おでかけの日は晴れ

現在はこのブログにあるものすべて下記のサイトに移行し2021年7月6日でこちらは停止しました。以降は、左記の新サイトをどうぞよろしくお願いします。 https://ameblo.jp/mioririko

楽園追放

虚淵玄脚本なので観にいった「楽園追放」。虚淵作品である「サイコパス」は、人類が考えて考え抜いて、人と人が傷つけあわず平和な生活を維持するためにこれが最善であると導いた結果作られたシビュラシステムに統治された世界が舞台だ。そしてそこに綻びがあろうとも現在のところではそれに変わる代替案が見つからない、という設定なのが面白い。肉体を捨て電脳だけになった世界の「楽園追放」もまた。肉体を持って地上に住めなくなった人類が自らの肉体を捨て、電脳となって電脳世界「ディーヴァ」で暮らしている。統治されていることに仮に疑問を持ったとしても、それ以外の選択肢は無いに等しい。
そのような設定で、改めて考える。
肉体とは?
意思とは脳であり、脳だけがあればいいのか、どうか。
平和とは完全なる統治の下にしか訪れないものなのか、どうか。

「楽園追放」「ニンフォマニアック」「紙の月」

虚淵玄脚本「楽園追放」とラース・フォン・トリアー監督「ニンフォマニアック vol.2」を続けてみて、翌日に吉田大八監督「紙の月」を観ました。私は何本もいっぺんに観るのは好きではないけど、この3本の映画の中にある「肉体性・依存・欲望・孤独」というものが頭の中で絡まってそれぞれの感想に干渉しあってます。これはこれで、いいな。

「花火思想」

ちょっとした縁が生まれて、それでこの映画を観にいくことにした。
縁とは、シネマテークの永吉さんが「花火思想」の監督、大木萌さんと一緒にうちに来て下さったことから始まった。
その時、本当にちょうどその時、大須のシアターカフェの江尻さんが「ブックマークナゴヤ」のペーパーをうちに持ってきてくれた、というのもまさにこの縁の「序章」にふさわしい。
翌日、今度はお一人でごはんを食べに来てくださった大木監督。
聞くと、今日は映画の宣伝のために名古屋のいろんな店を回るとのことだった。ここに行こうという当てはあるのですかと聞くと、特にないとおっしゃる。だったらこれをどうぞと渡したのが、前日いただいたブックマークナゴヤのペーパー。ちょうどそこにはそのイベントに参加する店がずらりと表記されていて、どのお店も個性的で情報の発信力があって、何より素敵な店ばかりなのだ。大木さんはそれを見て「宝の地図だ!」とおっしゃってくださった。そして、モノコトさん、シアターカフェさん、シプカさん、ちくさ正文館さん、リチルさんなどを回られたそうで、そして名古屋滞在がとても楽しいものになったと聞いて私もすごく嬉しかったのだ。
そして、「花火思想」上映初日、またマタハリに来て下さった大木監督。するとまったく偶然に、「花火思想」を大阪から観にいらっしゃった監督の知人の方がうちに来てくださって、うちで奇跡のような出会い方をしていた。
うちの店が、そういう素敵な偶然が重なる場になった、ということがとにかく私にとっても嬉しい。ああこれは吉兆だな、と思った。そして私も観にいこう、この映画、と思ったのだ。


「花火思想」を観ながら、私は「才能」という言葉を取り巻く私の過去の感情を思い出していた。
「才能」について、誰しもが自分に備わる才能について考えたり、いや苦しんだりするのだろうか。
私は・・・20代から30代の頃の私は、そう私でさえも、「才能」というものについて考え、そして苦しんだな。
学生の頃の音楽をやっていた私が、その後の演劇の世界で役者としての自分が、そして芝居の台本を書きながら物を書く私が、その「私」の中にある才能はいかほどなものか、その才能はどこまで世界と対峙できるのか、できていないのか。思い込みと自信と劣等感と嫉妬と快感と絶望と、そういう感情がーーー私の場合荒波でもなく、ちゃぷちゃぷ波立つぐらいの中で生きていた。
「花火思想」の主人公の青年、そしてかつての彼のバンド仲間を見ながら、私の中にあったそんな思いを思い出していた。
そして、この映画を観ている今の私は、あの頃と「才能」に関する感じ方がすごく変わったなあと思っている。
あの頃、生きる意味というものは、自らが何かしら持っている才能を発揮して、またはそれを育て・伸ばし、そして世界と対峙することだと、そのように感じていた。
今は、ちょっと違うなあ。才能=生きる意味、では決してないと思ってる。
例えば「花火思想」の主人公は、自分がやりたいと思っていた音楽をやっていない現在は、多分生きているという実感をなくしているのだろう。生きる意味が見出せないまま、どうでもいいと思いながらどうしようもないコンビニ店主の元で働いている。このコンビニ店主も何の才能もなく、生きている意味のなさそうな男、として登場している。
でも、本当にそうか?
このコンビニ店主を「生きている意味がない」と断罪していいのか。こんなコンビニでも拠り所にする近隣の客がきっといて、潰れたらそれはそれで困るときっと思われている(別に描かれてないけど)。こんなどうしようもないコンビニ店主でも、それでも彼が存在して世界の小さなピースになっているのだ。
主人公が最後に詰め寄っていくホームレスの男。ホラばかり吹いて、そして人に殴られても殴られるままでいる男。そんな男でも、やはり世界を構成する小さな小さなピースのひとつなのだ。それらが無くなっても世界は崩壊はしなくても、それでもただ、そこに居るというだけで、その集合体で、世界は形作られている。
才能がなくては生きていく意味もない、と思い込んでる主人公と、その対称にあるホームレスたち、またはコンビニ店主。
「生きる」ということに対する考え方は、年を経ていくごとに変わっていくのだ、きっと。映画の中の彼らと自分の中にある変化と、それらを見つめながらこの映画を観ていた。

「365日のシンプルライフ」


最近、ある友人の収納に関する日記を読みつつ、まだ幼いコドモちゃんを抱えつつも快適な生活を常に追及しながら家の収納に取り組む彼女をすごいなあと思いつつ、私もなんとかしたいなあという気持ちが湧き上がってくる今日この頃、武田が急に「スコーレで『365日のシンプルライフ』を観ない?」と言ってきた。まったくチェックしてなかった映画だけどなんだか面白そう。それを観てきました。
ペトリくんという、フィンランド国営放送でドキュメンタリーなどのカメラマンの仕事をしている青年。彼が1年間の実験を通して自分の人生を見つめなおしたドキュメンタリーです。
釣りやレコード鑑賞などの趣味を持つ独身のペトリくんの独り暮らしの家は物で溢れています。そして彼は自分が幸せではないと感じています。好きで買ったものばかりなのに。彼は一大決心をして、すべてのものを全部、近くの倉庫に預けました。服も、クレジットカードも、歯ブラシからすべての家具にいたるまで。
もう、彼の部屋には何一つありません。そして彼は裸です。ここから、彼の実験がスタートします。
ペトリくんの実験は1年間。
その間、彼は1日に1つだけ、倉庫から物を持ち出すことにしました。
そして1年間、食料品以外の「物」を買うことを一切禁じました。
さて、雪の積もる寒いフィンランドのある街で、彼は人の寝静まった真夜中、真っ裸で家を飛び出し、倉庫へ走ります。最初に持ってくるものは一体何か。そしてその翌日は何を持ってくるのか。一体、幸福に生きていくうえで、何が必要なのか。
そういう映画です。

ペトリくんは何日か後にベッドのマットレスのみ持ってきます。それまで何も無い部屋で1枚のコートにくるまって床で寝ていた彼は、数日経ってやっとマットレスを生活の中に戻したのです。そこで彼はそれまで感じたことのなかった幸福感を覚えたと言います。そうですよね、私たちは、必要最低限のものは最初からすべて揃っていたのですから。ベッドに眠るなんてこれまで当たり前のことにおもっていたのですから。ペトリくんのおばあちゃんが言います。「戦争が終わったあとは、なんにも持っていなかったのよ」と。これは日本から遠いフィンランドの話ですが、そうですよね、「世界大戦」だったのですもの。日本だけでなく、近隣諸国だけでなく、戦争に負けた国も勝った国も、そしてこの美しいフィンランドも、あの第二次世界大戦のあと人々は多くのものを失なったのです。そして時間をかけて1つ1つ、物を得ていったのですよね。何もない状態から得る最初のひとつひとつは本当に幸せに結びついていったのだなあと改めて思いました。ペトリくんも今、初めてその感覚を体験しているようでした。

そういえば私は22歳の時に家を出ました。持って出たのは友達の乗用車に1台分、積むことの出来るものでした。あの時私が持って出たのは、セレクトしたマンガ、本、雑誌、わずかばかりの服、布団、そして何故か鏡台。これだけだったと思います。一人暮らしを始めた最初のうち、アパートの中には何もなかったなあ。何年かかけて、殆どは貰ったり拾ったりしたものでしたが、物が増えていくことが嬉しかったけど、あの頃もっとも自分を幸福にしたのは、会社の人がくれたテレビとか、知人がくれた電話とか、そういうものではなく、拾ってきた黒猫でした。

さて、昨日「365日のシンプルライフ」を観て、私にとっての快適空間を目指すために今日は机の上をお片づけ。自分の机の上、たったそんだけなのに、かかった時間は4時間ぐらい?大事なものも要るかもしれないとおもってたものも、みーんな等しく机の上に積みあがっていたものを、多少は捨てて、あとは全部見えやすく吊り下げたり、あまり機能を果たしてなかった小物を入れる引き出しには全部入れたものの名前を明記し、これからは積み上げていかない机を目指すことにしました。

ヴィオレッタ

母親の「あなたを愛してるのよ!」と叫ぶ声に振り向かず、ヴィオレッタは森の中にまっすぐ走っていく。このエンディングとバックに流れる音楽に、エンドロールが終わってもまだ涙が止まらなかった。映画館を出て少し歩いた道端で、「映画の最後のシーンでやっと彼女は逃げることを選べたんだ」と思ったらまた泣けた。


受けた傷を癒すために、人はどのような過程を取っていくのだろう。

自分の周囲の現状すべてに恐怖する。
傷を負った自分を嫌悪する。
理解してくれない周囲を憎む。
傷つけた相手を憎む。
他の何かに依存する。
自分に起きたことを客観視してみる。
相手を赦す。
・・・・・・・・・・・・・・。
こんな感じだろうか。そして「ヴィオレッタ」を撮ったエヴァ・イオネスコは今、どのあたりにいるのだろう。



私が「ヴィオレッタ」を観る前に知っていたのは、これがエヴァ・イオネスコの自伝的映画であること、エヴァ・イオネスコは12歳ぐらいの頃に「思春の森」に出演し、裸体を晒し、セックスシーンを演じていたということだ。
思春の森」は、思春期が訪れたばかりの10代半ばの少年少女の愛と性を描いた1977年のイタリア映画。
毎年、休暇を別荘で過ごす少年と少女は親に秘密で森で遊ぶ。多分、それまで子供のように遊んでいたのだが思春期を迎えた少年にこれまでにない変化が訪れている。そして彼らは森である美少女に出会うのだ。
映画の中には非常に露わなセックスシーンが出てくる。エヴァ・イオネスコは未発達の裸体で、やはり裸の少年の上に跨り、快感を演じていたと記憶している。多分、エヴァ自身は性体験がなく、しかしそのシーンをたくさんの大人の前で演じ、更に世界中の人間がそのフィルムを観るのだ。その時、エヴァの母親、幼く美しいエヴァを妖艶に撮っていた写真家であるイリナ・イオネスコは、その出演に際してどのような立場を取っていたのだろうと私は思っていた。金のために娘を売ったのか。美しい娘を実は憎んでいたのか。
そのエヴァ・イオネスコが撮った「ヴィオレッタ」には、映画「思春の森」については一切触れていない。ヴィオレッタという少女と、彼女を被写体として写真を撮っていた母、アンナと彼女の作品についてのみ描いている。
ヴィオレッタ」を観て意外だったのは、この作品は母親を決して糾弾してはいないということだった。
ヴィオレッタの母親アンナは自分の名声や冨のためではなく、ただ自身の芸術的表現欲求のためにヴィオレッタを撮っている。そしてアンナはヴィオレッタ以上に性的に傷ついていて、しかも写真家として生きることでその過去を乗り越えているようにも見える。アンナを一人の女の生き方として決して否定はしていない。ただ、そのアンナの元で被写体となった娘ヴィオレッタは、幼い彼女の社会生活を、少女から大人へと徐々に形成されるべきものを壊されていった。
ヴィオレッタ」を撮ったエヴァは、母、イリナ・イオネスコを許していたのだろうか。女として理解できても母親としてはどうだったのか。この映画でこんなにアンナを肯定的に描いてよかったのだろうか。肯定的、というと首をひねる人もいるだろう。でも少なくとも私にはそう思えたのだ。親から虐待を受けた子供は、それでも親をどこか守ろうとする。私にはこの映画の端々からそういう姿を感じていて、どこか痛ましい思いがしていたのだ。
しかし、映画の最後になって、やっと、母親の求める彼女の髪形や衣装を脱ぎ捨て、背中を見せて逃げていくヴィオレッタの姿に、ああやっと!ヴィオレッタは、そしてエヴァは、まっすぐに逃げることを選んだんだ!と思ったら、私は泣けて泣けて仕方がなかった。

ところで「美しすぎる娘は、母親を狂わせた」というキャッチコピーに、どうしても違和感を感じるなあ・・・。

「チョコレートドーナツ」は甘い物語ではなかった。

人生の中にほんの僅かにあった甘い過去、それをずっと希求し続けた、そんな物語だった。
1979年のカリフォルニア。クラブでドラァグ・クイーンとしてショー・ダンサーを務めるルディと、弁護士のポール。ルディの隣人で、爆音で部屋からT.REXを流し続ける麻薬中毒者の女の子供でありダウン症のマルコ。
マルコは麻薬保持で捕まった母親に置き去りにされる。公的機関が彼を専門の施設に保護しようとするが、ルディとポールが引き取り、マルコをダウン症の子供専門の学校に通わせ、そして家族としてマルコを育てた1年間。しかしその間にルディとポールがマルコを引き取るために「いとこ同士」と偽ったことが発覚、そして二人がゲイだと判明するとマルコは再び彼らから取り上げられ、ルディらはマルコを正式に家族として迎えられるよう裁判を行う。
1980年代初頭のアメリカは、麻薬中毒者の息子でダウン症患者である少年を公的機関で保護するという仕組みはちゃんと存在している(それがルディたちには、マルコにとって好ましいとは思えない場所であるとしても)。
裁判も、ちゃんと行われる。
そして1980年初頭のアメリカでは、まだゲイだというだけで解雇される。
裁判の審査は公正を期されたと思う(ルディや私たち観客はそうとは思えなくても、審議は尽くされたのだ)。そして裁判官の判決は、「ルディとポールがマルコに与えた愛情と教育については大きく認める。しかし彼らが自らの同性愛傾向をオープンにする限り、その悪影響をマルコに与えないとも限らない」という理由だった。つまりここでも「同性愛者は悪影響を及ぼす」のだと差別している。
一体、何故差別されるのだろう、とか、母親が麻薬常習者でしかもダウン症の子供はどのように生きていけばいいのだろうとか、じりじりするような絶望がいっぱい。だからこそ、ルディが歌う「Come to Me」や「I Shall Be Released」が、とにかく胸を打つ。なんでかもうルディの歌が、このシーンだからとかこういう歌詞だからとか、そういうのを飛び越えて理由もなく涙が出てくる。
現時点での絶望、しかしそれでも持ち続ける未来への希望が歌を生む。
15歳だったマルコの人生の殆どは孤独と苦痛に満ちていたのかもしれないが、きっとかつてあった母親の愛情、チョコレートドーナツの記憶、そしてやっとルディたちに保護されて得た、安全で愛情に満ちた1年間。その甘い記憶が、再び孤独の中に閉ざされようともマルコの希望を消さなかった、筈だ。

・・・・・

ところで、この映画の公式サイトを見てみると、「ゲイもダウン症も関係なく、魂のレベルで求め合う愛」という言葉が出てきて、私はいつもこういう言葉に違和感を感じる。
映画を見てて
「何故ルディはダウン症の少年を家族として受け入れたいと思ったのか。たまたま置き去りにされた隣人の子が彼だったからか。
引き取った少年よりも年を取っている自分が先に死んだら、または自分自身が経済的に破綻したら、ダウン症の子供はその後どう生きていくのか、責任が取れるのか。
または、目の前に現れた愛情を必要とする子供すべてに彼は手を差し伸べるのか?どうか?」という問いが私の中でずっとあった。
ルディはどうなの?と思いながら、じゃあ私はどうなの?と。苦い問いだ。もし目の前に手をさしのべることをしなければ命に関わるナニカを見つけたとき、そのすべてに自分は関わるのか。苦い問いであり、YESでもNOでも苦い答えになると思う。そんな苦さをずっと映画の中に感じていたのだが、見終わってしばらくしてあっと思ったのだ。
確かにルディは愛情深い男だが、彼もまたマルコの存在を必要としたのだ。ダウン症のマルコを。この時代において、マルコだけが今も、そしてこの先も、ルディとポールを同性愛者だいうことで差別しない存在なのだ。「見返りを求めない愛」なんて言葉があったけど、そうじゃなく、ルディとポールが注ぐ愛情を、マルコもまた信頼と愛情で返すことの出来る唯一の存在だったのだ。
様々な絶望の裏に小さく感じるずっと先の希望。この映画に感じたのはそれでした。

ヒカシュー

昨日はやっとライブ日程と私の休日が合致して、実に久しぶりにヒカシューのライブに行ってきました。
私の中で感じる「変わんないこと」と「変わったこと」が同時に目の前にあって、それを堪能しました。
ヒカシューの演奏は即興性に満ちていて、全員の個性が強烈であるところは「テクノバンド」として登場したいっちばん最初の頃はそんな風には感じなかったけど、割と早いうちから「おかしいぞ、このバンドは。ライブごとに元の楽曲をどんどん越えて変化し続けるバンドじゃないか」と驚いたのがもう20数年前。
あの頃と巻上さんと三田さんの顔はそんなに変わってなくも見える。
坂出さんは見た目は変わったなあと思いつつ、むっちゃくちゃ笑顔でベース弾いてる、あの顔から受ける印象は変わんないなあ。
あの頃いた井上誠さんや谷口さんや山下さんは清水一登さんになり佐藤正治さんになり、野本さんもお亡くなりになって、それは変わったところ。
巻上さんがジャンプするといつも頭が天井すれすれな感じになったあのELLではなく、今は得三で聞かせてもらってるし、巻上さんはもうあんな風にジャンプをしない。ジャンプをしても得三の天井は頭をぶつけそうになるほど低くはない。
20数年前と同じように、客席の隅の一番前にジル豆田さんがいらっしゃる。あの頃は王者舘の人たちも来てたっけなあ。昔も私は一番前ではなく、真ん中よりは少し前の席に座っている。
昔、ヒカシューのライブにはよく一緒に行ってた小学生の頃からの友達は、ここにいないなあ。代わりに40代から知り合った私の友達が横にいて、私がはじめてヒカシューに行ったのが「パパイヤパラノイアヒカシュー」と対バンになってたライブですが、その友達もそこにいたそうです。
ライブで、何が始まるのか、わくわくするのは変わんない。
思わずニヤニヤしながらとっても楽しんだことも変わんない。
ヒカシューのライブに行くと、いつも20代の頃の私と今現在の私が交差するんです。

たまこラブストーリー


GW7連勤後のたった1日の大事なお休み、朝からさっさと洗濯をし庭の草むしりをし掃除をし髪を染め、そして映画を観にお出かけしました。
観にいく映画は「たまこ ラブストーリー」。
うさぎ山商店街のもち屋の娘、たまこと彼女の友人たち、そして彼女を取り巻く商店街の人たちを描いた深夜アニメ「たまこマーケット」のその後のお話です。
そうだ、この映画を観るならばと、GWで賑わう名古屋駅、そして地下街ユニモールを抜け、まずは円頓寺商店街に。ああ、しかしGWで多くの店が休みダヨー。でも、目的としてた「お餅」「ひなびた喫茶店」「お肉屋さんのコロッケ」はあったあった!この日の私が求めているものは「和カフェ」のたか〜い和のデザートに非ズ!タバコの匂いのする古くからの喫茶店で、抹茶とおはぎのセット400円也だ。ちなみにおはぎ、美味しかった〜。柏餅も食べるべきだった。
そしてお肉屋さんのコロッケを1個買って食べながら休日で店も閉まってて人も少ない円頓寺商店街を端から端まで歩いて、また名駅に戻った。
GWの映画館は満席なんだねえ。いつも平日にしか観ないので混みようにおろおろする。映画が始まるギリギリまで客席から喋ってる声がするので、もしもこれがキース・ジャレットだったら怒りよるで?とか思っているうちに映画が始まった。
山田尚子監督「たまこラブストーリー」。アニメ作品なので二次元の絵を重ねて作られていくのでしょうが、映像の中に幾たびも、三次元の景色がそこにあり、そこで本当にカメラを動かして撮っているような、そんな印象のシーンが幾つかあります。空とか町の風景とかが、誰かの心象と共に誰かの目線でふわっと立ち上がっていくような、そんな印象でした。
高校3年生のたまことその級友たち。
観終わった私は友達と居酒屋で飲みながら、「高校時代って実に残酷なシーズンじゃない?」なんてことを話し合う。みんな制服着てて、部活があって時間は授業で区切られてて友達がいて、それは人によってはちょっと楽なことかもしれない。でもそこから先は少しずつ、自分で選択をしていかなくてはいけない。
恋をする。恋をしたあと、どうなるの?
ひとつひとつ、何かが始まるたびに何かが終わり、何かが変わっていくシーズン。ああ、それってなんて残酷なの!と思ってしまう。
でも、考えたら、その時間の中にいる子たちにとっては、残酷でも何でもないのだよね。だってみんな、前へ、前へと、進むのだもの。その先にもっと楽しいことがきっとあるのだろうと信じて。私も高校生の頃、自分のいる場所がつらかろうが幸せだろうが、その「時」そのものが残酷だなんて思いもしなかった。
どんなに素敵な関係がそこにあっても、自分の幸せはその関係から飛び出して、また新たな場所に行かねばつかめないものだとしても、それでいいんだよね、と、片思いのみどりちゃんのどこか怒ったような顔を見ながらそう思う。
それから。
この映画の中のうさぎ山商店街のように、チェーン店ではない個人商店の集合体である商店街が、こうやっていきいきとして、お客もあって、存続していくにはどうしたらいいんだろうか、なんてことをマジメに考えてしまう映画でもあったよ。
http://tamakolovestory.com/

「子宮に沈める」/緒方貴臣監督 シネマスコーレ

2010年の大阪2児放置死事件を基にして作られた作品。

現実の事件では、逮捕された母親もかつて実母に放置されて育ち、後に父親に育てられたこととか、少女の頃に性的暴行を受けていたとか、また彼女は高校生の頃に「解離性障害の疑いがある」と鑑別所職員に指摘されたそうだし、事件後も心理鑑定でも同様の指摘を受けていたそうだ。しかしこの映画の中の母親は、彼女の家庭的背景や精神面について殆ど描いていない。
つまり、このネグレクト、及び放置死は、特殊な環境にある女性による犯罪ではなく、誰でもこういう状況に陥ることはあるのではないか?というところから成り立っている。
例えばうちの店に来ている女の子達のように、若くて、きれいで、真面目で、仕事も一生懸命にしてて、結婚したらこんな素敵な家庭が作りたい、子供にも愛情を持って接する素敵なママになりたい・・・と思ってるような子たちにも起こりうることではないかと。
映画は部屋の中だけの撮影で、時にカメラの目線はものすごく低く、小さななにものかの目線でこの世界を覗いているようでとてもリアリティある映像になっている。そしてこの母親----3歳の長女と1歳の長男をとても愛し、家の中をいつもきれいに整え、良妻賢母を目指している若くて美しい女性が、その理想の自分を保つことが出来なくなっていく現実をとてもリアルに描いている。
現代日本の家庭ではよくあることだけれど・・・何故夫は、自分との性交の結果、子供を孕み、産んだ妻を女性とは見做せなくなり、捨ててしまうのだろう。なんで?なんでなの?と私は映画の中の女性と共に心の中で叫んだ。たまに帰宅した夫の物音を聞いてリップを塗り、髪を整え、母親から女に戻ろうと夫に抱きつく「良妻賢母」を目指した女の姿の痛ましさったら。
そして、幼い子供を抱えて離婚した女性を無条件に守るものはないのか。働くために利用する無料の託児所や、急に休まねばならない母親でも働くことの出来る職場は、どうして少ないのか。

毎日、うちの店には若い女の子のお客さんが来る。
労働時間の長さを愚痴ったり、実家に帰りたいけど実家のある田舎には働く場所がないとか、結婚どうしようとか、いろんな話をしている。どの子もみんな、若くて本当にきれいで、そのことだけでも祝福したい気分になる女の子たちばかりだ。でも、今の日本には、そんな子でもこの地獄に陥ってしまうかもしれないものを孕んでいる。

映画だから、この映画の中の3歳の少女は餓死するまで痩せ衰えてはいかない。でも、扉をガムテープで塞がれた密室で、食べ物も殆ど無い部屋で、おむつも替えられない幼児が、3歳の女の子が、どのように命が尽きる日を迎えたのだろうと想像する余地がたくさんあり、その想像に何度も戦慄する。

三池崇史監督「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」/ピカデリー

友達と「土竜の唄」か「ダラスバイヤーズ・クラブ」、どっちか観ようと言っていた。実を言うとどちらも「絶対に観る!」と決めてた作品ではなかったけど時間があって観れるなら観たい、どちらもきっと観たら面白いだろうと思ってた。さて当日、どっちにしよう、私は内心、『今日はダラスバイヤーズ・クラブかな?』と思っていたのですが、友達に「土竜の唄にしない?」と言われて「あ、いいよ」と決めた。
や、始まって最初から面白かったよー。面白さは脚本のクドカンに負うところが大きいかなあ。タイトルでもある「土竜の唄」をみんなが歌うところなんかもすっごく良かった。
一人一人のキャラクターも非常に生きてて、例えばそれほどセリフも出番もない数奇矢会若頭役の斉木しげるのたたずまいもとても良いし、同様に1シーンだけの出番の闇医者役の有薗芳記もしみじみ良かった。
脇のスキンヘッドのジャガー演じる上地雄輔や若頭補佐役の山田孝之も。
しかし、私にとってのこの映画の何よりの魅力は、「命張った男達の、男同士による、関係のイチャイチャ」でしたね。
命がかかった男にとっては、女の存在はある種のご褒美的な「点」になってしまう。そして男同士が継続的で強い関係を「契り」という言葉を用いて約束する。腕を絡ませ、同時に腕の肉を切り裂き、お互いの血を舐めるだの、「契りを交わして兄弟となった男」の体の上に覆いかぶさり、自分の身を呈して手榴弾から相手を守るだの、もう萌えシーン満載じゃないですか!これにキャー言わんでどうする!
やおい)女だったら「土竜の唄」を観て、「おう、いいもん見せてもらったぜ、兄弟!」と肩で風切って映画館を出てきたいものです。
http://mogura-movie.com/

三浦大輔監督「愛の渦」/ミリオン座

大根監督「恋の渦」はポツドールという劇団を主宰する三浦大輔の作であると知り、その後「愛の渦」は原作・脚本・監督であるということで待ちに待ちに待ちに待った映画でした。
設定は乱交パーティでの一夜。
そして映画の宣伝文句でも「着衣シーンはたった18分」だの「剥き出しの性欲」だの、おお、そらどんなえっちな映画かねえなどという下心もアリでねえ。とは言え多分、セリフの応酬の面白さ、みたいな映画になるかなあと予想してたのですが・・・。
とにかく映画が始まってかなり長いこと、緊張に次ぐ緊張。私など何故か胸の前でひたすらぎゅっと両手を握り締めて、この重たい空気を動かす何かを待ち望むような気持ちだった。今から初対面の異性同士が約5時間、ひたすらセックスをするための場所にいるのに、何故か男女別に分かれて座り、同性同士でおずおずと「よろしくおねがいします」という謎の挨拶を交わす滑稽さに、何故か緊張しながら見つつも思わずクスクス笑ってしまう。
そこが「乱交パーティ」という場所であれ、それはコミュニケーション能力を必要とする「社会」なのだねえ。私が緊張してる原因は、この「社会」に対してなのだとふと気付く。社会に相対するための最初のコミュニケーション能力。そして最初とその後で入れ替わっていくヒエラルキー。最初に勝ち組であった「OLの女」はすぐにもっとも負け組に転落してしまい、勝ち組であり続けるためにズルい顔で共闘する「サラリーマンの男・フリーターの男・保育士の女」。そして「勝ち組でいることはそんなに面白いことでもないのかもしれない」と思わせるのが、その社会に属さないがもっとも欲望を享楽していると思える「学生の女」。彼女に対して、「幻の勝ち組、または存在のレア感」の期待値が高まっていく構造とか。
これはそういった「社会」の映画だと思いました。ちなみにもっとエロでもいいかと思ったけど、それは残念ながらそうではなかったなー(まあそれはいいんだけどー)。
比べるのはなんだけど、大根監督「恋の渦」は登場してた9人の男女がすべて等質であるが濃くて、すべてが主役であるけど群像劇だったけど、三浦監督「愛の渦」は群像劇というには人が薄い。これから肌と肌が汗やら体液で密着する予定の人と人の間にある決して縮まらない距離の重さが濃密だったけど、人自体の描き方がどこか物足りない気がしたなあ。あ、柄本時生演じるカップルの男のワケのわからなさは、三浦脚本の面白さがとてもよく出てたシーンだと思いましたが。
http://ai-no-uzu.com/index.html

内藤瑛亮監督「パズル」/109シネマズ名古屋

観終わったばかりの明かりのついた館内でたった一言で感想を言うなら「極悪な映画だったー」であった。そしてこっそりと「面白かった・・・」と付け加えた。
私は普段は怖い映画、痛い映画、残酷な映画は極力観ないことにしている。それでも「パズル」を観たのは内藤瑛亮監督だということと、主演が夏帆ちゃんであること。そして残酷さを予告から十分に感じ取ってはいたもののそこにあった映像は魅力に溢れてたし。
映画の中で、臨月の妊婦に加えられる暴力が、何よりも観ていられないほど不快であり苦しかった。妊婦は誰よりも何よりも護らなければならない、侵すべからざる存在である、と私の、そして多くの人の心の中にインプットされているのがよくわかる。
妊婦の絶対なる聖性。
しかし、妊婦がこのような酷い目に遭うことは現実にあったりするし、そしてその妊婦自身が犯罪に加担することもまたあるのだ。
そんなことを考えながらこの残酷なシーンを観ていた。
映画の中で、パズルの1ピースを少しずつ嵌めこむが如く、何故この残虐なゲームが行われていくのか、本当は誰が残虐であったのかが明らかにされていく。作中に散りばめられた殆どのピースが埋められ、あらかた絵が出来上がったとき、そこに表れた絵はなんだったのかということを知って愕然とした。
主人公の少年が、人を殺したり傷つけたりする理由は、提示されていくのだが、そこに正当性は無い。納得できるものなど、無い。でも考えたら人を殺すための正当性とはなんだ?という話だよね。正当性があれば暴力シーンは、殺戮シーンは、勧善懲悪という名の元にいともたやすく受け入れることが出来るのか?
いや、世界にはただ、狂気があり、抑圧された欲望の噴出があり、暴力がある、ということだけだ。
人が人を殺すということにどんな意味があるのだろうか。「パズル」の主人公の少年にとって人を殺すというのはどんな意味が?世の中の無差別殺人を犯す人にとっては?そんなことについて映画を観ながら出ない答えを必死になって探していた。
圧巻だったのは血まみれ夏帆ちゃんによる体育館での狂ったダンス。抑圧と欲望がこの世界にはあるのだ、もがいて、逃げて、苦しんで、走って、弾けて、そういう世界なのだということを表現してるようで、そこに何より内藤監督の表現したい世界を見たようで、とても素晴らしかったな。
http://www.puzzle-movie.jp/

井口奈己監督「ニシノユキヒコの恋と冒険」

そりゃニシノユキヒコはイケメンだと思いますよ。笑ってる目が魅力的で、かつ不思議な安心感を与えてくれますし。でも私はなんでニシノユキヒコがモテるのかよくわかんない。そして何故彼がフラレるかもわからないし、実際映画の中で「え、ニシノユキヒコは本当にフラレているの?」と思って観ていた。なんて言うの、たとえば囲碁とか将棋なんかで「もう詰んだ」ってわかる人には判ってて、詰んでることに気付いてないのが私みたいなタイプなんかな。本田翼ちゃんの演じてた女の子もそうなのかも。
でも、阿川佐和子さん演じる女の「あなたは他の人とは違うから」なんて言葉に転ぶ気持ちは大変大変よくわかるわー。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」はセックスの映画なのかも、と思って観てました。具体的なそういうシーンはないんだけど、好きになってくと、髪に触りたいだの耳を引っ張りたいだの無闇にくっつきたいだの、つまり女の子にとってセックスってのはそういうことなのね。いちゃいちゃする幸福感。でも、ニシノユキヒコくんにはイチャイチャする幸福感のもうちょっと未来にあってほしい何かがちょっと足りないわねえ、というシビアな女の目線の物語かしら。オフィスでのキスシーンとかね。なかなかやらしい感じだった。やらしさは恋にとって、女にとって、とっても大事なんだよ。それと同時に、やらしい(と、やさしい)があっても、まだ何か足りないんだよ。それっていったい何なんでしょう?優しくてイイ男ってのは、付き合っていくうちに女の中でどんどん勝手にハードル上げられるような気がするの。男が完璧であればあるほど、女自身が自分の心の中に足りなさを生み出していっているように思う。そんでフラれちゃうんじゃないかなあ。
女たちは自ら幸せになるために、ちょっとだけ意地悪さを身に纏うんですよ、と映画のあちこちの明るい優しいシーンから私はそんなことを感じていました。
http://nishinoyukihiko.com/

塩田明彦監督「抱きしめたい」

「抱きしめたい」を観てきました。
劇場で何度でか予告を観た印象としては正直観ようとは思わなかったのです。しかし、好きな映画監督のツイートやシオタニアンである友達の勧めで観に行きましたが、とても良かったのだー。実話ベースの話で、モデルとなった人たちに対する愛情を感じる、とても丁寧な作りの映画でした。
良かった、と思う部分はとても細部に渡った何か。ふわっとしててうまく言葉に出来ない。主人公雅己の父親役の國村隼と猫、とか、赤ちゃんが生まれるシーンの前のひたすら走る女の子のカットとか、トランプをしてるつかさと雅己の母親、とか・・。違うカットに変わったときのさりげないけれど新鮮な驚きを生み出す映像に静かに感動しながら観ていました。
ところで、少し前に「ある精肉店のはなし」を観たためか、「差別」ということについてこの映画を観ながら考えてました。
差別を受ける側には、実はその本人にはそれを受ける正当な理由などないにも関わらず、ある括り方で当たらず触らず遠巻きにしながら差別をされています。自分に何の問題も無いのにただ交通事故に遭い、障害者になる。ただ前科を持つ両親から生まれ、育児を放棄される、などなど。
差別ではなく、それぞれに出来ること・出来ないこと、持ってるもの・持ってないもの、の違う人同士がどうやったら共存していけるのか。共存したほうが、人生楽しいんじゃないか?と映画が終わった後、穏やかに語りかけてくるような作品でした。