読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

「自由が丘で」ホン・サンス監督

この映画を一緒に観にいった友達は、「明日も観るかも」と言った。
いいね。
きっと観るたびに何かを発見する映画だろうな。
私も見終わったあとで友達と話しながら、ひとつ。またひとつ。とゆっくりした間隔でジグソーパズルの残り少なくなったピースを埋めてる時のような喜びに近い感情を味わっていた。

病気療養のために旅に出ていたクォン。戻ってきたクォンは、1通の手紙を受け取る。封を切り、その中の紙の束を取り出すが、眩暈を起こしたのかふらつき、その時、その紙の束を落としてしまう。クォンに会いに来た日本人、モリからの手紙の束を。
手紙、というかそれは、クォンに会うために韓国にやってきたものの、クォンの居場所がわからず、そのまま韓国に滞在しているモリの日記のようなものだった。但し、日付無しの。
クォンはふらついた際に手紙を落としてしまい、ばらばらになる。それを拾い集めて読むのだが、手紙の時系列がバラバラになってしまっている。そこでクォンは、順列がわからなくなったモリの日々を読むのである。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  

観ている観客には、ここから先のモリがどの時間に居るのかわからないのだが、映画の中で出てくる人、起こった出来事や会話の内容でジグソーパズルで埋めていくように彼の日々を紡いでいく。
モリは吉田健一という明治生まれの翻訳者であり小説家の書いた「時間」という評論を読んでいる。(ちなみに今、加瀬亮のインタビューを読んだところ、この本はホン・サンス監督から何か本を3冊持ってきてほしいといわれて加瀬亮が持ってきた、彼自身の本だったらしい。それが偶然、この映画のテーマと合致して使用されたそうです。)
「時間が流れている」と捉えているのは人間だけだ、みたいなセリフがありました。
時間は「現在」の集合体で、過去とか未来とは人の観念である、というか。
この映画もまさにそういったもので、「手紙(日記?)」が切り取った「現在」は、まさに一枚一枚のまっさらな紙のようなもの。時間を辿るのではなく、思い返すのではなく、過去をまるで今まさにそこで起こっている「現在」のように瑞々しく扱ったのが、この映画ではないかと思っている。
犬を救ってくれて本当にありがとう!と言われたその犬とは、その後のシーンで道に迷っているところをモリに見つけられる。更にその後のシーンでカフェの椅子に座っている犬に会い、犬の名「クミ」を初めて聞かされるのだ。

丸顔の髭の男にどうでもいいことを話しかけられて突然ブチ切れたゲストハウスに滞在してた女の子。この髭の男もゲストハウスの主人かと思いきやあとになって借金を抱えた居候、サンウォンだとわかるし、イライラして全身で怒ってた女の子もその少し前の過去ではとても軽やかな笑顔を見せて歩いている場面がある。
それは本当はモリの手紙には書かれなかったシーンだ、きっと。
モリの日記のような手紙には、滞在してた女の子とゲストハウスの居候サンウォンの突然の口論と、彼女を迎えに来た父親らしき男のことを書いたのかもしれないが、彼の居た時間の中をふと一瞬横切った少女については書かれていないはずだ。
映画は、モリの視点で描かれながらも、モリが見ていないが彼の存在してる時間の中に散らばっている様々な何かを映してる。
ああ。こういう表現!映画って、いいよね! 
この少女のシーンはすごくそんな風に思った。

ところでホン・サンス監督の映画、まだ数本しか観てないのですが、どの映画もこういう酒の飲み方、タバコの吸い方、などなど韓国のデフォ、と割合自然に思ってたのですが、今回、日本人である加瀬亮が演じることによって、日本映画の中の日本人、加瀬亮だったらこんな芝居はしないなと思うシーンが結構あって、改めて「ホン・サンス監督の演出」が可視化できました。あのタバコの吸殻、タバコを吸うタイミング、酔い方、酔ってサンウォンと肩を組むモリ・・・。
あと、会話のシーンが長回しが多いのですけど、全部英語のセリフで長回しであのナチュラルな演技・・・。すごいな、加瀬亮

モリの言動で幾つか、「それは日本人は言わない」と思うシーンがありまして。
例えば「朝ごはんは10時までって言ったよね?もう1時なのに何でその人は食べてるの?」のシーン。サンウォンの存在が明らかになる面白いシーンだけど、このシーンのセリフは日本人なら絶対に言わないでしょー。他にも怒り方や酔っ払って喚くシーンとか、非常に韓国映画の中の韓国人に近い感じがした。しかしこれ、「英語」のせいかもしれない、と途中で思った。他国の言語で一生懸命しゃべっていると、感情の表出の仕方が「日本人」という枠を越えるという経験は私にもよくある。
この映画の登場人物はモリを介することで、母国語ではない「英語」という言語で、とにかく自分の意思をストレートに伝えようとしている。その意味でこの映画はホン・サンス監督のどの映画よりも直接的な思いで満ちているような気がする。

クォンがモリと共に日本へ行き、結婚して子供が出来ました、というシーンのあとに続く、最後のシーンがとてもステキですね。ちなみに私は「このシーンの時間」というピースが置かれる場所を、映画を見たしばらく後になってようやく発見できたのですけどね。
あれは、ヨンソンの「犬を見つけてくれてありがとう!すぐにお礼をする。今よ。今夜!」というシーンのあとに続くんだね。
飲みに行って、ヨンソンはすっかり酔ってしまい、仕方なくモリは彼女を自分が泊まっているゲストハウスに寝かせ、この時間の中のモリと彼女の関係はまだ始まったばかりで、だからモリは外のテーブルで一晩を過ごす。そして朝になる・・・。

クォンに会えないモリはヨンソンと寝て、多分ヨンソンの男と喧嘩をし、しかしクォンに会って彼女を連れて日本へ帰る。その後にはそういう時間が重なっていくのだが、それでも初めてヨンソンと一緒に飲んだ翌朝は、あんなに輝いていた、という、積み重なっていく1つ1つの「現在」の美しさを謳うシーンだったと思う。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・ 

さて、最後に、この映画があの手紙に書かれているすべてだとしたら、それを読んだクォンがさらっとモリを訪ね、そして一緒に日本へ行く、ということが何の逡巡もなく描かれていることに少し戸惑いを感じた。普通ならクォンから「えー?あんた、『自由が丘』のヨンソンと寝たの?!」とか「どうしてそういうことぬけぬけと書いて送るの?!」とか、あの、そういうの、ないの?それとも、書かれていることとこの映画の内容は、違うの?と、これは最後まで残る謎のひとつではないでしょうか。
ただ、ふっとですね、そうか、ホン・サンス監督にとっての人間関係は、「2」ではなく「3以上」がデフォか、と思い至ったのですよ。他の映画もすべてそうですしね。というか、創作上、「3以上」が面白いから、ということではなくて、空間認識が「3人(以上)」なのでは、と。
非常に個人的な話で、人にわかるようにどう伝えたらいいのかわかりませんが、私は20年以上、夫との「2人暮らし」で、仕事も10数年、夫と2人で営業してて、その間に誰かと同居したとか、従業員を雇ったいう経験はないにも関わらず、ものすごく無意識の状態で「3人目」をカウントしてしまう時があるのです。目覚めたばかりでまだ頭の中が真っ白な状態で、私と夫と、もうひとり・・・はどこ行ったかな?とか、とにかく「もうひとり」がいるような気がするのだけど、それが誰のことをさしているのかが自分でもわからないのです。霊的な何かという話ではないし、飼っている猫のことを無意識で擬人化してるわけでもなりません。兄弟とか家族とかでもなく、男か女かもわからないけど、私の中でとても無意識のレベルで、「1つの空間の中に3人」という認識がデフォルトになっているとしか言えないのです。もしかしたらホン・サンス監督もそうなのかなあ、と思ったりして。