おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

『ホットギミック』良すぎ問題

(ちょっとネタバレありますからね)

映画『ホットギミック ガール・ミーツ・ボーイ』が予想以上にめちゃめちゃ良かった!!

誰が私の初恋なのか。

「全然わかんないよ・・!」

このナレーションから始まる予告映像を見た限りでは観る選択はなかった。

だって予告からすると自分に自信がない少女、初(はつね)が3人の男の子(しかもイケメン)のそれぞれの想いの中に翻弄されて・・・みたいな話で、自分に自信がないとかって、えー、アンタ十分に可愛いのになにさ、キーッ!みたいな気持ちになるじゃないですか。しかも初恋初恋て、私はもうそういうのあんまり響かない50代半ばですから、キーーーッ!みたいなね。


堀未央奈『ホットギミック ガールミーツボーイ』予告編

 でも監督は山戸結希。それなら観るしかないか、と思った。「やっぱり山戸結希は作品を通して追っていかないといけない監督だよね」と友達と、まるで何様?みたいなことを言ったりもした。

そして見終わって、劇場を出て、一緒に見た友達に「どうだった?」と聞くと感極まったように「めっっちゃ良かった・・・!」というので「私も・・・」と言った途端に激しく感情が込み上げてきて思わず涙が出てしまい、やっとのことで「山戸結希の作家性が・・・・すごく良くて・・・!」と答えるので精一杯だった。

原作は読んではいないけど大雑把に言えばこの物語は女の子の夢がいっぱい詰まっている。主人公は頭は良くない、友達もそんなにいない、特技もないし夢もない自信も持てない普通少女。彼もいないし、キスやセックスを経験している女の子とは違うステージにいる「未満」な女の子。そういう女の子の前に突然、新しい世界が降ってくる。それはまさにみんなの夢→同じマンションで育った幼馴染み、モデルの男vs頭脳優秀vs一緒に育った優しい兄(not 血縁)。今までの現実と地続きのはずなのに、そこは急に新鮮、だけど棘だらけの世界に変容する。

この原作をが山戸結希がかなり「山戸結希の作品」にしているのではないかと思う。

 

始まってすぐ、人物の顔のアップと短いカットが続いていくことにちょっとドキドキした。その映像はまるで恋の始まりのようではないか。好きな人のことを断片的に頭の中に思い浮かべているようで。

映像作品の中で長いカットがあると私はドキドキする。そのドキドキは、回ったままのカメラの中で、そのフレームの中で、俳優は何を感じどう動きセリフを言うのかを思い、その緊張感を思ってドキドキする。私の目の中心はそこに動く俳優にある。

けれど山戸結希の『ホットギミック』はその反対で、顔のクローズアップと細かいカットが多用され、また同じシーンでも風景の色合いが暖色だったり寒色だったりかわるがわるに変化したりもする。そこで私が見ているのは、俳優、そしてスタッフを動かしている山戸結希監督の作家性だった。明らかに私は山戸結希の作るものにドキドキしている。山戸結希が描いている10代の少女たちへの想い。同時に男の子たちがみな、美しく、そして恐ろしく描かれている。それは過去作『溺れるナイフ』もそうで、あの菅田将暉は本当に美しくて存在が儚くてそして恐ろしかった。

 

溺れるナイフ』の小松奈菜がそうだったけど、『ホットギミック』の主演の堀未央奈、妹役の桜田ひよりがとてもエロい。色っぽいではなく、エロい。内側からエロさが満ちている。10代の女の子たちのカラダの中には、外に出せない、形にならない性欲が入ってる。産毛がキラキラしてる薄く張り詰めた皮膚の内側には、彼女たちは何か特別のもの、女の子を見つめる誰かにとってすごく特別なものを入れている。きっと歩くたびに、たぷん、たぷんと音がするのではないかと思うなにか。

 

作中のマンション、あのマンション(実際は豊洲のUR賃貸 東雲キャナルコートらしい)の造形や佇まいが映画の中でとんでもなく美しい。そして巨大な巣のようだ。性的なナニカを秘めた、巣。孕む機能を持った女がそこにいる。性交する体を持った男と女がそこにいる。その巨大な巣は有機的で整然としていて、そしてとても窮屈。

主人公の少女、初は3人の中のある少年と手に手をとってその巨大で窮屈な巣から逃げるように走り出す。その重要なシーンでのロケ地が豊洲ぐるり公園という湾岸に面した公園。そこからの風景が本当に美しい。その風景の中で初の中の「少女」が炸裂するのである!カラッポだった初という少女のカラダから閃光を放ち絶え間なく放たれる「少女爆弾」。好きは好きだし、でも恋とか関係とかに永遠なんて言えないし、わからないことはわかんないし、誰かに支配されたくないし、カラダの中には性欲があるし、そして自分のカラダは自分のもの。揺れて、さっき言ったことと今言ったことが違っても全部ホントのこと。山戸結希は少女の心の中にある溢れんばかりのものをとても丁寧に掬い取り、そしてそのすべてを爆弾に変えていく! ただ、そのことに、私はこのシーンで泣いてしまったのだ!(それは山戸監督作『おとぎ話みたい』クライマックスでもそうだったなあ)

 

しかしあの美しい風景が、最後のエンドロールでは黒みの強いモノクロになる。それもすごく面白かったなあ。湾岸の向こう側には高層ビル群のキラキラしたネオンを反射してたゆとうあの海が、どんよりとした黒い海に変わる。美しくも怒涛のクライマックスシーンの風景が一変してこのエンドロールのモノクロ。そこで私が感じたのは、3人のイケメンの男たちの初恋に翻弄される主人公、初は、もちろんこの映画の中で主人公であり特別な存在だけど、物語が終わったときそれは世界中の数え切れないほどの女の子たちの中の一人で、彼女と彼女じゃない女の子の見分けもつかない。そういうことなんだと思った。けれど最後に光る東京スカイツリー。ああ、やっぱり! たくさんのなかのひとりだけど、それでもあの女の子はここにいる! ひとりひとりは、それぞれの物語の中でこんなふうに強く光っているんだ、とそんな風に感じたんだ。

 

 

 

『ポルノグラファー』そして『インディゴの気分』

先月。いわゆる「沼」というものに落ちてしまった。

 

いつものように気になる映画とかまたはその原作になったものなどを検索しているうち、なぜかこのドラマのタイトルが目に入ったのだ。

BL作品が原作でFOD(フジテレビオンデマンド)制作ドラマ『ポルノグラファー』。

FOD。1ヶ月無料視聴ありか。

1日迷った末、登録をする。

そして観た。1話25分ほどの全6話。1話だけ見るつもりが6話分、約2時間半、一気に観てしまった。翌日からはその続編の「ポルノグラファー インディゴの気分」を観た。今度は、見終わってしまうことを恐れつつ、1話ずつ丁寧に。

官能小説家、木島理生。自転車に乗っていて木島を転倒させたことがきっかけとなり出会った大学生、久住春彦。木島の担当編集者、城戸士郎の3人の物語。

とりあえず、ここではこの作品の内容については語らない。

ただ、これを見て以来、いろんなことを考えている。

改めて、BLとは。またはレディコミとは。

男性の性嗜好とは方向性が異なる、性描写よりも物語を重視する女性のための、自由な性表現。ポルノグラフィ。BL及びレディコミにはそれが重要なファクターになっていると思う。

それらの意味について理解した上で、しかし実を言うと私が作品に求めているものはそこではなかった。まさに『ポルノグラファー インディゴの気分』で木島が言う「道具としての作品」が好きではなかった。ただ、私の性癖と言ってよいのか、そこにすぐれた物語、または描写が存在する男性と男性が紡ぐ物語を高校生の頃から密かに偏愛していた。

後に読んだ原作のマンガ『ポルノグラファー』は面白い作品だったが、ドラマ化した『ポルノグラファー』と『インディゴの気分』にはBL作品としてのマンガとはまた違う方向性を持って性描写を真摯に描いている。勿論ドキドキしながらも、そのことについて目が覚めるような思いもした。

人が出会う。そこに喜びも生まれると同時に寂しさも際立っていく。欲望も生まれる。人を求めるその先にはセックスもある。それは誰にとっても日常である。殆どのドラマや映画ではその描写はとても曖昧にぼかされるけれど。しかしそれをとても丁寧に描いていることが本当に本当によく伝わってくる。喜びも痛みも苦しさも。そうだ、これは描写として隠したり外したり、あるんだかないんだかわからないものとして描かれるべきものではない。唇が触れるだけのキスと舌が絡まるキスでは、そこで生まれる感情も、感覚も、快感も、違うでしょう? それってとっても大事なことでしょう?それを欲情させるためのポルノとしてではなく(その意味はないことは、ないけど)とても自然なこととして描いている、のではないかな、このドラマは。

 

・・・そんな感じで、いろんなことを考えている。

勿論、いつしか俳優、竹財輝之助にどっぷりとハマりながら。

まさに、沼。

 

さて。FODで配信される『ポルノグラファー』の配信は2019年7月27日で終了予定だそうです。

心っっから、つよくつよく、観てみることをオススメします!!

www.fujitv.co.jp

 

父に会う

私はおとうさんのことが結構好きだよなあ。

そんなふうに時々、すごーく時々だけどそう思う。

高校のときに一度、そんなことを日記に書いたことがある。

そういう気持ちは、きっとおとうさんもおかあさんも誰も知らないだろうし思いも寄らないことかもだけど、おとうさんのいろいろが結構好きだなあ、とそんなふうに考えている。高校のとき、美術館である宗教画を見て思ったんだ。多分、イエスが亡くなった男を腕に抱きかかえている絵で、私はそれを見た瞬間とても泣けて、そして私は、自分が死んで、それをこんな風におとうさんに抱きかかえられて悲しんでもらいたいと思っていると気付き、そんな自分がどこか哀れな気がしてまた泣けたのだった。

私はそれほど長い時間を父親と暮らしてはいない。とは言え、早くに父親を亡くした人や単身赴任で父親と離れて過ごしている人に比べたら大して言うほどの短さでもないような気もする。しかも父、まだ生きてるし。ただ私が21歳で家を出てからこの34年間、会ったのが時間にして多分、24時間よりは多くても48時間には満たないのではないか。それが人と比べて多いのか少ないのかわからない。少なくとも心の距離としてはとても離れていた。

その私が自ら父に会いに行った。父は3度結婚している。父の2番目の妻の子である私と弟(私はこの弟とは別れて育ったのだが)が、先ごろ3番目の妻であり私の継母だった人を亡くし、その四十九日を終えた父に会いに行ったのだ。弟には父の記憶はなく、成長してから会ったのはこれが3回目。父が今ひとりで住む家に行くと、私の義妹とその娘、そして私のいとこが待っていて、私たちはみんなで昼ごはんを食べに行った。

私と弟は父の話を聞いている。父は主に私たちの祖父、自分の父親の話をする。私は幼い頃、九州に住んでいたそのおじいちゃんに会うのが楽しみだったし好きだった。九州の海や神社の蝉、1ヶ月だけ通ったそこの小学校、古くて大きな家など様々な思い出があるけれども、祖父がどんな人だったか、どんな生き方をした人か、改めて聞くのはとても興味深い。

父の話を聞いていて、もしかしたらいいところばかりを紡いで少しは盛ってるところがあるかもしれないと思った。父は過去に家族に関することでいろいろ悔しい思いをしたこともあったに違いない。けれど今、86歳になる父は、自分の父親がどんなに優秀な人だったか、どんなに清廉な人だったか、それを心から誇らしげに語る。

ただ、そこから祖父、父とその兄弟、そして私たちの代から妹やいとこの子どもたちとぐるりと見渡すに、祖父の優秀な頭脳、そして学歴などを引き継いだ人間は何故かほぼいない。芸事の好きだった祖母の血をどうやらみんな受け継いでいるようだけど。さらには、次世代がみな、親世代を反面教師として生きているようにしか思えない。政治家になった祖父だけどお金儲けは下手で清貧だったという。それでその息子たちはみな、学歴は乏しいが自ら会社を興すという生き方を選んでいる。その次世代の私は、そうやって働いでお金を稼ぐことに生きる親を見て、「お金はそこそこでいい」という生き方を選んでいる。

ただ、自分の父親のことを大切に語る私の父を見ながら、様々な不満や恨みにもきちんと落としどころを見つけたのだ、と思う。

父親が語る自分の父親、私のおじいちゃんは本当に優秀で、スーパースターで、どこに行ってもおじいちゃんが一言口利きするだけで大きなことが動く政治家としての力を持った人だという。けれども、本当にそういう局面もあったのだろうし、うちのおじいちゃんごときではなんともならない案件など山のようにあったと私は思ってる。そしてきっと、武田のおじいちゃんだってすごい人だったし、私の友達のおじいちゃんもすごい人だった。亡くなったすごい立派なおじいちゃんたちが身の回りにいっぱいいる、と思うと、なんかもうほんと、どんなふうに生きたっていいや、私たちはみんな結局はとてもちっぽけで、ちっぽけだけどもそんなふうに自分に繋がる人たちはすごかったなあなんてことを単純に嬉しく思ってる、ぐるぐるした環の中のひとつにいるんだなあって思えてくる。

 

God's Own Country

私はこの映画を、生きる、というシステムの映画だと感じた。

God's own country.

神の恵みと地、と呼ばれるイギリス、ヨークシャー州。

父親の牧場を継ぎ、たったひとりでそこで働くジョニー。ジョニーはこわい目をした父と祖母と共に過ごしている。

 

この物語をジョニーとゲオルグというふたりの男の関係で描いたのはとても面白い。男性と男性。それは自然ではない、特殊なことなのか。

この作品はジョニーと移民の娘、という設定で描いていたら行き着くことの出来ない物語だったと思う。

「自然」とはなんだろう。

そこに牛がいる。羊がいる。厳しく広大な土地がある。それが自然か。

しかし牛も羊も人の手を借りて食べ、出産し、死ぬ、家畜だ。

女がいて、その息子がいて、さらにその息子がいる、血縁で繋がった3人。その構造が果たして自然か。男と女が結ばれること、家を継ぐ、親の面倒を見る、そうした、いつの時代からか正しいとされた構造が自然か。

ジョニーは男を見て発情する。それは動物の目のようで、どっちが力が強いか、オスとして強いか見極める。欲望はあっても愛ではなく征服。キスはしない。ただ後ろから挿入し、射精すればそれで終わり。その行為は動物としてとても自然に思えた。

ジョニーとゲオルグとの間にも、動物としてのとてもシンプルな構造があった。どちらが強いのか。その強さは力なのか、人種なのか。それとも智恵なのか。ジョニーはゲオルグの強さに負かされたとき、強さとは何かと言うことに初めて行き当たる。

「自然の素晴らしさ」を口にする人がいるけれど、自然とは強さで縦割りにされたシンプルで残酷なもので、人にとって生きるとは、それよりももうちょっと愉快に生きていく方法を探すことではないか。

親から受け継いだ牧場の仕事を拒否することなく、こわい目をした父親と祖母の下で暗い眼をして生きていたジョニーは、ゲオルグに出会ったことで強さや男女差や職や学歴や人種で上下が分けれらるのではなく、複雑で豊かな関係を知る。ふたりでもう少し愉快な気持ちで牧場で働き、生きていく道を模索する。生きるとは、そういうことなのだなあということを感じた1本だった。

 

finefilms.co.jp


映画『ゴッズ・オウン・カントリー』予告編

 

 

 

 

 

母の葬式

今日は私にとっては血の繋がっていない母の葬式だった。私は10歳から20歳までをその母とその家族、私の実父、そして新しい妹たちと共に暮らしていた。

葬儀のはじまる45分ほど前に着いたのだけど、私は葬儀の場のどこでどう振舞ったらいいのかわからない。斎場の人にご記名をと言われ、一応親族の私が記名するのかどうかよくわからない。受付で香典を出したのだけど、家から長いこと離れている私には受付をしてる女の子たちが誰なのかわからないし、そして何と言えばよいのか。「このたびはご愁傷様でした」ではおかしいよね。黙って香典を出し、返礼品も黙って手を振り断った。

葬儀の時間まで随分ある。斎場を覗くと母の棺の前に一人座ってる父を見つけ、近寄って声をかけると、父の目は泣きはらしたあとのようで、そしてひとことふたこと言ったあと静かに泣き出した。私は父の肩に手を回して肩や背中をそっとさすった。そんなことをするのは初めてのことだった。控え室を覗くと10歳下の妹がチャキチャキと采配を振るっていた。

「お姉ちゃん来てくれてありがとね!」と言い、「お姉ちゃんは親族の席で、一番前の左のほうに座って」と言う。父が座り、妹夫婦が座り、私と武田はその隣に座った。本当に私は参列者の顔を見ても誰が誰やら殆どわからない。しかもみんな喪服なので時折武田の顔さえ見失う。母のことは秋に一度見舞っただけでそれ以来今日まで何一つしていない。その私が親族の席にいてどう振舞えばいいのか、とにかくわからないのだ。

そして私はそこにいて、なにひとつ悲しくないのだ。棺の中にいる母を見ても。飾られている母の写真はちゃんといい顔をしていて、他人事にように良かったなあと思う。でも母の死に対して悲しみがまるでないのだ。泣いている父や弔辞を述べようとして号泣してしまう妹の姿に私はとても心を打たれているのだけれど。

出棺のときに知らない人たちが何人か泣いていた。母には泣いてくれる友人がいるということに私は少しびっくりしていた。火葬場に行き、妹の子供たちが棺の中の母に「ありがとう!」と声をかけて泣いていた。それにも驚いた。そうか、君たちにとって祖母であるあの母は「ありがとう」っていう存在だったんだ。私は、あの母のことをこんな風に悲しんでいる人たちがいることに驚きと共にしみじみと感動しているし、そして悲しんでいない私はこの人たちのそばにいるべきではないという思いもしていた。

火葬場で私はみんながいる控え室ではなくロビーで所在無く待っていた。

随分経って妹と、子供のころから妹の身近にいてくれてる人たちが多分ぽつんとしてる私を気遣って来てくれた。妹は、母の葬式という節目になっても何もしない私を責めることもしない。本当にそんなこと現実なんだろうか。「家」から逃げ続ける私を誰も責めないなんて本当のことなんだろうか。そんな気持ちもある。そういう気持ちを妹にどう伝えればいいのか。母の介護から最後まで看取った妹やその周囲の人たちに感謝しかないことを伝え、そして母のことをいろいろと話した。

母については「不条理なことを言って怒る」「本当に酷いことを言われた」「キツい人だった」など散々なことをみんなが言う。いわゆるメロドラマ的な、血の繋がっていない子供である私に対してだけそうだったのではないということは私も子供の頃からわかっていた。母はいつでもすべてのことを犠牲にして働いて金を得ることをずっと自分に課していた。自ら体を痛めつけるような生活をし、痛みこそが自分の人生であると誰かに訴えているような生き方だった。母は誰に対しても鬼のようで、手負いの獣のような人でもあり、私を含め子供たちは愛情をかけてもらったという実感が無い。それで私は成人してから家を去り、もうひとりの妹も後年、自死を選んでしまった。

しかし、その母が後年、とても変わったとのことらしい。私を含めた3人の娘に寄り添わなかった分、孫を愛したのだろう。仕事をやめてからは本当に穏やかな人になったらしい。「あんなに苛められた」「酷い扱いを受けた」という人たちが葬儀場で、火葬場で、涙を流している。

本当に、本当に、私は母の死に立ち会わなかったことを悔やんでもいないし悲しくも無いのだけれども、最後に闘病している母の時間に寄り添ってくれた人たちや死に際して泣くたくさんの人たちがいることに静かに感動していた。

私は、昨年秋に見舞ったとき、あの全身で怖くて、私を否定してばかりの母が私を見て「ああ、なんか幸せそうな顔をいい顔をしてる。幸せなんだね」と言ってくれて、ああこれでもう私はいいや、と思った。多分、殆どの人が結局はあの母の人生について同情している。多くの人がかつては母のことを憎んでいた。それでもあんな生き方だったのは母の生きた時代と、そして彼女の生育歴のせいだったのだろうと知っているし、時間が経ってもうなんか全部許そうって思っているのだろう。私は憎しみではなかったけれど、愛情を得られなかったということだけが何よりつらかったな。でもそれも、この言葉を得たからもういいや。満足です。そして18年前、何より母に愛されたいと思いつつ自死した妹も、母を待ちわびているに違いない。それもひとつの幸せな帰着のように思える。

 

久しぶりに実家に立ち寄った。私が途中からあの家の子供になり、更に母に子供が生まれるということで建てた家だからもう45年が経っている。リビングがもっと広かった覚えがあるけれど、とても狭かった。外から見たらすごく寂れていたけれども玄関には花があり、家の中もきれいになってた。リビングには母の介護ベッドが置かれてあり、そこに母の若い頃の写真と父のかっこいい写真が飾ってあった。その部屋にはとても幸せな雰囲気が漂ってた。母の最期には愛情がいっぱい満ちていたのだろう。私はそれを見たことで本当に満足して家を出た。

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なんだろこれ。この飛んでるの、うちの父。父が亡くなったらこの写真、欲しいな。

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「夜明け」

是枝監督の助監督だった広瀬奈々子初監督作。

主演は柳楽優弥

柳楽くんは顔立ちが濃くて、濃すぎて、『おんな城主 直虎』や『銀魂』などのけれん味ある役がとても似合う、と感じていた。もちろん、『ゆとりですがなにか』や『アオイホノオ』の柳楽くんも好きでしたけど。

そして、『誰も知らない』のあの柳楽くんは、もう二度とない、あの時間・あの映像の中にしかいない少年だった、と思っている。

ところが今回の『夜明け』を観ながら「ああ、あの『誰も知らない』の少年が成長したようだ。なんとか大きくなって今ここにいて、そして橋の上で泣いていたんだ」などと思ってしまうのが不思議。

 

『夜明け』は、ホモソーシャルな世界だなあ、と思って観てました。

哲さんは亡くした息子への喪失感から、拾ってきた青年シンイチを求める。従業員の宏美と再婚することはその前に決めていたのに、シンイチと出会って、死んだ息子と同じ名前のシンイチと出会って、擬似親子のようであり、師匠と弟子のようでもある男だけの世界のほうにより惹かれていっているようでした。

もう一度誰かと寄り添うならと選んだ宏美との生活だったはずですが、宏美、宏美の元夫との娘、宏美の母親の女系家族より、熟練工である従業員の男たちと息子のようで息子ではないシンイチとの男だけの世界のほうに、きっと哲さんはより惹かれている。本当に、その世界はとても煌いて見えた。

けれども、その世界の底を覗くと、そこには「秘密」や「言えないこと」や「見ないようにしてること」がある。実は彼らはかつて、そういう世界の中に生きてました。哲さんは決して妻や息子とうまくいってたわけではなさそうです。妻や息子の気持ちから少し目をそらせて生きていたのではないでしょうか。シンイチ、ではなくて光も、多分そのように生きてきたのでしょう。家族を失った哲さんと、生きる意味を失っている光が出会い、そこで生まれた小さな世界にもまた、秘密と言えないことと見ないようにしていることが降り積もっていきます。

「シンイチ」を剥ぎ取った「光」が再び選んだ世界は、哲さんを傷つけたでしょう。光だってずっとシンイチのままでいられたらという想いはあったでしょうし、そんなあやふやなままの夢を見ていたかった、と映画を観ている私は思いました。それでもまた、もう一度新たな世界を選びなおさないといけないのでしょう、光は。

もうなにも見ないことにして生きていくことを、やめるために。

夜が終わって、また朝が来る・・・・。

 

  • 青年「シンイチ」/芦沢光 柳楽優弥
  • 庄司大介(木工所の従業員)YOUNG DAIS
  • 米山源太(木工所の従業員)鈴木常吉
  • 成田宏美(哲郎の恋人)堀内敬子
  • 涌井哲郎  小林薫


映画『夜明け』予告編

それにしても。柳楽くん、ほんっと顔のパーツが1つ1つ、美しいわ。。

 

 

小さな奇跡の集まり

昨夜。

大きなスーツケースとデイパックを持った男性のお客様がふらりといらっしゃった。

ワインとサラダを注文され、その後うちの店の名前「春光乍洩」について質問されたので、その意味を簡単にご説明した。

そのあと、「この店は映画関係者や・・・あと作家がよく来るの?」

壁の川上未映子さんのサイン色紙を見てそうおっしゃる。

川上未映子さんはちょっとご縁があって、うちでライブをしていただいたことがあります」と私は答えた。

「僕、ちょうど今、新幹線の中でその方のダンナの本を読んだばかりで」とその方はおっしゃるので「阿部和重さんの、ですね」と答える私の中に、何かしら小さな縁とこの男性への興味が沸いてきた。

名古屋の方ではなく遠くからいらっしゃったというその方と、シネマスコーレやシネマテークの話を交わす。その方はある映画を撮り、その映画はシネマテークで上映されたとのことだった。その後、店内に置いてある雑誌を1冊、手にとられた。2013年の「映画芸術」。これはうちの雑誌ではない。現在「原恵一映画祭 in 名古屋」のメンバーが今週までと置いていった原恵一監督に関する書籍や雑誌のうちの1冊だった。それを男性はパラパラと見たのち、「ああ、やっぱり。見覚えのある表紙だと思った。僕、ここに寄稿しているんですよ」

ページを開くと、2013年公開の、ちょうどスコーレで公開したある映画に関する批評が数ページに渡って掲載されていた。改めて私はそこでお名前を知る。

Wさん。某TV局のチーフディレクター・映画監督・ノンフィクションライター、それらの活動は主に戦争に関連するドキュメンタリー作家のようであるそうなのだ。

ますます不思議じゃないか。この1週間だけ置いてある雑誌。ふらっと来店した男性がそこに寄稿していたとは。

さてWさんは福岡の方。今日はドイツ在住で現在一時帰国している、元大学教授に会うために名古屋にいらっしゃったそうなのだ。さらに今日中にまた東京へ行く予定らしい。その元教授から電話がかかってきた。きっとこのあと、どこかの料亭とか、静かなレストランとかで待ち合わせかなと思いきや。

Wさんは電話で「僕、今、とても素敵なところにいるんですよ。シネマスコーレの隣で(隣じゃない!)、なんてったっけ、路地の?マタハリ?っていうところ?」とおっしゃってる。それで、その元教授の方たちはうちにいらっしゃるというのだ。今の説明でわかるんだろうか?と思ってしばらくしたら、3人の男性たちがいらっしゃり、その中の真っ白な髪の上品そうな男性が

「ああ、やっぱり! 僕、ここに来たことがあるよ。懐かしいなあ。僕は趙博さん

パギさんと古い友達でね、パギさんに連れてきてもらったことがあるよ」とおっしゃる。「もしかしてライブにいらっしゃったんでしたか? えっと、2007年の?」

「2007年! わあ、もうそんなになるかあ!」

 

名古屋駅に近いとはいえ、こんな見つけにくいところにある小さな店に、何の情報もなくふらりといらした男性がここへ来る前に読んでた小説は安部和重さんのもので、その配偶者の川上未映子さんのサイン色紙が店内でその方をお迎えし、さらにかつて寄稿した映画批評が載っている雑誌がお迎えし、そしてわざわざ名古屋で途中下車して会いに来た元大学教授はマタハリにかつてライブで来て下さったことがあって・・・。

それらはみんな、別に大したことじゃないちいさな奇跡で、でもそれはみんながなんだか笑顔になって「わあ、不思議だねえ」「やっぱりね、なんか繋がってるんだよな」と言い合えるようなことで。

そして、自分の好きなもの、楽しいもの、自分にとって大切な人たち、そういったものがこの場所で小さく繋がったこと、それがうちの店だったことが、いつだって私には誇らしい。ああ、店ってほんとにいいな。そういう場所になれたりするから。いつもいつもいつも、こういう瞬間に出会うたびに飽きることなくそう思う。