おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

今見たばかりの夢

はじめてみた夢なので書き残しておく。

こたつに若い男3人と私が入っている。私も多分若い。

私の目の前にいびつな形をした小さな薬が2個か3個入っている袋が置かれている。これを飲めばすぐに死ぬことが出来るらしい。どうやら私たちは全員で服毒自殺をするという設定のようだ。

「これを飲めばいいんだね」と私は言う。

他の人は返事をする代わりに黙ったまま、それを飲んだ。

私も袋を開けて口にした。2包あったけどよくわからなくて1包だけ口に入れた。薬は苦かった。急いで目の前にあった湯のみ茶碗を手にするけど、なんだよう、お茶は少ししか入ってないじゃないか。水を飲みに台所に立つのがちょっと怖かった。ひとりだけそのこたつから離れるのは。それで少しのお茶で薬を飲み下した。

そして私はこたつに足を入れたまま、床にごろんと横になった。となりには黄色の安っぽいトレーナーを着た髪が肩以上まで長く伸びた若い男の子がいる。私はその男の子の背中にそっと自分の体を寄せた。その男の子の手が私の乳に伸びてきた。私の反対側に座ってたむっちりした体型でちょっとおっさんくさい雰囲気の男の子(多分、この中のリーダーっぽい)の手がおずおずと私の足のほうに伸びてきた。もうすぐやってくる苦しみをじっと待つのは怖くて、せめてこうしてないとな、と私はそんなことを思ってる。黄色のトレーナーの男の子が「来た」と小さな声で言った。「来た?」「うん、苦しい」

ああ、いよいよ苦しくなって死ぬんだ。「痛い」と男の子が言ってる。わたしは彼の背中をゆっくりと力強くさする。「もうすぐ楽になると思うよ」と言って。

私はまだ苦しくならない。そして男の子の静かだけど力強い痛みは結構長く続いてて、私は「あーあ、やっぱり飲まなければ良かったかなあ」と地味に思っている。「こういうふうに思うなんて一番ダメなパターンだしあんまり考えたくないけど」と思ったところで、ああこれは夢かと気付き、だったら苦しくなる前にさっさと目覚めようと思って夢から離脱しました。

男たちの物語

名もなき野良犬の輪舞』、犯罪組織、警察、潜入捜査などを描いた韓国のクライムドラマ。友達からの強いプッシュで観に行った。作品としても面白いのだが彼女いわく「りりこさんの萌え要素もある」という。


不汗党(名もなき野良犬の輪舞) Fanmade Trailer (Japan ver.)

さて観て、ちょっと待て、ソル・ギョングこんなに若かったっけと目を疑った。

同じ2017年に製作された『殺人者の記憶法』では肌の質感も老人のようだったけれど、今回は大泉洋とか、または若い頃の小林薫みたいな感じじゃないか?

ちなみに小林薫といえば私は『キツい奴ら』(1989年)を思い出すのだが、小林薫玉置浩二が金庫破りのコンビだった。この物語にはマドンナ的存在がいるのだけれども演出が久世光彦のためか、小林薫玉置浩二の間にとても腐女子を萌えさせるイイ感じのナニカがあったのだよ。

さて『名もなき野良犬の輪舞』は構成も面白く、役者もいい、最後までハラハラしてドキドキして、そしてビビりの私は「絶対にヤクザの世界には入りたくないし、そして刑事になって潜入捜査もしたくない!」と心底震えながら思うのだけれどさて、友達の言ってた私にとっての「萌え要素」に関しては、うむー、どうなんだろう。

確かにソル・ギョングのコンビとなるイム・シワンは可愛いし、風貌も素敵だし、とてもいいのだけど、なんだろうなあ・・・。

例えばその『キツい奴ら』小林薫玉置浩二


"kitsuiyatsura" "ラヴユー東京"

男たちの挽歌』でのチョウ・ユンファレスリー・チャンとか。

そういえば香港映画や日本映画での男たちのバディものに腐女子萌え要素は満載なんだけれど、韓国映画には同じようなバディもの、クライムサスペンスなどいっぱいあるのに萌え要素を私は感じないのは何故かな。

「君の名前で僕を呼んで」

君の名前で僕を呼んで』(Call Me by Your Name)

監督 ルカ・グァダニーノ

脚本 ジェームズ・アイヴォリー    

出演者 エリオ/ティモシー・シャラメ、 

    オリヴァー アーミー・ハマー、 

    エリオの父 マイケル・スタールバーグ

 

予告編では、Sufjan Stevensによる“Mystery of Love”という曲にすっかりやらられてしまってました。これが流れるだけで何故か泣ける。


“Mystery of Love” by Sufjan Stevens from the Call Me By Your Name Soundtrack

以下ネタバレあり。観る予定の方は観ないほうがヨイです。

 

17歳のエリオと24歳の大学院生のオリヴァー。

観ながら、この映画の中の彼らを見つめながら、正直言っちゃうと「あー、ほんとに若いってことは性欲に振り回されるってことだよなー」なんつーことをも思ってたのは、まさに私が年を取った証拠。昔はそんなこと思いもしなかった。登場人物と一緒に触れそうな距離にドキドキしたり、ゾクっとしたり。でも大変残念なことにこの年になるとそういう感覚から距離が出来て、エリオもオリヴァーも彼らを慕う女の子たちも自分の中の性欲でいっぱいいっぱいになっていることを「あー・・・」みたいな感じで眺めていた。

勿論、映画はとても良くって、エリオの恋の始まり、どうしていいかわからない戸惑い、不安、初めてのキス・・・、などを一緒にドキドキして観ていたんだけど。そして最後の別れも・・・。

でも、今の私に一番響いたのは、エリオの父のセリフだった。

エリオが同じ男性であるオリヴァーに恋をしたのは、エリオの母も父も気付いていた。さらに、エリオのためにひと夏の思い出、もうすぐエリオたちの前から去るオリヴァーとのふたりだけの時間を作ったのも彼らの父母だった。

当事の多くの親たちは許されない同性への愛(映画の時代は80年代。かつては同性愛は犯罪とみなされていたし、犯罪ではなくなっても精神異常者とみなされる風潮があった)に対し大きな反発を見せただろう。しかしエリオの父は「私たちはそのような親ではない」と言う。そしてエリオの父の長いワンカットでの長セリフ。これがほんとうに良かった。

エリオを聡明だと言う。オリヴァーのことも聡明だ、そしてふたりとも善良だと最初に言う。聡明で善良だから二人の恋愛を一時の過ちとして封印しろと言うのかなあと思っていたら、そうではなかった。

エリオに、この恋の痛みを忘れようとしなくていいと言う。いくらでも泣いていいと言う。恋する気持ちを抑えたり忘れようとすることで心はどんどんとすりへっていく。しかしそれでは生きていくうちに体も心もすりへってしまう。感情を抑え込まず、恋も痛みも悲しみも感じることが生きていくことの喜びだ、と彼に静かに伝える。そして、恐れずに彼との友情を、友情以上の関係を結べたその経験は素晴らしいことだと肯定するのだ。何故なら・・・エリオの父はそう出来なかったから・・・。

 

夏の日のオリヴァーとエリオの別れに、その悲しみを包むエリオの父の言葉に、そしてその冬のオリヴァーとの本当の別れの悲しみに、すごく打たれた映画だった。

 

それにしても。

はああああー・・・。

エリオを見ながら「性欲ってやつは・・・」と思った私はかなり心が磨り減っていたよ・・。

 

『レディ・プレイヤー1』の世界

私がスピルバーグの作品をほぼ観たことがないというと、友達はみんなああなるほどねなんかそんな感じすると言う。しかし話してる内に、え『ジョーズ』も?『インディ・ジョーンズ』も?それテレビで観てない?とか、『未知との遭遇』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も観てないだなんてそんなのアリか?という感じになってくる。なんていうか昔の私は大作映画をまったく観ようと思ってなかったんだ。

スピルバーグで観たのは2011年の「戦火の馬」のみ。そんなわけで「レディ・プレイヤー1」にもまったく興味がなかったんだ。でも予告編を観て、あれ、これ好きなヤツじゃないか?って思った。


映画『レディ・プレイヤー1』日本限定!本編冒頭映像(オアシス編)【HD】2018年4月20日(金)公開

 

それで映画観に行って思ったんだ。私はこういう世界設定に結構グッとくるんだってこと。

私が子供の頃にドラマや映画に出てくる「未来」。アイテムは空飛ぶ車、テレビ電話、どこかにあってなんでも管理してる巨大コンピューター、なんでもやってしまうロボット、人が着てるのはなんかキラキラした全身スーツ・・・。そしてどこまでもハイテク化した世界の脅威は、終極的な核戦争後の世界だったり、AIが発達して人間に近くなったロボットの氾濫だったり、未知のウイルスや大規模災害や宇宙人襲来だったり。

21世紀は、未来でSFだった。そして今生きてる2018年も未来でSFだったのに現在になってしまった。かつて描かれていた「未来」に追いついてしまったときにひとつひとつ答えあわせをしていくと、随分思い描いてたものと違ってることに気付く。

インターステラー』で地球滅亡の脅威となったのは異常気象だった。『コングレス未来学会議』で描かれていた世界も貧困によるディストピアだ。

戦争でもウイルスでもなく、私たちが子供の頃に想像していた右肩上がりの豊かさでもなく、経済の下落によるディストピア。未来が今よりも貧しくなっているなんて・・・。それは80年代を生きてきた日本人の私にとっては正直言って本当に驚くような未来なんだ。

殆どの人間がスラム街で生活をしている『レディ・プレイヤー1』の世界。この設定は私の琴線にとても触れるものだった。

 

そして映画は・・・・、

もうむっちゃ面白かった!!

いろいろ、避けた!!(車とか、斧とか!) 

観てよかった!!

最後、泣いちゃった!!

細部までにいろいろ感情を揺さぶられる作りになってるエモーショナルな作品でした♥

 

「リズと青い鳥」

多くのアニメ作品の中の少女たちは、「わたしたち」ではありませんでした。

「わたしたち」は、あんなに可愛くはなかったし、可憐ではなかったし、キラキラでもなくキャピキャピでもなく、けれども自分を特別だと思ってて、けれど突然そう思えなくて絶望して、自分は結構いいひとだと思ってたのにやっぱりいやなやつだよなって思えたり、そういう、そういう、なんていうか決して映画やドラマの中には出てこないもっと――――――、普通のおんなのこ。

でも「リズと青い鳥」の女の子たちは、まさにそういう普通のわたしたちが描かれている作品でした。

 

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なんか、すごくないですか?この絵。

すごくリアルに描かれた教室の机と椅子と床と譜面台。

その背景のリアルさとは質感の違う、陰影や肉体の比率は省略されたりデフォルメされた絵で描かれた、楽器を奏でる細身の女の子ふたり。

そして窓の向こうは、またその少女たちの絵とはタッチの違う、色彩鮮やかで、ちょっと昔のアニメを思わせるような絵。

「ずっとずっと、一緒だと思っていた。」というコピー。

観る前からなにごとかの不穏さは感じていたけれども、観終わってからこの絵を観ているだけで何故だか涙が出てきて困る。

机と椅子だけのこの静謐な場所は、彼女たちの心を守る場所でもあり、育てる場所でもある、でも閉じられた鳥かごだったのか。ここにいる彼女たち。そしていつかここを出て行く彼女たち。その時間を思い、私はなんだか泣けてくる。

 

(もしもこれから観るのならば出来れば何も、予告編も何も観ず、もちろんこれも読まずに観てほしい。)

 

鎧塚みぞれが、学校の校門の近くで座って待っている。

同じ高校3年生、吹奏楽部フルート奏者の希美が来るのを待っている。

希美がやってくる足音に耳を澄ませている。

みぞれは希美の後ろを歩く。希美の揺れる髪や彼女が下駄箱から取り出してぞんざいに床に落とした上履きや脱いだ靴や先に階段を登る足をずっと見ている。

この時の音が、ピアノの音がぽつり、ぽつりと零れるように響くのだが、まるで言語化されずに想いだけがあるみぞれの心情のようだ。

みぞれは希美のことが好きなんだなとわかる。その目線の先にあるものは女の子ならではのフェチだ。女の子は誰かを好きになるとこんな風にその人を探し、こんな風に静かに見つめている。それを丁寧に描いていて、すごくいいと思うのと同時に少し苦しい気持ちになる。みぞれの思いにつらい予感がする・・・。

 

この映画を観にきた人たちの多くが「響け!ユーフォニアム」2期を観ているだろう。だから「みぞれと希美」というだけで不穏な何かを感じてこのスクリーンの前に臨んでいたのではないだろうか。

テレビ版「響け!ユーフォニアム」2期の前半でみぞれと希美は登場した。物語の主人公は北宇治高校吹奏楽部1年ユーフォニアム奏者・黄前久美子。初めての夏合宿で久美子は2年・3年の先輩たちに翻弄されることになる。かつて退部したフルートの希美が復帰したいとやってきた。それに反対する副部長のあすか先輩たちや激しい拒否反応を示すオーボエ奏者のみぞれらに久美子は振り回されるのだ。

ちなみにこの時のみぞれは2年生。中学時代、自分を吹部に誘ってくれた希美が唯一の友達だった。しかし希美は1年生のときに部内のゴタゴタに嫌気がさし、みぞれに黙って退部し、みぞれはそのことで激しいトラウマを抱えることになったのだ。希美の登場でみぞれは心を乱し、演奏にも集中できなくなっていく。しかしこの合宿で間に入ることになった久美子の奮闘により、みぞれと希美は和解をしたのだ。それはもう「ヨカッタヨカッタ」となるべきところだが、そこに不穏な余韻を残していったのが、2期後半のメインになっていく「あすか先輩」だった。彼女は久美子に対してだけ微妙な反応を残すのだ。そこに描かれていたみぞれは「繊細・臆病・孤独」という閉じた女の子だったが、その彼女を評して「ずるいわね」とあすかは呟くのだ。

 

そういったことがあるから、明るい表情で前を歩いていく希美と彼女を熱い目で見つめ続けるみぞれなんて不穏な予感しかなかったのだ。

 

彼女たちは高校3年生。その年の吹部のコンクール自由曲は「リズと青い鳥」。その作品の中ではオーボエとフルートの掛け合いがあった。希美は「まるで私たちみたい」と言って「リズと青い鳥」の絵本をみぞれに渡す。ひとりぼっちで暮らすリズの友達は森の動物、そして青い鳥。そんなリズをずっと見ていた青い鳥は少女の姿になってリズの元にやってくる。明るくて奔放な少女と一緒に暮らしはじめたリズは世界の色が一新し、生活が楽しくなる。しかしある日、少女は青い鳥の化身だと知ってしまう。鳥は冬になったら暖かい地へ渡らないといけない。リズはまたひとりぼっちになってしまうことを悲しみながらも少女と別れる決心をするという物語。

みぞれは、希美と離れることを恐れている。だから「私は青い鳥を逃がしたりできない。閉じ込めておく」と思う。希美は「ハッピーエンドがいいよね。青い鳥もまた帰ってきたらいいんだし」と思っている。ふたりとも、リズがみぞれで、青い鳥は希美だと思っている。

 

コンクール曲「リズと青い鳥」。オーボエとフルートの合奏の息が合わない。それはみぞれの解釈のせいか。フルートの先輩として後輩に慕われる希美を見ていてまたひとりぼっちになるのではという不安。更に彼女は自分自身のことが決定できない。自分が何をしたいのかわからない。希美が吹奏楽部に誘ってくれたから自分はここにいる。音大を勧められたけどそこを目指すのかどうかも決定できない。でも希美が同じ音大に行くというなら私も行くと言う。そんな彼女のことを1年前、あすかは「ずるいなあ」と感じていたけれど、みぞれは自分がずるいだなんてきっと思ってはいない。後輩のトランペット奏者 高坂麗奈は「先輩の本気の音が聞きたいんです!」とみぞれにつめよるが、「自分の本気の音」がまだみぞれ自身に聞こえていない。

そんなみぞれに、木管指導者の新山は言う。

あなたが青い鳥の気持ちになって考えてみては、と。

孤独で、青い鳥を手放したくない思って震えている女の子ではなく、愛情を持ちながらも外へ羽ばたっていく一羽の青い鳥を思い描いてみてはどう、と。

音楽室に入ったみぞれ。みなそれぞれの楽器を構えている。みぞれは「リズと青い鳥」第3楽章。そこを通してください、と言う。静かに歌いだすみぞれのオーボエ。それはやっと生き生きと、自由に、空へ飛び立っていくようで、そこに後ろから希美のフルートが美しく絡みあっていった。

そして、そこで希美は、きっとみぞれ以上に決定的に知った。羽ばたっていく青い鳥がみぞれだったのだと。残されたのは自分のほうだと。希美のあの涙は、演奏中の涙はなんだったのか。他の部員はみぞれの演奏に感極まったのだろう。しかし希美はそれだけではない。自分とみぞれとの力量の違いに気付いてしまったからではないのか。

 

希美は、ずっと無意識だけどみぞれのことを見くびっていた。

私がひとりぼっちでいるちょっと風変わりなみぞれに声をかけてあげた。中学の吹奏楽部では私は部長だった。私はフルートが好きだし、そしてその才能だってある。勿論、みぞれのオーボエもうまい。けれど私たち、それほど違いはないんじゃないかな、と。しかし、今の時点で、彼女の力量はみぞれの演奏をなんとか支えるのが精一杯のところまでだと気付く。愕然とした彼女も実は自分が何をしたいかなんてわかっていなかったのだ。いくら後輩に慕われていようともみぞれについてこられるような自分もないし、そしてここから先もみぞれと共に歩いていこうという気持ちもない。

みぞれはずるい。自分で何も決定をせず、ずっと好きだといいながら私の後ろについてこようとするみぞれはずるい。

希美はかつて吹部をやめたときと同様、再びみぞれの前を歩くことをやめようとする。

  

才能を前にした少女たちにとっての現実の残酷さ。

「大好きハグして」って言われて拒否されて、つきだした手が空に残る。

少女たちはいつも必死で、恋をしていて、みじめで、自分のずるさに気がつかなくて、そして何かを知っていくことはとても残酷で、そして世界だと思ってたものが3年間という時を過ごす鳥かごであったこととか、

あのときの儚さ。あのときの残酷さ。

そういったことがただただ丁寧に描かれている作品だと私は感じました。

それが、この映画を観ててあんなに泣けてしまうポイントなのかな。

リズと青い鳥」第3楽章を演奏するシーンでは、私はもうなんだか泣けて泣けて。私は結構こっそり静かに泣くことを得意としてるんだけど、この時ばかりは演奏が終わった途端にもう嗚咽がもれそうになるほど泣いてしまいました。曲の美しさ、みぞれのやっと自由になってひとりで飛び立つことを決めた表情、演奏に感極まる部員たち、そして自分の力量に気付いた希美の悔しさ。それらが誰のモノローグもなくただ音の中で見事に表現されていたと思います。

 

響け!ユーフォニアム」2期の最後、卒業式でのあすか先輩は、泣く後輩たちに「また来るから!」と言ったけれど、私はあすかはもう来ないと思いました。彼女は大学生になってもいつまでも先輩面して高校の部活に顔を出す、そのような人ではないからです。

そして、この「リズと青い鳥」で希美はハッピーエンドという言葉を口にするし、みぞれと希美も再び仲良くなったようだけど、彼女たちの人生はエンドどころかまだこの先は遠く、大学に入ったみぞれは真に旅立っていくんだろうなあと予感します。もう希美についていくだけの生き方はやめて。そのとき、かつてあった大切な「好き」は時の中にゆるやかに溶けていってしまうかもしれない。

そこは「高校」という特別なかごの中だから。

かつて普通の高校生の女の子だった人たちに観てもらいたいと思った映画です。


『リズと青い鳥』ロングPV

 

私は『聖なる鹿殺し』という映画が好きかどうかはわからないが

『聖なる鹿殺し』


映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編

この予告観たら「絶対に観ねば。胸糞悪い映画であろうとも」と思った。

前作の『ロブスター』、アイデアは秀逸だし展開に驚かされるし、そして男と女が結婚をして女が子を産み次世代へ種を繋いでいく生命としてのシステムが崩壊しかかっている今に対するブラックな示唆に、観終わったあと言葉を失くした。

 

そして『聖なる鹿殺し』。

観終わった最初の感想は「ああ!とんでもなく胸糞悪い映画だったわ!」だった。悪口じゃない。

自分にとって大切な人が無惨に殺されてしまったら。私に子はいないけれど、もしもいて、その子供を殺されてしまったとしたら。現実に起こる様々な事件のニュースを知るたび、「私ならどうするだろう?」と思う。

司法での裁きに納得できるか。

私は復讐のためその相手を殺そうと思うのか。

悲しみや苦しみはいつか癒えるのか。

誰しもそういう「最悪の事態」について想像するのだろう。だからそういうドラマや映画がいっぱいあるんだろう。復讐の物語が。

しかし『聖なる鹿殺し』はそれらの物語とは一線を画していた。

何しろ、復讐者マーティンはあまりにも絶対的な力を持っている。策略や陰謀や暴力による復讐ではなく、彼は神のようにスティーブンとその一家に呪いをかける。スティーブンには後悔はあっても反省はない。彼は家族を守るために戦わない。子供を守るために自分を犠牲にしようともしない。そして呪われた彼らはみな、その運命を恐怖とともに受け入れる。

私はずっと冷たい汗をかき、どこまでも展開が読めずどこに着地するのか見えないこの物語を目にしながら、そうだ、大切な人を奪われるということはなんてクソな出来事だ、それはどんなに胸糞悪い出来事なんだ、と改めて思っていた。

最終的にはスティーブンの息子、幼い少年は生贄となった。復讐者マーティンの呪いは決着した、はずだった。しかしその後、スティーブンと妻、そしてその娘がマーティンを見るその目はあまりに冷たく、蔑むようで、敗者のそれではない。復讐を終えたマーティンは勝者ではないのか。そこでも私は衝撃を受けた。そうだ、復讐をしたってこの胸糞悪さは変わらないってことか!と。

他の多くの復讐の物語は、哀しみはいつか復讐の行為の中でのスリルに翻弄されていくし、それを終えたあとのカタルシスさえある。しかしこの『聖なる鹿殺し』には一切、その種のカタルシスはない。奪われた側のこの現実の胸糞悪さは永遠に続いていくといわんばかりの、すべてに呪いをかけるような圧倒的な作品だった。

 

私たちは潜在的に様々な鍵を心の中に持っている。男であるが故の、女であるが故の、さらには親と子に関する物語に何らかの縛りというか鍵を持っているように思う。それは、子は親を思うものだとか、母の子への愛は絶対だとか、子に対する性的な欲望は何よりのタブーだとか。しかしランティモス監督はそのひとつひとつの鍵をそっととりあげて、それを試すかのように奇妙な鍵穴を用意してそこから私たちにある世界を覗かせる。そうしてそれぞれの心に内在してるモラルを揺さぶっていくようだ。みんながそうだと信じている物語は、それは絶対に真実なのか、と。『ロブスター』も『聖なる鹿殺し』もそういう映画だったと思う。

この映画を、監督のヨルゴス・ランティモスを、好きかどうかが自分自身わからない。しかし次回の作品も多分見るだろうと思っている。

改めて、ウォン・カーウァイ映画について想う

欲望の翼』がデジタル・リマスター版として甦った。

最初に「配給 ハーク」とある。

原題の『阿飛正傳』、そしてその下に『Days of Being Wild』の文字。

邦題である『欲望の翼』が画面から立ち上がる・・・。

ああきっとこのタイトルは最初にこの映画を配給したプレノンアッシュがつけたのだよな、とそれを眺めながら思う。正直言えばどの映画がどの会社による配給かということなど、多くの場合無頓着だったりする。でも、ある時代の香港映画ファンにとって「プレノンアッシュ」の存在はとても大きかった。プレノンアッシュがウォン・カーウァイ作品を日本で配給してくれた。さらに「シネシティ香港」という香港電影ショップ、そして香港映画やスターたちの旬な情報を届けてくれた「香港電影通信」というペーパーなどで、香港映画ファンはどんどん熱く育てられていった。そういう特別な会社だったのだ、プレノンアッシュは。

今回のデジタルリマスター版にはプレノンアッシュの名前はどこにもない。しかし、その会社がつけた『欲望の翼』という邦題は引き継がれていくのだなあと、そんなことを最初に想いながら、同時に私の香港映画とともにあった熱い1990年代後半の日々のことも心の中に甦っていった。

 

そして『欲望の翼』。暑く重い空気。たったひとりで店番しているサッカー場の小売店の女。ぶつかりあう空き瓶の音、そこにやってくる靴音もすごく響いてて、そこは滅多に人が訪れないような場所のようで、そこでなにか危険なことが始まってしまうような緊張感に満ちている。

この時代の多くの香港を舞台にした映画は人が多くてどこか猥雑な「香港」を描写しているが、この映画の中の場所には人はとても少なく、彼らの孤独を象徴している。

さらにカメラがまるで、誰かを見つめてはちょっと目をそらしてしまうような、心の揺らぎやとまどい、出ない答え、出さない言葉、そういうものを表しているかのようだ。

私はレスリーのファンだけどこの映画のヨディに感情移入する部分はないし、同様に他の女たちにも感情移入して見ることはない。何が好きかといえば、ウォン・カーウァイ監督が描く「一回性」についてなのだと思っている。

ヨディは一瞬で恋をする。しかし一瞬しか恋をしない。

そしてその他の登場人物は、たった一回だけの出会いで一瞬で恋をして、ただそれだけをずっと心に秘め続けて生きる。鳴らない電話を待つ。またはたった一度だけ電話をしてみる。たった一回が永遠になる、ウォン・カーウァイの作品に描かれているそれが、私にとってたまらなく胸を焦がすのだ。

すべてはもう二度と出会うこともない、かつて愛したもの。

その一瞬の思いだけを抱えてその後の人生を生きていく、長い長い孤独の時間。どの登場人物も涙はとうに乾いてて、したたかで、生きていく糧を得るために生活していて、あたりまえに孤独だ。その姿に私はなぜか心が震えるんだ。

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