以下の文章は、私が『東宮西宮』を見たばかりの、2000年頃、当時36歳の頃に書いた文章です。私自身はこのテキストを紛失していたのですが、テキストを保存して下さってたよりよりさんに心から感謝します。
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『東宮西宮』
1996年中国製作
監督・・・張元(チャン・ユアン)
撮影・・・・・張健
音楽・・・・・向人
主演 アラン・・・司汗
小史・・・・胡軍
青い色で包まれたこの映画。 繰り返される再生を包み込む、夜明けのほの明るい青。 どこまでも深く秘められているものを押し包んでいる、夜の青。 その色の中で、作家のアランという男に出会ったことで、変容していく警官、小史。 そして、自らを語っていくごとに、ゾクゾクする程美しさを増していくアラン。 この映画はそんな二人の関係の物語です。
1.「エロ」へ!
エロ。
いつからこの言葉が今の私達の周囲から消えたのだろう。
あるのか? ほんと? 何処にだ? 私が知らないだけ?
だって私の周りには見当たらないぞ。 むせかえるような猥褻さ。 薄暗くねばつくような空気。 汗ばみ、体温が上がっていくような感じ。
アダルトビデオ。あれはエロなのか? アニメ絵のエロ漫画。あれがエロなのか?
私が年を取ったから? まあそれもあるが、でも周囲も、文化も、そして私自身も、 こと性に関しては萎えてしまっている様な気がして仕方が無い。 かつてあった筈の、焼けただれたアスファルトの上に立っているような、そんな感覚が。 確実に私達は去勢されてきているような気がしてならないのだ。
例えば。
「八月の濡れた砂」「水のないプール」
高校のときにキネ旬でそのタイトルとあらすじだけで感じた、あんな風なひりひりと焼けつくようなエロは何処へ消えたんだろう。
勿論、この「東宮西宮」はエロ映画ではない。 ただ、見ているうちに「エロ」という言葉を思い出したのだ。 今の日本が喪失してしまった「エロ」を。
「エロ」だ。 これは、エロスとかエロティックとか、そんなお上品な言葉じゃ済まされない。 中国では公開を禁じられた、このゲイの物語。 しかし、この映画は中国でしか生まれることが出来なかっただろうと思う。 アメリカやヨーロッパ、勿論日本でもゲイに関する映画はたくさん生み出されてきた。 しかしこれほど「エロ」な映画は少ないのではないか。 「エロ」が生みだされるのに最も必要なものは「激しい抑圧」だからだ。 そう、映画の中でも主人公はこう語っている。 「苦痛のない生は意味がない」と。
主人公の作家の男、アラン。社会的に彼の性は、彼の思想は、人生は抑圧されている。 だからこそ身体中にエロをたぎらせている。 彼は警察官の小史に捕まり、自由に動くことを制限されている。 床にしゃがめ、椅子に座れ、動くな、と。 その中で彼の笑いに歪む口元、ほんの少し動かす手、 いつも正面を見据えているが時折、ほんの時折動くその黒目。 それらに周りの空気が鳥肌立つようにざわざわとする。
「愛している」という。この静かなエロの魔物が愛していると言う。 小史は、同性愛などけがらわしくて信じられない。 「愛している」と目の前で訴えられるのは怖い。 それが例え同性じゃなくっても、異性でも怖い。 しかも、それを言う目の前の同性の「男」は、彼の目は、体は、 どうしようもなく切実で、つきささるほどの鋭さをもって、 たぎらせるエロをぶつけてくるのだ。 それは真冬に道を歩いていて、突然背中に氷水を入れられたような気分だ。 あまりの衝撃に身動きできず、ただ立ち尽くしたまま、 その事実を凝視することしか出来ないのだ。
静かな映画だが、最初から最後まではりつめたような緊張感だ。 薄い氷のような。 ううん、ちょっと違うな。 射精されることなく、きつく固く勃ったままの性器。 そんな感じだ。
2.「小史」は何を知りたかったのか?
警察官である小史は、ゲイのハッテンバである広い公園でアランを一度は捕らえる。しかし、派出所に連れて行こうとする途中で、アランは小史の頬にキスをし、軽やかに彼の手から逃れて去っていく。茫然とする小史は怒ることもせず、ただ遠ざかるアランの背中を見ているだけだ。 その後、再び小史は、夜の公園で男同士で抱き合うアランを発見する。小史は闇の中で蠢くその影をしばらく見つめていた。そして彼はもう一人の男を捕まえようとはしなかった。ただアランを連行し、そしてアランは妖しげに笑っている。 小史は、そのアランの笑みの理由をまだ知らない。だから彼に平気でこんなことを言うのだ。 「ずっと探していたんだ。どこにいた?」と。 何故、と聞き返すアラン。しかし、小史は傲慢な顔で笑いながら、 「わからないのならそれでいいんだ」と答える。 ああ、何もわかっていないのは、実は小史の方なのに…! 彼は、探してしまったのだ。心に留めてしまったのだ。 それはまだ明確な欲望ではない。いや、自分に何かの欲望があるなどとは思ってもみない筈だ。アランという男の存在が、草木の蔓のように彼の心にからんでしまっている事実に、彼は気付かなかったのだ。
彼は警察官である。 警察官は犯罪者を脅(おびや)かす存在である。 まさか彼自身が脅かされる存在になるとは、多分この時の小史は知る由もなかった。
「俺の命令に逆らうな」と言い、アランに話をさせる。 警察官の彼がするべきことは、アランの身元を確認し、罰を与えるのならそうするだけだ。 しかし彼はアランに話をさせるのだ。彼は「続けろ」と促す。 一体何が聞きたいのだ? 小史は何を知りたいのだ?
小史の大きな手や逞しい体や丸っこい顔や、その奥の小さいが鋭い目は、彼自身にとって今まで何も意識することのなかった当たり前のものだった。 仕事の上でそれは、単なる使い勝手のいい道具でしかなかったのだ。 ところがアランは時には恍惚の表情で、自分を愛撫する男のごつごつとした大きな手を語る。あの手に包まれたら、と言う。 すると小史は、今までは決して男の前では性的な意味など持つ筈も無かった自分の手が、いきなり性的な意味を持つものに感じられてきてしまう。
同じ性的嗜好の人間は目で分かる、とアランは言い、小史の目を下から見上げる。 小史は自分の目が、自分の意識している以上の何かを語ってはいやしないかと恐れる。 手錠をかける行為、外す行為、聞き分けのない犯罪者の頬を平手で打つ行為、それらは当たり前の意味と目的しか持っていなかった。 ところがアランの言葉によって、その意味が変容していくのだ。 どれもこれも、非常に性的な意味を帯びていってしまうのだ。 そうやって小史はアランが語る物語の中に巻き込まれ、混乱し、脅かされていく。
そしてとうとう小史は、アランがふと背を向けた瞬間、リアルに想像してしまうのだ。アランが後ろから犯されている様を。妄想の中のアランの目は、妄想している小史を見透かすような瞳で見つめている。 まるでホラー映画のような構造だ。 最初、主人公は、そこに自分を脅かす恐ろしい怪物がいることも知らずに、ノンキに遊んでいる。そんなものの存在を人一倍信じていないのは、その主人公だ。 だからこそ大胆に危険に近寄っていき、 その足音に、その息遣いに耳を澄ませる。 そしてその正体をはっきり知るのは、もう逃れる術を失った時だ。
何も知らなかった小史は、だからこそ、何かを知りたいと思っていた。 好奇心も少しあっただろう。 本当に同性愛などという現実があるのかどうか。 そいつらはただの頭のイカれた怪物のようなものじゃないのか。 そして・・・。 多分出会った時から感じていた、この目の前にいる男から発散するエロスに動揺している気持ちは、一体何なのか・・・。 アランの物語を聞くうちに、小史の咽喉はカラカラに乾いていく。目の前の男の艶めかしい姿態を想像してしまい、唾を飲み込む。乾いた唇を思わず舐める。鼻腔からは太い息が漏れ出す。 そして小史は不可解な欲望に体が満たされていることに気付いてしまう。 欲望に慣れていない男は、自分が欲情していることに気付くと不機嫌になる。 何故なら、そんな欲望を持ってしまった自分が恐ろしいからだ。なのに、それと全く同じ強さで、彼の欲望は高まっていく。 彼は自分自身に対して必死で言い訳をする。 アランに女装させるのも、この欲望に対する理由が欲しいからかもしれない。 そして「これは病気なんだ。治してやるんだ」と言い、警察官である自分を何とか保とうと再び手錠をかける。ところがこの行為が全く逆に作用してしまったのだ。 もうそれは、2人のとっては目眩がするほどのエロティックな行為に変わっていたのだから。
3.「アラン」は何を待っているのか?
アランはいつも待っていた。 夜の公園で、彼の欲望を満たしてくれる男の手を。 荒々しく彼を殴り、鞭打つ手を。 そして幼い頃は、自分を乱暴に捕まえ、自由を拘束する警察官がやってくることを。
彼はマゾヒストなのか? うーん、わからない。私にはマゾヒストの気持ちもサディストの気持ちもさっぱりわからないからなあ。 でも私は、彼はマゾヒストではないような気がするんだよ。 アランのセックスには暴力がつきまとう。殴られ、蹴られ、 「突然、今までの苦痛が一度に蘇り、生まれてきたことを悔やんだ」 と言う。しかし彼はそのあと、こう思うのだ。 「でも苦痛のない生は意味がない」と。 肉体的苦痛を受けることに歓びを感じているわけではない。 しかし、彼はその行為によって、確かに自分が生きていることを感じるのだ。
アランの言葉を聞いていると、アランが、この映画の監督張元に感じられて仕方ないのだ。そして勿論、小史は中国という国だ。 この映画は中国では上映されることは今の所ない。カンヌに出品する前に張元はパスポートも取り上げられたということだから、張元と中国という国は反目しあってると考えてもおかしくはない。
しかし。
アランは小史に「僕を愛して」というのだ。 もしも本当にアランが張元で、小史が中国であるならば、私は監督張元の、中国に対する複雑な愛情を感じずにはいられない。
アランは最初から、小史の目に宿る微かな欲望を見ていた。 それは張元の希望なのかもしれない。
「僕は待ってる。 あなたになら何をされてもいい。 でも、あなたは死ぬかもしれない」
アランが待っているもの。 それは、中国が張元の表現を受け入れる日、ではないだろうか。 それはもしかしたら中国という国が持っているある種の思想を死に至らしめることかもしれないけれど。
ラストシーン。小史は乱暴にアランの服を剥ぎ取るものの、露わになったアランの体を見たまま、凍り付いてしまう。起き上がり、小史に唇を這わせるアランに、小史は近くのホースを掴み、そこから流れる水を浴びせかけ、そしてそのホースでアランを打つ。 しかし、それは本当に小史の拒否なのか? いや、まさしくそのホースは、水は、彼の性器の、欲望のメタファーだと思う。
結局小史はアランを抱くことは出来ずに去っていく。寒い中、裸で水に濡れたまま残されたアランは、なんとも複雑な表情で笑っている。諦めも混じりながら、でも何かを達成した後の恍惚感のような・・・。
そして、予感させる。きっと小史は再びアランを探すだろうことを。
そう、多分、張元は中国を愛している。 希望を持っている。 苦痛を受けることを表現する喜びに変えて。 きっと中国という心の中には、自分を欲している何かがある筈だ、と。 そしていつか中国が自分の表現を受け入れてくれる日を待っている。
「書かずにはいられなかった」
「あなたになら何をされてもいい」
「僕を愛して」・・・・・。