おでかけの日は晴れ

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母の葬式

今日は私にとっては血の繋がっていない母の葬式だった。私は10歳から20歳までをその母とその家族、私の実父、そして新しい妹たちと共に暮らしていた。

葬儀のはじまる45分ほど前に着いたのだけど、私は葬儀の場のどこでどう振舞ったらいいのかわからない。斎場の人にご記名をと言われ、一応親族の私が記名するのかどうかよくわからない。受付で香典を出したのだけど、家から長いこと離れている私には受付をしてる女の子たちが誰なのかわからないし、そして何と言えばよいのか。「このたびはご愁傷様でした」ではおかしいよね。黙って香典を出し、返礼品も黙って手を振り断った。

葬儀の時間まで随分ある。斎場を覗くと母の棺の前に一人座ってる父を見つけ、近寄って声をかけると、父の目は泣きはらしたあとのようで、そしてひとことふたこと言ったあと静かに泣き出した。私は父の肩に手を回して肩や背中をそっとさすった。そんなことをするのは初めてのことだった。控え室を覗くと10歳下の妹がチャキチャキと采配を振るっていた。

「お姉ちゃん来てくれてありがとね!」と言い、「お姉ちゃんは親族の席で、一番前の左のほうに座って」と言う。父が座り、妹夫婦が座り、私と武田はその隣に座った。本当に私は参列者の顔を見ても誰が誰やら殆どわからない。しかもみんな喪服なので時折武田の顔さえ見失う。母のことは秋に一度見舞っただけでそれ以来今日まで何一つしていない。その私が親族の席にいてどう振舞えばいいのか、とにかくわからないのだ。

そして私はそこにいて、なにひとつ悲しくないのだ。棺の中にいる母を見ても。飾られている母の写真はちゃんといい顔をしていて、他人事にように良かったなあと思う。でも母の死に対して悲しみがまるでないのだ。泣いている父や弔辞を述べようとして号泣してしまう妹の姿に私はとても心を打たれているのだけれど。

出棺のときに知らない人たちが何人か泣いていた。母には泣いてくれる友人がいるということに私は少しびっくりしていた。火葬場に行き、妹の子供たちが棺の中の母に「ありがとう!」と声をかけて泣いていた。それにも驚いた。そうか、君たちにとって祖母であるあの母は「ありがとう」っていう存在だったんだ。私は、あの母のことをこんな風に悲しんでいる人たちがいることに驚きと共にしみじみと感動しているし、そして悲しんでいない私はこの人たちのそばにいるべきではないという思いもしていた。

火葬場で私はみんながいる控え室ではなくロビーで所在無く待っていた。

随分経って妹と、子供のころから妹の身近にいてくれてる人たちが多分ぽつんとしてる私を気遣って来てくれた。妹は、母の葬式という節目になっても何もしない私を責めることもしない。本当にそんなこと現実なんだろうか。「家」から逃げ続ける私を誰も責めないなんて本当のことなんだろうか。そんな気持ちもある。そういう気持ちを妹にどう伝えればいいのか。母の介護から最後まで看取った妹やその周囲の人たちに感謝しかないことを伝え、そして母のことをいろいろと話した。

母については「不条理なことを言って怒る」「本当に酷いことを言われた」「キツい人だった」など散々なことをみんなが言う。いわゆるメロドラマ的な、血の繋がっていない子供である私に対してだけそうだったのではないということは私も子供の頃からわかっていた。母はいつでもすべてのことを犠牲にして働いて金を得ることをずっと自分に課していた。自ら体を痛めつけるような生活をし、痛みこそが自分の人生であると誰かに訴えているような生き方だった。母は誰に対しても鬼のようで、手負いの獣のような人でもあり、私を含め子供たちは愛情をかけてもらったという実感が無い。それで私は成人してから家を去り、もうひとりの妹も後年、自死を選んでしまった。

しかし、その母が後年、とても変わったとのことらしい。私を含めた3人の娘に寄り添わなかった分、孫を愛したのだろう。仕事をやめてからは本当に穏やかな人になったらしい。「あんなに苛められた」「酷い扱いを受けた」という人たちが葬儀場で、火葬場で、涙を流している。

本当に、本当に、私は母の死に立ち会わなかったことを悔やんでもいないし悲しくも無いのだけれども、最後に闘病している母の時間に寄り添ってくれた人たちや死に際して泣くたくさんの人たちがいることに静かに感動していた。

私は、昨年秋に見舞ったとき、あの全身で怖くて、私を否定してばかりの母が私を見て「ああ、なんか幸せそうな顔をいい顔をしてる。幸せなんだね」と言ってくれて、ああこれでもう私はいいや、と思った。多分、殆どの人が結局はあの母の人生について同情している。多くの人がかつては母のことを憎んでいた。それでもあんな生き方だったのは母の生きた時代と、そして彼女の生育歴のせいだったのだろうと知っているし、時間が経ってもうなんか全部許そうって思っているのだろう。私は憎しみではなかったけれど、愛情を得られなかったということだけが何よりつらかったな。でもそれも、この言葉を得たからもういいや。満足です。そして18年前、何より母に愛されたいと思いつつ自死した妹も、母を待ちわびているに違いない。それもひとつの幸せな帰着のように思える。

 

久しぶりに実家に立ち寄った。私が途中からあの家の子供になり、更に母に子供が生まれるということで建てた家だからもう45年が経っている。リビングがもっと広かった覚えがあるけれど、とても狭かった。外から見たらすごく寂れていたけれども玄関には花があり、家の中もきれいになってた。リビングには母の介護ベッドが置かれてあり、そこに母の若い頃の写真と父のかっこいい写真が飾ってあった。その部屋にはとても幸せな雰囲気が漂ってた。母の最期には愛情がいっぱい満ちていたのだろう。私はそれを見たことで本当に満足して家を出た。

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なんだろこれ。この飛んでるの、うちの父。父が亡くなったらこの写真、欲しいな。

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