おでかけの日は晴れ

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詩と「おとぎ話みたい」について

詩ってなんだろう、と何年か前から思っていた。
子供の頃は、
短いセンテンス、開いた本にたくさんの余白、
まるで逆さにした棒グラフのような、
そういう形態の文章を「詩」だと認識していた。
ところが、では谷川俊太郎のはなんだろう、そしてそれからずっと経って読んだ川上未映子のあれはなんなんだろう。あの改行もなく、逆さにした棒グラフのようでもなく、文字で埋められた紙面、あれが短編小説でもなく詩だというのなら、詩とは一体どう定義されるものなんだろう。そんなことをずっと思っていた。

そして山戸結希監督「おとぎ話みたい」を観たとき、私にはまだ詩を普遍的に定義する言葉を思いつかないが、
少女が必要とするもの、それが詩だ、と思った。

映画の中の主人公のモノローグ、あれは詩だ。
でも私がもっとも詩的だと思ったのは、「先生はわたしのことが好きでしょう?」という叫びだ。
他人に向かって問いかけているようだが、しかし本当のところは会話を拒絶している。自分の中にわんわんと反響し続けて答えを求めない問いかけ。
他者という存在を前にして、まだそこに関係を結べず、自己だけがくっきりしていくあの「少女」という時間。
会話とか関係とか理解とか、そういうものではなく、
詩の孤高さだけが必要とされる。それが少女ではないか。
そんなことを思ったんだ。