おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

2020年4月29日~5月10日

ゴールデンウィーク

30数年前の、私が22歳とか23歳とかそんなころだと思うけれど、武田とゴールデンウィーク旅行のために関西に向かうバスに乗っていた時じゃないかな、私たちは浮かれてて、適当なメロディをのせて「ゴールデン、ゴールデン」と歌ってた。ゴールデンを何度も繰り返すうちに「GO油田」になったりして、言葉がどんどんゴージャス感を増していった。その頃の私はザ・ベスト・オブ貧乏イン・マイ・ライフだったからよけいに、ゴールデンウィークというキラキラした言葉だけでじゅうぶん浮かれていた。

その後、2001年にふたりで店を始めてからのゴールデンウィークはずっと仕事。大変だし疲れるけど。でも帰省してくるこの時期にしか会えない人に会えるスペシャルなウィークであり、そして一年で一番の稼ぎ時という意味でも、やっぱりキラキラしたスペシャルウィークでもあった。

そしてやっぱり、2020年のゴールデンウィークは、多分どう考えてもスペシャルだったとしか言いようがないね。

12日間の休日で映画館にも行かず旅行にも行かずに過ごしたのは、少なくともこの20年間では無かった、かも。

12日間。

外食は2度。あとは全部、武田の作ったおうちごはん。

友達に会ったのも2度。

家で観た映画は4~5本ほど。あとは『仮面ライダー電王』と『仮面ライダーオーズ』。全49話と全48話を完走。1年かけて作られる仮面ライダーはやっぱり本当に素晴らしい。過去作を通して観たいとは思っていたが、一体どんなことがあればそんなことができるのか、そうだ私が入院でもするようなことになったら観ようと考えていたのだが、入院もせずに叶ってしまった。

しばらく前にライターの山口雅さんと「それぞれ何か短い脚本を書いてみよう」と話していたのだが、その締め切りをこのGW明けに設定したので、とにかくそれを書いていた。特にどこかに発表する計画も決めず、何の脚本かも問わず、ただ私たちは「脚本」というものの興味のために書くことにした。ただ何一つ手掛かりがなしに書くのは難しいので、お互いに設定として「部屋の壁に穴」ということだけ決めて書くことにした。書こう、と約束して書かないことがすごく気持ちが悪かった。こんなに目的もなく、そして自らから湧き出す書きたいという欲求もなく、ただ自分に課した約束を果たすためだけに書くのは初めてかもしれない。でも何故?という問いはなかった。本当に、遂行しないことへの自分自身への不快さに押された。そして、これがどんなに不細工なものになろうとも今、何かを形にしようとしている行為、それがあることが、私は正直嬉しかった。脚本はなんとかできた。8500字、多分、演じてみて15分~20分ほどの二人芝居。自分がかつて芝居をやっていた(そして脚本を書いていた)経験から考えるに、今回の私の作には圧倒的にきらめきみたいなものが足りない。でもしょうがない、と思ってる。これが今の時点の私がやれるぐらいのことかも。それより、やろうと言ったことを終えた、とりあえず宿題は出したよーぐらいの8月31日気分でスッキリはしている。

武田の作った朝ごはんを食べて、私が洗い物をして、しばらくするとまた武田が昼ごはんを作り出す。一日が本当に早い。食べて、片づけて、散歩して、食べて、片づけて、PCに向かって、食べて、PCに向かって、そしてすっかり夜になっていった。それでもごはんはうまいし道端の花も夕陽も風景ものどかで美しく、ほとんどの日、私たちは楽しかった。

しかしこの12日間で2つの死に出会った。1つは三木黄太さん。三木さんはチェロ奏者で、COTUCOTUというチェロ三重奏のライブはマタハリでも行った。三木さんの参加するパスカルズのライブは得三で2回、聴きに行った。あとは三木さんは2度か3度ほど、マタハリにご飯を食べに来てくださった。お会いしたのはたったそれだけでしかない。三木さんのお知り合いの人ランクでは私はとても下のほうになる。それでも想像だけど、三木さんを知る人はとても三木さんに対して近しい気持ちを持っているに違いない。私もそうだ。三木さんは、そういう気持ちを相手に抱かせる人だ。三木さんは木工家具職人でもあり、三木さん製作の猫椅子は、うちの店にずっとある。 もう1つの死は、あまりに私たちの個人的な経験になるのでここでは書かないのだけど、すごく大きなことがこの休みの間に起こった。

 

すごく何もないようで、すごく大きなことも起こった、この12日間。

特別な12日間がもうすこしで終わろうとしている。

 

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『東宮西宮』その2

以下の文章は、私が『東宮西宮』を見たばかりの、2000年頃、当時36歳の頃に書いた文章です。私自身はこのテキストを紛失していたのですが、テキストを保存して下さってたよりよりさんに心から感謝します。

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東宮西宮』

1996年中国製作

監督・・・張元(チャン・ユアン

撮影・・・・・張健

音楽・・・・・向人

主演 アラン・・・司汗

小史・・・・胡軍

青い色で包まれたこの映画。 繰り返される再生を包み込む、夜明けのほの明るい青。 どこまでも深く秘められているものを押し包んでいる、夜の青。 その色の中で、作家のアランという男に出会ったことで、変容していく警官、小史。 そして、自らを語っていくごとに、ゾクゾクする程美しさを増していくアラン。 この映画はそんな二人の関係の物語です。

1.「エロ」へ!

エロ。

いつからこの言葉が今の私達の周囲から消えたのだろう。

あるのか? ほんと? 何処にだ? 私が知らないだけ?

だって私の周りには見当たらないぞ。 むせかえるような猥褻さ。 薄暗くねばつくような空気。 汗ばみ、体温が上がっていくような感じ。

アダルトビデオ。あれはエロなのか? アニメ絵のエロ漫画。あれがエロなのか?

私が年を取ったから? まあそれもあるが、でも周囲も、文化も、そして私自身も、 こと性に関しては萎えてしまっている様な気がして仕方が無い。 かつてあった筈の、焼けただれたアスファルトの上に立っているような、そんな感覚が。 確実に私達は去勢されてきているような気がしてならないのだ。

例えば。

八月の濡れた砂」「水のないプール」

高校のときにキネ旬でそのタイトルとあらすじだけで感じた、あんな風なひりひりと焼けつくようなエロは何処へ消えたんだろう。

勿論、この「東宮西宮」はエロ映画ではない。 ただ、見ているうちに「エロ」という言葉を思い出したのだ。 今の日本が喪失してしまった「エロ」を。

「エロ」だ。 これは、エロスとかエロティックとか、そんなお上品な言葉じゃ済まされない。 中国では公開を禁じられた、このゲイの物語。 しかし、この映画は中国でしか生まれることが出来なかっただろうと思う。 アメリカやヨーロッパ、勿論日本でもゲイに関する映画はたくさん生み出されてきた。 しかしこれほど「エロ」な映画は少ないのではないか。 「エロ」が生みだされるのに最も必要なものは「激しい抑圧」だからだ。 そう、映画の中でも主人公はこう語っている。 「苦痛のない生は意味がない」と。

主人公の作家の男、アラン。社会的に彼の性は、彼の思想は、人生は抑圧されている。 だからこそ身体中にエロをたぎらせている。 彼は警察官の小史に捕まり、自由に動くことを制限されている。 床にしゃがめ、椅子に座れ、動くな、と。 その中で彼の笑いに歪む口元、ほんの少し動かす手、 いつも正面を見据えているが時折、ほんの時折動くその黒目。 それらに周りの空気が鳥肌立つようにざわざわとする。

「愛している」という。この静かなエロの魔物が愛していると言う。 小史は、同性愛などけがらわしくて信じられない。 「愛している」と目の前で訴えられるのは怖い。 それが例え同性じゃなくっても、異性でも怖い。 しかも、それを言う目の前の同性の「男」は、彼の目は、体は、 どうしようもなく切実で、つきささるほどの鋭さをもって、 たぎらせるエロをぶつけてくるのだ。 それは真冬に道を歩いていて、突然背中に氷水を入れられたような気分だ。 あまりの衝撃に身動きできず、ただ立ち尽くしたまま、 その事実を凝視することしか出来ないのだ。

静かな映画だが、最初から最後まではりつめたような緊張感だ。 薄い氷のような。 ううん、ちょっと違うな。 射精されることなく、きつく固く勃ったままの性器。 そんな感じだ。

 

『東宮西宮』

自分の大好きな映画を誰かに薦めたくなる。

しかもそれが現在、なかなか見ることが叶わない作品であればあるほど。

私はすごくいろんな人にこの『東宮西宮』を薦めたい。

是非、この映画がリマスターされて、再び映画館で上映される日が来ることを願ってやまない。

1996年中国製作、日本では1998年に公開された中国映画『東宮西宮』を。

●監督 張元

●キャスト アラン・・・・司汗

     小史・・・・・・胡軍

     バスと呼ばれる少女・・・趙薇

●あらすじ (なかなか手に入らない作品なのでかなり詳細に書きます)

北京のとある公園の公衆トイレ。その付近はゲイの男性たちが出会うハッテンバになっている。そしてそこに集まるゲイの人々を見張り、取り締まるための警察もいる。

小説家アランはそこに行く。一度はある警察官から尋問され、賄賂をせびられるがうまく逃げる。次にはその公園で出会った男と木の陰で抱き合っているところを、警察の男、小史に捕まえられる。しかしアランは小史を誘うような目で見つめて、いきなり小史の頬にキスをして逃げる。呆然としたまま立ち尽くす小史。

そして三度目。数人のゲイの人々が警察に捕まり、小史はその中にいるアランを見つける。小史はアランを尋問するため、誰もいない警察の執務室へと連れていく。

アランを跪かせた姿勢で調書をとるために尋問する小史。アランは自らの性癖を語っていく。母親に愛された子供時代、高校時代の誰とでも寝る同級生の女子、しかし自分は男性への憧れが募っていったことやいろんな大人から凌辱された過去を語る。彼の話のどれもが被虐の歴史であった。そしてアランは警察官の小史に「あなたに捕まえてほしかった。あなたを愛してる」と伝えるのだった。とまどう小史。小史は、トランスセクシャルの女性から没収した赤いワンピースとハイヒール、そしてヘアウィッグをアランに渡す。これを着ろと。アランは抵抗する。私は、そうではない、女装はしない、と。しかしそれを強要する小史に屈し、アランは女装をする。その姿にまた動揺する小史は・・・・。

 

中国は過去においては同性愛に対して寛容だった時期もあった。しかし文化大革命の1979年から同性愛は拘留や罰金の対象となったり、また矯正の必要な病気だとみなされるようになった。2000年以降は精神疾患でもなく犯罪とみなされることもないが、それでも公式にはLGBTの権利は認められていないし、ゲイ映画やドラマも公式に上映することを認められてはいない。インディーズでのゲイ小説やコミックは現在でも摘発の対象となっていることは周知の通りである。

この「東宮西宮」は1997年のカンヌ映画祭「ある視点」に出品されている。ところが張元監督は中国政府からパスポートを取り上げられ、出国叶わず映画祭に出席することが出来なかった。ゲイ映画である、ということが中国政府の怒りを買ったからだろうか。

ゲイ映画、という意味では、本当にこの映画はゲイの人々を丁寧に取材し、作っているように思う。日本でも未だ多くの人がトランスジェンダーとゲイの違いさえわかってない場合もあると思うが、1996年に中国で作られたこの映画の中では、なにもかも一緒にして「反社会的であるが矯正可能な精神疾患」としか捉えていない小史に対してアランのセリフが、その様々な性の形を語っていくのだ。

更にこの映画は、ゲイのアランと彼に翻弄される小史の姿を通して、もうひとつ大切なことを語っている。抑圧されているのは勿論、ゲイだけではなく、自由な思想である。そして抑圧しているのは警察官の小史だけではなく、それは「中国」という国なのだ、と。私にはこの映画はそんな風に見えた。同じ国民であるはずなのに常に見張り、何かあれば住所・民族・生年月日などすべて記載された身分証の提出を求められる。アランの姿からそのような抑圧の中に生きていることが示される。しかし、この映画の不思議な部分、それはアランは被虐の中から快楽を導き出し、抑圧するものを誘い、「愛している」と言う。その言葉に抑圧者が揺れていく、という構造がとても面白い。それはまさに新しい革命の力を示唆しているようだ。

 

小史以外他に誰もいない警察の中、アランは小史に向かって自身の性にまつわる過去を語る。恋人だと思っていた男からの裏切りだったり、またはSM的な性行為だったり。それを聞く小史の脳内では、いつしかアランを犯す男=小史になっている。その演出がとても面白い。小史はその自身の妄想に追い詰められていく。それまで否定していた同性愛という関係に、小史の欲望は惹きつけられていくのだから。小史はそんなアランを後ろ手に縛る。アランを跪かせて彼の頬を張る。それは本来、相手を罰する行為だった。しかしその行為ひとつひとつが、淫靡な愛の行為に変容していく。アランの目はますます妖しく輝いていき、彼の呼吸すらエロティックに響いてくる。

クライマックスに、小史はアランを女装させるが、そこに現れるのは男とも女ともつかぬ、妖艶な何者かであった。アランは全身から小史を誘っている。そのアランの手を掴み、キスをし、荒々しく引きずれば、アランはまるでか弱い者に変わる。埃をかぶったような固いベッドに押し倒し、赤いワンピースの胸元を広げる。そこに現れるのは、女のやわらかな胸ではなく、硬い薄い男の胸だ。動揺、動揺、動揺。凄まじい動揺。彼はホースを取り出し、そこからめちゃくちゃにアランに対して放水する。それは小史の抵抗、または拒絶と見るか、それとも性交のメタファーか。

最後、放水されてウィッグも取れ、無残にも引きちぎられて胸元が開いたままの赤いワンピースを着て、濡れたままの顔で上を仰ぎ見て笑うアランの顔には、屈辱や敗北の影はなく、勝利でもまして愛の獲得でもなく、それでも何かしら明るい陽射しが、このカオスな一夜が明けて仰ぎ見る朝日のような眩しさと痛さが感じられる。

ゲイであるアランの人生、そして抑圧されているそれぞれ中国人の人生のこの先には、きっと望む未来がある。いつかきっとそこにいくのだと、そういう意思をこのラストシーンから感じるのだ。

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『3番線のカンパネルラ』と「ゲイではなくて」問題

京山あつきという作家の『3番線のカンパネルラ』を読んだ。

BL。

BLとはなんぞやというと、すごーーーく大雑把に言えば恋愛を中心とした男性同士の物語であり、そこには性描写が含まれる。含まれるというかジャンルとしてかなーり必要とされている。

いや、それはあくまでもBL作品の傾向である。そしてその観点からすれば、『3番線のカンパネルラ』には性描写はとても少ない。

主人公の加納は洋服店で勤めている。前の彼との別れをずっと引きずっている。前の彼から言われた言葉を思い出しては自分自身を否定し、新たな人間関係に恐れ、人との距離を置いている。たまたま電車の中で出会った男子高校生を心の中でカンパネルラと呼び、その存在に少しずつ癒されてる。そして同時に、洋服店との店長が緩やかに加納に近づいてきて、元来恋に落ちやすい加納は店長に恋をしていく・・・。

 

人を思うことに対する恐れ。それと同時にどこか自意識過剰であり、ちょっとしたことで心が揺らいだり、そしてふっと誰かに恋をしてしまうこと。そんな加納の心の動きは人によってはとても共感できるものじゃないかな。

そういう部分もとても素敵な物語だけれど、後半にとても大事なことが描かれている。

 

加納は店長ととても幸せなセックスをする。そのシーンは本当に幸福感に満ちている。その幸福な夜の余韻の残る朝、ふたりはリラックスして笑いながら話をしている。

店長は「男性とは初めて」と言う。加納は「僕は男性としかしたことがない。女性とは無理だった」と言う。

店長は同じくその店に新人で入ったゲイの男の子に思いを寄せられた経験があり、そして加納と寝たことで「僕はゲイにモテるのかな」と思う。「いやー、僕と付き合うなら店長もゲイでしょー」と言うと店長は軽く「え? いや僕は違うよ」と言う。

それを聞いた途端、加納はいきなり冷や水を浴びせかけられたような気分になり、目に涙をためて泣き、そして怒るのだ。

 

私の友人で、そしてBL作品を愛するゲイの男性たちが、BL作品の中で登場する

「僕はゲイではない。けれど人として君が好きなんだ」

という言葉に傷ついてると言う。私はそのことを多くのBL好きの女性に知ってもらいたいなと思ってるし、私も友人たちのその気持ちをまずは真摯に受け止めたいと思う。

BL作品には確かに「男とか女とか関係ない。君だから好きなんだ」とか、そういうセリフがよく出てくる。友人たちは、その根底には実はゲイ差別がある、と言う。

正直言えば彼らからそれを聞いたとき、私は俄に信じられなかった。私が元々、創作物、特に二次元としてのBLが好きと言うわけではなく、多分、子供の頃から実際の同性愛者やトランスジェンダーの人たちに対して興味と、それからある種の愛情があったためかもしれない。ところが彼ら自身もBL作品を愛しているにもかかわらず、実際に会ったBLを愛する女性たちから酷い言葉を受け、排除された経験があり、彼らは本当にそのことに傷ついている。ドラマやマンガの中にそのセリフが現れるたびにその時受けた心の傷を思い出し、トラウマになっているそうなのだ。

何故そのようなことが起きたのかと考えてみた。BLを愛する女性たちの世界はホモソーシャルであり、そこにはゲイといえども実際の男性を拒否したい、ということなのかもしれない。物語の中の美しく、または切ない物語とキャラクターを愛していて、そのことをBL好きの女性たちのみで共有することを良しとするものの、生身のゲイの男性とはその思いを共有できない、という気持ちがあるのではないか。

しかしそれとは別に、私はゲイ差別ではなく、「ゲイではなく君が好き」という発想は、女性には「新しい自分になることが好き」ということと「その恋愛の唯一無二性を願う」というところがあるのではないか。それで、

ノンケ男性が男に恋をした

もしかしたらそれは一過性のもので女性に戻るのではないか

いいやそうではない

確かに僕はゲイではなかった。でも君によって変わった。そして君(だけ)が(一生)好き

ゲイではないが君が好き

 

と、こんな感じで1人の男性がある1人の男性に出会うことで大きな変節を迎え、そして彼らは一生結ばれる、という物語をBL好きの女性たちは愛しているのではないかと思うのだ。

 

私はゲイの友人たちに伝えたい。BL好きの女性で、「ゲイでなく君が好き」という言葉をさらりと入れている人たちの中の殆どの人たちに、ゲイ差別がないことを私は信じてると。

そしてBL好きの女性たちと話したい。心の中に、『私が好きなのはBL作品の中だけで、現実の同性愛者やトランスジェンダーの人たちは私には関係ない』って思ってはいないかと。そしてちょっと立ち止まってその気持ちに気付いてほしい。この『3番線のカンパネルラ』を読んで、加納の涙のわけについてよくよく想像してみてほしいと思ったんだ。

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男たちの3日間の恋の物語 『ダンサー そして私たちは踊った』と『ソン・ランの響き』

いろんな理由で1日2本、映画を見に行く。

休日にせっかく出かけるのだし、1本だけ観るのではなんだか勿体ないとか。

観たい映画は何本もあるので、1日に2本は観ないと追いつかないとか。

それから、2本観ることでちょっと面白い相乗効果が生まれる、とか。

今日のもそんな感じ。

ジョージアを舞台にした『ダンサー そして私たちは踊った』を観て、ベトナムを舞台にした『ソン・ランの響き』を観た。

どちらの映画もその国の伝統芸能が深く関わっている。その国の音楽も深く関わっている。そしてどちらの映画も逃れられない貧しさがあり、でもその町や住む家の風景や色合いが観ている私を強い力で誘う。ああ、あんな窓辺。あんな階段。あんな植物。様々な風景がここに来てみないかと呼ぶようだ。

2本の映画が今、私の中でうねっている。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

『ダンサー そして私たちは踊った』

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ジョージア国立舞踏団に所属するメラブ。

ジョージアの伝統的な舞踏は、女性には処女性を求め、男性は釘のようにまっすぐで強く、揺らぎがないことを望まれる。「ジョージアの舞踏にセックスは必要ない」と言い切る厳しい指導者のアレコ。メラブは舞踏団の中で幼馴染のマリと共に踊りの重要なパートの指導を受けている。さらに夜はレストランでのアルバイトで家計を支えている。メラブの家庭は、いやジョージアの多くの家庭は貧困にあえいでいる。

そんな中、イラクリという青年が舞踏団に現れる。彼の踊りの技術はすぐにアレコの目に留まる。

ちょうどその頃、メイン団の男性ダンサーに1人、欠員が出た。メイン団に入ることが出来れば給料も上がる。その欠員候補者として数人、その中にメラブとイラクリも選ばれる。ライバルではあるが、早朝のまだ誰もいないレッスン場でレッスンする中、メラブはイラクリに恋をしていく・・・。

・ ・ ・

この映画はジョージアの伝統的な舞踏の音楽で始まる。

速いテンポで演奏されるパーカッションの音に気持ちが高鳴る。そして動くときに上下の揺れを感じさせずに滑るように移動する女性の踊りと、対照的に強く激しく動く男性の踊り。ジョージアの踊りは私にとって見たことのない舞踏だった。

舞踏のパートナーでもあるマリとは付き合っているのだが、それはこどもの頃からの延長のような付き合いだった。しかしイラクリのダンスを見て、メラブは初めての恋をするのだ。ダンスと生活に追われてどこかイライラしていたメラブの表情が花が咲くように明るくなっていき、ひとりでに笑みさえこぼれてしまう。目で常にイラクリを追ってしまう。メイン団にでた欠員は、あるメンバーがゲイだとわかり、他の団員から暴行を受けた上に修道院に送られてしまったせいだと噂が飛び交っている。それを知っても、メラブの気持ちは抑えられない。

そして、マリの誕生日パーティに数人の舞踏団のメンバーたちと共に招待された2日間。

1日目の夜、眠れなくて外でタバコを吸っていて、寝室に戻るとイラクリの姿がない。探すと誰もいない雑木林の中、ひとりタバコを吸っているイラクリ。その隣に座り、メラブとイラクリは言葉はなくとも目と目で、お互いの体と体で惹かれあい、お互いの体に触れ、お互いの欲情を知る。

2日目の夜はふたりで昨晩の場所に行き、キスをし、セックスをする。

3日目、彼は幸せに満ちたまま帰宅し、そして翌日にレッスンに行くと、そこにイラクリの姿がない。

恋をしたメラブは幸せそうで、そしてそれが成就したかに思えたこの3日間が何よりの幸せだったはずだ。しかし、理由もわからないまま、イラクリに連絡が取れなくなり、メラブは激しく動揺し、それと同時に彼は何もかもをなくしていくのだ。

恋が、彼にいろんなものを失わせた。

いや、そうではなく、恋によって彼はいろんなことを知るのだ。彼の住む世界の貧しさだとか、男が男らしくあらねばという世界の仕組みを。そしてその世界の中に幸福な未来を感じることができないということを。

最後、彼は踊る。それは彼が目指したオーディションだった。しかし彼はジョージアの伝統舞踏が求める踊りではなく、彼自身の踊りを踊った。

痛みと、美しさと。

踊って、そして去っていく。

恋をして、その恋は幸せな結末を迎えることはできなかった。でも彼は変わることを選んだ。自分がこれまでここにしか道はないと思ってきたものから外れて、別の地平に向かって。

悲しいけれど、そこには未来があった。


『ダンサー そして私たちは踊った』

 

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『ソン・ランの響き』

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ユンは貸金業を営む女の下で借金の取立てを生業としている。取り立てのためには暴力も厭わない。ユンは、カイルオン(ベトナムの大衆歌舞劇)の劇場に取り立てに行く。公演を前日に控えた劇団だが興行主は借金の返済が滞っている。ユンは舞台衣装にガソリンをかけ、払えないのなら今すぐ燃やすと脅しをかけるが、それを止めたのが花形役者のリン・フン。自分の時計や貴金属を代わりに差し出そうとするが、ユンはそれを受け取らず、その日は帰る。

公演初日。ユンはその舞台を見に行く。「ミー・チャウとチョン・トゥイー」という演目は、敵国同士の王子と王女の悲恋の物語だ。観客は彼らの演技に酔いしれ、泣いている。ただ、リン・フンの師匠は、彼の演技を完璧であるが、役者として恋をして、人生の経験を積み、役をもっと深めよとアドバイスをする。

舞台の後、公演の収入から借金の返済金を受け取るユン。

公演の2日目。開演前、リン・フンは食堂で僅かばかりのビールと共に食事をしていると地元のヤクザに絡まれた挙句、ビールを頭からかけられる。それに対してヤクザに殴り掛かるリン・フン。店の中で乱闘になるが、ちょうどその少し離れた席で食事をとっていたユンが加勢し、ヤクザを追い払うが、リン・フンは昏倒し、ユンは彼を自分の住む部屋に連れてきて寝かせる。2日目の公演に穴をあけてしまったリン・フン。しかも乱闘時に(多分、宿舎の)鍵をなくし、帰ることさえできない。そのまま、ユンの部屋で一夜を過ごす。それは長い夜となった。いつしかふたり、ファミコンに興じ、幼いころに共通の本を読んでいたことを知る。そこに突然の停電。ふたりは外に麺を食べに行き、そしてお互いの子供時代や過去について語り合っていく。その一晩でリン・フンはユンの様々な面を見る。子供たちや年下の者に向ける優しい眼差しや、ソン・ランを弾くユンの確かな腕前や。そして彼は、取り立て業をやめて自分の劇団に来ないかとユンを誘う。

公演3日目。戻ったリン・フンの表情が違っていることを、彼の相方でミー・チャウ王女を演じる女優は見抜く。リン・フンは恋をしているのだった。そしてその夜の演技は圧巻だった。恋人を待つ思い、そして引き裂かれた悲しみを全身全霊で演じるリン・フンに師匠さえもが舞台袖で泣きながら見つめている。しかし、その悲恋の物語と呼応するようにユンは・・・・。

・ ・ ・ ・

という物語で、ある意味この物語はBL設定てんこもり!

そして2人の3日間の話である。これが恋の話かどうか、そこは描かれていない。孤独な男たちの友情、かもしれない。一体恋なのかどうかの違いは何か。そこに欲情があるのかといえば、それは描いてはいない。ただ、ユンはリン・フンに魅了され、リン・フンはユンにシンパシーを感じた。ただ、リン・フンの師匠が言った「恋をしなさい」の言葉。恋が彼を変えると言ったそれを思うと、これはやはり恋の物語なのだと思う。しかもそれは、まるで当時のベトナムの人たちが愛し、涙したカイルオンのような、どうにもならない運命の中に翻弄される悲恋の物語。


ベトナム映画『ソン・ランの響き』予告編

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

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カナダのグザヴィエ・ドラン監督。

若い監督、とつい言ってしまうけれど、2009年『マイ・マザー』で鮮烈にデビューを飾ったとき彼は確かに19歳だけど、現在はもう30歳なのか。

とはいえこの映画は2018年製作だから28歳。

しかしこの作品の子役、ジェイコブ・トレンブレイの演技が素晴らしく、結局人は、若いとか子供とかそういうことではないのだ。子供は子供の時、世界の中の大切なことを既に知っているし、20代にはそれ以降の人生のすべてがそこに既にある。作り手である彼らからも、そして映画の内容からも、そんなことを改めて思う。

 

(この先、映画の内容に触れています)

2008年、イギリス。ルパートは母親に詰め寄る。僕宛てに手紙は届いていなかったかと。

「届いていない。いや、届いたけどそれは誤配であなた宛てではなかったからホテルのフロントに戻した」明らかに嘘をついているような母親の返事。

ルパートは、その手紙は、ドノヴァンから届いたものじゃないのか?僕はやっと彼に会えるかもしれないのにと言い募るその時、テレビのニュースでアメリカの俳優、ジョン・F・ドノヴァンが29歳で亡くなったというニュースが流れる。

2018年プラハ。21歳になったルパートはオードリー・ニューハウスという女性ライターの取材を受ける。しかしコンゴ出身で社会派ライターのオードリーは、ルパートへの取材にあまり興味がないようだ。ルパートは子供時代の5年間、ドノヴァンと100通に及ぶ文通をしていた。彼と直接会ったことはない。そのことに関してルパートは手記を発表した。しかしオードリーは取材にあたってその本を読んではおらず、ルパートのことも誇大妄想狂による暴露ネタぐらいにしか思っていないように見える。そのオードリーにルパートが過去について語る。それはルパート自身のこと、そしてドノヴァンからの手紙で彼が知りえたドノヴァンの苦悩。

映画の導入はこんな感じだ。

・ ・ ・

最初、オードリーの取材態度は熱心とはいいがたい。なぜ私がこんな話を取材しないと・・・という顔をし、飛行機で次の取材場所に行かねばならないため、さっさと切り上げたいようだ。それに対してルパートがこのようなことを言う。あなたはコンゴの出身。政治や環境、そして人種差別。世界で起きている様々なニュースだけが大事で、ドノヴァンと自分が置かれている問題はそれほど矮小なものか、というようなことを。例えば彼らがゲイであること。恋人が出来ようともそれを隠して生きていること。隠しているがそれでも周囲がそれを暴き彼らを晒し物にしようとすること。家族との間に軋轢が生じていること。それらの無理解や差別は、世の中において、いやあなたにとってそれほど矮小なことと思えるのか、と。

私はドラン監督の作品はほぼ観ているのだが、この作品はこれまでの作品の中でもっともメッセージを強く打ち出してる映画だと思った。

この取材中におけるルパートとオードリーの会話がそうだ。

世界で起きている様々な問題の大小ってなんだろう。結局はミクロな、小さなひとりとひとりの話であり、どの問題もその小さな人と人との集合体が膨れ上がって対立する、すべてはただそれだけのことの筈だ。

・ ・ ・

幼いルパートは学校でも家でも孤独。ただ、テレビドラマの中のドノヴァンに熱狂した。そして彼に手紙を書いた。それに対してドノヴァンは返事をくれ、そこからふたりの文通が5年間続いたのだとルパートは言う。当時、ルパートはそのことを母親にも、勿論学校のクラスメイトにも先生にも言わなかった。誰もが信じない、とは思っていなかった。そうではなく、お互いの孤独な魂はふたりだけで共有できるもので、それを壊すことなく大切にしたかった、という想いだったのだ。ルパートは幼かったし、そのことをドノヴァンも知っていたはずだが、確かにルパートだけが彼の苦悩を理解したのだ。

そんなことがあるだろうか。映画の登場人物たちは誰もが思う。ルパートは嘘をついている。またはドノヴァンは小児性愛者か。そうやって離れた場所にいる彼らをそれぞれに追い詰めていく。

しかし。胸に手を当ててゆっくり、深く、自分の子供時代に潜ってみてほしい。私たちが子供だった時、それは本当に経験がないゆえに何も知らない、無邪気で未熟な存在だったか。例えば11歳とか12歳の頃。そう、本当にグザヴィエ・ドランはそのことをよく知っている。この年頃の私たちって、ある種の明晰さを持っていた。家族の中におけるバランス、またはアンバランス、大人が子供に隠している何か、学校の中の人間関係におけるいろんなことを、ちゃんと心の中で明晰に理解している。そして孤独について正しく理解していた。私たちは皆、そんな時間を持っていた、と思っている。

ドランの作品にはその思いがいろんな形で表れているけれど、この映画ではその点もとてもストレートに描かれていたと思う。

・ ・ ・

グザヴィエ・ドランの映画を特徴づけるいろいろなものにもいつも心惹かれる。

例えばドノヴァンの幼馴染であり同じく俳優、そして公的には彼女ということになっているエイミー。この女性がメイクや顔の骨格なんかが、ドラァグ・クィーンのようで。こういった雰囲気の女性を登場させるのがとてもドラン監督っぽい。それから愛と無理解と孤独を煮しめて、それが涙やら汗となってアイラインを滲ませるような母親という名の厄介な関係の女、そういう人が登場するのもこの監督らしい。

それから、ドラン監督の脳内世界にはいつも音楽がかき鳴らされているのではないか。まるで優れたPVのように。とても劇的に。彼の映画における音楽の使い方はそれを思わせる。ドノヴァン、という男が現れる時、そこに音が生まれて世界を形作っていくようだった。そういうところもいつも好き。

 

『影裏』綾野剛の儚さに悶絶するか。それとも・・・?

キャスト

今野秋一  綾野剛

日浅典博  松田龍平

西山    筒井真理子

副島和哉  中村倫也

スタッフ

監督   大友啓史

撮影   芹澤明子

音楽   大友良英

 

何の予備知識もなく観に行った。暗い会社の中、暗い表情の綾野剛演じる今野。運んでいる段ボールには中に入ったものを記した救援物資で、そこが震災後の東北だと徐々にわかる。会社を出た今野を駐車してる車の中で待ち伏せし、そして彼を捕まえる女、筒井真理子演じる西山。「今野さんはさあ。最近カチョウと会ったりしてた?」こんな風に始まる映画を。

 

そこから話は過去に戻る。淡い朝の光の中、うつぶせになって眠っている人の足、ふくらはぎ、太もも。フィットする素材の下着から少し太ももの肉の柔らかいところがはみ出ていて、そこから続く下着に包まれた丸い尻。・・・とカメラがゆっくり舐めていく。細くて、白くて、美しくて、でも女ではない男の下半身。寝ている男をこんな風に足先からゆっくりと撮る映像など初めて観たかも。

そのまま起きても上半身裸、つまりパンイチ、しかも先ほど書いたようにやけにフィットする素材の白か薄いグレーの下着。ああもう、いろいろがくっきり。カメラの位置はやけに下。私は男の下着姿に特に何も感じないと思っていたが、なんなんだこの映画の綾野剛の美しさは。ひとり目覚める朝のシーンは何度も登場し、そのたびに足先から映される。風呂に入る全裸の後ろ姿も出てくる。まるでその部屋にはもうひとり誰かがいて、それを覗いているような。綾野剛が、誘っているように思えてくる。その孤独と美しさで、この部屋に誰かが来ることを。

いや、彼は決してそんなことを望んでなどいない。人との接触を拒否しているようにも見える。それでもアパートの住人はクレーム付けにずかずか入ってきてくるし、そして日浅という男もいきなり彼の領域に侵入してくるのだ。

 

今野を演じる綾野剛がとても儚げで、日浅を見る目が、彼の行動や言葉にいちいち驚き、心が揺れ、そしてしっとり濡れていく。とにかくとにかく、これまで観た綾野剛の中でもっとも切なくて美しい。かつての恋人、副島(中村倫也)との短い逢瀬のシーンも!

しかし日浅演じる松田龍平は、ほんとうにとらえどころがなく、怖い。日常の中に猟奇的なセリフが混じっていってもそこに何かしらの説得力を感じる。そして私は映画を観ながら、この男はかつて誰かを殺したのだろうか。それともこれから誰かを殺すのだろうか。そんな思いにとらわれながらずっと見ていた。松田龍平が画面の中にいるとずっと不穏なのだ。幸せなシーンでも、そうでないところでも。

不穏と言えば筒井真理子。本来、この映画の中の西山という女は確かに日浅と絡んでいるわけだけど、筒井真理子が演じることで無駄に不穏さが立ち上がってきてた。指で自らの唇を触った瞬間のどこか下品でさもしい印象、回りくどいセリフと微妙な間。いったい何が起こるのか、何があったのだろうと不穏にさせる演出だったな。

日浅の父親のセリフも印象的だった。捜索願を出さない理由。この辺りのセリフ、すごく好きだった。

震災によって多くの命が行方不明となっている。救済と復興。そして行方不明者を探し出すということ。あの時、あの地に求められていることには果てがないと思われた。そこで、あんなやつのためにその労力を使ってもらいたくない、と父親が言い切るのだ。すごくそれが突き刺さった。命に大小はない。命に貴賤はない。それは真実だ。けれどあの非常事態のさ中、自分の愛情を裏切った人間に対してその真実は本当に揺らぐことはなく真実としてあり続けられるか否か。過酷な選択が日常と化していた東日本大震災の日々。リアリティを感じられたシーンだった。

この映画は、小説を原作としたものだが、その物語のすべてを語りつくしていないような気がしたし、部分部分は説明的なシーンを削り、観ている側の想像力で補填する部分も多いと思う。それは全然嫌いではないけれど、どこか脚本としてこなれていないような気もした。それでも私は十分、綾野剛の美しさや切なさ、儚さに悶絶し、もし昔みたいに入れ替え無しで一日中上映していたら私はすぐさま2回目を観ただろうし、ソフト化したら持っていたいと思うような作品だった。

 

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