おでかけの日は晴れ

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「子宮に沈める」/緒方貴臣監督 シネマスコーレ

2010年の大阪2児放置死事件を基にして作られた作品。

現実の事件では、逮捕された母親もかつて実母に放置されて育ち、後に父親に育てられたこととか、少女の頃に性的暴行を受けていたとか、また彼女は高校生の頃に「解離性障害の疑いがある」と鑑別所職員に指摘されたそうだし、事件後も心理鑑定でも同様の指摘を受けていたそうだ。しかしこの映画の中の母親は、彼女の家庭的背景や精神面について殆ど描いていない。
つまり、このネグレクト、及び放置死は、特殊な環境にある女性による犯罪ではなく、誰でもこういう状況に陥ることはあるのではないか?というところから成り立っている。
例えばうちの店に来ている女の子達のように、若くて、きれいで、真面目で、仕事も一生懸命にしてて、結婚したらこんな素敵な家庭が作りたい、子供にも愛情を持って接する素敵なママになりたい・・・と思ってるような子たちにも起こりうることではないかと。
映画は部屋の中だけの撮影で、時にカメラの目線はものすごく低く、小さななにものかの目線でこの世界を覗いているようでとてもリアリティある映像になっている。そしてこの母親----3歳の長女と1歳の長男をとても愛し、家の中をいつもきれいに整え、良妻賢母を目指している若くて美しい女性が、その理想の自分を保つことが出来なくなっていく現実をとてもリアルに描いている。
現代日本の家庭ではよくあることだけれど・・・何故夫は、自分との性交の結果、子供を孕み、産んだ妻を女性とは見做せなくなり、捨ててしまうのだろう。なんで?なんでなの?と私は映画の中の女性と共に心の中で叫んだ。たまに帰宅した夫の物音を聞いてリップを塗り、髪を整え、母親から女に戻ろうと夫に抱きつく「良妻賢母」を目指した女の姿の痛ましさったら。
そして、幼い子供を抱えて離婚した女性を無条件に守るものはないのか。働くために利用する無料の託児所や、急に休まねばならない母親でも働くことの出来る職場は、どうして少ないのか。

毎日、うちの店には若い女の子のお客さんが来る。
労働時間の長さを愚痴ったり、実家に帰りたいけど実家のある田舎には働く場所がないとか、結婚どうしようとか、いろんな話をしている。どの子もみんな、若くて本当にきれいで、そのことだけでも祝福したい気分になる女の子たちばかりだ。でも、今の日本には、そんな子でもこの地獄に陥ってしまうかもしれないものを孕んでいる。

映画だから、この映画の中の3歳の少女は餓死するまで痩せ衰えてはいかない。でも、扉をガムテープで塞がれた密室で、食べ物も殆ど無い部屋で、おむつも替えられない幼児が、3歳の女の子が、どのように命が尽きる日を迎えたのだろうと想像する余地がたくさんあり、その想像に何度も戦慄する。

三池崇史監督「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」/ピカデリー

友達と「土竜の唄」か「ダラスバイヤーズ・クラブ」、どっちか観ようと言っていた。実を言うとどちらも「絶対に観る!」と決めてた作品ではなかったけど時間があって観れるなら観たい、どちらもきっと観たら面白いだろうと思ってた。さて当日、どっちにしよう、私は内心、『今日はダラスバイヤーズ・クラブかな?』と思っていたのですが、友達に「土竜の唄にしない?」と言われて「あ、いいよ」と決めた。
や、始まって最初から面白かったよー。面白さは脚本のクドカンに負うところが大きいかなあ。タイトルでもある「土竜の唄」をみんなが歌うところなんかもすっごく良かった。
一人一人のキャラクターも非常に生きてて、例えばそれほどセリフも出番もない数奇矢会若頭役の斉木しげるのたたずまいもとても良いし、同様に1シーンだけの出番の闇医者役の有薗芳記もしみじみ良かった。
脇のスキンヘッドのジャガー演じる上地雄輔や若頭補佐役の山田孝之も。
しかし、私にとってのこの映画の何よりの魅力は、「命張った男達の、男同士による、関係のイチャイチャ」でしたね。
命がかかった男にとっては、女の存在はある種のご褒美的な「点」になってしまう。そして男同士が継続的で強い関係を「契り」という言葉を用いて約束する。腕を絡ませ、同時に腕の肉を切り裂き、お互いの血を舐めるだの、「契りを交わして兄弟となった男」の体の上に覆いかぶさり、自分の身を呈して手榴弾から相手を守るだの、もう萌えシーン満載じゃないですか!これにキャー言わんでどうする!
やおい)女だったら「土竜の唄」を観て、「おう、いいもん見せてもらったぜ、兄弟!」と肩で風切って映画館を出てきたいものです。
http://mogura-movie.com/

三浦大輔監督「愛の渦」/ミリオン座

大根監督「恋の渦」はポツドールという劇団を主宰する三浦大輔の作であると知り、その後「愛の渦」は原作・脚本・監督であるということで待ちに待ちに待ちに待った映画でした。
設定は乱交パーティでの一夜。
そして映画の宣伝文句でも「着衣シーンはたった18分」だの「剥き出しの性欲」だの、おお、そらどんなえっちな映画かねえなどという下心もアリでねえ。とは言え多分、セリフの応酬の面白さ、みたいな映画になるかなあと予想してたのですが・・・。
とにかく映画が始まってかなり長いこと、緊張に次ぐ緊張。私など何故か胸の前でひたすらぎゅっと両手を握り締めて、この重たい空気を動かす何かを待ち望むような気持ちだった。今から初対面の異性同士が約5時間、ひたすらセックスをするための場所にいるのに、何故か男女別に分かれて座り、同性同士でおずおずと「よろしくおねがいします」という謎の挨拶を交わす滑稽さに、何故か緊張しながら見つつも思わずクスクス笑ってしまう。
そこが「乱交パーティ」という場所であれ、それはコミュニケーション能力を必要とする「社会」なのだねえ。私が緊張してる原因は、この「社会」に対してなのだとふと気付く。社会に相対するための最初のコミュニケーション能力。そして最初とその後で入れ替わっていくヒエラルキー。最初に勝ち組であった「OLの女」はすぐにもっとも負け組に転落してしまい、勝ち組であり続けるためにズルい顔で共闘する「サラリーマンの男・フリーターの男・保育士の女」。そして「勝ち組でいることはそんなに面白いことでもないのかもしれない」と思わせるのが、その社会に属さないがもっとも欲望を享楽していると思える「学生の女」。彼女に対して、「幻の勝ち組、または存在のレア感」の期待値が高まっていく構造とか。
これはそういった「社会」の映画だと思いました。ちなみにもっとエロでもいいかと思ったけど、それは残念ながらそうではなかったなー(まあそれはいいんだけどー)。
比べるのはなんだけど、大根監督「恋の渦」は登場してた9人の男女がすべて等質であるが濃くて、すべてが主役であるけど群像劇だったけど、三浦監督「愛の渦」は群像劇というには人が薄い。これから肌と肌が汗やら体液で密着する予定の人と人の間にある決して縮まらない距離の重さが濃密だったけど、人自体の描き方がどこか物足りない気がしたなあ。あ、柄本時生演じるカップルの男のワケのわからなさは、三浦脚本の面白さがとてもよく出てたシーンだと思いましたが。
http://ai-no-uzu.com/index.html

内藤瑛亮監督「パズル」/109シネマズ名古屋

観終わったばかりの明かりのついた館内でたった一言で感想を言うなら「極悪な映画だったー」であった。そしてこっそりと「面白かった・・・」と付け加えた。
私は普段は怖い映画、痛い映画、残酷な映画は極力観ないことにしている。それでも「パズル」を観たのは内藤瑛亮監督だということと、主演が夏帆ちゃんであること。そして残酷さを予告から十分に感じ取ってはいたもののそこにあった映像は魅力に溢れてたし。
映画の中で、臨月の妊婦に加えられる暴力が、何よりも観ていられないほど不快であり苦しかった。妊婦は誰よりも何よりも護らなければならない、侵すべからざる存在である、と私の、そして多くの人の心の中にインプットされているのがよくわかる。
妊婦の絶対なる聖性。
しかし、妊婦がこのような酷い目に遭うことは現実にあったりするし、そしてその妊婦自身が犯罪に加担することもまたあるのだ。
そんなことを考えながらこの残酷なシーンを観ていた。
映画の中で、パズルの1ピースを少しずつ嵌めこむが如く、何故この残虐なゲームが行われていくのか、本当は誰が残虐であったのかが明らかにされていく。作中に散りばめられた殆どのピースが埋められ、あらかた絵が出来上がったとき、そこに表れた絵はなんだったのかということを知って愕然とした。
主人公の少年が、人を殺したり傷つけたりする理由は、提示されていくのだが、そこに正当性は無い。納得できるものなど、無い。でも考えたら人を殺すための正当性とはなんだ?という話だよね。正当性があれば暴力シーンは、殺戮シーンは、勧善懲悪という名の元にいともたやすく受け入れることが出来るのか?
いや、世界にはただ、狂気があり、抑圧された欲望の噴出があり、暴力がある、ということだけだ。
人が人を殺すということにどんな意味があるのだろうか。「パズル」の主人公の少年にとって人を殺すというのはどんな意味が?世の中の無差別殺人を犯す人にとっては?そんなことについて映画を観ながら出ない答えを必死になって探していた。
圧巻だったのは血まみれ夏帆ちゃんによる体育館での狂ったダンス。抑圧と欲望がこの世界にはあるのだ、もがいて、逃げて、苦しんで、走って、弾けて、そういう世界なのだということを表現してるようで、そこに何より内藤監督の表現したい世界を見たようで、とても素晴らしかったな。
http://www.puzzle-movie.jp/

井口奈己監督「ニシノユキヒコの恋と冒険」

そりゃニシノユキヒコはイケメンだと思いますよ。笑ってる目が魅力的で、かつ不思議な安心感を与えてくれますし。でも私はなんでニシノユキヒコがモテるのかよくわかんない。そして何故彼がフラレるかもわからないし、実際映画の中で「え、ニシノユキヒコは本当にフラレているの?」と思って観ていた。なんて言うの、たとえば囲碁とか将棋なんかで「もう詰んだ」ってわかる人には判ってて、詰んでることに気付いてないのが私みたいなタイプなんかな。本田翼ちゃんの演じてた女の子もそうなのかも。
でも、阿川佐和子さん演じる女の「あなたは他の人とは違うから」なんて言葉に転ぶ気持ちは大変大変よくわかるわー。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」はセックスの映画なのかも、と思って観てました。具体的なそういうシーンはないんだけど、好きになってくと、髪に触りたいだの耳を引っ張りたいだの無闇にくっつきたいだの、つまり女の子にとってセックスってのはそういうことなのね。いちゃいちゃする幸福感。でも、ニシノユキヒコくんにはイチャイチャする幸福感のもうちょっと未来にあってほしい何かがちょっと足りないわねえ、というシビアな女の目線の物語かしら。オフィスでのキスシーンとかね。なかなかやらしい感じだった。やらしさは恋にとって、女にとって、とっても大事なんだよ。それと同時に、やらしい(と、やさしい)があっても、まだ何か足りないんだよ。それっていったい何なんでしょう?優しくてイイ男ってのは、付き合っていくうちに女の中でどんどん勝手にハードル上げられるような気がするの。男が完璧であればあるほど、女自身が自分の心の中に足りなさを生み出していっているように思う。そんでフラれちゃうんじゃないかなあ。
女たちは自ら幸せになるために、ちょっとだけ意地悪さを身に纏うんですよ、と映画のあちこちの明るい優しいシーンから私はそんなことを感じていました。
http://nishinoyukihiko.com/

塩田明彦監督「抱きしめたい」

「抱きしめたい」を観てきました。
劇場で何度でか予告を観た印象としては正直観ようとは思わなかったのです。しかし、好きな映画監督のツイートやシオタニアンである友達の勧めで観に行きましたが、とても良かったのだー。実話ベースの話で、モデルとなった人たちに対する愛情を感じる、とても丁寧な作りの映画でした。
良かった、と思う部分はとても細部に渡った何か。ふわっとしててうまく言葉に出来ない。主人公雅己の父親役の國村隼と猫、とか、赤ちゃんが生まれるシーンの前のひたすら走る女の子のカットとか、トランプをしてるつかさと雅己の母親、とか・・。違うカットに変わったときのさりげないけれど新鮮な驚きを生み出す映像に静かに感動しながら観ていました。
ところで、少し前に「ある精肉店のはなし」を観たためか、「差別」ということについてこの映画を観ながら考えてました。
差別を受ける側には、実はその本人にはそれを受ける正当な理由などないにも関わらず、ある括り方で当たらず触らず遠巻きにしながら差別をされています。自分に何の問題も無いのにただ交通事故に遭い、障害者になる。ただ前科を持つ両親から生まれ、育児を放棄される、などなど。
差別ではなく、それぞれに出来ること・出来ないこと、持ってるもの・持ってないもの、の違う人同士がどうやったら共存していけるのか。共存したほうが、人生楽しいんじゃないか?と映画が終わった後、穏やかに語りかけてくるような作品でした。

「中二病でも恋がしたい!戀」エピソード7

私はアニメ「中二病でも恋がしたい!戀」をこよなく楽しみにしている50歳既婚女子ですが(←オイオイ)、「中二病」に関しては第1期の方がいいかなあと思っていたところ、先日の第2期エピソード7があまりに良くて、そうそう、これだこれだと思うのでした。
少女が戦う物語は、すべて覚悟の物語なのだと思うのです。
魔法使いサリーちゃんも、魔法少女まどか☆マギカも。
サリーちゃんは厳格なパパのしつけのせいで、どんなに苦しくても魔法界の王女としてたった一人で戦います。
まどか☆マギカの少女たちも、世界を守るために誰にも知られずひっそりと、しかし命をかけて戦います。運命だとか使命だとかそういうものを少女の体一つで引き受けることを覚悟して。
中二病でも恋がしたい!」の少女たちにとっては、彼女たちの物語は現実を拒み、「誰でもない絶対的な自分」であることを守るための妄想ですから、サリーちゃんや他の魔法少女たちと違って命は奪われません、が、その物語に固執せねばならないほど彼女たちを取り巻く現実はつらく、それを前にして脆い存在であるのかもしれません。少なくとも、「中二病」第1期の六花(りっか)にとっては。
六花は、恋をすることで彼女のよりどころである妄想的世界が壊れそうになる。しかし、その妄想的世界の中だけに閉じこもっていても、いよいよ現実の枷は強く彼女を縛っていくだけだった。それが「中二病」第1期のお話だったと思います。
恋、とは、「誰でもない絶対的な自分」を壊すもの。
誰でもない、から、恋に慌てふためき、醜く嫉妬をし、占いの本などめくる、どこにでもいる女の子になってしまいそうで、少女はそのことに怯える。
しかし同時に、恋は、相手から「君は特別だよ」と承認を受けることでもある。
六花にとって、恋とは何か。第1期ではとりあえず「契約」という関係にそれを置き換えた。
しかし、第2期。中学生のころの勇太の親友、七宮が六花の前に現れる。勇太がダークフレイムマスターで七宮は魔法魔王少女だった。
七宮は六花に言う。
中学生の頃、勇太のことを好きになりそうだった。そうしたら魔法魔王少女であるはずの自分が失われて、ただの女の子になってしまいそうだった。だから、私はずっとこのままでいることに決めたの!と。恋を封印し、自分だけで絶対的自分の中で生きると、七宮という少女は中学生のときに覚悟を決めたのだ。
そして、六花に問う。あなたはどうするの?と。
あなたはその世界の中だけで生きていくの?
それとも恋をして、普通の少女に戻ってしまうの?
私たち、どっちが幸せだと思う?
少女はいつだって、いつだって、覚悟をせまられる。
その何かを選ぶときの境目に立つ少女たちの苦しさ。
私はどうしても悶絶しつつ、涙なくして観ていられないのです。
(でも私は、恋とはこれまでの世界を壊し、新しい世界へ繋がる扉を開けることだと思っているのですけどね)
http://www.anime-chu-2.com/

「ある精肉店のはなし」と「17歳」

昨日はフランソワ・オゾン監督の「17歳」を観て、今日は纐纈あや監督「ある精肉店の話」を観た。
「ある精肉店のはなし」では部落差別の問題を抱えながらも屠畜・精肉販売をしてきた北出さん一家の話のドキュメンタリー作品。彼らは不条理な差別を受ける土地に生まれついた。そこで生きる父の姿を見て育ち、生きていくために家族間で固く結束し、そこでアイデンティティを培い、仕事を通して人として生きることについての思索を深めていった。
何かになりたい、と思っていた長男は、しかし結局は父親の仕事である屠畜の仕事を継承することが自分の使命ではないかと思い、高校卒業後から家業を継ぐ。長女も幼い頃からずっと家業と家庭をサポートしてきた。長男の嫁も被差別部落出身だったらしい。集団就職で大阪に来て、そして北出家長男と出会い結婚し、屠畜のサポートからにこやかな笑顔で精肉店での販売をしている。それぞれが皆、長い時間を経て家庭の中で、そして社会の中で居場所を獲得してきたという強い自負を持った顔をしていた。
ところで、その中で、時折ちらちらと画面に登場する孫娘の表情が私には気になった。髪の長い、きれいな顔立ちをした10代後半の少女。それぞれに仕事を分担しながら明るく逞しく生きていく大人達ばかりの大家族の中で、時々孫娘だけがリアクションにちょっと困ってるような表情を浮かべていた。そこに私は昨日観たオゾン監督「17歳」を思い出していた。
オゾン監督の「17歳」では、裕福な家庭に育つ17歳の少女イザベラ、彼女はネットに自らのセクシーなポートレートを晒し、次々と年上男性を相手に売春していたが、その理由は何ら語られない。母親は離婚歴があるらしく、優しい父親は義父であり、血が繋がってないという家庭環境のせいなのか?それゆえ彼女はファザコンで、だから年上男性と?それとも彼女の強い性的好奇心?
17歳の少女はその理由付けを一切拒んでいるように見えた。
そして、「ある精肉店のはなし」の中の孫娘を観た時、「17歳」のイザベラについて改めて思った。重要なのは「理由」ではない。ただ、そこに居場所が無い、という思いが確かにそこにあるということなのだ。映画のためにカメラが回ってる北出家の中で孫娘は居場所の無さを時折表情に浮かべていたし、イザベラにも多分、居場所の無さを感じていたに違いない。そして「17歳」のラストではシャーロット・ランプリングが、居場所の無い17歳のイザベラの元に、居場所を無くした老いた女として圧倒的な存在感を持って現れる。シャーロット・ランプリングの美しいけれども刻まれた細かな皺の一つ一つに、ティーンエイジャーの理由の無い居場所の無さと、そしてここまで生きてきた女が抱える居場所の無さの圧倒的な違いをまざまざと見せつける。ああ、「17歳」は、そういう映画だったなあと、「ある精肉店のはなし」と並べてそう思った。
http://www.17-movie.jp/
http://www.seinikuten-eiga.com/

年末ピットイン/大友良英

12月29日。マタハリ今年最後のライブ「Era」を終えた翌日、バスに乗って東京へ行く。バスでは蒸気の出るアイマスクをして爆睡。静岡では事故渋滞だったので40分ほど東京着が遅れる。
トイレ休憩をした海老名SAは美味しそうな店がいっぱいの欲望の坩堝。

まずは今夜は新宿ピットインで大友良英さん連続8公演のラストに行く。
大友良英 サウンドトラックス」
大友良英(g)佐藤芳明(Acco)江藤直子(P)西村雄介(b)、芳垣安洋(Ds)栗原正己(リコーダー)近藤達郎(ハーモニカ) 阿部芙蓉美(vo) 原田郁子(vo)七尾旅人(Vo)、タッタちゃん(Vo)

新宿着。とりあえず野菜炒め定食とビール!
そして夜7時30分。
ピットインへ。

打ち合わせやリハもなかったそうで、その場で楽譜を渡しての演奏を、大友良英・佐藤芳明・江藤直子・西村雄介・芳垣安洋で。1曲目はNHKで放映した白洲次郎の曲を。むちゃむちゃかっこよかった!
数曲そのメンバーで演奏したあと、原田郁子が、または阿部芙蓉美が、とゲストがかわるがわる入ってきての演奏でした。

11月28日、朝。ぶっちが死んでました。

朝7時頃に武田が起きて寝室から出て、しばらくして私を起こして言うのです。
「大変だよ。ぶっちが死んじゃった・・・」
私は起きてぶっちを見にいくことが出来ませんでした。信じがたいけど、とうとうそんな日が来たかと思い、そのまま布団に包まったまましばらくずっと泣いてました。


前日はマタハリライブが終わり、片づけをして、家に帰ったら1時過ぎ。楽しかったなあとツイッターで皆さんの感想を読み、熱いお風呂に入って寝たのが3時頃。
寝る前、部屋の中にいるぶっちを見ました。最近は寒いので、あったかい座布団やダンボール箱の上を好むのに、冷たい床にぺたんと腹ばいになって座ってました。「おいおい、ぶっち」と声をかけると私を見上げます。いつも、ぶっちは可愛い顔をしているなあと飽きもせずそう思うのですが、その時はいつも以上に可愛いなあと思いました。なんだか目があどけなくて。
お風呂から上がってぶっちとガラにエサをあげました。前日と前々日にマタタビをあげました。エサについてくるオマケのマタタビです。オマケなのに、何故か「特別な時のために」と思って使わずに取っておいてあるのです。しかし猫と私たちの生活にとりたてて「特別な日」などなく、マタタビは溜まるばかりなので、もっと当たり前にあげてみようとおとといあたりに思ったのです。それでその日もあげようかと思ったら近くになくて、まあいいかとエサだけあげました。ぶっちはいつものように率先してカリカリのエサを食べてました。


朝、ぶっちは2階の私たちの寝室の横の廊下に置いてある座布団の上で眠ったままの姿で死んでました。

最期の場所を、私たちの一番近い場所にしてくれたんだなあ・・・。

5年前、15歳で死んだリンダという猫は、死んでしまうしばらく前から食が細くなり、どんどんと痩せていき、そしてある日、玄関先で死んでました。
ぶっちはもう17歳を越えてたので、去年辺りから多分そろそろなのだろうとは思っていました。思ってはいたけど、ぶっちがいなくなる日が来るなんて、正直考えたくありませんでした。去年辺りから多少痩せたものの、食が細くなることもありませんでした。今年に入ってから歩くのがひょこひょこしてきました。それでも今年5月に2階建て木造の家に引越しして以来、ぶっちは2階の階段がお気に入りで、ひょこひょこ登ったり降りたりを楽しんでいるようでした。夜に私たちが帰ると、必ず玄関で待っていました。朝、武田が店にもって行くために冷蔵庫の中のものを保冷バックに詰めているときには、どこにいても必ず猫たちはやってきてその傍らに座り、それを見守っているのが常で、私はその姿を「猫会議」と呼んでました。
毎日毎日、おんなじことの繰り返し。
ぶっち、と呼べば、にゃあ、と答え、ぶっち行くぞ、と声をかければスタスタと移動する。猫ブラシを見せるととことこやってきてごろりと横になる。朝のお見送り。夜のお迎え。
子供の頃からおっとりとして、他の猫に叩かれても叩き返すことなく、ケンカすることなく、爪を出すこともなく、マヌケなかおをしたデカい猫、ぶっち。
17年間。夏は暑く冬は寒い部屋で、安いエサで、一緒に暮らしたなあ。
もう、ぶっちに会えないんだ。
もう、あんな可愛い子に、会える気がしない。


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朝、ようやく起きて、冷たくなってるぶっちを見る。触る。ああ、本当にもう動かないんだ。
しばらくして武田が手早く動物霊園へ手続きをする。私は、どこかにそっと埋めれないのかと思うのだが、実際にそういう場所は考え付かない。
私は何も出来ない。
2時頃、動物霊園に行く。ああ、だめだ、私にはそこの作務衣を着た男性も「動物霊園」なるものも何もかも、俄かに信じられなくなっていた。私はぶっちの死を、とても個人的なものとして悼みたかった。ほんの僅かな間でも、こんなおっさんを介入させたくなかった。ひどく苦い思いだけが後に残っている。
家に帰って、また布団をかぶってひたすら寝てしまった。

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その日はネットで電気カーペットと、ガスファンヒーターのホースと、家の中で着るあったかい服を買う。今日はダウン70%のあったかいコートを買う。2日間、あまり家から出ず、気付けばあったかいものばっかり買った。あったかいものを買うことで少し気持ちが落ち着いた。
帰りに甚目寺観音にお参りに行ったら、そこは小さいのやら中くらいやらの猫だらけだった。

山中温泉2日目

天気は、朝は快晴だった。朝から温泉三昧。朝食バイキングも美味しいのでつい食べすぎてしまう。大満足。
チェックアウト後に荷物を置いて街を散策。
紅葉に染まる曇り空。紅葉の散歩道。



こおろぎ橋から。

散策中に小雨が降り出したものの、また止み、雲間から陽射しが。煌く川。そしてあやとり橋。




10数年ぶりに来た山中温泉。以前はこんな街並みはなかったなあ。聞いたところ、8年ほど前に観光地として再生を図るため、新たな街作りをしたそうだ。道路が整備され古い町並みを模ったようなお店がずらりと並ぶ。おいしいコロッケの店や、手染め布で作った一点物の服とか手作りアクセサリーの店もあり、どれも意外に安く、商品にもオリジナリティがあって、とても良いです。

娘娘万頭

菊の湯たまご

帰りはホテルから3時のバスに乗り、夜7時過ぎに名古屋着。

山中温泉1泊2日

久しぶりに湯快リゾートのホテルの格安プランで泊まりました。紅葉と温泉を楽しむため石川県の山中温泉へ、です。
天気は名古屋は良かったものの、岐阜の辺りから雲が濃く立ち込めて増した。しかし途中のバスの中からとても大きな虹も見えました。

山中温泉は、まさに山村の秋の風情。

ホテルに3時前に到着。外は小雨が降っている。その雨の中、栢野の大杉を見に行きました。

それほど広くはない神社に大杉が3本。辺りは静かな雨音だけです。


きれいな杉の木肌。

山中温泉は渓谷が美しくて好き。

ちょっと晴れた。水たまりの中の空と電線。

あ。あれだな。菅谷村社八幡神社の大杉は。

三又杉

いいお社です。

いつもはもっと深緑色の川。かじか橋から。

宿泊は、山中温泉ホテル大黒。

夜は、出来立ての美味しい料理をバイキング形式で。レセプションスタッフも食事のホールスタッフも大変丁寧な接客で頭が下がります・・。温泉も大変心地良かった。

10月2日(6日目)町歩き

朝。ホテルからフリーWIFI使ってワルンプアンのガラムさんマサラさんとFaceTimeで話す。無料なんだもの、これが。すごいなあ。
朝ごはんを食べたのに、屋台でバインミーを買ってくる。

バケットにレバーペースト、チキン、大根とニンジンのナマス、香草。バケットも美味しいし、この取り合わせは絶妙!


夜に人が溢れていた公園。昼はのどかだった。


土産物屋も充実して観光地化している大きな郵便局。

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本日お昼はベトナム料理のコースランチ。日本人の割と若いオーナーが、ベトナムのストリートチルドレン救済のため、彼らを雇用してお店をやっているそうだ。オーナーの人も一緒に働いてるようです。とてもおだやかで真面目そうなひとでした。
料理も丁寧に作ってあるようで。いいお店でした。

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食事付きサイゴン川クルーズはツアーだと3000円ぐらいか?私達は地元の人が利用のする渡し船でサイゴン川横断、川の向こうは全く別ののどかなところだった。船代は往復8円。
渡し舟はバイクでいっぱい。


川のこちら側は高層ビルやホテルが立ち並ぶ繁華街。

そして川を渡ると、瓦礫だらけの更地が点在し、雑な作りの家が並ぶ町。

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夕方、現地の人で賑わってる美味しいデザートを出すお店でチェーを食べた。

その店ではおこわも美味しいと評判の店。この日が最後なので、せめて豪勢な夕食にしようという予定だったのに、ついつられて買ってしまう。
おこわの上に焼いた鶏肉がのっている。それをホテルの室内で食べた。すごくおいしかった。

どこの国に行っても、すごく流行ってる店って 安くて美味いこと。あたりまえだけどこれに尽きるね。ベトナムでは米の旨さを知りました。インディカ米ですけどモチモチしてて美味しい!

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確かにテイクアウトしたご飯は美味しかったのだが、ホテルの部屋でビールと共に頂いてこの旅が終了と言うのやはり寂しくて。近くのマーケットに行っても、特に買いたいものもない。お金も余ってるし。それで夕方に見つけた、とてもステキな路地に行く。
おこわを買った帰り道に歩いた、ホテルから近くの路地。夕方5時ちょっと。路地に面した家では、路上でご飯を炊いていた。何かが焼けるいい匂いがしてた。
それはこの旅で一番素敵な道だった!3階建てのおんぼろでいろんな色をしたビルに挟まれた狭い道。様々な店が並び人が集ってる。魚貝類などの旨そうな屋台。ビール飲む人。果物食べてるお婆ちゃん。なんでこれがよく知った道に思えるのか。低い電線のせいか。この先に私の家がないことが不思議でならない。
路上でご飯を作っている家は開けっ放しで中が丸見えだった。狭い部屋の床に積み重ねられた皿。寝転がってテレビを観ているお年寄り。その家の光景から目が離せない。こんな家に住んだ覚えもないのに、なにかが懐かしいような気持ちで惹きつけられるのだ。


ビアホイというビールを出す店がその路地には何軒も軒を連ねていた。歩道に様々な貝が皿に入って置かれている。割と賑わっている1軒に入った。ビールを頼み、貝を指差して選んだ。それを調理してもらい、歩道に置かれた椅子に座って食べる。




本当に美味しかった。こんなバイクの排気ガスにまみれながら食べていることが。なんだかわからないけど心引き寄せられるこの路地で。ベトナム最後の夜ごはんがこれで、本当に良かった。
せっかくの円高だから普段買えない海外ブランド品などを買おうかとか思ってたのに、化粧品なども買って帰ろうと思ってたのに、結局、殆ど大したものは買ってなかった。けれどもここでビール飲んで貝食べながら、もう心残りはないなあと思った。

10月3日(月)ホテルでちゃんと朝食を食べ、そんなに急ぐことのない朝を過ごし、そして空港に向かった。台北を経由して、その日の夜10時頃、名古屋に帰り着いた。
最寄り駅に着いて、キャリーバッグごろごろして真っ暗な夜道を歩く。前日の夜はホーチミンバイクと車だらけだったけど、うちの町は至って静か。信号が青になるとそれを信じて歩けるということに、改めて気付いてびっくりする。日本にいるとそれを疑うことなど殆どないけど、ホーチミンでは例え青でも左右を必死で確認する。逆走するバイクも多く、信号無視も多いし。信号や右側通行というルールを信じて歩けない。ホーチミン市では年間かなりの人が交通事故で命を落とすらしい。

10月1日(5日目)メコン川クルーズ

今日はメコン川を舟で下った。赤土のせいで泥色をした広大な川。ずっと舟に乗っていたかったな。いつかこのメコン川付近に宿泊、というのをしたいな。


昼ごはんは、象鼻魚という魚を焼いたもの。これに香草、ブン(米粉麺)などと一緒にライスペーパーで巻いて食べるのだ。

ところで、このメコン川クルーズはツアーなのだけど、ベトナムに観光に来ている人の国籍は、1位中国、2位アメリカ、3位がシンガポールとか韓国とか日本とからしい。

帰りに、デカい仏像のあるお寺へ。

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夕ごはんで食べたmフォー2000のフォー。
ベトナム戦争以降、初めてのアメリカ大統領訪門の時、この店にクリントン元大統領も来たらしい。
フォーボー(牛肉のフォー)。これに香草と生もやしをのせ、たっぷりライムを絞る。

変り種、牛肉の入ったシチューの中にフォー。

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土曜日の夜は、繁華街の中にある公園に人が溢れている。
道路はいつもバイクと車がぎっちりでとてもストレスが高い。そのせいでこうしてくつろぎを求めに来るのか、土曜日のせいか、それとも今夜はいい天気だからか、ベンチは勿論、地面に敷物敷いてまでたくさんの人がいて、ただお喋りを楽しんでいる。夜店が出ているわけでもない。お金も要らない、TVも要らない、ただそこには人と人とが寄り添って、おしゃべりがあるだけ。

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夜は、レロイ通りにあるジャズ・バー、サクソン・アートへ。夜8時から毎夜ライブが始まる。オーナーはベトナムのサックスプレイヤー、トゥアン氏であり、トゥアン氏自身もこの店で演奏しているらしい。
サックスだけでなく民族楽器も演奏し、とてもオリジナリティ溢れる演奏だった。

9月30日(4日目)中華街散策

バスに乗ってチョロンという中華街まで行く。
バスでは若い子は必ず年配の方に席を譲っている。



昼ごはんは中華で。


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夜はホテルでマッサージ。なんと4〜5時間で日本円にして1200円ほど!
ジャグジーとサウナのあと、ベビーオイルを使った、タイ式マッサージがミックスされた全身マッサージ、フェシャルマッサージ、髪のシャンプー、フットマッサージなど全部付いている。
但し、施術する人がそれぞれ全部違ってて、そしてそのたびにチップをあげないといけないことになっている。