おでかけの日は晴れ

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私は『聖なる鹿殺し』という映画が好きかどうかはわからないが

『聖なる鹿殺し』


映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編

この予告観たら「絶対に観ねば。胸糞悪い映画であろうとも」と思った。

前作の『ロブスター』、アイデアは秀逸だし展開に驚かされるし、そして男と女が結婚をして女が子を産み次世代へ種を繋いでいく生命としてのシステムが崩壊しかかっている今に対するブラックな示唆に、観終わったあと言葉を失くした。

 

そして『聖なる鹿殺し』。

観終わった最初の感想は「ああ!とんでもなく胸糞悪い映画だったわ!」だった。悪口じゃない。

自分にとって大切な人が無惨に殺されてしまったら。私に子はいないけれど、もしもいて、その子供を殺されてしまったとしたら。現実に起こる様々な事件のニュースを知るたび、「私ならどうするだろう?」と思う。

司法での裁きに納得できるか。

私は復讐のためその相手を殺そうと思うのか。

悲しみや苦しみはいつか癒えるのか。

誰しもそういう「最悪の事態」について想像するのだろう。だからそういうドラマや映画がいっぱいあるんだろう。復讐の物語が。

しかし『聖なる鹿殺し』はそれらの物語とは一線を画していた。

何しろ、復讐者マーティンはあまりにも絶対的な力を持っている。策略や陰謀や暴力による復讐ではなく、彼は神のようにスティーブンとその一家に呪いをかける。スティーブンには後悔はあっても反省はない。彼は家族を守るために戦わない。子供を守るために自分を犠牲にしようともしない。そして呪われた彼らはみな、その運命を恐怖とともに受け入れる。

私はずっと冷たい汗をかき、どこまでも展開が読めずどこに着地するのか見えないこの物語を目にしながら、そうだ、大切な人を奪われるということはなんてクソな出来事だ、それはどんなに胸糞悪い出来事なんだ、と改めて思っていた。

最終的にはスティーブンの息子、幼い少年は生贄となった。復讐者マーティンの呪いは決着した、はずだった。しかしその後、スティーブンと妻、そしてその娘がマーティンを見るその目はあまりに冷たく、蔑むようで、敗者のそれではない。復讐を終えたマーティンは勝者ではないのか。そこでも私は衝撃を受けた。そうだ、復讐をしたってこの胸糞悪さは変わらないってことか!と。

他の多くの復讐の物語は、哀しみはいつか復讐の行為の中でのスリルに翻弄されていくし、それを終えたあとのカタルシスさえある。しかしこの『聖なる鹿殺し』には一切、その種のカタルシスはない。奪われた側のこの現実の胸糞悪さは永遠に続いていくといわんばかりの、すべてに呪いをかけるような圧倒的な作品だった。

 

私たちは潜在的に様々な鍵を心の中に持っている。男であるが故の、女であるが故の、さらには親と子に関する物語に何らかの縛りというか鍵を持っているように思う。それは、子は親を思うものだとか、母の子への愛は絶対だとか、子に対する性的な欲望は何よりのタブーだとか。しかしランティモス監督はそのひとつひとつの鍵をそっととりあげて、それを試すかのように奇妙な鍵穴を用意してそこから私たちにある世界を覗かせる。そうしてそれぞれの心に内在してるモラルを揺さぶっていくようだ。みんながそうだと信じている物語は、それは絶対に真実なのか、と。『ロブスター』も『聖なる鹿殺し』もそういう映画だったと思う。

この映画を、監督のヨルゴス・ランティモスを、好きかどうかが自分自身わからない。しかし次回の作品も多分見るだろうと思っている。