おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

シン・ゴジラ

この数日、ツイッターをまともに見ていなかった。
見てもなるべく薄めで。または目線をずらして。
それでも「シン・ゴジラ」という単語が目に入ってくるのだから、なあ。
「ネタバレはしていない」とかいうのにも、じゃあバレては困るネタ的要素があるってことか?と思うし、「良かった!」とかいうもっとも短い感想でもさ、それが幾つも幾つも流れてくると、待ってくれよ、良かったかどうかもまずは自分で感じるから、と激しく流れてくるツイートに待ったをかけたくなっていた。

そんな数日でしたが封切り4日目の今日、観てきましたよ!

IMAXでの美しい映像に、どーんと出てくる、あえて目の粗い昔風の東映のロゴ。そして「シン・ゴジラ」のタイトル。
海。画面下の大きさも書体もちょっとした引っ掛かりを見るものの心に残すテロップ。
誰も居ない船。
庵野監督のかつての特撮映画に対する愛情、そして細部までちりばめられた庵野監督の作品である証、それらがたった1分ほどの間にひしひしと感じられた。

多分、多くの警察ドラマでは、凶悪犯罪はほぼすべて東京で起こっていて、それを石原裕次郎率いる署の刑事たちが、または舘ひろし柴田恭平が、みんな単独捜査で解決してきた。
また、謎の生物、または怪獣、または怪人、宇宙はすべてその部内でから発信されるし、またはヒーロー的な男が変身したりして悪と立ち向かっていく。
ところがこのゴジラは、まさに「3.11」後の私たちが必要としたゴジラの物語だった。ゴジラという災害に見舞われたとき、必要なのは緊急の判断と対処であるのだが、政治家たちの政治家生命と、そして何より人命を守るため、誤った判断は出来ない。すべての災厄を肩代わりしてくれるカリスマもヒーローもどこにもいない。それが現実だ。混乱を防ぐためにも結局は一つ一つ会議を重ねるしかないし、最後に「Go」と言って判をつく人間が必要だ。現実のその煩わしさ、しかしそうして進むことしか出来ないのだということをエンターテイメント作品の中でしっかり描いたってことは、本当に凄いと思う。
また、たくさんのキャストが発表されていたが、多くはみなカメオ出演のような扱いかと思いきや、それぞれの個性をきっちりと演出されていてこれもとても面白かった。

ところでこの映画のキャッチコピーが「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」。うまいなあ。映画は予告が過剰だったりキャッチコピーが陳腐だったりするものが数多くあるけれども「シン・ゴジラ」に関しては予告も、チラシのデザインも、キャッチコピーも何もかも秀逸だと思った。
映画の中ではいろいろな形をもって「現実」と「虚構」、その2つの間で私たちを揺さぶってきた。
確かに虚構であるゴジラが現れた場合の日本を極めて現実的に描いた作品だと思うけど、その「現実」部分を構成する中に、「進撃の巨人」での長谷川博己石原さとみ、またはドラマ「デート」でもいい共演を見せていた長谷川博己松尾諭、という虚構のタッグを重ねあわせてしまい、これまたなんだか不思議な後味がある。
また、エヴァンゲリオンの「ヤシマ作戦」の時に使われたテーマ曲が「シン・ゴジラ」でも使われているが、この曲にワクワクすると同時に庵野作品としてのリアリティを感じる。ところが従来の伊福部昭ゴジラでの曲も使われていて、こちらも勿論「ゴジラVSメカゴジラ」の曲などは嬉しくてついつい座席の上で体を揺らしたくなるが、この曲にはゴジラというルビを振られた「虚構」をとても感じる。
観ているうちに結構魅力的に思えてきた大杉漣演じる内閣総理大臣柄本明官房長官余貴美子防衛大臣手塚とおるの文科大臣などがまとめていっぺんに死んでしまい、世代交代を求められるというのも、これまでの現実ではなかったけれどもゴジラが相手ではあるかもしれない。
ゴジラによる実際の破壊の恐ろしさは勿論のこと、今現在、「国」を単位として作られている人間の集団、その機能が崩壊していくことと混乱、その恐ろしさにも震える作品だった。そしてそんな中、純粋に自分と「国」という名のもとにある様々なもの・・・命とか想いとかそういうものを守るために動き続ける人への賛歌でもあったと思う。

人は大なり小なり「やるしかない!」という状況に直面することがあると思う。
いきなりゴジラに侵攻された日本もそうだが、「『ゴジラ』を作りませんか」と東宝に言われ、そこで「やる」と決めた庵野監督とそのスタッフもまさにそうだったと思う。たった一人で何もかも解決してくれるヒーローなどいない。すべての人が時に限界以上だとしてもやることをやるしかない状況。
生きていると、そういうことってあると思う。
シン・ゴジラ」はそんな時に力をくれる映画、またはそうだった時の自分を慰撫してくれる映画だと思う。

「Fake」監督/森達也 出演/佐村河内守

「Fake」を観ようとシネマテークの客席に着いた。
佐村河内守ゴーストライター事件の真相が知りたい、または当時の報道が偏向していなかったかどうかが知りたい、という気持ちではなく、このドキュメンタリー映画含めた「報道」的なものと現実の距離を感じたくて、映画館の席に着いた。

その前に、ちょっと「宮地佑紀生暴行事件」の時に感じたことを。
6月30日。宮地佑紀生被告が番組パーソナリティ神野三枝さんに暴行をふるった容疑で、名古屋で人気だったラジオ番組「宮地佑紀生の聞いてみや〜ち」が打ち切りになったことが東海ラジオから普段の番組が始まる午後1時にアナウンスされた。そのニュースをYahoo!ニュースで読んだのが午後2時頃。私はすぐさまラジオを着けた。これまで宮地さん神野さんがお休みのとき、番組構成はそのままで2人のピンチヒッターとして東海ラジオのアナウンサーが行う場合があるのだけれど、まさにそんな感じの放送が行われていた。
一体どういうことか知りたくてネットで「宮地佑紀生 暴行 真相」などと入れて検索してみたところ、すぐにトップに上がってきたサイトは一見どこかのニュースについて公正中立の立場で書かれたようなサイトだった。公式で使われているプロフィール写真、番組の紹介、事件の概要、そして事件の原因らしきもの・・・。
しかしそのサイトの文章はとても変だと感じた。
まず、6月30日午後1時に公式で発表されたことがその2時間後にネットで記事になっていること。しかもその文章は数時間前に発表されたニュースの臨場感はなく、まるで報道当日よりも明日・あさってにこの事件を検索した人が見るために書いているような、凄く不思議な距離感でした。
「今回は宮地佑紀生さんを取り上げます」
に始まり、「2016年6月30日の朝日新聞デジタルでは次のように報じられています」とあるのだが、時間的にそれ、今その報道を読んですぐにこのサイトに取り上げているんだよね?なのに臨場感を消し去って、まるで冷静にこの事件を調べた上で作っているような雰囲気を出しているけれど、だからこそこれ、信用できるの?と思った。
「調べてみた」といってもあちこちのツイートの引用だけで、最後には「6月27日放送内での神野さんの暴言」が理由だったように書かれていた。ちなみにそれはすぐにデマだと証明されているが、しかしこのデマはすぐに拡散していったようだった。
そのサイトだけでなく、私もいちリスナーとして何があったか知りたくていろいろ探したのだが、とにかく検索するとトップを占めるのはどれも似たり寄ったりの、公正を装いながらただ誰かのツイートを引用するだけの、書き手の顔や立場の見えない、なんだかわからないサイトばかりだった。実際に6月27日の放送を聞いた人のツイートやブログなどが見つかればわかるだろうといろいろ見たのだが、ツイートも、またはまとめサイトも、多くがその日の放送を聞いてもいない人による番組やパーソナリティの揶揄ばかり。

いつからネットはこんなに真実に近づきにくくなったんだ?


報道があったその夜、Youtubeにアップされた「6月27日『聞いてみや〜ち』放送」を聞いた。デマになっているような神野さんの発言はない。ただ聞いていてここで宮地が神野さんの足を蹴っているらしき雰囲気がわかる箇所があった。

そして翌日。この事件は朝の全国放送のワイドショーでも報じられた。そして放送での問題の箇所。放送時の2人の喋りは文字として画面に映し出された。そして彼らとは違う別の男性と女性が、朝のワイドショーを見ている様々な年代の方たちによくわかるよう、訛りもなく、ゆっくり、丁寧に、2人の会話を再現した。それはもう、ラジオで聞いている宮地さん・神野さんの掛け合いとは全くの別物だった。

名古屋に住む私は、報道で流れるそれと実際の2人の喋りの雰囲気が別物だということはよくわかる。ところがこの事件が起きて初めて「宮地佑紀生」をテレビから知った人が受ける印象はどうなのだろう。少し柄の悪そうな写真と、そして言ってる事は確かに一字一句違わないのだけれども、印象がまるで異なる再現されたセリフ。そこから受け取るものは、どんな「宮地像」なのだろう、ということをずっと考えていた。報道はこうやって実際そこにあった人間たちの手ざわりを変えていく。現実からどんどんと離れていくんだ、と感じた。

そんなことがたかだか10日前ほどに起こったばかりだったので、森達也監督のドキュメンタリー映画「Fake」、そこに映っているもの、映さなかったもの、それはどういうものなのかを考えるために映画を観にいった。

・・・
森監督は佐村河内守の住むマンションに行く。
「私はあなたの怒りではなく、悲しみを撮りたい」、そして「私はあなたを信じます」と言う。
「悲しみ」とはなんなのか、そして「あなたの何を信じます」なのか、監督は言っていない。
佐村河内は自分の聴覚の診断書を出す。これまでの報道で自分はずっとこれを出してきた。しかしその診断書のすべてをマスコミは報道していない、ということを言い募る。
診断書には「感音性難聴」とある。しかし「障害者手帳を交付するまでではない」と診断されている。
聴覚障害の場合、6級から障害者手帳が交付されるそうだ。6級とは以下の通り。
1.両耳の聴力レベルが70dB以上のもの(40cm以上の距離で発声された会話語を理解し得ないもの)
2.一側耳の聴力レベルが90dB以上、他側耳の聴力レベルが50dB以上のもの

報道では「障害者手帳交付の必要なし」ばかりを報道して「感音性難聴である」という部分については無いものと扱っていてとても公正ではない、と佐村河内は言うのだ。
そして映画の中で佐村河内はまったく聞こえていないようである。

一体、森監督の言う「信じる」は何についてなのか。
彼が何も聞こえていないということを信じるということなのか。しかし聞こえるか聞こえないかは佐村河内守の属性であり、問題とされているのは佐村河内守の作品だとされていたものを作っていたのは新垣隆だった、ということではないのか。それについても佐村河内は「新垣は何故あんな嘘をつくのか。彼は素晴らしい技術者だ。しかし私は指示書でその作曲に関わっていた」と言う。その言葉を信じていたというのか。しかし「Fake」、この作品を見続ける我々観客の興味を牽引していくのは、監督の佐村河内への信頼ではなく、ところどころ挟み込む疑惑の目、そしてなんとなく意地悪なカットだと思う。

意地悪といえば、新垣隆の映像もそうだった。
私は新垣隆について殆ど知らない。ただ事件の後で彼と一緒にアルバムを製作した吉田隆一さんのことなら多少なりとも知っている。それで私は、吉田隆一さんと一緒にアルバムを作ったりライブ活動をし、たびたび吉田さんのツイートで語られる新垣像に対して勝手にシンパシーを抱いていた。
しかし映画の中に切り取られた新垣さんは、佐村河内守からの恨みなのか怒りなのか悲しみなのかわからないがそういった気持ちのフィルターがかけられた視線がとらえた絵、のようだった。若作りしておしゃれしてニコヤカに笑う新垣さんの写真。バラエティ番組に出演してイジられる姿、そしておどける新垣さんの姿は、どこか笑える。万華鏡のようだ。事件当時、マスコミに晒された新垣さんに対し、報道と視聴者は様々な同情やら暖かい気持ちを抱きつつもどこかプッと笑っていた。それを今またこの映画で取り上げ、「おしゃれオヤジ」を演じている新垣さんとその姿に嫌悪を示す佐村河内をプッと笑う。結局はいつまでもいつまでもカメラの向こうとこちら側で誰に対してもどちらに対してもプッと笑っているのだ。そんな風に思えるのだ。

そして最後。佐村河内は海外メディアのインタビュアーに「あなたも作曲に関わったというが指示書だけで、この言葉がどう音楽に変わったのかわからない。作曲に関わった証拠がどこにも無い。せめて弾いてみせてくれればそれは証拠になるはずだ」と言われても、それを証明することはなかった。楽譜は書けないし、これまでも書こうとしなかった。楽器は数年前に処分したという。「いや、多分もう弾けないから」と。
しかし、森監督の「あなたが本当に音楽を愛しているなら、曲が作れるはずだ。作ってくれ」の言葉に応え、彼は1曲、作曲するのだ。
さて、この曲はどうなのだろう。
打ち込みで作られたこの曲は。
私は素人なのでよくわからないが、印象としてはどこかで聞いたことのある感じの壮大な雰囲気をまとったくさい曲だった。ただ、このくささは佐村河内はきっと好きな世界観なんだろうと思える。ああこんな感じが好きなのだろうなあというメロディや盛り上げ方が立て続けに続いててどこか切り貼りされた印象だった。ある音楽系の大学生が卒業制作で作った曲を以前に聞かせてもらったのだが、それもなかなかの作品で、それとクオリティとしてどう違うのかが私にはよくわからない。その彼女は今は楽器演奏を子供たちに教えてて、一方の佐村河内は様々な交響曲の作曲者として名を馳せていたのだ。
ただ、そうして作られた「ザ・佐村河内の世界観」の音楽と、それを聞く彼を支える妻。二人の住むマンション。その曲はその閉鎖世界にとてもよく合うように感じた。

音楽と共にエンドロールが流れ、「うーん、この音楽をどう捉えるか・・・・?」などと考えていたところ、この映画にはあと少し続きがあった。
その日の撮影でこの映画の撮影も終了するだろうということを森監督は佐村河内とその妻に告げる。そして言う。
「あなたは、今、本当に私に対して話していないことや隠していることはないですか?」
佐村河内、無言。無言をずっと映している。
そして映画の画面は突然真っ暗になり、代わりに劇場の明かりがポヤーンと灯る・・・。
む・・・無言は、あの演奏の後の無言は、限りなく「隠していることは、ある」に取れる!
いや、森監督の問い掛けは佐村河内には聞こえていなくて、ただ黙っているだけ。それを森監督が映画的戦略で撮っているのか。もうわからない。本当の本当に、わからない。
何故なら、ドキュメンタリー映画が唯一無二の真実を映しているのではなく、その現場に入り込んだ監督の主観を映し出しているものなのだからか。

「マジカルガール」

スペインのカルロス・ベルムト監督の「マジカルガール」。

何故だかポスターから勝手に

ペルセポリス」を思い出してて。そして「マジカルガール」は全編アニメかと勘違いしてた。予告を観て勘違いに気付き、なんだか面白そうだなと思って観にいったのですが。

映画観ながらふと気がついたら、私は祈るときのように両指を組んでいて、その組み合わせた両手をほどくと痺れきっていて自分の指ではないほど感覚を失ってました。あまりにも緊張しながら見ているうち、もんのすごく固く両手を組んでいたようです。
映画は、とにかく行く先が見えませんでした。流れている時間の早さもつかめません。随分年数が経ったのかと思いきや、ほんの数分先のことだったり、数日しか過ぎていなかったり、またはその逆だったり。
登場人物の過去に何が起こり、そこでの人間関係はどんな風で、それが今にどのように影響しているか。そういう時間の「線」でこの映画は語られていません。すべて「今」という「面」でしか表されていません。

白血病の少女、アリシアは日本のアニメ「魔法少女ユキコ」の大ファンで、そのコスチュームを着ることを夢見ている。父親であるルイスは彼女の願いを叶えてやりたいのだが、失業中であり、さらにそのコスチュームはとても高額なのだ。それでも、なんとしても娘のためにそれを買おうとする。

「お父ちゃん!そんなの、高額なコスチューム買わなくても、自分で作ったればいいやん!!」
とか、映画見終わったときの私はマジでそう思ったわけですよ。なぜなら、父親・ルイスがそうしてでも娘の願いを叶えてやりたいと思うその気持ちから、事態はとんでもない方向に転がっていくからです。
ところが1日経ってから、私はふと、「そうじゃない」ということを思い出すのです。
私が欲しかった「ひみつのアッコちゃん」の「魔法のコンパクト」は、そこらへんのおみやげ屋さんで売っている適当なコンパクトでよかったか?
1970年代の明治製菓の懸賞で登場した「くたくたジャガー」。あれを私はどんなに欲しかったことか。
本当の本当は、それがアッコちゃんの使っている変身のできるコンパクトじゃないことはわかっていても、コマーシャルで流れる「本物」が欲しかったんだ。「こっちでいいじゃん」と違うものを出されても悲しいだけだった。
でも、私は「魔法のコンパクト」も「くたくたジャガー」もどちらも正規の商品を持つことはなかった。そこらへんのおもちゃ屋で買ってもらったコンパクトを「アッコちゃんの魔法のコンパクト」ということにしようと思ったし、懸賞でしか当たらないくたくたジャガーによく似たものを安い値段で買ってもらって、結局それで満足したのだ。多分、私は自分の欲望に対して、それほど完全な形を求めていないのだ。

ところがアリシアは、いやもしかしたらルイスがなのか、そしてバルバラは、バルバラの夫は、ダミアンは、似たような、適当なものは決して許さない、とても完全な形を求めるタイプの人間なのかもしれない。完全なる円のようなものを。
病に冒され、生活に制限が増えてしまったアリシアにとって、願いは研ぎ澄まされていったのかもしれないし、それとも、ルイスがそう思い込んだのかもしれないのだけれど。
バルバラはもしかしたら「完全なる愛の形」を求めていたのかもしれない。それがどんなものかはわからないけれど、少なくとも彼女の夫が表す形では満足できなかったのではないか。またバルバラの夫も、自分と妻との関係における完全なる理想形を心に持っていたのではないか。
完全なるものを求める人々は、常に満足をせずとてもつらそうだ。なぜならそれは、自らが作り出す「完全なるもの」ではなく、自分の心の中で求めている、他人から与えられる完全なる愛、だからだ。それは大抵の場合、手に入れることが出来ない。
そういう姿を、この映画の登場人物から感じる。
ところで、この映画は登場人物に「完全なるもの」を探させながら、観客に対しては見事に幾つかのものをわざと欠落させている。
アリシアがラジオに投稿した「本当の望み」はなんだったか。
ダミアンはバルバラと何があったか。
バルバラの夫はバルバラに何を求めているのか。
バルバラの開けた部屋の向こうでは何が繰り広げられているのか。

観念の円。
しかし既にその面は切り取られ、真っ黒に光る断面を見せている得体の知れない多面体となっている。それを手のひらにのせながら妄想の円を探し続けている人々の群れ。
「マジカルガール」は私にとってそういう映画でした。

殺されたミンジュ

待ちに待ったキム・ギドク監督の。
非道にも大勢の男たちに急襲され、殺されてしまった女子高生、ミンジュ。
これは、最近の邦画にもよくある、多分それは復讐に由来するのだとしてもその動機の詳細だけが最後まで明らかにされない残忍な殺人ゲームの話だ、と思って観ていた。
金にも女にも不自由していないイケメンの男が複数の人間にいきなり拉致され、残忍な拷問を受ける。観ている私はあまりにその残忍な制裁に時々目を背けながら、きっとこれはミンジュを殺したことに対する報復なのだ、ならば聞きたいことだけ聞いたあとは同じく死を以って報復されるのか・・・と思っていたが、その男は拷問の後、路上に放り出される。
更に次から次へとミンジュの殺害に加わった男を拉致し、拷問を加え、その殺害について署名させた後は彼らを解放していく。そのうち、拷問を受けた1人の男は改めて過去の己の罪の認識のため自殺してしまう。そのことについて拉致し、拷問を加えた側の男の1人は、その罪を主犯格の男に問う。

この復讐は、殺されたミンジュに対する復讐は、相手に「死」を与えるということが最終目的ではない・・・の?
その時点で、とても意外な気持ちがしていた。

6人の男と1人の女。
1人はリーダー格の男。あとはレストランでバイトをしていたり、アメリカに留学歴があり英語も話せるが母国語が下手な上に学歴が却って邪魔をしていつまでも就職できない青年とか、友達に金を貸したせいで自らの家財を没収した男や、暴力を振るう男と同棲している女や・・・。その彼らとミンジュとの関係性は明らかにされないが、どうやら彼らは個人的にミンジュを知っているわけではなく、リーダー格の男が開設しているストレスや不満を抱えた人間が集うウェブサイトで出会ったということのようだった。彼らは正義や大義名分の名の下で他人に暴行を加えることで自らのストレスを解消しようとしているようだった。
その7人の姿が1人ずつ描かれていく。同時に、ミンジュを殺し、今、謎の集団に拉致され、暴行を受ける側の男たちも1人ずつ描かれていく。女子高生を殺したあの殺人も、自分の意思ではない、上からの命令で、そしてそれは世の中のために必要だったのだ、ということを訴える上位階級にいる男たち。そして、これがその世の中を変えるための行為だとばかりに彼らに拷問を加えて行く、底辺に生きる人間たち。私は何度もキム・ギドク監督の過去作「春夏秋冬、そして春」を思い出していた。この答えの無い、ただ繰り返されていくことの空しさ。真実のありかの無さ。この世界で生きていく場所がどこにも見えない、その苦悶。監督の叫び声さえ聞こえてくるような映画だった。

そして、最初に拷問を受けた男を演じた、キム・ヨンミンの8役!
拷問を受けた男のほかに、拷問を加える7人の男女の生活に密接に関係する男を、キム・ヨンミンがすべて演じている。女に暴力を振るう男と、弟を追い詰める兄を、友達の財産をすべて失わせた男を、そして主犯格の男の海兵隊時代の後輩で現在は僧として生きる男を・・・。それがまるで、すべての悪は、それを為すのは悪人のような男であり、そして世捨て人の優しさを瞳に宿した僧になって生きようとする男でもある、つまりどのような人間も死を以って報いられるほどの悪を為すことがあるのだ、というようなことを表しているように思えてならない。そして、その悪に直面したとき、私たちはどう生きていけばいいのか・・・ということを・・・・。

ジェットスター午後5時15分発の札幌行きに。
しかし飛行機の到着が20分ほど遅れる。札幌の「てっちゃん」の予約は閉店22時のため21時にしてある。間に合うのか・・・!
新千歳空港に到着して走るようにしてJR特急に乗り、札幌へ。ホテルのチェックインもせず、とにかく大漁居酒屋「てっちゃん」へ。
間に合ったーー!

お店は満員。予約しておいたものの、カウンタは人がひしめき合ってる状態。
さっそく、予約しておいた舟盛りを。
かつては1人1人前頼まなければならなかったそうですが、今は2人で1人前でもいいらしい。
舟盛り、一人前でコレ! どーーーーん!!

ウニやタラの白子のマダチ、くじら、ほたてや甘エビ、サーモン、ブリ、マグロ、その他いろんな貝やらなにやらすごい種類ですごい量!
しかし、刺身のツマまで完食!!
お通しはタラバガニとイカの塩辛。
でっかい餃子に量の多すぎるじゃがバターも頼み、超満腹!!


ホテルは札幌のドーミーインPUREMIUM札幌。
ホテルの朝食はバイキング。
朝食は混むので開始の6時か、または9時過ぎが空いてますよと受付スタッフの方がおっしゃる。それで朝5時50分に起床して、そのまますぐに朝食に。
イクラ、まぐろのたたき、甘エビ乗せ放題の海鮮丼、その他お刺身の小鉢やししゃも、鮭の焼き魚、その他いろいろ・・・。
これのために来たんだーー!

今回は札幌は夜の「てっちゃん」とドーミーインの朝のバイキングで早々に終了。朝9時のバスで余市に向かう。
1時間20分ほどかけて余市に到着。
街にはNHK朝ドラの「マッサン」のテーマが、どこかのスピーカーから流れている。
まずは「よいち情報館」へ。

館内ではDVDで、マッサンこと竹鶴正孝さんと妻リタさんに関する様々な情報が流れている。その中で、リタが亡くなった日のマッサンのことをお孫さんが語るところで泣いてしまった・・・。
余市に来るために観た、年末に放映された短縮版「マッサン」。そんなにわか「マッサン」ファンの私たちだけど、いきなりもうスイッチが入って、そこからは「マッサン」と聞くだけで涙ウルウルモードに。

その後のニッカ見学の前に、まずは余市で地元の方たちに人気のお寿司屋さんで、満腹ちらし850円を!

しゃり少なめにしてもらったけど、やっぱり満腹!

そして午後1時半からは余市ニッカウヰスキー工場の見学。

「マッサン」でも出てきた精製ポッド。

精製する場所はとても甘い、まるでパンを焼くような香りが漂っていた。二条大麦を甘い麦汁に変え、それを酵母を加えてアルコールに精製していくそうで、その発酵する香りがとても甘い。

そして樽の中で長年熟成。。。

ニッカでは試飲も出来ます。

夕方5時、余市をあとにして小樽へ。
ドーミーイン PREMIUM小樽へチェックインして、まずは小樽の街と運河を散策。
小樽はガラス細工の店が多いけれど、ガラス製品がいつまでも見ていて飽きない。しかし1つ2つ買うんじゃなくて、コレちゃんと揃えたいし、揃えたら高いし、やはりお店の中で眺めてるのが一番イイ・・・という不甲斐なさ。北一硝子の香立てや万華鏡グラス、その他硝子のグラスなどがとにかくきれいでうっとり。雫の形をしたアクセサリーの淡い色にもうっとり。
そして六花亭で定番のマルセイバターサンドと、そして大好きなシュークリームを買う。

この日はホテルに戻るも、結局朝と昼の海鮮丼がきいてて、夜になってもおなかが減らず。

3日目の朝。
再びホテルで海鮮どーーーん!

この日はホタテが美味しかったーー。あと、巻貝の焼いたのも。
午前中に再び北一フガラスへ行って目を付けていたイヤリングを買い、武田はなるとの若鶏の半身焼きとか小樽名物「ぱんじゅう」を買う。可愛い容器に入ったいろんな香りの馬油とかも買いたかったなあ。
そしてジェットスター15時の便で名古屋に戻りました。

乗り物に乗るとすぐ寝てしまう私。
武田は、もういい年をしたおっさんなのに、車やバスに乗るのが大好きで、そして飛行機がとにかく好き。必ず窓側に座り、飛行機が高度を下げると子供みたいに窓の外ばかり見て、あれはどこだ、あれは○○山だ、とずっと言ってる。日本だろうがバリだろうがマレーシアだろうが、ずっとそうだ。たまに勝手に体を傾けたりしてるので「ちょっと、あんた、今、操縦してるつもりになってない?!」と私はツッコミを入れる。
飛行機から煙を吐く御嶽山も見えました。

この冬、2月末に閉店するマライカセントレア店で洋服を2着買い、(残念だよ・・・マライカ・・・)、そしてセントレアのスカイデッキでプロジェクション・マッピングを見て帰ってきました。

2015年最後の旅行は、南木曽へ。
12月7日・8日。
高速で中津川まで。恵那峡のサービスエリアでアガル!
栗きんとんや栗シュークリーム買った。

そこから馬籠に。

中山道の宿場町。石畳と山道を生かした緩急のある坂に風情がある。
景観を守りつつ、観光地として生き残っていくその道のりは大変だったのだろうなあ。
12月にしてはとても暖かい一日。中国からの観光客がとても多かった。


空、ピーカンだなあ。

何かいいアクセサリーがあったら買いたいなとあちこちの店を覗いてて、とても素敵な腕時計を見つけました。あとは栗の入った「栗ふく」という和菓子や五平餅、あられなどを買って歩きながら食べました。


宿泊は、ホテル木曽路
長野県の温泉宿【ホテル木曽路】公式HP -南木曽温泉リゾートホテル-
野趣溢れる露天風呂、更衣室と内風呂の仕切りのないちょっと不思議な大浴場。お湯はツルツルpHー9.0の単純アルカリ泉。体が芯からぽっかぽかになって、露天の水風呂にも浸かれるぐらいだった!
料理はバイキングだったけど、焼きたてのステーキ、カキフライやカキとほうれん草のクリームソース煮込み、そしてカニがとっても美味しかった!地ビールの木曽路ビールも美味しい。あまりに美味しくて写真全く撮ってない!
肉・カニ・カキとたんぱく質摂りすぎなせいか、翌朝になってもまだおなかが空かない。朝食のバイキングも美味しかったのに、それほど食べられなかった。

木曽路ホテル。結構豪華なホテルだった。


しかし、ふるさと割クーポンを使ったので、1泊2食付5000円ほど・・・!


帰りには妻籠へ。
道に入ってすぐ、まるで江戸時代の時代劇の中に入り込んだような感じだった!年末で障子を外して外で水洗いしている人たちとかいて、きっと江戸時代もこんな風景がそこにあったのかもしれないと思えてきた。


あ、おまんじゅう屋さんだ!


栗きんとん、食べました。

今度、雪深くなったらまた南木曽に行きたいなあ。

「アクトレス 〜女たちの舞台〜」

オリヴィエ・アサイヤス監督
キャスト
マリヤ・エンタース(ジュリエット・ビノシュ
ヴァレンティン (クリステン・スチュワート
ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ

「アクトレス」予告編

年を経ていく往年の女優、かつての作品のリメイク、それに関わる新進気鋭の美しい女優、個人秘書・・・というキーワードから、私はクローネンバーグ監督の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」が頭をよぎっていた。
ついでにこちらが「マップ・トゥ・ザ・スターズ」の予告編。

結局、想像したのとは全然違ってたんですけどね!

さて。
映画を観る前に情報を入れたくない方はここから先は読まないで下さいね!

最初のシーンは揺れる電車の中。
マリアと彼女の個人秘書ヴァレンティンがそれぞれせわしなく電話をしている。
離婚調停中のマリアは弁護士と。ヴァレンティンはマリアのスケジュールに関するあれこれを。彼女たちはこれから、劇作家ヴィルヘルムが受賞した賞を彼の代理で受け取るために、特急列車でスイスに向かう最中なのだ。ヴァレンティンは連絡が取れないヴィルヘルムの妻に、または授賞式の関係者に、そしてマスコミに、と忙しく電話をかけたり受け取ったり。
列車の外の景色は広大で美しいのだけど、列車に乗って進んでいく道がどこか後戻りできないような、険しい行く末を暗示しているかのように思えてくる。
この最初のシーンから、なんとも言えない緊張感が漲っていたのだ。音楽や効果音がそれを盛り上げるわけではない。マリアとヴァレンティンの言葉や声や関係がそれをはっきりと明示させているわけではないのだけれども、とても奇妙な緊張の糸が全体に張っていて、私はこのシーンを観ながら、マリアにとってヴァレンティンは何者か、劇作家ヴィルヘルムとは何者か、電話に出ないヴィルヘルムの妻とはどんな女なのか、ということにピキピキと頭をめぐらせていた・・・。

亡くなった劇作家ヴィルヘルムの過去の作品「マローヤのヘビ」。
マリアは18歳の時、主役のシグリッドを演じた。
この作品のリメイクの話が来る。しかし今回マリアが演じるのは、勿論若く美しく自由なシグリッド役ではなく、シグリッドに翻弄される会社経営者の40歳の女性、ヘレナ役。
マリアはヴィルヘルムの妻が用意したスイスの高級山岳リゾート「シルス・マリア」という地にヴァレンティンと二人で滞在し、「マローヤのヘビ」のヘレナのセリフを入れながら、ヘレナを演じるための個人稽古をする。

私はこの映画をずっと後半まで、「関係性の映画」として観ていたのです。
マリアの秘書ヴァレンティン、
かつて「マローヤのヘビ」で共演した、過去にマリアと関係のあった俳優ヘンリク、
新しくシグリッドを演じる新進気鋭の女優ジョアン。
彼らとマリアとの関係はすべて緊張感があり、この映画は一体、誰とどう転がっていくのか、そこを注視していた。そして最初は、新しくシグリッドを演じることになったジョアンとの関係の行く末がどうなっていくのか、この映画の要はそこなのだろうと思っていた。
ところが。映画はマリアと個人秘書ヴァレンティンとのシーンをかなり長く描いている。
ヴァレンティンはもしやマリアとは親子? もしや彼女たちはレズビアン? 観ながらそう思ったりするが、少なくとも親子ではない。お互いに通う親密さ、信頼、友情、尊敬、愛情・・・。それらの感情の似ているようで少しずつ違う何かがこの映画ではとても丁寧に描かれていたように思う。
他に誰も居ない別荘でマリアのセリフ合わせを手伝うヴァレンティン。二人のセリフが芝居と現実を交錯していて、さらに映画は不思議な緊張感を増していく。
そして。ヴァレンティンはある日、マリアを残して去っていくのだ。
その理由は何なのか。ヴァレンティンは一体、心の底では何を思っていたのか。明確なところはわからないまま、観ている私たちは映画からヴァレンティンが喪失したことに小さく傷つきながらも、スクリーンを眺めていたのではないだろうか。

しかし、マリアは新しい個人秘書を雇い、「マローヤのヘビ」のリハーサルも大詰めに入っている。
そこで、私はやっと気付いた。
うわ、この映画、タイトルの「アクトレス」そのものの映画だ!と。
(しかし、ちなみに原題は「Clouds of Sils Maria」、シルス・マリアの雲、でした)
マリアと誰かとの関係性の映画ではない、マリアという女優、その生き様の物語なのだ、と。
かつて関係のあった俳優ヘンリクとは確執もあったし嫌悪も、そしてずるい甘えもあり、更には友情も芽生えてる。
新進気鋭の女優、ジョアンに対して、嫌悪もあり軽視もし、怖れもあり、同業の女優として冷静に認めている部分もある。
しかし、誰と出会い、何を感じ、心が乱されたり高揚したりしても、結局はこの映画の最初のシーンの、美しい高原を、険しい山の中を、夜を、朝を、ただひたすら走りぬけていく列車のように、美しいと賞賛される季節から年を経ていくという現実を、体に蓄えられる脂肪をまといながらも後戻りすることなく走り続ける「女優 マリア」の映画だった・・・!
最後のシーン、やっと映画を観ている私たちの前に表れた「マローヤのヘビ」という芝居はどんな内容なの? そしてジョアンとマリアの関係は? 女優同士の戦いは?という疑問を軽く一蹴して、いさぎよくも鮮やかに映画の幕は降ろされる。最後まで緊張の糸を切らさないまま。
その芝居とか、二人の関係性がどうかとか、そんなことはどうだっていい。
ただ、「マリア」という女優の生は、これからもまだ続いていくのだ、と、それを示唆しているかのように。
観終わって、「うわっ、やられた!!」って思いましたよ。