おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

「夜明け」

是枝監督の助監督だった広瀬奈々子初監督作。

主演は柳楽優弥

柳楽くんは顔立ちが濃くて、濃すぎて、『おんな城主 直虎』や『銀魂』などのけれん味ある役がとても似合う、と感じていた。もちろん、『ゆとりですがなにか』や『アオイホノオ』の柳楽くんも好きでしたけど。

そして、『誰も知らない』のあの柳楽くんは、もう二度とない、あの時間・あの映像の中にしかいない少年だった、と思っている。

ところが今回の『夜明け』を観ながら「ああ、あの『誰も知らない』の少年が成長したようだ。なんとか大きくなって今ここにいて、そして橋の上で泣いていたんだ」などと思ってしまうのが不思議。

 

『夜明け』は、ホモソーシャルな世界だなあ、と思って観てました。

哲さんは亡くした息子への喪失感から、拾ってきた青年シンイチを求める。従業員の宏美と再婚することはその前に決めていたのに、シンイチと出会って、死んだ息子と同じ名前のシンイチと出会って、擬似親子のようであり、師匠と弟子のようでもある男だけの世界のほうにより惹かれていっているようでした。

もう一度誰かと寄り添うならと選んだ宏美との生活だったはずですが、宏美、宏美の元夫との娘、宏美の母親の女系家族より、熟練工である従業員の男たちと息子のようで息子ではないシンイチとの男だけの世界のほうに、きっと哲さんはより惹かれている。本当に、その世界はとても煌いて見えた。

けれども、その世界の底を覗くと、そこには「秘密」や「言えないこと」や「見ないようにしてること」がある。実は彼らはかつて、そういう世界の中に生きてました。哲さんは決して妻や息子とうまくいってたわけではなさそうです。妻や息子の気持ちから少し目をそらせて生きていたのではないでしょうか。シンイチ、ではなくて光も、多分そのように生きてきたのでしょう。家族を失った哲さんと、生きる意味を失っている光が出会い、そこで生まれた小さな世界にもまた、秘密と言えないことと見ないようにしていることが降り積もっていきます。

「シンイチ」を剥ぎ取った「光」が再び選んだ世界は、哲さんを傷つけたでしょう。光だってずっとシンイチのままでいられたらという想いはあったでしょうし、そんなあやふやなままの夢を見ていたかった、と映画を観ている私は思いました。それでもまた、もう一度新たな世界を選びなおさないといけないのでしょう、光は。

もうなにも見ないことにして生きていくことを、やめるために。

夜が終わって、また朝が来る・・・・。

 

  • 青年「シンイチ」/芦沢光 柳楽優弥
  • 庄司大介(木工所の従業員)YOUNG DAIS
  • 米山源太(木工所の従業員)鈴木常吉
  • 成田宏美(哲郎の恋人)堀内敬子
  • 涌井哲郎  小林薫


映画『夜明け』予告編

それにしても。柳楽くん、ほんっと顔のパーツが1つ1つ、美しいわ。。

 

 

小さな奇跡の集まり

昨夜。

大きなスーツケースとデイパックを持った男性のお客様がふらりといらっしゃった。

ワインとサラダを注文され、その後うちの店の名前「春光乍洩」について質問されたので、その意味を簡単にご説明した。

そのあと、「この店は映画関係者や・・・あと作家がよく来るの?」

壁の川上未映子さんのサイン色紙を見てそうおっしゃる。

川上未映子さんはちょっとご縁があって、うちでライブをしていただいたことがあります」と私は答えた。

「僕、ちょうど今、新幹線の中でその方のダンナの本を読んだばかりで」とその方はおっしゃるので「阿部和重さんの、ですね」と答える私の中に、何かしら小さな縁とこの男性への興味が沸いてきた。

名古屋の方ではなく遠くからいらっしゃったというその方と、シネマスコーレやシネマテークの話を交わす。その方はある映画を撮り、その映画はシネマテークで上映されたとのことだった。その後、店内に置いてある雑誌を1冊、手にとられた。2013年の「映画芸術」。これはうちの雑誌ではない。現在「原恵一映画祭 in 名古屋」のメンバーが今週までと置いていった原恵一監督に関する書籍や雑誌のうちの1冊だった。それを男性はパラパラと見たのち、「ああ、やっぱり。見覚えのある表紙だと思った。僕、ここに寄稿しているんですよ」

ページを開くと、2013年公開の、ちょうどスコーレで公開したある映画に関する批評が数ページに渡って掲載されていた。改めて私はそこでお名前を知る。

Wさん。某TV局のチーフディレクター・映画監督・ノンフィクションライター、それらの活動は主に戦争に関連するドキュメンタリー作家のようであるそうなのだ。

ますます不思議じゃないか。この1週間だけ置いてある雑誌。ふらっと来店した男性がそこに寄稿していたとは。

さてWさんは福岡の方。今日はドイツ在住で現在一時帰国している、元大学教授に会うために名古屋にいらっしゃったそうなのだ。さらに今日中にまた東京へ行く予定らしい。その元教授から電話がかかってきた。きっとこのあと、どこかの料亭とか、静かなレストランとかで待ち合わせかなと思いきや。

Wさんは電話で「僕、今、とても素敵なところにいるんですよ。シネマスコーレの隣で(隣じゃない!)、なんてったっけ、路地の?マタハリ?っていうところ?」とおっしゃってる。それで、その元教授の方たちはうちにいらっしゃるというのだ。今の説明でわかるんだろうか?と思ってしばらくしたら、3人の男性たちがいらっしゃり、その中の真っ白な髪の上品そうな男性が

「ああ、やっぱり! 僕、ここに来たことがあるよ。懐かしいなあ。僕は趙博さん

パギさんと古い友達でね、パギさんに連れてきてもらったことがあるよ」とおっしゃる。「もしかしてライブにいらっしゃったんでしたか? えっと、2007年の?」

「2007年! わあ、もうそんなになるかあ!」

 

名古屋駅に近いとはいえ、こんな見つけにくいところにある小さな店に、何の情報もなくふらりといらした男性がここへ来る前に読んでた小説は安部和重さんのもので、その配偶者の川上未映子さんのサイン色紙が店内でその方をお迎えし、さらにかつて寄稿した映画批評が載っている雑誌がお迎えし、そしてわざわざ名古屋で途中下車して会いに来た元大学教授はマタハリにかつてライブで来て下さったことがあって・・・。

それらはみんな、別に大したことじゃないちいさな奇跡で、でもそれはみんながなんだか笑顔になって「わあ、不思議だねえ」「やっぱりね、なんか繋がってるんだよな」と言い合えるようなことで。

そして、自分の好きなもの、楽しいもの、自分にとって大切な人たち、そういったものがこの場所で小さく繋がったこと、それがうちの店だったことが、いつだって私には誇らしい。ああ、店ってほんとにいいな。そういう場所になれたりするから。いつもいつもいつも、こういう瞬間に出会うたびに飽きることなくそう思う。

 

私は私とこの件について語り合いたい

季節の変わり目のせいか、それとも週末に大き目の案件が控えている緊張のせいか、僅かに気持ちが下がり気味なのです。そう、ほんと、僅かに。

それでも今日の私は、千葉雄大くんと田中哲司さんの、「音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!」での妖しげな絡みを思い出すだけでもう、にやにやとしちゃうんである。

三木聡監督で阿部サダヲ吉岡里帆主演のこの映画で千葉雄大はレコード会社の男として最初のシーンからずぶ濡れだしのたうちまわるし、かなり大変なシーンが続いているんだけど、なんのご褒美なんだか、途中で下着1枚の千葉雄大とビキニパンツだけの田中哲司演じる「社長」の絡みがあるんですよ。

それをね、ふっと思い出しては1分ぐらいにやにやにやにやしてしまうのが今日の私。

20年ぐらい前だったら即刻、このシーンから広がる千葉雄大田中哲司のアナザーシーンを脳裏でどんどん展開させていってたかもしれないが、さすがに私も55歳になるヲバチャンなので、炬燵に入ってするめでも噛んでるような心境でいつまでもにやにやして日がな過ごしてしまうのである。

いやー、ほんと、なんでだろねえ。

千葉雄大くんは、ライターであるメガネ女子の胸元に手を入れて乳首を弄んでるようなシーンもあるのだけれど、そこに私がにやにやするポイントは皆無である。

なぜだ。相手は禿げカツラを装着してる田中哲司なのに!

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なんてゆーか、環境や生育歴などで培われたものではない、きっと生まれた時から私の細胞に組み込まれている「にやにやする遺伝子」みたいなものが間違いなくあるのだ。こーゆーシーンでにやにやしてしまうのは、これは私だけど私じゃなくて脳内のなんやらのせいだ! 

私はそんなことをもうずっと長いこと考えている。

このことについてなにか明確な答えもない。ただできることなら私はこの件を、10代の私、20代の私、30代の私、40代の私と私だらけで一晩中語り合いたい。何故、私たちの「萌え」は「ここ」にあるのか、ということを。

 

ま、それにしても。

気持ちが下がってるときでも「萌え」さえあればすぐに幸せになっちゃうって、もうどんだけ幸せなことか、と思いますね。


『音タコ』SIN+EX MACHiNA「人類滅亡の歓び」ミュージックビデオ(ショートver.)

欲しいもの

なんとなーく欲しいものがあって、昨日も今日もショッピングモールの長い通路を歩いた。

一体、私は昔からこうだったのだろうか。それともここ数年のことなのだろうか。

私はただショッピングモールの通路を歩いているだけだ。

歩きながら通路沿いにディスプレイしてあるものをぼんやり眺めて通り過ぎるだけだ。

なぜか店内に入らない。

1つ1つの店に入って物を探すのがめんどくさいのか? 声をかけられるのがいやなのか。実は欲しいものは漠然としていて、でも本心からそれを見つけようとは思っていないのか。こんなふうに欲しいものに対してぼんやりとした自分がいやだ。

ああ、何が欲しいんだろう。

心安らぐ香りが欲しい。香水は直につけないけれども、ハンカチに少しだけつけ使うときにふっと気持ちが安らぐためのいい香りのものが欲しい。

ざっくりしてるけどやわらかい、シンプルなワンピースが欲しい。店で着るための。

万年筆のインクが欲しい。万年筆も出来れば欲しい。

たったそれだけなんだけど、結局見つけることもしなかったし、だから買うこともなかった。無印良品で小さな化粧水のボトルを買っただけだった。

自分の好きな店が1軒だけあって、その店のラインナップをとても信頼してて、私はそこに行けばなんでも買える。そんな店があったらいいのになとちょっと自堕落なことを思っている。

夜のざわざわ

なんとなく、すごくさみしくて切ない気持ちでいる。

理由はあるようでないようで。いや、多分いくつかあって、それはどれもひとつずつがとても細かくて小さい。

いわゆるこれは、ただの「気分の波」のようなものなのだろうか。そうだとしても、心がちいさくざわめいていて、別にそれを無視してこのまま布団に入り眠ることは出来るのだけれども、せっかくの休日の夜、このざわざわに少しでも向き合わないと勿体無いような気がしている。

だから、こうして文字を打っている。

ずっとこれまで、何かを書かずにはいられなかった。

13歳から30歳半ばぐらいまではそれは日記で、あるときからは芝居の戯曲になり、そしてあるときからはネットの掲示板やブログで。

でも、ここ最近、私は本当に何も書いていない。

感じたちょっとしたことをツイッターに書いてたけれども、それも殆どしていない。ツイッターには主に店のことを書いている。店のことを考えると書く内容にも制限がかかる。いや、以前は制限など自分に課していなかったな。最近では無意識に制御している。

または書きたいことがあっても日々のあれこれに埋もれ、それをする優先順位が下がっている。今、私が自由な時間に一番時間を割いているのは英語の勉強だ。

そうしているうちに、自分の中で感じたことを文字にする習慣が、いや習慣と言うよりも情動が薄れていっている。多分これは年齢のせいもあると思う。

ほんと、年を取っていくとこんな風になってくってことを知るよ。老いに入っていったら、好きなことはちゃんと自分の生活の中でそれをやっていかないといけない。そうしないと、どんなに好きなことだって心の中でそれが薄くなっていくからだ、たぶん。

本を読む。英語の勉強をする。映画を観る。音楽を聴く。心に生まれた何かをそっと文字にする。

自分にとって大事なそれらを大切にしていくということは、それを細く長く続けながら楽しむことだ。

 

こうやって書いていると、私の中に、本当に小さくてきっと他人にはどうでもいいことなのだけれども、書きたいことがいくつもあることに気がついて嬉しい。

今日、私が何に憧れて何を苦手に思ったかとか。

仮面ライダージオウ』の変身シーンの美しさについて、とかそんなことも。

 

私の友達が、殆ど非公開で私を含めた少ない人だけにアドレスを教えてくれてる日記サイトがあって、そこに書かれているその人の日常の思いは私にとって宝物のようなもので、私もそんな風にひっそりと、人の目を気にせずにここに書いていけたら、と思ってる。

 

劇団どくんご「誓いはスカーレット」観ながら思っていた超個人的なあれこれなど

豊橋市松葉公園でのテント芝居「どくんご」の「誓いはスカーレット」、観てきました。

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実は私は24歳辺りから32歳までの9年間、劇団に所属し、芝居をしていました。

その頃の私は、仕事中も芝居のことばかり考えていられる仕事に変えました。仕事の合間合間にストレッチをし、仕事をしながら頭の中でずっとセリフを覚えることに使い、セリフを覚えた後はずっとイメトレをしていました。仕事をしながらワープロを開いて台本を書いていたときもありました。

 

私達の劇団は、サプライズを大切なものと考えていました。衣装で、舞台セットで、演出で、観に来てくれた人に驚きを与え、それが夢や感動に繋がってくれればいいと思っていました。

そのためには、開演するまで私たちの衣装やメイクした姿を観客に見せることはしません。舞台セットも暗闇の中で隠されていました。

しかし。どくんごでは。

すでにメイクをし、衣装を着た役者が舞台上に置かれた受付でお金の精算をしたり客入れをしてます。舞台セットは隠されておりません。

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お客さんも缶ビールや缶チューハイ飲みながら観劇の人もいるし、ちょっと新鮮に感じながらもなんとなく「なるほどなあ・・・」と思ってました。

 

ただ、そこから芝居が進んでいくにつれ、正直言って「なんだろう?」「なんだろう??」っていう気持ちがどんどんと膨らんできました。

ある幕で出番を終えた役者たちは舞台の横の観客にまるっと見える場所にいて、楽しそうな顔で舞台を見ていたりしています。それは演じている顔なのか、素の顔なのか? わかりません。ただ、衣装をつけメイクもした役者が出番が終わったあとで素の顔を見せて舞台の横の見えるところにいる芝居なんて、私は初めて観たし、そういうことを考えたこともありませんでした。

例えば後半、テント芝居の後ろの幕が開かれ、向こう側の風景、それは舞台上の異世界ではなく公園の向こうの広がる普段の風景で、そこでは道を歩くサラリーマンや2人でサッカーのパスをしている男性たちや散歩の親子連れがいます。私たちが芝居を観ているその視界の背景に、薄暗がりの松葉公園にいる普通の人たちが入り込みます。もしも、彼らのパスしそこなったサッカーボールが舞台の中に入ってきたらどうするんだろう。酔っ払ったサラリーマンが入ってきたらどうするんだろう。私たちの劇団だったら、「そういったハプニングもある程度想定しつつ、でも絶対に芝居を壊されないように厳重に注意を配る」ということに神経をつかいました。でも、どくんごの人たちは万が一に対応する人員を割くこともせず、なんていうかとにかく自由というか、気持ちがとても広いのだなあと感じました。

ああ、どくんごには私たちの劇団が持っていたストレスが何もないのかも。

私たちの劇団では上演前に姿も存在感も消し、明かりがついた途端にどこからともなく登場し、退場したらまた存在を消し、何が起こっても芝居を中断されないように周囲に細心の注意を払い・・・などなどの緊張感で舞台を作っていたのだけれども、どくんごにそれはまったくない。

しかし、です。そんな劇団が何故こんなことが出来るのか。

最初のピストルを持った男女の、あの動きはきっちりと演出で決められたものでセリフと動きがピッタリと合っている。「わたし、見ちゃったんです」から始まる幕は、4人の役者のセリフの呼吸から動きのシンクロ度がとても高い。桃太郎の話の芝刈りから芝生の高さへと話がどんどんと変わっていくポンポンポーンの変な外人の男の幕、あれなんてもう、どこまで台本で言語化されているんだろう? そしてすべての役者のセリフは、しっかりと舞台上の相手にかかり、どんな意味不明なセリフだろうとどこへも届かずぽとんと落ちてしまうような、そんなセリフは1つもない。

「自由」という言葉のニュアンスの近くにある「ゆるい」みたいな単語とはまるでかけ離れたところにある彼らの芝居、本当にもうこれは一体どうなっているんだろう、と思いながらずっと観ていました。

 

そうだわ、私は昨日も芝居の話をしていたんだった、と唐突に思い出しました。

かつての芝居仲間が来てくれて、その時に私たちが若い頃に知り合い、そして今もずっとお芝居をしているある男性のことを話していたのです。私の友人はその彼のことを最大限の尊敬をこめて「芝居に魂を売った男」と言っていました。

そうだ。20代の頃、同じように舞台に立ってた私たちがいて、私たちより若い子だとか後から入ってきた子が私たちより先にやめ、私は芝居のことばかりを考え、そんな時間があったということがそれほど遠い記憶でもなく、まだどこか身近な過去として自分のそばにあります。そのときの私はずっと芝居をやっていきたかったし、そうあればどんなに幸せかと思っていました。しかし30歳を少し越えた頃から1年のうちの結構長い時間を芝居に費やすことが苦しくなってきました。もっと好きな人のそばにいる時間が欲しい。映画をもっと観たり本を読んだりしたい。なによりもう、芝居の台本を書けなくなった・・・。そうして私は33歳で劇団から去り、喪失感も数年間はじわじわとあったけれどもどことなく肩の荷を降ろしたような気もしていました。

そうだなあ。20代後半の私は、芝居をやめる選択をするとは思ってなく、そして一体誰が続けていくのか、そんなことも勿論知る良しもなかったです。

あれから20数年が立ち、私は50代半ばになり、ここでひとつの結果が見えてきました。

あの人と、あの人は、まだ芝居をやっている、とか。

あの人と、あの人は、あんなにうまかったあの人は、もう芝居をやっていない、とか。そしてあの時は気付かなかった、芝居がうまい一役者だと思っていた男性は、「ああ、芝居に魂を売った男なのかもなあ」と今は思う。そんな風に私たちはある程度長いスパンで私とそれぞれの人たちの人生を省みることの出来る、そんな年齢になってしまったことに気付きました。

昨夜の私の目の前には、かなり長くこの芝居の世界にいる人が、生活が芝居の人たちの芝居が繰り広げられている。

観客は、どこでもそうなのか、豊橋の観客がそうなのか、すごくあったまってて、最初から結構ドカンドカンと笑っている。目に焼きついた美しい光景があり、すごく面白いアイデアがあり、ずっと芝居をやり続ける人には生まれてこなかった(のかもしれない)私が、ああいつかの私がこんな面白いことを発想できたら、こんな風に寛い気持ちで芝居に向き合えていたら、などと思いつつも、本当に、すこぶるやわらかい気持ちになって芝居を愉しんだ夜でした。

描かれていないことが真実ではないか、の、『告白小説、その結末』

先日、店に来たあるお客さんが、今話題になっているある作品について語気を少し強めておっしゃってました。

「僕はね、以前、その職業に就いていたからそう思うんだけど、その職業についてもっと掘り下げて描いて欲しかった」

その人は酒のせいだったのかも知れないけれども目を潤ませながらそう訴えていました。しかしその作品は、その人が昔関わっていた職業について掘り下げる作品ではありません。作者の意図は違うところにあるのです。しかしそれを言っても仕方がないと思い、そうですかと答えながら、感想というものは怨念から成り立っているのだなあ、とそのとき私は思いました。その人が「この作品にこのことが描かれていない」と思うのは、その人自身が持っている様々な思い出、愛着と多分怨念が残っていて、そこを描いている作品を読みたい、または観たいと感じているからに他なりません。

作品の中に描かれていること。感想はそこのみにとどまりません。時として描かれていなかった部分に対しても激しく心が揺さぶられたとき、そこには自分自身の人生に対する怨念があったりするのでしょう。個人の怨念は物語の描かれなかった部分を補完し、自分の中で独自の感想となって広がっていったりするのだなあと、そんなことを考えていたここ最近。

 

ところで『告白小説、その結末』はそういう感想の持ち方とは違う辿り方をする映画でした。

作家・デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。デルフィーヌの執筆作業を邪魔しないために別居しつつもデルフィーヌを精神的に支えようとする夫・フランソワ(ヴァンサン・ペレーズ)。そして彼女にファンだと言って近付き、そして彼女と同居する、フランス語で「彼女/ELLE」という単語と同じ名前のエル(エヴァ・グリーン)。

映画を観ている間は、疲弊しているせいでガードが甘くなっているデルフィーヌの迂闊さにハラハラし、そして真っ赤に塗られた大きな唇の口角をキュッと上げて笑いながらどんどんと近付いていくエルの怖さにおののきながら観ていました。真っ白なままのワードの画面を前にしたデルフィーヌの焦りと不安に同調し、骨折した足の痛みを共に感じ、そして彼女の追い詰められていく状況をに震え、デルフィーヌが地下室へ降りていくシーンなど恐怖で心が凍りそうになり、「やめて、何故そんなところへ行く?!」とか「誰か助けて!」とか「デルフィーヌ、逃げて!」と心の中で叫んでいるような、私は素直な観客でした。

ところが映画が終わって、しばらく空白の後、頭の中でゆっくりと今観たばかりの映画のあれこれを再生せねばなりませんでした。そして気付いたのは、この映画は「描写されていないこと」について頭の中で想像・創造していかないといけない映画ではないか、ということでした。

この映画の見方は少なくとも2つ以上に分かれると思います。

1つは作家とサイコパス女の話。

そしてもう1つ。この物語は作家のデルフィーヌの脳内世界を映像にしたものではないか。

ネットでいくつかの感想を読んでいると「妄想オチ」という言葉が散見しています。私も最初はそのように思ったのですが、今はそう言って片付けてしまうのは惜しいと思っています。

何かを考えるとき、それが自分の過去に関連する内容だった場合、脳内にそのときの自分の姿とその場にいた自分の周りを取り巻く人たちを再現し、そのときの会話や行動を脳内でなぞりながら考えを詰めたり別角度から捉えなおしたりします。この映画はそれに近い形であり、デルフィーヌ自身が自分をこのようだと捉えていたのが「作中に現れるデルフィーヌ」だったのではないかと思うのです。あそこで描かれていた、少々平凡に見えなくもなく、疲労のせいで目が虚ろであるがどちらかといえば善人であるデルフィーヌは、彼女自身が捉えている自分像であり、もしかしたら他人にはそうは見ていないのではないか。そのようなことはこの映画の中で描かれていません。しかし、そういうことを想像する映画だと思ったのです、この作品は。

そうすると、では、あのジュースミキサーを破壊したのは誰だったのか、熱いスープを扉に投げつけたのは誰だったのか、子供たちは何故彼女の元から離れたのか、夫はデルフィーヌに対してどう思っていたのか。映画を観終わったあとで映画に描かれていることをひとつひとつ取り上げながら、「そこに描かれていなかったこと」について検証していくことに熱中してしまいました。

そういえばですよ?子供たちは成長して作家である母親の元から巣立っていったことがデルフィーヌのセリフから窺えますが、もしかしたら母親としてのデルフィーヌはエキセントリックでヒステリックで子育てには向いていなくて、子供たちはその彼女の世界から離れた航空業界での仕事を選び、彼女の元から離れたのではなかったか、とか。もしかしたら彼女の元に寄せられる辛らつな手紙は彼女の子供たちのものではないのか、とか。

そういえば途中で風変わりな「飛び出す絵本」が出てきます。開くと絵本から飛び出すのは異形の悪魔やモンスター。絵本の扉を手でそっと開くとその向こうに現れるのは大きなゴキブリ。もし私なら、子供の頃の私なら、この絵本は開けません。自分の部屋にあることさえ恐怖します。デルフィーヌは彼女の子供たちにこの絵本を与えたのでしょうか。絵本を開くデルフィーヌは微笑んでいます。彼女は、このような風変わりな絵本を子供に与えたことに満足しています。しかしそこに描かれていない、彼女の子供たちはどうだったのでしょうか。

また、映画の前半にはデルフィーヌの精神と肉体の疲弊が描写されています。サイン会も長く続けられない。関係者が開くパーティ、個展、イヴェントに促されてとりあえずは顔を出すがすぐに帰ってしまう。それは彼女が自分について精神的な疲弊、または鬱状態ではないかジャッジしていたのではないでしょうか。しかし実のところは彼女には社会性が多少なりとも欠如していたのではないか、と考えられなくもないのです。「講演会を無断でキャンセル」が真実であり、そこを補完するための「半ば強引に身代わりで出て行ったエル」だったのではないか、とか。

そのように、『告白小説、その結末』のシーンをひとつひとつを思い出していって検証しなおしていていく最後に辿りつくのは、では私の脳内にいる私はどのような人で、他人は私についてどう感じていて、私の捉えている世界はどのようなもので、それが他人についてはどのようになっているのだろう、などなどとそこにある差異を改めて感じながらこの不確かな世界を再確認する、そういう作品だったと思うのです。

 

告白小説、その結末

監督:ロマン・ポランスキー

脚本:オリヴィエ・アサイヤスロマン・ポランスキー

音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーン


映画『告白小説、その結末』2018.6.23(土)公開 予告編