

あなたが青い鳥の気持ちになって考えてみては、と。

孤独で、青い鳥を手放したくない思って震えている女の子ではなく、愛情を持ちながらも外へ羽ばたっていく一羽の青い鳥を思い描いてみてはどう、と。

音楽室に入ったみぞれ。みなそれぞれの楽器を構えている。みぞれは「リズと青い鳥」第3楽章。そこを通してください、と言う。静かに歌いだすみぞれのオーボエ。それはやっと生き生きと、自由に、空へ飛び立っていくようで、そこに後ろから希美のフルートが美しく絡みあっていった。

そして、そこで希美は、きっとみぞれ以上に決定的に知った。羽ばたっていく青い鳥がみぞれだったのだと。残されたのは自分のほうだと。希美のあの涙は、演奏中の涙はなんだったのか。他の部員はみぞれの演奏に感極まったのだろう。しかし希美はそれだけではない。自分とみぞれとの力量の違いに気付いてしまったからではないのか。

 

希美は、ずっと無意識だけどみぞれのことを見くびっていた。

私がひとりぼっちでいるちょっと風変わりなみぞれに声をかけてあげた。中学の吹奏楽部では私は部長だった。私はフルートが好きだし、そしてその才能だってある。勿論、みぞれのオーボエもうまい。けれど私たち、それほど違いはないんじゃないかな、と。しかし、今の時点で、彼女の力量はみぞれの演奏をなんとか支えるのが精一杯のところまでだと気付く。愕然とした彼女も実は自分が何をしたいかなんてわかっていなかったのだ。いくら後輩に慕われていようともみぞれについてこられるような自分もないし、そしてここから先もみぞれと共に歩いていこうという気持ちもない。

みぞれはずるい。自分で何も決定をせず、ずっと好きだといいながら私の後ろについてこようとするみぞれはずるい。

希美はかつて吹部をやめたときと同様、再びみぞれの前を歩くことをやめようとする。

  

才能を前にした少女たちにとっての現実の残酷さ。

「大好きハグして」って言われて拒否されて、つきだした手が空に残る。

少女たちはいつも必死で、恋をしていて、みじめで、自分のずるさに気がつかなくて、そして何かを知っていくことはとても残酷で、そして世界だと思ってたものが3年間という時を過ごす鳥かごであったこととか、

あのときの儚さ。あのときの残酷さ。

そういったことがただただ丁寧に描かれている作品だと私は感じました。

それが、この映画を観ててあんなに泣けてしまうポイントなのかな。

リズと青い鳥」第3楽章を演奏するシーンでは、私はもうなんだか泣けて泣けて。私は結構こっそり静かに泣くことを得意としてるんだけど、この時ばかりは演奏が終わった途端にもう嗚咽がもれそうになるほど泣いてしまいました。曲の美しさ、みぞれのやっと自由になってひとりで飛び立つことを決めた表情、演奏に感極まる部員たち、そして自分の力量に気付いた希美の悔しさ。それらが誰のモノローグもなくただ音の中で見事に表現されていたと思います。

 

響け!ユーフォニアム」2期の最後、卒業式でのあすか先輩は、泣く後輩たちに「また来るから!」と言ったけれど、私はあすかはもう来ないと思いました。彼女は大学生になってもいつまでも先輩面して高校の部活に顔を出す、そのような人ではないからです。

そして、この「リズと青い鳥」で希美はハッピーエンドという言葉を口にするし、みぞれと希美も再び仲良くなったようだけど、彼女たちの人生はエンドどころかまだこの先は遠く、大学に入ったみぞれは真に旅立っていくんだろうなあと予感します。もう希美についていくだけの生き方はやめて。そのとき、かつてあった大切な「好き」は時の中にゆるやかに溶けていってしまうかもしれない。

そこは「高校」という特別なかごの中だから。

かつて普通の高校生の女の子だった人たちに観てもらいたいと思った映画です。


『リズと青い鳥』ロングPV