おでかけの日は晴れ

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「劇場版PSYCHO-PASS」と「TATSUMI マンガに革命を起こした男」

昨日はまず「劇場版PSYCHO-PASS」。
ちょうど今起こってるISISの人質事件。
人の命に値段が付けられたり、または交換条件にされたりしている。
改めて、命の価、というものについて考えている日々である。
これが映画だと、そこにヒーローが乗り込んできて、周囲を固めるたくさんの敵の手下をババババッと撃ち殺し、その奥に捕らえられてるたった一人の命を救出するんだよね。
守るべき「1つの命」と、その前に殺される「たくさんの命」、その質は一体どう違うっていうのだろう。
数百億ドル、という値段をいきなり付けられた人。
じゃあ誰かが病気で死んだとしたら、その命に対して「これは数百億ドルです。払ってください」と誰に言えばいいのか。
先の人の命と、後者の命。命自体に一体なんの違いがあるというのか。

劇場版PSYCHO-PASS」を観ながらも、どうしてもその考えが頭から離れない。
舞台設定は今から100年後の未来。
平和を模索した結果、食糧を完全自給化した上で日本は鎖国している。人々は都市部にのみ住み、すべての決定は「シビュラシステム」に任されている。シビュラは個人の適正から職業や将来、結婚相手まで選択する。そして個人の「犯罪係数」を逐一チェックする機構を整え、犯罪係数の高い人間を隔離、または処分する権限を持っている。
既に裁判制度はない。善悪もすべてシビュラシステムが決定するのだ。
例えば今日、現実の世界ではまたひとつの事件が起こった。名古屋で女子大生が「人を殺してみたいから」という理由で老女を殺したと言う事件だ。シビュラシステムがあれば彼女は殺人を犯す前に拘束されてたということだ。もう、シビュラがあれば、不幸な犯罪は行われない筈だ・・・。だが・・・。
テレビ版では、シビュラの盲点を突く犯罪を描いて、どのような組織も完全ではないと言うことと、そしてこの正義や平和のシステムはどのようなグロテスクな形で成立しているかを描いていた。
そして、今回の映画版ではそのテーマに引き続き、このシステムを未だ紛争を解決できない国家に持ち込んだとしたら、一体それは誰に対して「正義」をジャッジするのか、という映画でもあった。
そこでもやはり、ひとつの命を守るために無残にもたくさんの命がなぎ倒されていくのだ。

虚淵玄の脚本は、「とりあえず選択された最善の世界」を描いている。そこには問題があろうと、今はまだその方法以外に道が見出せてはいない、という世界だ。私は是非、この「PSYCHO-PASS」という作品上で、この世界のさらに100年後、について描いてほしい。例えばその時、常守朱は脳だけの存在になり、シビュラシステムに取り込まれている世界であって・・・。

この映画から少し時間を置いて、もう1本、「TATSUMI マンガに革命を起こした男」を観た。
この作品は、マンガ家・辰巳ヨシヒロ自叙伝的マンガ作品「劇画漂流」、及び彼の短編作品5話を元にして、シンガポールのエリック・クーが監督したアニメーション映画。
私は辰巳ヨシヒロというマンガ家を全然知らなかった。つげ義春はたくさん読んでるのに。昔も今もいろんなマンガを読んでいるのに。
辰巳ヨシヒロさいとう・たかをとも活動を共にしていたのに。
何故か辰巳ヨシヒロは日本よりも海外での評価の高いマンガ家だそうだ。

さて、私はマンガを読む。小学生の子も喜ぶものから大人のために描かれたマンガまで。大人でも読む、ということは私の世代ではあたり前のことだと思っていた。
しかし、昔は、マンガは子供のもの、だったのだ。
大人が描く、大人をターゲットとした表現のひとつになるためには、新たに「劇画」というジャンルが必要で、そのジャンルを作ったのが辰巳ヨシヒロさんだったそうである。
その昭和史。戦時下に子供時代をすごし、変わり行く思想と街と暮らしの中に生きてきて、マンガを描き、劇画を生み出していくその人生を描いた「劇画漂流」は、昭和戦後史としてとてもリアルで迫るものがあった。そして短編5編は、その時代に生きていくことの困難、そして例えばすぐ隣にいる女の中に見るしたたかさや図太さ、そして更にその女の中にあるやけっぱちと苦悩・・・と、様々なものにクローズアップしていって「生きていくこと」の姿を描いていた。
声は別所哲也がひとり何役も演じてたそうだけど、映画のナレーションは辰巳ヨシヒロさん自身の朴訥とした喋り。その喋りも、この映画の絵や世界観ととても合っていた。

今から70年以上前になる1940年代から1960年代頃を描いた「TATSUMI マンガに革命を起こした男」と、今から100年後の世界を描いている「劇場版PSYCHO-PASS」。なかなかいい二本立ての一日だった。


そういえば辰巳ヨシヒロさんは私の父とほぼ一緒の年である。
私は久しく父親に会っていないのだが、この映画を観たあと、近いうちに父に会いに行こうかと思った。こんなことを思ったのは実は初めてである。父に、戦争の時代を生き抜いた時の話を聞きにいこうかと思っている。

「自由が丘で」ホン・サンス監督

この映画を一緒に観にいった友達は、「明日も観るかも」と言った。
いいね。
きっと観るたびに何かを発見する映画だろうな。
私も見終わったあとで友達と話しながら、ひとつ。またひとつ。とゆっくりした間隔でジグソーパズルの残り少なくなったピースを埋めてる時のような喜びに近い感情を味わっていた。

病気療養のために旅に出ていたクォン。戻ってきたクォンは、1通の手紙を受け取る。封を切り、その中の紙の束を取り出すが、眩暈を起こしたのかふらつき、その時、その紙の束を落としてしまう。クォンに会いに来た日本人、モリからの手紙の束を。
手紙、というかそれは、クォンに会うために韓国にやってきたものの、クォンの居場所がわからず、そのまま韓国に滞在しているモリの日記のようなものだった。但し、日付無しの。
クォンはふらついた際に手紙を落としてしまい、ばらばらになる。それを拾い集めて読むのだが、手紙の時系列がバラバラになってしまっている。そこでクォンは、順列がわからなくなったモリの日々を読むのである。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  

観ている観客には、ここから先のモリがどの時間に居るのかわからないのだが、映画の中で出てくる人、起こった出来事や会話の内容でジグソーパズルで埋めていくように彼の日々を紡いでいく。
モリは吉田健一という明治生まれの翻訳者であり小説家の書いた「時間」という評論を読んでいる。(ちなみに今、加瀬亮のインタビューを読んだところ、この本はホン・サンス監督から何か本を3冊持ってきてほしいといわれて加瀬亮が持ってきた、彼自身の本だったらしい。それが偶然、この映画のテーマと合致して使用されたそうです。)
「時間が流れている」と捉えているのは人間だけだ、みたいなセリフがありました。
時間は「現在」の集合体で、過去とか未来とは人の観念である、というか。
この映画もまさにそういったもので、「手紙(日記?)」が切り取った「現在」は、まさに一枚一枚のまっさらな紙のようなもの。時間を辿るのではなく、思い返すのではなく、過去をまるで今まさにそこで起こっている「現在」のように瑞々しく扱ったのが、この映画ではないかと思っている。
犬を救ってくれて本当にありがとう!と言われたその犬とは、その後のシーンで道に迷っているところをモリに見つけられる。更にその後のシーンでカフェの椅子に座っている犬に会い、犬の名「クミ」を初めて聞かされるのだ。

丸顔の髭の男にどうでもいいことを話しかけられて突然ブチ切れたゲストハウスに滞在してた女の子。この髭の男もゲストハウスの主人かと思いきやあとになって借金を抱えた居候、サンウォンだとわかるし、イライラして全身で怒ってた女の子もその少し前の過去ではとても軽やかな笑顔を見せて歩いている場面がある。
それは本当はモリの手紙には書かれなかったシーンだ、きっと。
モリの日記のような手紙には、滞在してた女の子とゲストハウスの居候サンウォンの突然の口論と、彼女を迎えに来た父親らしき男のことを書いたのかもしれないが、彼の居た時間の中をふと一瞬横切った少女については書かれていないはずだ。
映画は、モリの視点で描かれながらも、モリが見ていないが彼の存在してる時間の中に散らばっている様々な何かを映してる。
ああ。こういう表現!映画って、いいよね! 
この少女のシーンはすごくそんな風に思った。

ところでホン・サンス監督の映画、まだ数本しか観てないのですが、どの映画もこういう酒の飲み方、タバコの吸い方、などなど韓国のデフォ、と割合自然に思ってたのですが、今回、日本人である加瀬亮が演じることによって、日本映画の中の日本人、加瀬亮だったらこんな芝居はしないなと思うシーンが結構あって、改めて「ホン・サンス監督の演出」が可視化できました。あのタバコの吸殻、タバコを吸うタイミング、酔い方、酔ってサンウォンと肩を組むモリ・・・。
あと、会話のシーンが長回しが多いのですけど、全部英語のセリフで長回しであのナチュラルな演技・・・。すごいな、加瀬亮

モリの言動で幾つか、「それは日本人は言わない」と思うシーンがありまして。
例えば「朝ごはんは10時までって言ったよね?もう1時なのに何でその人は食べてるの?」のシーン。サンウォンの存在が明らかになる面白いシーンだけど、このシーンのセリフは日本人なら絶対に言わないでしょー。他にも怒り方や酔っ払って喚くシーンとか、非常に韓国映画の中の韓国人に近い感じがした。しかしこれ、「英語」のせいかもしれない、と途中で思った。他国の言語で一生懸命しゃべっていると、感情の表出の仕方が「日本人」という枠を越えるという経験は私にもよくある。
この映画の登場人物はモリを介することで、母国語ではない「英語」という言語で、とにかく自分の意思をストレートに伝えようとしている。その意味でこの映画はホン・サンス監督のどの映画よりも直接的な思いで満ちているような気がする。

クォンがモリと共に日本へ行き、結婚して子供が出来ました、というシーンのあとに続く、最後のシーンがとてもステキですね。ちなみに私は「このシーンの時間」というピースが置かれる場所を、映画を見たしばらく後になってようやく発見できたのですけどね。
あれは、ヨンソンの「犬を見つけてくれてありがとう!すぐにお礼をする。今よ。今夜!」というシーンのあとに続くんだね。
飲みに行って、ヨンソンはすっかり酔ってしまい、仕方なくモリは彼女を自分が泊まっているゲストハウスに寝かせ、この時間の中のモリと彼女の関係はまだ始まったばかりで、だからモリは外のテーブルで一晩を過ごす。そして朝になる・・・。

クォンに会えないモリはヨンソンと寝て、多分ヨンソンの男と喧嘩をし、しかしクォンに会って彼女を連れて日本へ帰る。その後にはそういう時間が重なっていくのだが、それでも初めてヨンソンと一緒に飲んだ翌朝は、あんなに輝いていた、という、積み重なっていく1つ1つの「現在」の美しさを謳うシーンだったと思う。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・ 

さて、最後に、この映画があの手紙に書かれているすべてだとしたら、それを読んだクォンがさらっとモリを訪ね、そして一緒に日本へ行く、ということが何の逡巡もなく描かれていることに少し戸惑いを感じた。普通ならクォンから「えー?あんた、『自由が丘』のヨンソンと寝たの?!」とか「どうしてそういうことぬけぬけと書いて送るの?!」とか、あの、そういうの、ないの?それとも、書かれていることとこの映画の内容は、違うの?と、これは最後まで残る謎のひとつではないでしょうか。
ただ、ふっとですね、そうか、ホン・サンス監督にとっての人間関係は、「2」ではなく「3以上」がデフォか、と思い至ったのですよ。他の映画もすべてそうですしね。というか、創作上、「3以上」が面白いから、ということではなくて、空間認識が「3人(以上)」なのでは、と。
非常に個人的な話で、人にわかるようにどう伝えたらいいのかわかりませんが、私は20年以上、夫との「2人暮らし」で、仕事も10数年、夫と2人で営業してて、その間に誰かと同居したとか、従業員を雇ったいう経験はないにも関わらず、ものすごく無意識の状態で「3人目」をカウントしてしまう時があるのです。目覚めたばかりでまだ頭の中が真っ白な状態で、私と夫と、もうひとり・・・はどこ行ったかな?とか、とにかく「もうひとり」がいるような気がするのだけど、それが誰のことをさしているのかが自分でもわからないのです。霊的な何かという話ではないし、飼っている猫のことを無意識で擬人化してるわけでもなりません。兄弟とか家族とかでもなく、男か女かもわからないけど、私の中でとても無意識のレベルで、「1つの空間の中に3人」という認識がデフォルトになっているとしか言えないのです。もしかしたらホン・サンス監督もそうなのかなあ、と思ったりして。

オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ(ジム・ジャームッシュ監督)
セブンス・コード(黒沢清監督)
アイム・ソー・エキサイティッド(アルモドバル監督)
毒戦(ジョニー・トー監督)
ヌイグルマーZ(井口昇監督)
スノーピアサー(ポン・ジュノ監督)
もらとりあむタマ子山下敦弘監督)
17歳(フランソワ・オゾン監督)
ある精肉店のはなし(纐纈 あや監督)
抱きしめたいー真実の物語ー(塩田明彦監督)
MIROKU 彌勒(林海象監督)
パズル(内藤瑛亮監督)
愛の渦(三浦大輔監督)
土竜の唄 潜入捜査官REIJI(三池 崇史監督)
子宮に沈める(緒方貴臣監督)
白ゆき姫殺人事件(中村義洋監督)
The Next Generation パトレイバー 第1章(押井守監督)
アデル ブルーは熱い色(アブデラティフ・ケシシュ監督)
クレヨンしんちゃん ガチンコ!ロボとーちゃん(高橋渉監督/
脚本 中島かずき
たまこラブストーリー山田尚子監督)
ライブ(井口昇監督)
チョコレートドーナツ(トラビス・ファイン監督)
大江戸りびんぐでっど(宮藤官九郎 作・演出)
グランド・ブダペストホテル(ウェス・アンダーソン監督)
ヴィオレッタ(エヴァ・イオネスコ監督)
劇場版テレクラキャノンボール2013(カンパニー松尾監督)
野のなななのか大林宣彦監督)
私の男(熊切和嘉監督)
渇き。(中島哲也監督)
罪の手ざわり(ジャ・ジャンクー監督)
ウィズネイルと僕(ブルース・ロビンソン監督)
The Next Generationパトレーバー第3章(押井守監督)
思い出のマーニー(米林宏昌監督)
ホドロフスキーのDUNE(フランク・パヴィッチ監督/アレハンドロ・ホドロフスキー出演)
リアリティのダンス(アレハンドロ・ホドロフスキー監督)
365日のシンプルライフ
The Next Generationパトレイバー第4章(押井守監督)
TOKYO TRIVE(園子温監督)
リヴァイアサン(ヴェレナ・パラヴェル監督・撮影・編集・製作)
ある優しき殺人者の記録(白石晃士監督)
LUCY(リュック・ベッソン監督)
イヴ・サンローラン(ジャリル・レスペール監督)
花火思想(大木萌監督)
MOTHER(楳図かずお監督)
ざくろの色(セルゲイ・パラジャーノフ監督)
ニンフォマニアック Vol1(ラース・フォン・トリアー監督)
郊遊(ツァイ・ミンリャン監督)
殺人ワークショップ(白石晃士監督)
超・暴力人間(白石晃士監督)
楽園追放(水島精二監督/虚淵玄・脚本)
ニンフォマニアック vol2(ラース・フォン・トリアー監督)
紙の月(吉田大八監督)
レッド・ファミリー(イ・ジュヒョン監督/製作総指揮キム・ギドク
西遊記 はじまりのはじまり(チャウ・シンチー監督)
トム・アット・ザ・ファーム(グザヴィエ・ドラン監督・主演)
寄生獣山崎貴監督)
トム・アット・ザ・ファーム(2回目)
メビウスキム・ギドク監督)
インターステラークリストファー・ノーラン監督)
マップ・トゥ・ザ・スターズデヴィッド・クローネンバーグ監督)
童貞。をプロデュース松江哲明監督)
劇場版テレクラキャノンボール2013(2回目)
百円の恋(武正晴監督/安藤サクラ主演)

今年見た映画 63本
邦画 34本
洋画 28本

ベストなんとかってあまり性に合わないけど、それでも選んでみました。

邦画ベスト3(順不同)
ある優しき殺人者の記録
セブンス・コード
野のなななのか
ヌイグルマーZ
 あれ?3つになんない・・・。もうこれ以上は落とせません。

洋画ベスト3(順不同)
オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ
ホドロフスキーのDUNE+リアリティのダン
トム・アット・ザ・ファーム

「トム・アット・ザ・ファーム」

この間から、ネットで「トム・アット・ザ・ファーム」という文字を見るだけで心が跳ね上がるのを感じる。ドキドキする。
え、ちょっと待って。なんだ、これは。
恋か? 一体、何に?
トムに、ではなく、グザヴィエ・ドランに、でもなく、何、とかわからないのだけど、この、知りたい・なんだかわからないものを探したいというどこか狂おしい思い。私はそれを「恋」なのだと思っている。

「トム・アット・ザ・ファーム」を観にいった。
恋人、ギョームを失い、悲しみ方さえ喪失したトムの心情を埋めるかのような、古い、きっと誰もが耳にしたことのある、冒頭で使われるミシェル・ルグランの「風のささやき」。
それにのって流れる空撮による田園風景。長い一本の道。
誰もいない家の怖さ。
葬儀のあと、何故あの家に戻る、トム。
暴力を振るう男との官能的なタンゴ。
そして、そして・・・。
最後、やっと戻った街の風景がなんだかすごく懐かしくて、開放されたような気持ちになりつつも、それでも映画が終わったあとに一体私はなにを、どう決着させていいのだ?という気持ちになった。
最後の最後に残った疑問が、エンドロールが終わっても自分の中で答えを探し出せず、どう処理していいかわからなかったのだ。

トムがあの家から逃げることを決めたきっかけはなんだったのか。
アガットはどこへ行ったのか。
フランシスはどこに行ったのか。
目が覚めたトムは何故、隣の空のベッドを見つめていたのか。
どうしてスーツケースを捨てたのか。
最後のフランシスのジャケットの「USA」の文字、そしてエンディングの曲に出てくる「アメリカにはもううんざりだ」という曲は何を表しているのか?


映画を観た数日後。
目覚める前の浅い夢の中で、「私」が現れて、私に問うた。
「『トム・アット・ザ・ファーム』、どうしてもっと深読みをしてみないの?どうして観てるだけなの?」と。
「私」にそう言われて私ははっとした。
そうだ例えばあのタンゴを踊るシーン。フランシスの荒っぽいイニシアチブに任せて踊る、口を半開きにしたトムの顔がなんて色っぽいんだろうって思ったのだけど、つまり、何故あんな表情か、ってことだよね?
「そうそう」と煽る「私」。
つまり、あれは勃起している、だからあんな表情だ、と考えていいよね。そして踊っているフランシスにそれが全く気付かれないというわけはない。フランシスは最初、ホモフォビアのように見えるが、トムが勃起していることを許しているということは実は彼も勃起していると考えてもいいかな。つまり、あの時点で彼らにはお互いへの欲情があったということではないか?

その後、ずっとこの映画のことが頭を占め続けて。
トムがそれまで生活していた場所へ帰還したと感じたラストシーンも、知人は「いや、あれは、最初にあの農場へ引き返したカットと同じだからつまり、再びあの農場へ、フランシスの元へ戻ったのだと思う」と言い、さらに私は揺らいだ。映画は明確な答えなど提示してないが、それでも答えは映画の中にしか探しだせない。もう一度、私もあの場所へ戻ろう、と翌週、もう一度この映画を観にいった。

そして私なりに彼らを推理してみる。

冒頭の青いインクの文字。
恋人を失ったトムは、そこで最後に書き綴っている。
「代わりを見つけるしかない。」
代わりとは、新たな恋人を指すかもしれないが、彼を支配する新たな感情、とも取れる。
そこで彼は、恋人の面影を宿す恋人の母親と兄に、しかも暴力と命令でもって服従しようとする兄、フランシスに彼の精神を委ねてしまう。

トウモロコシ畑でフランシスに殴られるトム。
映画の画面が、その上下が、ゆっくりと狭くなっていって端の黒が画面を狭くしていく。恐怖でトムの視野が狭窄していくかのようだ。大写しになってたトムを殴るフランシスの上半身も、黒の中に少しずつ消えていく。
外で二人で酒を飲み、そしてまるで激しい抱擁を交わす代わりに、熱いキスを重ねて舌を絡ませる代わりに、フランシスによって首を絞められるトムの、あの官能的なシーン。そこでも画面の上下が急に狭くなっていき、まるで気を失う寸前のトムの視界のようだ。
最後、トムを追うフランシスのシーンでも、その恐怖でまるで心がぎゅっと強張っていくのに連動するように、画面がするすると上下が狭くなっていった。そして音だけの車のエンジン音。トムがこっそり逃げ出して車を奪ったということがわかるその瞬間に画面のアスペクト比が元に戻っていた。
トムはあの家にいる間、ずっと何もかもをも見ず、まるで薄目だけで世界を見るようにして、心を狭く閉ざしながら、あの場所に自分を馴染ませていたように思える。

トムとフランシスの関係はどう変化していったのか。
アガットは、息子ギョームが家を出て行ったあともずっとギョームのベッドと整え続けた。そして客であるトムに、そのギョームのベッドを使わせる。しかもその部屋は、片側にギョームのベッド、そして片側にはフランシスのベッド。この家の中でアガットはいつまでも「母親」という支配者であり、トムに対してもフランシスに対しても、大人に対する対応とは思えない。
しかしアガットに逆らうことなく、二人はその部屋で寝起きし、共に農場の仕事をする。
ところが最後、町の人がフランシスを恐れる理由、彼が孤立している理由をトムはバーで知ることになる。
その理由が、彼が翌日家を出ることになったきっかけになったのだろうか。
いや、彼は、その話を聞いてもフランシスを恐れなかったのではないか。
ギョームの名誉を守るために暴行を働いたフランシスに対して、少しばかりのの共感がそこに生まれたのではないか。彼は静かに行くバスを眺めている。そしてそこに乗ったサラを、きっとフランシスの車の中である程度の性的な何かを行ったサラを冷ややかに眺めている。そして彼はそのバスに乗ろうとはしていない。
朝、一人目覚めるトム。隣の、空のベッドに目をやっている。
このシーンで、これまで部屋の両端に離れていた彼らのベッドが、くっつけられていることに気付いた。しかもトムが目覚めたベッドはこれまでフランシスの寝ていたほうのベッドだ。くっついているもうひとつのベッドは空である。(それはフランシスが今ここにいない、ということだけでなく、再び空になったギョームのベッド、という印象をじわじわと漂わせている)
ギョームとフランシスに関する過去の話を聞いた帰り、トムはフランシスの車に戻り、部屋に戻り、そして彼らは性交したな、と私は思う。
ベッドから降りたトムの足元に箱がある。それはその前の日の夜、アガットが持ってきた箱だ。中にはギョームの過去の手紙や手記が入っている。アガットはそれを読んでいないと言う。アガットはそれをサラ(ギョームがアガットを偽るために、いやフランシスがギョームにアガットを偽るようにと命じて作ったいつわりの彼女)に読めと迫った。ギョームの恋人なら読みたいはずだと。
一体、その箱が、今、トムのベッドの足元にあるのは何故だ。誰が持ってきたのだ。もちろんこれはアガットだろう。そのアガットは、フランシスとトムのベッドがくっつけられているのを見たはずだ。もしかしたら性交したあとの抱き合って眠る彼らを見ているのかもしれない。さらに、読んでいないと言っていたあの箱の中身、ギョームの手記を、アガットは既に読んでいたのかもしれない。
目覚めたトムはリビングに行き、アガットがいないことに気付く。彼はアガットの名を呼んであちこちを探す。家の中にも、農場にも、どこにもいない。
そこで急に彼は、この家から出て行こうとするのだ。理由はフランシスの過去の暴行ではない。アガットがすべてを知っていると気付いたからではないか。そしてアガットは、彼女も偽りと思い込みで塗りこめられたこの場所に幽閉されていることに耐えられなくなって家を出たのではないだろうか。
そのアガットを思い、そこで初めてトムも、自分の今居るこの環境がとても歪んでいて閉塞的な場所だということに気付いたのではないだろうか。

フランシスの車を奪い、かつてトムが住んでいた都会の街に戻る。
そして信号で止まり、信号が青に変わる。
彼は・・・・再びハンドルを切ってあの農場がある場所へ戻るのか。それとも元居た場所に帰るのか。
1回目は帰ると思って観たのだが、2回目に観たときは、帰るとか戻るとかではなく、そのどちらにも行き場がない、というエンディングではないかと思った。フランシスの一方的な感情と暴力に支配されてずっと生活をすることはできない。しかしこれまでの場所にギョームはもういなくて、自分が空っぽなことには変わりがない。今のトムにとって、信号は青を示していても、どこにも行く先などないのだ、今は。という終わり方なのだと思った。

紙の月

映画クライマックス。宮沢りえ演じる梅澤さんが銀行の会議室のような部屋の窓ガラスを椅子でバリンーー!!と割った瞬間。私は反射のように涙がつつーっと出てきて、そこから先はもうずっと、涙が止まらなかった。
梅澤さんは窓から飛び降りるのか。その先は死なのか。それとも逃亡? 小林聡美演じる隅さんが梅澤さんの腕を取り、そこから先に彼女が進もうとするのを止めようとする。それに対し、梅澤さんは言う。
「隅さんも、行きますか?」と。
銀行という職場に長年勤め上げ、その場所で自分に対しても社会に対してももっとも正しくあろうと生きてきた隅さんに「あなたも行く?」と聞くセリフが恐ろしい。そして隅さんのような人でさえ、問われて一瞬スキが出来るところに何故かまた泣けた。

私は、何を泣いてるのだろう。

ニンフォマニアック vol.2」の、不感症になり快感を失っているのに、それでも性交を求め、そして更なる刺激を求めて真夜中に幼い子供を家に残し、男に鞭打たれるために家を出るジョー
「紙の月」で稼いだ金を・貢がせた金を・財産として持っている金を・横領した金を、どんどん使いモノを買っていく女達。
2つの映画の中、欲望を前にして走る彼女たちの姿が重なるのだ。
そして私も欲望のために夜を駆けたことはなかったか?
中学生の頃とか。大学生の頃とか。20代、30代・・・・、あったよ!
そして、それがどんなに愚かしいことでも、そこに今も昔も後悔なんてないよ!
後悔はないが、そのような愚かしさが仕方なくも悲しい。

「綺麗ですねえ、ニセモノなのに」。
梅澤さんは、痴呆が入ってきたらしい一人暮らしの財産家の女性のお金を横領している。老いた女性の浪費も加速している。
梅澤さんは笑顔と優しい言葉で女性に接しているが、彼女の首にかかる安物の水晶のネックレスを見て、小さな悪意の言葉を投げかけるのだ。
しかし、そこだけ正気に戻ったかのようにはっきりとした口調で老いた女性が言う。
「いいじゃない、ニセモノでも。綺麗なんだから」と。
梅澤さんは年下の恋人と初めて夜を明かしたその喜びも、どこか「でもこれはニセモノの美しさだから」と思っていたと言う。
ニセモノって何だろう。ていうか本物ってなんなの?本物は本当に幸せにしてくれるの?ニセモノの幸せがあるなら本物の幸せって?

梅澤さんは、その答えを出せたのだろうか。

窓を割り、そこから外に走りだした梅澤さんは、本当はどこに行くのが自分の居場所だと思っていたんだろう。本当は、刑務所に入ることが自分の居場所だと思ったのではないか。でも、走っているうちに、どうしても自分の罪が納得できなくなったんだと思う。
どこかに動かないままあり、無駄に浪費されるお金を私が私の幸せのために使って何故いけないの?と。
銀行という組織は他人のお金を集めてそれを他に回して動かしているけど、それを私が私個人のためにしてどうしていけないの?
銀行は不正を行っているのに、私が私の幸せのためにそれをやって何がいけないの?
それが罪だというルールはわかっていても、でも、本当にどうしていけないの?という納得のいかなさ。

そうか、法とは、罪とは、所有に関するルールなんだ。
個々の所有を侵すことで争いが生まれるから、人類は長い年月をかけて争いをなるべくなくすため、またはそれを解決するために法を定めてきた。
それなら、梅澤さんが夫を裏切り、平林さんの孫と付き合い、彼に貢いでいくことが罪とされるのは、梅澤梨花は梅澤さんの夫の所有物であるからか。どうして家族は、お互いの所有物だってことにならねばならないのか。

梅澤さんも、そしてこの映画を見てる私も、そしてこの映画を見てる多くの誰かも、本質的にその何が間違っているのか、どうしたらいいのか、いろいろと納得がいってない。だからもう、走るしかないのだ、あらかじめ定められた居場所ではない方角へ。

ニンフォマニアック

平日にも拘らず満席の客席で観たvol.1。
面白かったわー。と迷った挙句に結局それを観た当日のツイッターではそう書くしかなかったが、とても簡単にそう言い切れない感情が渦巻いていた。手放しで面白いーとか好き好きーとか言えないのは、映画の端々にこちらに向けて「悪意」という感情が顔を覗かせているように思えたからだった。勿論それすらも面白いのだけれど。
シャルロット・ゲンズブール演じるジョーの話に挿入されるセリグマンの思索的な対話。その構成はとても面白い。
それにしても「ミセスH」という女性の設定、また「せん妄」の章におけるハンサムで知的で冷静でジョーの理解者だった父親の、死の間際の醜い狂い方のその見せ方、そこにラース・フォン・トリアー監督が人に持つ最終的な不信、または奥底に澱む悪意、そういったものを感じたのだ。静寂の上から突然激しくたたきつけるような音楽の入れ方にも、私はそれを監督の挑戦的な悪意だと感じたのだ。
それでもvol.1を観終わったあとの私は、観たい観たい、すぐさまこの続きを!と渇望していた。

そして約1ヵ月後。
その日の朝見た夢は、知人のハンドバッグの中を覗き込むと、そこに剥き出しの1本の煙草が見えた。私はそれを躊躇も無く勝手に取って吸おうとして、ハッと気づいて煙草を元に戻した。他人の鞄から勝手に取り出した後ろめたさの他に、私はタバコをやめたのに今吸いたいと思っていて、しかし一度吸ったらまた喫煙習慣が戻るのではと怯えている、そんな夢だった。どうしよう、私はまた1日中、煙草を吸いたい吸いたいと思う生活に戻るのだろうか。それをやめるための苦労を再びせねばならないのか。
そんな夢を見た午後、「ニンフォマニアック vol.2」を観にいった。
vol.2は1に比べると上映2週目にして観客の少なさにまずは驚いた。
1と同様に、「ニンフォマニアック」は映画の中のジョーが語る彼女の話が勿論中心だけど、幼い頃からの性への好奇心や自身の子供に対する後ろめたさなどの様々な感情が女性だからという点で更に抑圧されてないかと問うセリグマンのアプローチや、小児性愛欲求を持った男に対して嫌悪を示すセリグマンに対して、欲望を完全に抑えて生活する小児性愛者の孤独に共感するジョーの言葉とか、そういった本編に絡まる糸のような様々な会話が面白い。
そして、子供時代から語っていったジョーの話が進み、気がつくと映画冒頭の、セリグマンに助けられる前の、彼女が暴行を受け道に倒れていたあの少し前の時間まで時間は進んでいるのだ。ずっと、とても過去のことだと思って追っていたジョーのストーリーが、突然自分の背中の真後ろにピタリと張り付いたかのようなゾクゾクする驚き。
そして、最後の最後、セリグマンの変容は理性・知性・公正さ・信仰心・寛容・優しさ・・・などを持とうとし、そのように生きてきた人でさえ、何かの欲望の前では簡単に醜悪な存在に変われるのだということをトリアー監督は私たちの前に突きつける!
どこか打ちのめされたような気分だった。

楽園追放

虚淵玄脚本なので観にいった「楽園追放」。虚淵作品である「サイコパス」は、人類が考えて考え抜いて、人と人が傷つけあわず平和な生活を維持するためにこれが最善であると導いた結果作られたシビュラシステムに統治された世界が舞台だ。そしてそこに綻びがあろうとも現在のところではそれに変わる代替案が見つからない、という設定なのが面白い。肉体を捨て電脳だけになった世界の「楽園追放」もまた。肉体を持って地上に住めなくなった人類が自らの肉体を捨て、電脳となって電脳世界「ディーヴァ」で暮らしている。統治されていることに仮に疑問を持ったとしても、それ以外の選択肢は無いに等しい。
そのような設定で、改めて考える。
肉体とは?
意思とは脳であり、脳だけがあればいいのか、どうか。
平和とは完全なる統治の下にしか訪れないものなのか、どうか。

「楽園追放」「ニンフォマニアック」「紙の月」

虚淵玄脚本「楽園追放」とラース・フォン・トリアー監督「ニンフォマニアック vol.2」を続けてみて、翌日に吉田大八監督「紙の月」を観ました。私は何本もいっぺんに観るのは好きではないけど、この3本の映画の中にある「肉体性・依存・欲望・孤独」というものが頭の中で絡まってそれぞれの感想に干渉しあってます。これはこれで、いいな。

「花火思想」

ちょっとした縁が生まれて、それでこの映画を観にいくことにした。
縁とは、シネマテークの永吉さんが「花火思想」の監督、大木萌さんと一緒にうちに来て下さったことから始まった。
その時、本当にちょうどその時、大須のシアターカフェの江尻さんが「ブックマークナゴヤ」のペーパーをうちに持ってきてくれた、というのもまさにこの縁の「序章」にふさわしい。
翌日、今度はお一人でごはんを食べに来てくださった大木監督。
聞くと、今日は映画の宣伝のために名古屋のいろんな店を回るとのことだった。ここに行こうという当てはあるのですかと聞くと、特にないとおっしゃる。だったらこれをどうぞと渡したのが、前日いただいたブックマークナゴヤのペーパー。ちょうどそこにはそのイベントに参加する店がずらりと表記されていて、どのお店も個性的で情報の発信力があって、何より素敵な店ばかりなのだ。大木さんはそれを見て「宝の地図だ!」とおっしゃってくださった。そして、モノコトさん、シアターカフェさん、シプカさん、ちくさ正文館さん、リチルさんなどを回られたそうで、そして名古屋滞在がとても楽しいものになったと聞いて私もすごく嬉しかったのだ。
そして、「花火思想」上映初日、またマタハリに来て下さった大木監督。するとまったく偶然に、「花火思想」を大阪から観にいらっしゃった監督の知人の方がうちに来てくださって、うちで奇跡のような出会い方をしていた。
うちの店が、そういう素敵な偶然が重なる場になった、ということがとにかく私にとっても嬉しい。ああこれは吉兆だな、と思った。そして私も観にいこう、この映画、と思ったのだ。


「花火思想」を観ながら、私は「才能」という言葉を取り巻く私の過去の感情を思い出していた。
「才能」について、誰しもが自分に備わる才能について考えたり、いや苦しんだりするのだろうか。
私は・・・20代から30代の頃の私は、そう私でさえも、「才能」というものについて考え、そして苦しんだな。
学生の頃の音楽をやっていた私が、その後の演劇の世界で役者としての自分が、そして芝居の台本を書きながら物を書く私が、その「私」の中にある才能はいかほどなものか、その才能はどこまで世界と対峙できるのか、できていないのか。思い込みと自信と劣等感と嫉妬と快感と絶望と、そういう感情がーーー私の場合荒波でもなく、ちゃぷちゃぷ波立つぐらいの中で生きていた。
「花火思想」の主人公の青年、そしてかつての彼のバンド仲間を見ながら、私の中にあったそんな思いを思い出していた。
そして、この映画を観ている今の私は、あの頃と「才能」に関する感じ方がすごく変わったなあと思っている。
あの頃、生きる意味というものは、自らが何かしら持っている才能を発揮して、またはそれを育て・伸ばし、そして世界と対峙することだと、そのように感じていた。
今は、ちょっと違うなあ。才能=生きる意味、では決してないと思ってる。
例えば「花火思想」の主人公は、自分がやりたいと思っていた音楽をやっていない現在は、多分生きているという実感をなくしているのだろう。生きる意味が見出せないまま、どうでもいいと思いながらどうしようもないコンビニ店主の元で働いている。このコンビニ店主も何の才能もなく、生きている意味のなさそうな男、として登場している。
でも、本当にそうか?
このコンビニ店主を「生きている意味がない」と断罪していいのか。こんなコンビニでも拠り所にする近隣の客がきっといて、潰れたらそれはそれで困るときっと思われている(別に描かれてないけど)。こんなどうしようもないコンビニ店主でも、それでも彼が存在して世界の小さなピースになっているのだ。
主人公が最後に詰め寄っていくホームレスの男。ホラばかり吹いて、そして人に殴られても殴られるままでいる男。そんな男でも、やはり世界を構成する小さな小さなピースのひとつなのだ。それらが無くなっても世界は崩壊はしなくても、それでもただ、そこに居るというだけで、その集合体で、世界は形作られている。
才能がなくては生きていく意味もない、と思い込んでる主人公と、その対称にあるホームレスたち、またはコンビニ店主。
「生きる」ということに対する考え方は、年を経ていくごとに変わっていくのだ、きっと。映画の中の彼らと自分の中にある変化と、それらを見つめながらこの映画を観ていた。

「365日のシンプルライフ」


最近、ある友人の収納に関する日記を読みつつ、まだ幼いコドモちゃんを抱えつつも快適な生活を常に追及しながら家の収納に取り組む彼女をすごいなあと思いつつ、私もなんとかしたいなあという気持ちが湧き上がってくる今日この頃、武田が急に「スコーレで『365日のシンプルライフ』を観ない?」と言ってきた。まったくチェックしてなかった映画だけどなんだか面白そう。それを観てきました。
ペトリくんという、フィンランド国営放送でドキュメンタリーなどのカメラマンの仕事をしている青年。彼が1年間の実験を通して自分の人生を見つめなおしたドキュメンタリーです。
釣りやレコード鑑賞などの趣味を持つ独身のペトリくんの独り暮らしの家は物で溢れています。そして彼は自分が幸せではないと感じています。好きで買ったものばかりなのに。彼は一大決心をして、すべてのものを全部、近くの倉庫に預けました。服も、クレジットカードも、歯ブラシからすべての家具にいたるまで。
もう、彼の部屋には何一つありません。そして彼は裸です。ここから、彼の実験がスタートします。
ペトリくんの実験は1年間。
その間、彼は1日に1つだけ、倉庫から物を持ち出すことにしました。
そして1年間、食料品以外の「物」を買うことを一切禁じました。
さて、雪の積もる寒いフィンランドのある街で、彼は人の寝静まった真夜中、真っ裸で家を飛び出し、倉庫へ走ります。最初に持ってくるものは一体何か。そしてその翌日は何を持ってくるのか。一体、幸福に生きていくうえで、何が必要なのか。
そういう映画です。

ペトリくんは何日か後にベッドのマットレスのみ持ってきます。それまで何も無い部屋で1枚のコートにくるまって床で寝ていた彼は、数日経ってやっとマットレスを生活の中に戻したのです。そこで彼はそれまで感じたことのなかった幸福感を覚えたと言います。そうですよね、私たちは、必要最低限のものは最初からすべて揃っていたのですから。ベッドに眠るなんてこれまで当たり前のことにおもっていたのですから。ペトリくんのおばあちゃんが言います。「戦争が終わったあとは、なんにも持っていなかったのよ」と。これは日本から遠いフィンランドの話ですが、そうですよね、「世界大戦」だったのですもの。日本だけでなく、近隣諸国だけでなく、戦争に負けた国も勝った国も、そしてこの美しいフィンランドも、あの第二次世界大戦のあと人々は多くのものを失なったのです。そして時間をかけて1つ1つ、物を得ていったのですよね。何もない状態から得る最初のひとつひとつは本当に幸せに結びついていったのだなあと改めて思いました。ペトリくんも今、初めてその感覚を体験しているようでした。

そういえば私は22歳の時に家を出ました。持って出たのは友達の乗用車に1台分、積むことの出来るものでした。あの時私が持って出たのは、セレクトしたマンガ、本、雑誌、わずかばかりの服、布団、そして何故か鏡台。これだけだったと思います。一人暮らしを始めた最初のうち、アパートの中には何もなかったなあ。何年かかけて、殆どは貰ったり拾ったりしたものでしたが、物が増えていくことが嬉しかったけど、あの頃もっとも自分を幸福にしたのは、会社の人がくれたテレビとか、知人がくれた電話とか、そういうものではなく、拾ってきた黒猫でした。

さて、昨日「365日のシンプルライフ」を観て、私にとっての快適空間を目指すために今日は机の上をお片づけ。自分の机の上、たったそんだけなのに、かかった時間は4時間ぐらい?大事なものも要るかもしれないとおもってたものも、みーんな等しく机の上に積みあがっていたものを、多少は捨てて、あとは全部見えやすく吊り下げたり、あまり機能を果たしてなかった小物を入れる引き出しには全部入れたものの名前を明記し、これからは積み上げていかない机を目指すことにしました。

ヴィオレッタ

母親の「あなたを愛してるのよ!」と叫ぶ声に振り向かず、ヴィオレッタは森の中にまっすぐ走っていく。このエンディングとバックに流れる音楽に、エンドロールが終わってもまだ涙が止まらなかった。映画館を出て少し歩いた道端で、「映画の最後のシーンでやっと彼女は逃げることを選べたんだ」と思ったらまた泣けた。


受けた傷を癒すために、人はどのような過程を取っていくのだろう。

自分の周囲の現状すべてに恐怖する。
傷を負った自分を嫌悪する。
理解してくれない周囲を憎む。
傷つけた相手を憎む。
他の何かに依存する。
自分に起きたことを客観視してみる。
相手を赦す。
・・・・・・・・・・・・・・。
こんな感じだろうか。そして「ヴィオレッタ」を撮ったエヴァ・イオネスコは今、どのあたりにいるのだろう。



私が「ヴィオレッタ」を観る前に知っていたのは、これがエヴァ・イオネスコの自伝的映画であること、エヴァ・イオネスコは12歳ぐらいの頃に「思春の森」に出演し、裸体を晒し、セックスシーンを演じていたということだ。
思春の森」は、思春期が訪れたばかりの10代半ばの少年少女の愛と性を描いた1977年のイタリア映画。
毎年、休暇を別荘で過ごす少年と少女は親に秘密で森で遊ぶ。多分、それまで子供のように遊んでいたのだが思春期を迎えた少年にこれまでにない変化が訪れている。そして彼らは森である美少女に出会うのだ。
映画の中には非常に露わなセックスシーンが出てくる。エヴァ・イオネスコは未発達の裸体で、やはり裸の少年の上に跨り、快感を演じていたと記憶している。多分、エヴァ自身は性体験がなく、しかしそのシーンをたくさんの大人の前で演じ、更に世界中の人間がそのフィルムを観るのだ。その時、エヴァの母親、幼く美しいエヴァを妖艶に撮っていた写真家であるイリナ・イオネスコは、その出演に際してどのような立場を取っていたのだろうと私は思っていた。金のために娘を売ったのか。美しい娘を実は憎んでいたのか。
そのエヴァ・イオネスコが撮った「ヴィオレッタ」には、映画「思春の森」については一切触れていない。ヴィオレッタという少女と、彼女を被写体として写真を撮っていた母、アンナと彼女の作品についてのみ描いている。
ヴィオレッタ」を観て意外だったのは、この作品は母親を決して糾弾してはいないということだった。
ヴィオレッタの母親アンナは自分の名声や冨のためではなく、ただ自身の芸術的表現欲求のためにヴィオレッタを撮っている。そしてアンナはヴィオレッタ以上に性的に傷ついていて、しかも写真家として生きることでその過去を乗り越えているようにも見える。アンナを一人の女の生き方として決して否定はしていない。ただ、そのアンナの元で被写体となった娘ヴィオレッタは、幼い彼女の社会生活を、少女から大人へと徐々に形成されるべきものを壊されていった。
ヴィオレッタ」を撮ったエヴァは、母、イリナ・イオネスコを許していたのだろうか。女として理解できても母親としてはどうだったのか。この映画でこんなにアンナを肯定的に描いてよかったのだろうか。肯定的、というと首をひねる人もいるだろう。でも少なくとも私にはそう思えたのだ。親から虐待を受けた子供は、それでも親をどこか守ろうとする。私にはこの映画の端々からそういう姿を感じていて、どこか痛ましい思いがしていたのだ。
しかし、映画の最後になって、やっと、母親の求める彼女の髪形や衣装を脱ぎ捨て、背中を見せて逃げていくヴィオレッタの姿に、ああやっと!ヴィオレッタは、そしてエヴァは、まっすぐに逃げることを選んだんだ!と思ったら、私は泣けて泣けて仕方がなかった。

ところで「美しすぎる娘は、母親を狂わせた」というキャッチコピーに、どうしても違和感を感じるなあ・・・。

「チョコレートドーナツ」は甘い物語ではなかった。

人生の中にほんの僅かにあった甘い過去、それをずっと希求し続けた、そんな物語だった。
1979年のカリフォルニア。クラブでドラァグ・クイーンとしてショー・ダンサーを務めるルディと、弁護士のポール。ルディの隣人で、爆音で部屋からT.REXを流し続ける麻薬中毒者の女の子供でありダウン症のマルコ。
マルコは麻薬保持で捕まった母親に置き去りにされる。公的機関が彼を専門の施設に保護しようとするが、ルディとポールが引き取り、マルコをダウン症の子供専門の学校に通わせ、そして家族としてマルコを育てた1年間。しかしその間にルディとポールがマルコを引き取るために「いとこ同士」と偽ったことが発覚、そして二人がゲイだと判明するとマルコは再び彼らから取り上げられ、ルディらはマルコを正式に家族として迎えられるよう裁判を行う。
1980年代初頭のアメリカは、麻薬中毒者の息子でダウン症患者である少年を公的機関で保護するという仕組みはちゃんと存在している(それがルディたちには、マルコにとって好ましいとは思えない場所であるとしても)。
裁判も、ちゃんと行われる。
そして1980年初頭のアメリカでは、まだゲイだというだけで解雇される。
裁判の審査は公正を期されたと思う(ルディや私たち観客はそうとは思えなくても、審議は尽くされたのだ)。そして裁判官の判決は、「ルディとポールがマルコに与えた愛情と教育については大きく認める。しかし彼らが自らの同性愛傾向をオープンにする限り、その悪影響をマルコに与えないとも限らない」という理由だった。つまりここでも「同性愛者は悪影響を及ぼす」のだと差別している。
一体、何故差別されるのだろう、とか、母親が麻薬常習者でしかもダウン症の子供はどのように生きていけばいいのだろうとか、じりじりするような絶望がいっぱい。だからこそ、ルディが歌う「Come to Me」や「I Shall Be Released」が、とにかく胸を打つ。なんでかもうルディの歌が、このシーンだからとかこういう歌詞だからとか、そういうのを飛び越えて理由もなく涙が出てくる。
現時点での絶望、しかしそれでも持ち続ける未来への希望が歌を生む。
15歳だったマルコの人生の殆どは孤独と苦痛に満ちていたのかもしれないが、きっとかつてあった母親の愛情、チョコレートドーナツの記憶、そしてやっとルディたちに保護されて得た、安全で愛情に満ちた1年間。その甘い記憶が、再び孤独の中に閉ざされようともマルコの希望を消さなかった、筈だ。

・・・・・

ところで、この映画の公式サイトを見てみると、「ゲイもダウン症も関係なく、魂のレベルで求め合う愛」という言葉が出てきて、私はいつもこういう言葉に違和感を感じる。
映画を見てて
「何故ルディはダウン症の少年を家族として受け入れたいと思ったのか。たまたま置き去りにされた隣人の子が彼だったからか。
引き取った少年よりも年を取っている自分が先に死んだら、または自分自身が経済的に破綻したら、ダウン症の子供はその後どう生きていくのか、責任が取れるのか。
または、目の前に現れた愛情を必要とする子供すべてに彼は手を差し伸べるのか?どうか?」という問いが私の中でずっとあった。
ルディはどうなの?と思いながら、じゃあ私はどうなの?と。苦い問いだ。もし目の前に手をさしのべることをしなければ命に関わるナニカを見つけたとき、そのすべてに自分は関わるのか。苦い問いであり、YESでもNOでも苦い答えになると思う。そんな苦さをずっと映画の中に感じていたのだが、見終わってしばらくしてあっと思ったのだ。
確かにルディは愛情深い男だが、彼もまたマルコの存在を必要としたのだ。ダウン症のマルコを。この時代において、マルコだけが今も、そしてこの先も、ルディとポールを同性愛者だいうことで差別しない存在なのだ。「見返りを求めない愛」なんて言葉があったけど、そうじゃなく、ルディとポールが注ぐ愛情を、マルコもまた信頼と愛情で返すことの出来る唯一の存在だったのだ。
様々な絶望の裏に小さく感じるずっと先の希望。この映画に感じたのはそれでした。

ヒカシュー

昨日はやっとライブ日程と私の休日が合致して、実に久しぶりにヒカシューのライブに行ってきました。
私の中で感じる「変わんないこと」と「変わったこと」が同時に目の前にあって、それを堪能しました。
ヒカシューの演奏は即興性に満ちていて、全員の個性が強烈であるところは「テクノバンド」として登場したいっちばん最初の頃はそんな風には感じなかったけど、割と早いうちから「おかしいぞ、このバンドは。ライブごとに元の楽曲をどんどん越えて変化し続けるバンドじゃないか」と驚いたのがもう20数年前。
あの頃と巻上さんと三田さんの顔はそんなに変わってなくも見える。
坂出さんは見た目は変わったなあと思いつつ、むっちゃくちゃ笑顔でベース弾いてる、あの顔から受ける印象は変わんないなあ。
あの頃いた井上誠さんや谷口さんや山下さんは清水一登さんになり佐藤正治さんになり、野本さんもお亡くなりになって、それは変わったところ。
巻上さんがジャンプするといつも頭が天井すれすれな感じになったあのELLではなく、今は得三で聞かせてもらってるし、巻上さんはもうあんな風にジャンプをしない。ジャンプをしても得三の天井は頭をぶつけそうになるほど低くはない。
20数年前と同じように、客席の隅の一番前にジル豆田さんがいらっしゃる。あの頃は王者舘の人たちも来てたっけなあ。昔も私は一番前ではなく、真ん中よりは少し前の席に座っている。
昔、ヒカシューのライブにはよく一緒に行ってた小学生の頃からの友達は、ここにいないなあ。代わりに40代から知り合った私の友達が横にいて、私がはじめてヒカシューに行ったのが「パパイヤパラノイアヒカシュー」と対バンになってたライブですが、その友達もそこにいたそうです。
ライブで、何が始まるのか、わくわくするのは変わんない。
思わずニヤニヤしながらとっても楽しんだことも変わんない。
ヒカシューのライブに行くと、いつも20代の頃の私と今現在の私が交差するんです。

たまこラブストーリー


GW7連勤後のたった1日の大事なお休み、朝からさっさと洗濯をし庭の草むしりをし掃除をし髪を染め、そして映画を観にお出かけしました。
観にいく映画は「たまこ ラブストーリー」。
うさぎ山商店街のもち屋の娘、たまこと彼女の友人たち、そして彼女を取り巻く商店街の人たちを描いた深夜アニメ「たまこマーケット」のその後のお話です。
そうだ、この映画を観るならばと、GWで賑わう名古屋駅、そして地下街ユニモールを抜け、まずは円頓寺商店街に。ああ、しかしGWで多くの店が休みダヨー。でも、目的としてた「お餅」「ひなびた喫茶店」「お肉屋さんのコロッケ」はあったあった!この日の私が求めているものは「和カフェ」のたか〜い和のデザートに非ズ!タバコの匂いのする古くからの喫茶店で、抹茶とおはぎのセット400円也だ。ちなみにおはぎ、美味しかった〜。柏餅も食べるべきだった。
そしてお肉屋さんのコロッケを1個買って食べながら休日で店も閉まってて人も少ない円頓寺商店街を端から端まで歩いて、また名駅に戻った。
GWの映画館は満席なんだねえ。いつも平日にしか観ないので混みようにおろおろする。映画が始まるギリギリまで客席から喋ってる声がするので、もしもこれがキース・ジャレットだったら怒りよるで?とか思っているうちに映画が始まった。
山田尚子監督「たまこラブストーリー」。アニメ作品なので二次元の絵を重ねて作られていくのでしょうが、映像の中に幾たびも、三次元の景色がそこにあり、そこで本当にカメラを動かして撮っているような、そんな印象のシーンが幾つかあります。空とか町の風景とかが、誰かの心象と共に誰かの目線でふわっと立ち上がっていくような、そんな印象でした。
高校3年生のたまことその級友たち。
観終わった私は友達と居酒屋で飲みながら、「高校時代って実に残酷なシーズンじゃない?」なんてことを話し合う。みんな制服着てて、部活があって時間は授業で区切られてて友達がいて、それは人によってはちょっと楽なことかもしれない。でもそこから先は少しずつ、自分で選択をしていかなくてはいけない。
恋をする。恋をしたあと、どうなるの?
ひとつひとつ、何かが始まるたびに何かが終わり、何かが変わっていくシーズン。ああ、それってなんて残酷なの!と思ってしまう。
でも、考えたら、その時間の中にいる子たちにとっては、残酷でも何でもないのだよね。だってみんな、前へ、前へと、進むのだもの。その先にもっと楽しいことがきっとあるのだろうと信じて。私も高校生の頃、自分のいる場所がつらかろうが幸せだろうが、その「時」そのものが残酷だなんて思いもしなかった。
どんなに素敵な関係がそこにあっても、自分の幸せはその関係から飛び出して、また新たな場所に行かねばつかめないものだとしても、それでいいんだよね、と、片思いのみどりちゃんのどこか怒ったような顔を見ながらそう思う。
それから。
この映画の中のうさぎ山商店街のように、チェーン店ではない個人商店の集合体である商店街が、こうやっていきいきとして、お客もあって、存続していくにはどうしたらいいんだろうか、なんてことをマジメに考えてしまう映画でもあったよ。
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