おでかけの日は晴れ

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『his』選択することと曖昧にすること

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CAST

井川迅・・・宮沢氷魚

日比野渚・・・藤原季節

日比野玲奈・・・松本若菜

吉村美里・・・松本穂香

他、鈴木慶一、中村久美、根岸季衣堀部圭亮

 

ふたりの朝の目覚めから始まる、淡く美しいシーン。けれど、それがふたりの別れの日。

そういえば別れを告げるのって、激しい喧嘩をしたとか相手のことが嫌いになったとか嫌いどころか憎いとか、そういうときばかりじゃなかったな。関係がうまくいってるんじゃないかなってときに別れを告げられることってあったな。特に若いころは。

そうだ、私もそんなふうに急に別れを告げられたことが一回、告げたことが一回、あった。若いころって目の前に選択を迫られることがいくつもあったんだ。それを選択する場合は何かを捨てなくてはいけないようなことが。

渚は自分の人生をサーフィンで生きていくほうに選択して迅と別れた。

そして妻子を持つ夢を選択したが、迅を忘れることが出来ず、妻との生活を捨てることを選択した。

迅はゲイであることを隠して社会の中で生きていくことに疲れてサラリーマン生活を捨て、田舎でひっそり暮らす生き方を選択した。

ひとつを選んだらもうひとつを捨てる。

ところが、そうでないことを根岸季衣が演じる田舎の村のおばちゃんが言う。

「この年になったら男でも女でもどっちでもええ。迅。長生きしろよ」

これ、本当にそう。リアルな実感。50代になったころから。

私には異性愛者の友達と同性愛者の友達と別にどちらの性にも友情以上の感情が沸かないという友達がいる。そしてそのそれぞれでパートナーがいる人、いない人がいる。

パートナーと言ってもそれは一緒に住んでいる人もいればそうでない人もいる。恋人同士でもいいし友達同士でもいい。どういう関係だってどういう形だっていい。でもちゃんと、愛情とか友情とか尊敬を持って人と繋がっているってことが、とても大事なんだと思うんだ。ずっとずっとずっとこの先、私が人生を共にしていくのは、相手が異性だろうが同性だろうがどっちでもよくて、ただ大切だと思いあえる人といればそれでいいし、そして他人の様々な関係を否定したくない、と思っている。

そう、「この年になると」。

選択をしてなにかを捨てることよりも、ほんとどっちでもいいんですよ。特にこのおばちゃんにとっては他人事なんだから、こうでないといけないなんてことはなくって、そこらへんもう曖昧でもいいんですよ。そのひとたちが幸せであれば。

裁判所のシーンで渚の妻、玲奈がシングルマザーとしてやっていけるのかを問われるシーン。玲奈は仕事に責任と生きがいを感じている。職業人としての彼女と母としての彼女の両立の難しさ。それはゲイとして生きる迅や渚が抱える問題に似ている。

「子育ては女性がするべき」とか、または「ゲイであることを差別するな、子育ては彼らこそ」という選択でもなく、最後にはゆるやかな曖昧さを選んでいる。お互いに憎みあっている関係ではなく、それぞれに愛情と尊敬があるのだから、なんとかみんなで力を合わせていけないか、と。

私はこの映画はとても身近なテーマの作品だったなと思いました。

私も、あの田舎の公民館でみんなで集っている人たちの年齢に近づいてきている。年を取って、家族が解体されていったとき、どれほどの人と繋がって生きていけるだろうか。そんなことを思ったのです。

 

それにしても迅と渚のキスシーン、美しかった!

彼らがしっかりとお互い愛している、という姿を見せてくれたからこそ、その上にいろんなことを感じさせてくれる映画になったと思います。