おでかけの日は晴れ

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ミシェル・ゴンドリー監督「グッバイ、サマー」

先日、友達が「この間の夏、トレイラーハウスに泊まったんだよ。冷暖房完備で中にキッチンもあって、でもトレイラーなんだよ。すっごくテンションがアガった!!」と言ってました。
「トレイラーハウス? 動くの?」
「動かないよー。ちゃんと固定されてる!」
なんでだろう、それは決して動かないのに、「家が車」ってことに興奮してしまうのって。
友達からその話を聞きながら、ちょうど前の日に私が観たばかりの、車輪の付いた家で旅をする男の子2人の映画のことを考えていました。

ミシェル・ゴンドリー監督の自伝的映画だそうです、「グッバイ、サマー」。
チビで女の子のような容姿のダニエルは転校してきたテオと仲良くなります。テオからはガソリンの匂いがするので周囲の男の子はテオを「ガソリン」と呼び、馬鹿にしています。テオの母親は太っているけど病弱で、父親は廃品回収の仕事をしていて、そして彼らの家庭はあまり裕福ではないようです。
テオは廃物からいろんなメカを作るのが好きな男の子。
そしてダニエルは絵を描くのが好きな男の子。
2人は廃物から小さな車を作ります。それはまるで小さな家に車輪が付いたような車です。
14歳の夏。彼ら2人はそれぞれの親に内緒でその車で旅に出ます。

2人だけの動く小さな家。
それを見ながら、私も14歳のときに自分だけの小さな家を持っていたことを思い出していました。勿論そこには車輪はついていないし動くこともありません。子供の頃私が住んでいたところは田舎だったせいで敷地が広く、祖父母の家、叔父夫婦の家、私の父母の家と3世帯の家が敷地内にありました。父母はその庭に6畳ほどのプレハブの部屋を建てました。父母が経営するスナックで働く女の子の住み込み用の部屋として作ったのですが、ある時から私の部屋になったのです。
母屋にはテレビや食事をするキッチンテーブル、リビングなどで構成される家族の営みがあります。しかし中学生の私だけがそこから切り離された、という小さな孤独感は私をうっとりさせました。真夜中過ぎに部屋を出て、その時間の星が見たことないほど瞬いていることを知ったのもその部屋に変わってからです。そこにいると私は家族の誰とも繋がっていなくて、ただ夜空の星々と自分だけがまっすぐ線で結ばれているような気がしていました。
私はその部屋にいるだけで幸せでした。ささやかな孤独を堪能してました。けれどダニエルやテオのようにその家に車輪を付けてどこかへ行ってしまおうとは思っていませんでした。何故ならあの頃の私は、「動く家」を作ってどこかへ行ってしまったら、きっともう帰るところを失ってしまうからです。あの頃私の一番身近にあった家族は血縁ではなく「私を育ててくれている人たち」でした。私がそこに背を向けて家を出てしまったらどこにも帰り着く先は無いのだと、ずっと子供の頃から思っていました。
ダニエルやテオは、ちゃんと帰れる場所があるから、心の中でそれを無条件に信じているから、家出が出来ちゃうのだなあ。
ところが旅とは残酷なもので、いつでも変わらず帰れる場所だと信じていた彼らの家は、行った時とは違っていることを14歳の少年たちは知ることになるのです。あれほど楽しかった旅から帰るとテオの母親は他界していて、父親は家を出たテオを責め、そして家から出て行けと言うのです。それによってダニエルも唯一の友達、テオを失うのです。

そんなひと夏を過ごした彼らは、少年時代を終え、大人の世界に一歩近づいたのか。
そこで私は、大島弓子の1988年の作品を思い出しました。
「夏の夜の獏」です。

大島弓子選集 (第12巻)  夏の夜の獏

大島弓子選集 (第12巻)  夏の夜の獏

このマンガでは、走次の

「ぼくは8歳だが
このあいだ精神年齢のみ
異常発達をとげて成人してしまった

この話はぼくの目から見た
精神年齢の世界である」

というモノローグから始まります。
父親も母親も学校の先生も家出をしたお兄ちゃんも同級生も、すべて子供として描かれ、痴呆のおじいちゃんに至っては赤ちゃんの姿で描かれています。
走次の精神世界は豊かで、聡明で思慮深く、客観性を持ち、何が恥で何が大切かを知っています。
両親の不和が幼い走次を大人にしたのですが、結局、両親は離婚を決め、家族の住んでいた家は売却され、走次は父親とその恋人、母親とその恋人、どちらの家庭にも歓迎されています。そういった事実を受けいれようとしていたのですが、ある日学校から家に帰ろうとして、間違えてそれまで住んでいた家の玄関まで来てしまうのです。走次は瞬時に、これまでそうやって帰ってきた彼を迎えてくれた父や母、お兄ちゃんにおじいちゃん、大好きだったヘルパーの女性のあたたかい「おかえり」の声を思い出してしまいます。
走次は走り出します。泣きそうになります。
泣くんじゃない、泣いたら子供だぞ、声を出して泣くのは子供だけだぞ、
そう思うのですが、結局は声を上げて泣いてしまいます。泣いて、走次の姿は8歳の少年の姿になるのです。

「グッバイ、サマー」のダニエルとテオは、いつも子供のようにはしゃいでましたが、きっと彼らは大人でした。タバコや酒が人を大人にするのではなく、精神性だと彼らは思っていたように感じます。その彼らの精神を理解し得ない父親も母親もパンク野郎のお兄ちゃんもみんな「子供」のようでした。
しかし夏の自由な冒険を終えて帰還した彼らは、子供であるがゆえの無力さを知り、そこで「大人」から「子供」に戻るのです。
母の死を、出て行けという父親の宣告を、思い通りにならないクラス替えを、今の彼らの力では何一つ覆せません。
彼らはその無力さに絶望を感じながら子供に戻り、またひとつひとつ何かを積み上げていくのでしょう。

ラストシーン。母親に引率されて去っていくダニエル。その背中に向かって、ローラは「振り向いて」と念じます。
3、2、1。
ダニエルは振り向きません。
もう一度ローラは念じます。振り向いて。
7、6、5、4、3、2、1。
それでも振り向かずに視界から消えていくダニエルに向かって、ローラは最後に「無限」をカウントします。
これをどのように受け取るかは見た人それぞれでしょうけど、とても素敵なシーンです。
私は女の子の片思いの永遠性について思ったし、そして人は大人になったり子供になったりを無限に繰り返すのかなあとそんなことも思いました。