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おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

「永い言い訳」 

監督・西川美和 キャスト・本木雅弘 竹原ピストル 他

西川美和監督は、その作品が上映されれば必ず行こうと思っている監督の1人です。映画の中に「ああ、なんか意地悪な目線だな」と感じる部分が幾つかあるところが好きです。気持ちを殺しながらも目の端で何かを見て、そこに起こっていることをちょっと意地悪な気持ちで哂っているような部分がとても女性っぽい感覚に思えて好きです。
モックンは(あ、今の若い人たちもモックンって呼ぶのかな、私は彼を「本木雅弘」と呼んだことがないのだけど)昔からどうにも苦手でした。彼はものすごく顔がきれいなんだそうです。でも私は美醜やバランスに関する感覚が磨かれてないため、実はモックンの顔を見てもきれいなのかどうかよくわからないのです。ただ、正直言うと陰湿ないやらしさをデビュー当時から感じてて好きではないのです。
しかし西川美和監督「永い言い訳」の予告編で見たモックンは、声も芝居もとてもよくて初めて積極的に彼の芝居を見てみたいと思っていました。

永い言い訳」を観にいった今日。私も武田も体調はとても悪い日でした。ほぼ寝てない状況でバリから帰ってすぐに店の準備をし、そして金土日と店を開けた私たちはまず最初に武田が、それが伝染って私も風邪を引いていました。武田は咳から来る頭痛が酷く、耳も聞こえにくく、私の言うことが聞き取れずに何度か聞き返しては私に突っかかって怒ります。例えば私が家で武田の仕事着を漂白しながら「結局、この安い漂白剤が一番きれいになるなー」と独り言のようにして言ってたら武田が「何?」と聞き返すので私が「あんたの仕事着を私はいつもこうやって漂白してるんだよ」と答えました。確かに私の中に少々恩を着せるような気持ちはあったものの、ただ『今やってることの説明』のつもりでそう言ったのでした。しかし今日の武田は仕事着を汚すことを私が非難していると捉えたのでしょう、「そんな事、言わんで!」と頭を押さえていいました。「え、別に何も言ってないじゃん」と言うと「だからもう頭が痛いからそうやって人を責めるようなこと言わんで!」と言います。これ以上繰り返してもしょうがないので、私は「そうではない」という説明をするのもやめて黙りました。
また、何かのときに「あんたはわしの頭が痛いことなんてどうだっていいんでしょう!」と私に言いました。そんなことはあるはずはないし、いつだって、どうしたらいいのか検索して調べたり心配しているのですよ。
しかし、では私が献身的な人間かというと全くそうではなく、自他共に認める自分勝手な人間です。武田が具合が悪いと私も困るので心配するのですし、心の中では心配が殆どとはいえ『早く治ってくれないと困るなー(店も私も)』という気持ちが入っていることは否めません。

体調が悪いときは、お互いに思うことがちっとも相手に伝わらないし、無闇にイライラしてしまいます。
「え、なんで?具合悪いんでしょう?もう帰るようちに」
「いいよ、映画観にいきたいんでしょうー。行くよ映画に」
「別に無理せんでもいいよ」
「いや、大丈夫」
夜、そんな会話ののちに、上映開始にギリギリ間に合うか合わないかぐらいの時間に「永い言い訳」を見るために、車を飛ばし気味に走らせました。武田も頭痛でボーッとした顔に緩慢な動きで、私も髪はボサボサのまま、度の合わない眼鏡をかけ、ノーメイクで。耳が聞こえにくいという武田に私はなるべく大きめの声で話しかけます。そうだ、時折みかける私の嫌いなあの夫婦(らしき人)、だらしない風貌の2人で、いつも甲高い大声で喚き散らす女と鈍い表情をした男、今の私たちはあの2人とそう大差ないのではないか。急にそう感じてじんわりと嫌悪感が広がります。

そんな今日の私たちが観た「永い言い訳」の最初のシーンでは、緩慢なる不穏の中にいるモックンと深津絵里演じる夫婦がそこにいました。モックンが演じる作家、幸夫は妻の言葉ひとつひとつに執念深く食ってかかります。多分、そこには愛があるのだろうと思える手つきで幸夫の散髪をしている妻、夏子。リビングにあるテレビにはクイズ番組に出演している幸夫が映っています。幸夫は、こんなクイズ番組に出て鵺について説明している僕を馬鹿にしているだろう?と妻に問います。どうして、そんなことないわよ、だって私、鵺なんて知らなかったもの、と夏子は答えます。夫をずっと「幸夫クン」と呼ぶ妻に人前でその本名をで呼ぶな、君は僕を貶めたいのか、と更に言い募ります。どんなにそうではないということを穏やかに答えても幸夫はそれを突き放します。これからバス旅行に出かける妻。幸夫はこれから自分が出かけるパーティの服を妻が用意してくれたかどうかだけを心配していて、妻がどんな服で、どこに出かけていったのか知ろうともしていませんでした。
その幸夫はまるで今日の武田のようで、同時に自分勝手な生き方を貫こうとするところは私のようで、とても痛い気持ちになりながらもこの映画はこんな日の武田と観るのにとてもふさわしい映画だ・・・とも思っていたのでした。

その幸夫が失ったものはなんだったのか。彼は妻の死と共に何かを失ったというよりは、自分が手にしていると思っていたものがもうずっと前からどうやら何も無かったようだ・・・と知っていく映画でした。中盤の、一見とても幸せそうな世界。しかしそこも彼にとっての仮住まいの場所だという現実を突きつけられます。もしかしたら多くの男性監督は子供たちのふれあいの中で暖かい愛のようなものを得ていく主人公の姿を描いていくのではないかと思うのですが、西川美和監督はあまりにシビアです。どこかに「そんな良いとこどりみたいな子供とのふれあいw」という冷笑的な視線があるように思ってしまうのです。子育ては重く長く、彼はそこでは家族にはなれず彼らの真の友達になることも出来ず、去らざるをえないのです。最後、みんなで一緒に楽しく帰ってくるかと思いきや、幸夫だけがひとり、電車で帰ってくるシーンにもそれが表れていると思いました。

さて、幸夫がその後書いた「永い言い訳」という小説。あれは一体、どんな内容なのだろうなあ。限りなく本当に近い私小説なのかそうではないのか。その小説の中の主人公は、誰に言い訳をしているのだろうか。
私は、これは幸夫がやっと最後にせいせいと孤独を受け入れることが出来た、という映画だと思うのです。ということは彼が彼自身に「自分は孤独ではない」という永いいい訳をしていた、ということでしょうか。人生はいろんなもので紛らわして生きています。妻とか愛人とか仕事とか人とのふれあいとか様々な気付きとかいろんなもので満ちていてなかなか孤独に気がつけません。でも何かの拍子に見つけ、やっと受け入れた孤独は、ただただ静かでそしてかすかに微笑んでいるような感じ・・・、そんな印象の映画でした。

それにしても、妻、夏子が図らずとも残した2行の言葉。
こわいよね・・・。
あんなに優しくて明るくて穏やかで辛抱強くて、たくさんの人から愛されていたと思われる夏子の思いがけない言葉が、幸夫にも、観ている私にも突き刺さってきます。容赦ないあのシーンも、西川美和監督だなと思うとても好きなところです。

西川美和監督は「ゆれる」がとても好きなのですが、「永い言い訳」もそれと同じぐらい好きな映画になりそうです。