おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」

監督 大根仁

キャスト


『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』予告編

 あかりはとにかく瑞々しく、可愛く。いつもながら最初の登場から大根監督の女優に対する愛情がたっぷりな映像。内容もまさに大根監督!いろいろ楽しめました。

(以下ネタバレあり)

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 数日前、私の参加しているSNSにて、私が自分の年齢についてのことを書きました。40代も楽しかったけど50代も楽しいのよ。どうしてかっていうとね・・・みたいな話。そこに30代男性のコメントがつきました。「(自分は)心は10代、体は50代、年齢はギリギリ30代です」と。

そこで思ったんですよね。男性って結構「心は10代」とか「心の中は少年のまま」とかって言いますよね。昔だったら飲み会でそう言われたら「あーっ、私だって心の中はまだ少女なんですからぁ~!」とか言って「お前のどこが少女だー!」みたいな返しをされるのが定番ですよね。しかし女性って「でも私は心の中は10代なの」って言う人、いるのかしら。いるとしたらそれはどんな意味で? そしてどうして男性は自分の心の中だけはずっと「10代」とか「少年」って言いたがるのかしら。男性にとっての10代や少年って、なに?

・ ・ ・ ・ ・ 

奥田民生になりたいボーイと出会った男すべて狂わせるガール」の最後を観て、ちょうどそう思ってたことを思い出しちゃったのです。

 

コーロキは一切のあと、意外なことに幸せな成功者になっています。

人が良くて、出会った人はみんな彼のことが好きになる、そして仕事のできる男に。更に最高の妻も得ています。間違いないでしょう、コーロキにとって彼女は最高のパートナーでしょう。

しかし、彼は昔と同様、安いそば屋に入ってそばを啜りながら、唐突に泣いてしまうのです。

そのそば屋に、若かったかつての自分を幻視するからです。目をキラキラと輝かせ、仕事に食らいつき、あかりを一途に想って時に身勝手に自爆して、誰からも賞賛されない、どこか野暮ったい、それでも恋という強い輝きを放つ季節の中にいたかつての自分を。

そしてね、そばを啜りながら泣くんですよ。去った彼女を想って泣いてるんじゃないんですよ。過ぎ去りし日の自分を想って泣いているんですよ。

私はね、このシーンが本当に大根監督だなあ、そして男性だなあって思うのです。

 

私は10代の心はあまり戻したくない。自意識過剰だったし、自由がなかったし。いろいろとしんどかった。過去の瞬間の中に素敵な他人と懐かしい自分はいるけれど、年を経ていくごとに増えるなにごとかもいとおしいし、なにより心が軽くなっていく気がする。だから、この映画のコーロキのように、あんなふうに泣くなんてないような気がするなあ。私たちが一人で泣く理由は、もっと違うような気がする。

 

そんなことを映画を観た人と話してみたい気持ちになった映画でした。

「散歩する侵略者」

散歩する侵略者


映画『散歩する侵略者』予告編 【HD】2017年9月9日(土)公開

キャスト

黒沢清監督「散歩する侵略者」を見て1週間が経つ。

何か書きたいと思うのだが文章にならない。

「この映画は○○である」「○○ということなのだ」みたいなことが書けない。

心の中に感想をまとめたい欲求だけはあるのだが形にならない。

ただ、断片だけがある。

映画を観ながら感じ続けた「○○がいいな」という断片が。

その断片を重ねてみよう。

 

あの赤い血糊がいいな。とてもねっとりしてて。最初のシーン、立花あきらとその家の中の床に広がる血糊が。

 

最初から怒ってばかりの妻、鳴海。鳴海の元から一時は去った夫・真ちゃんは過去、鳴海にどのような仕打ちをしたのかはリアルに語られない。ただ鳴海のセリフからは不倫だったことは匂わされるが。しかしその真ちゃんは今、宇宙人に肉体をのっとられ、鳴海の元に戻ってきた。2015年の黒沢監督「岸辺の旅」の夫婦の関係を思い出させる。失踪した夫が戻ってきて自分は既に死んでいるがこれから思い出の旅に出ようと言われ、妻はそれに従い二人彼岸を旅する物語だ。深津絵里が演じたその妻と浅野忠信演じた夫。確かその夫も妻以外の女と付き合っていたという設定だった。この「散歩する侵略者」と「岸辺の旅」のその部分が私の脳内で共鳴しあう。

 

あまりにも異様な夫・真ちゃんに対し、あくまでも妻の立ち位置でイライラし続け怒り続ける鳴海を演じる長澤まさみの硬質な質感。彼女の妹を演じる前田敦子の現代的で独特なやわらかさを感じる質感。その違いがいい。

 

惨殺された立花家を取材する桜井が、同じくあきらを探す青年、天野と出会う。天野の家に行くと、彼から様々な概念を抜き取られたかつての彼の父親と母親が。荒れた家の中。うつろな目をした天野の両親。この映画のまだ最初のほうに描かれるこの不気味な家に、黒沢監督の2016年の「クリーピー」を思い出し、またここで物語が共鳴し始める。「クリーピー」では薬を使用した洗脳と虐待。でもこの作品はそうではなかった。

 

無敵の格闘少女、立花あきらを演じる恒松祐理演じる蜘蛛のように相手を拘束する長い足。痛みを感じることのないけだるげな表情。とてもいい。

 

あきらと双璧をなす天野を演じる高杉真宙(鎧武の頃から思うと大きくなったナー)。最初の不気味な印象、何も映らない瞳を持った青年から、人の概念を奪っていくごとに何か深みが生まれてやわらかい存在になっていくその変化がとてもいい。

 

目が、髪型が、全体の立ち姿が不思議な異常さを醸し出す満島真之介。すごくいいアクセントになっていて、この人がこんなにいいと感じたのはこの映画が初めてだ。

 

最近はどんな作品に出ても、目と、そしてセリフ回しが不思議な異常さを醸し出す東出昌大は、やはり遺憾なく異常さに満ち満ちていて、答えのない問いを提示された気がする。

 

宇宙人の天野と立花あきらと行動を共にするジャーナリストの桜井。桜井がいつ彼らを裏切り人間側に立つのかを思いながらずっと観ていた。そういう私の割と素直な想像が次々と裏切られていく展開がいい。

 

クリーピー」に続いてとても頼りがいがあって、ドキドキしながら見ている私のひとつの心の支えとなり、そしていきなりフェイドアウトしていく笹野高史のいい存在感。

 

ラストの桜井。演じる長谷川博己の最高の見せ場!一緒に観た友達と私とであのシーンの解釈は違っていた。友達は「宇宙へ通信するための時間稼ぎの行動ではないか」。私は「元々は社会派ジャーナリストであり、かつて戦場ジャーナリストへの憧れもあったのではないか。宇宙人に憑依された桜井のその過去の意志が純粋に形になった結果ではないか」。ところで私たちは桜井は天野の中の宇宙人を桜井が引き継いだという設定で話をしていたと思うのだが、実際にそこは省略されていてどうだったかは映画では明記していないのだな。

 

鳴海には妹がいて、父母もいて、仕事もあった。それでも自分を捨てた夫・真ちゃんの体を借りて地球を侵略しようとする宇宙人と共にいることだけを彼女は望む。彼女は家族も、彼女の知人も、見知らぬ70数億の人類も一切省みない。愛というのはなんなのか。この映画を観てその問いに答えられる人はいるのか。最後に私から愛の概念を奪えという、彼女の愛とはなんなのか。狭いのか。深いのか。身勝手と言われるものなのか。無償なのか。

 

そして最後の長澤まさみの表情。あっと思う。うまくは言えないが、彼女はこんなに素晴らしい女優なのか、という驚きを最後、余韻と共にもたらしてくれた。

 

去年の「クリーピー」「ダゲレオタイプの女」に続き、今年も「散歩する侵略者」という不思議で、言葉にならなくて、そして素晴らしい作品を作ってくれた黒沢清監督。観ることが出来てすごく幸せだ。

 

 

「溺れるナイフ」

監督・山戸結希

キャスト

望月夏芽 - 小松菜奈

長谷川航一朗(コウ) - 菅田将暉

大友勝利 - 重岡大毅ジャニーズWEST

松永カナ - 上白石萌音

広能晶吾 - 志磨遼平ドレスコーズ

 

溺れるナイフ」が私にとってどうだったか、を言葉にするのは難しい。

瑣末なことしか言えない。

劇場は平日の午後なのに若い女の子たちがいっぱいで、いつも私が映画を観てる環境と全く違っていた。女の子たちは何人かで来ていて、映画の始まる前にあちこちで「『溺れるナイフ』を観に来たワタシと友達☆」みたいな写真を自撮りモードで撮っていた。そんな光景、初めて見た。今考えると、この映画は、はしゃぎながらそんな写真を撮りながら心の中では「くそっくだらない!」と力強く黒く思っている女の子のための映画なのかもしれない。

 

最初のシーン、ファーストカットの撮影されている小松菜奈ではなく、禁止されている海へ歩いていく小松菜奈、そして海の中に落ちた彼女のモノローグがタイトルと共に表れるシーンは、とてつもなく「山戸結希」印で一気に高揚して涙が出た。

小松菜奈。彼女はどうなんだろう。特別な女の子、夏芽。

映画を観ながら幾つかの小松菜奈を同時に思い出していた。

「渇き。」の小松菜奈は圧倒的だった。その毒々しさ、美しさが。

バクマン。」の小松菜奈の可憐さ。手の届かない遠いところにいる女の子。どちらもその映画のアイコンになりうる美しさだったり可憐さだったり毒だったりして、どちらも監督の彼女を撮る気迫を映画の中に感じた。

溺れるナイフ」には、私にはそういう小松菜奈があまり感じられなかった。この子は本当に綺麗な子なの?誰よりも特別な子なの?今ひとつそこがわからなかった。ただ、禁じられた海へと歩く姿、森の中での撮影中、コウに出会って走り出すところ、港でコウを追って走る姿・・などなど、風景の中でその全身が映る絵の中で私は彼女を魅力的に感じていた。可憐な洋服が濡れたり汚れたりすることを全く厭わず海に落ち、セーラー服が汚れることも構わず川の中に身を落とし、撮影用の衣装が泥まみれになっても平気でやわらかい黒い土の上に身を委ねる。

山戸監督が描き出す少女の美しさは、他の監督が描いたヴィジュアルとしての美ではなく、少女の精神性だったと思う。

私は夏芽の言う「海も山もコウちゃんのものだ!私もコウちゃんのものなんだー!!」というセリフが割りと冷えた。この映画を観ててああすごくいいなと思いつつ、こういうセリフでとても冷めた。冷めつつ、ずっと考えていた。

コウちゃんのもの、というセリフと、着ている服が汚れることを厭わないところが、似ている。自分の身などさっさと捨ててしまえる、というところが少女なのか。

しかし彼女は自分をレイプしようとした男に対し、「殺して!」という。私を殺して、ではない。そいつを殺して、である。彼女は何なら捨ててもよく、そして何を捨ててはいけないのか。少女のルールとは。少女の尊厳とは。今、そういうことをなんとなく考えている。

 

存在としての小松菜奈の美しさがわからない、と書いたが、存在としての菅田将暉は本当に美しかった。最初の登場から、後半の火祭りで踊る菅田将暉の美しさは圧巻だった。そしてこれまでの尊厳を失ったことに泣く姿の痛ましさも。彼は十分に特別だったが、正直言えば「コウ」という少年の生き様をもっともっと映画の中で感じたかった。

 この映画をはみ出して存在感を見せ付けた重岡大毅くんとか、中学と高校で劇的な変化を演じた上白石萌音とか、最高の布陣ではあったが、とにかくこの映画に関しては夏芽とコウについて思わなくてはいけない。少女とは。少年とは。そして特別とはなにかとは。

そして、いいとか悪いとか、そういう評価ではなく、そこにあった一瞬のきらめきと痛みの風景を心の中にとどめておきたい、と思う映画だった。


『溺れるナイフ』本予告

「永い言い訳」 

監督・西川美和 キャスト・本木雅弘 竹原ピストル 他

西川美和監督は、その作品が上映されれば必ず行こうと思っている監督の1人です。映画の中に「ああ、なんか意地悪な目線だな」と感じる部分が幾つかあるところが好きです。気持ちを殺しながらも目の端で何かを見て、そこに起こっていることをちょっと意地悪な気持ちで哂っているような部分がとても女性っぽい感覚に思えて好きです。
モックンは(あ、今の若い人たちもモックンって呼ぶのかな、私は彼を「本木雅弘」と呼んだことがないのだけど)昔からどうにも苦手でした。彼はものすごく顔がきれいなんだそうです。でも私は美醜やバランスに関する感覚が磨かれてないため、実はモックンの顔を見てもきれいなのかどうかよくわからないのです。ただ、正直言うと陰湿ないやらしさをデビュー当時から感じてて好きではないのです。
しかし西川美和監督「永い言い訳」の予告編で見たモックンは、声も芝居もとてもよくて初めて積極的に彼の芝居を見てみたいと思っていました。

永い言い訳」を観にいった今日。私も武田も体調はとても悪い日でした。ほぼ寝てない状況でバリから帰ってすぐに店の準備をし、そして金土日と店を開けた私たちはまず最初に武田が、それが伝染って私も風邪を引いていました。武田は咳から来る頭痛が酷く、耳も聞こえにくく、私の言うことが聞き取れずに何度か聞き返しては私に突っかかって怒ります。例えば私が家で武田の仕事着を漂白しながら「結局、この安い漂白剤が一番きれいになるなー」と独り言のようにして言ってたら武田が「何?」と聞き返すので私が「あんたの仕事着を私はいつもこうやって漂白してるんだよ」と答えました。確かに私の中に少々恩を着せるような気持ちはあったものの、ただ『今やってることの説明』のつもりでそう言ったのでした。しかし今日の武田は仕事着を汚すことを私が非難していると捉えたのでしょう、「そんな事、言わんで!」と頭を押さえていいました。「え、別に何も言ってないじゃん」と言うと「だからもう頭が痛いからそうやって人を責めるようなこと言わんで!」と言います。これ以上繰り返してもしょうがないので、私は「そうではない」という説明をするのもやめて黙りました。
また、何かのときに「あんたはわしの頭が痛いことなんてどうだっていいんでしょう!」と私に言いました。そんなことはあるはずはないし、いつだって、どうしたらいいのか検索して調べたり心配しているのですよ。
しかし、では私が献身的な人間かというと全くそうではなく、自他共に認める自分勝手な人間です。武田が具合が悪いと私も困るので心配するのですし、心の中では心配が殆どとはいえ『早く治ってくれないと困るなー(店も私も)』という気持ちが入っていることは否めません。

体調が悪いときは、お互いに思うことがちっとも相手に伝わらないし、無闇にイライラしてしまいます。
「え、なんで?具合悪いんでしょう?もう帰るようちに」
「いいよ、映画観にいきたいんでしょうー。行くよ映画に」
「別に無理せんでもいいよ」
「いや、大丈夫」
夜、そんな会話ののちに、上映開始にギリギリ間に合うか合わないかぐらいの時間に「永い言い訳」を見るために、車を飛ばし気味に走らせました。武田も頭痛でボーッとした顔に緩慢な動きで、私も髪はボサボサのまま、度の合わない眼鏡をかけ、ノーメイクで。耳が聞こえにくいという武田に私はなるべく大きめの声で話しかけます。そうだ、時折みかける私の嫌いなあの夫婦(らしき人)、だらしない風貌の2人で、いつも甲高い大声で喚き散らす女と鈍い表情をした男、今の私たちはあの2人とそう大差ないのではないか。急にそう感じてじんわりと嫌悪感が広がります。

そんな今日の私たちが観た「永い言い訳」の最初のシーンでは、緩慢なる不穏の中にいるモックンと深津絵里演じる夫婦がそこにいました。モックンが演じる作家、幸夫は妻の言葉ひとつひとつに執念深く食ってかかります。多分、そこには愛があるのだろうと思える手つきで幸夫の散髪をしている妻、夏子。リビングにあるテレビにはクイズ番組に出演している幸夫が映っています。幸夫は、こんなクイズ番組に出て鵺について説明している僕を馬鹿にしているだろう?と妻に問います。どうして、そんなことないわよ、だって私、鵺なんて知らなかったもの、と夏子は答えます。夫をずっと「幸夫クン」と呼ぶ妻に人前でその本名をで呼ぶな、君は僕を貶めたいのか、と更に言い募ります。どんなにそうではないということを穏やかに答えても幸夫はそれを突き放します。これからバス旅行に出かける妻。幸夫はこれから自分が出かけるパーティの服を妻が用意してくれたかどうかだけを心配していて、妻がどんな服で、どこに出かけていったのか知ろうともしていませんでした。
その幸夫はまるで今日の武田のようで、同時に自分勝手な生き方を貫こうとするところは私のようで、とても痛い気持ちになりながらもこの映画はこんな日の武田と観るのにとてもふさわしい映画だ・・・とも思っていたのでした。

その幸夫が失ったものはなんだったのか。彼は妻の死と共に何かを失ったというよりは、自分が手にしていると思っていたものがもうずっと前からどうやら何も無かったようだ・・・と知っていく映画でした。中盤の、一見とても幸せそうな世界。しかしそこも彼にとっての仮住まいの場所だという現実を突きつけられます。もしかしたら多くの男性監督は子供たちのふれあいの中で暖かい愛のようなものを得ていく主人公の姿を描いていくのではないかと思うのですが、西川美和監督はあまりにシビアです。どこかに「そんな良いとこどりみたいな子供とのふれあいw」という冷笑的な視線があるように思ってしまうのです。子育ては重く長く、彼はそこでは家族にはなれず彼らの真の友達になることも出来ず、去らざるをえないのです。最後、みんなで一緒に楽しく帰ってくるかと思いきや、幸夫だけがひとり、電車で帰ってくるシーンにもそれが表れていると思いました。

さて、幸夫がその後書いた「永い言い訳」という小説。あれは一体、どんな内容なのだろうなあ。限りなく本当に近い私小説なのかそうではないのか。その小説の中の主人公は、誰に言い訳をしているのだろうか。
私は、これは幸夫がやっと最後にせいせいと孤独を受け入れることが出来た、という映画だと思うのです。ということは彼が彼自身に「自分は孤独ではない」という永いいい訳をしていた、ということでしょうか。人生はいろんなもので紛らわして生きています。妻とか愛人とか仕事とか人とのふれあいとか様々な気付きとかいろんなもので満ちていてなかなか孤独に気がつけません。でも何かの拍子に見つけ、やっと受け入れた孤独は、ただただ静かでそしてかすかに微笑んでいるような感じ・・・、そんな印象の映画でした。

それにしても、妻、夏子が図らずとも残した2行の言葉。
こわいよね・・・。
あんなに優しくて明るくて穏やかで辛抱強くて、たくさんの人から愛されていたと思われる夏子の思いがけない言葉が、幸夫にも、観ている私にも突き刺さってきます。容赦ないあのシーンも、西川美和監督だなと思うとても好きなところです。

西川美和監督は「ゆれる」がとても好きなのですが、「永い言い訳」もそれと同じぐらい好きな映画になりそうです。

ミシェル・ゴンドリー監督「グッバイ、サマー」

先日、友達が「この間の夏、トレイラーハウスに泊まったんだよ。冷暖房完備で中にキッチンもあって、でもトレイラーなんだよ。すっごくテンションがアガった!!」と言ってました。
「トレイラーハウス? 動くの?」
「動かないよー。ちゃんと固定されてる!」
なんでだろう、それは決して動かないのに、「家が車」ってことに興奮してしまうのって。
友達からその話を聞きながら、ちょうど前の日に私が観たばかりの、車輪の付いた家で旅をする男の子2人の映画のことを考えていました。

ミシェル・ゴンドリー監督の自伝的映画だそうです、「グッバイ、サマー」。
チビで女の子のような容姿のダニエルは転校してきたテオと仲良くなります。テオからはガソリンの匂いがするので周囲の男の子はテオを「ガソリン」と呼び、馬鹿にしています。テオの母親は太っているけど病弱で、父親は廃品回収の仕事をしていて、そして彼らの家庭はあまり裕福ではないようです。
テオは廃物からいろんなメカを作るのが好きな男の子。
そしてダニエルは絵を描くのが好きな男の子。
2人は廃物から小さな車を作ります。それはまるで小さな家に車輪が付いたような車です。
14歳の夏。彼ら2人はそれぞれの親に内緒でその車で旅に出ます。

2人だけの動く小さな家。
それを見ながら、私も14歳のときに自分だけの小さな家を持っていたことを思い出していました。勿論そこには車輪はついていないし動くこともありません。子供の頃私が住んでいたところは田舎だったせいで敷地が広く、祖父母の家、叔父夫婦の家、私の父母の家と3世帯の家が敷地内にありました。父母はその庭に6畳ほどのプレハブの部屋を建てました。父母が経営するスナックで働く女の子の住み込み用の部屋として作ったのですが、ある時から私の部屋になったのです。
母屋にはテレビや食事をするキッチンテーブル、リビングなどで構成される家族の営みがあります。しかし中学生の私だけがそこから切り離された、という小さな孤独感は私をうっとりさせました。真夜中過ぎに部屋を出て、その時間の星が見たことないほど瞬いていることを知ったのもその部屋に変わってからです。そこにいると私は家族の誰とも繋がっていなくて、ただ夜空の星々と自分だけがまっすぐ線で結ばれているような気がしていました。
私はその部屋にいるだけで幸せでした。ささやかな孤独を堪能してました。けれどダニエルやテオのようにその家に車輪を付けてどこかへ行ってしまおうとは思っていませんでした。何故ならあの頃の私は、「動く家」を作ってどこかへ行ってしまったら、きっともう帰るところを失ってしまうからです。あの頃私の一番身近にあった家族は血縁ではなく「私を育ててくれている人たち」でした。私がそこに背を向けて家を出てしまったらどこにも帰り着く先は無いのだと、ずっと子供の頃から思っていました。
ダニエルやテオは、ちゃんと帰れる場所があるから、心の中でそれを無条件に信じているから、家出が出来ちゃうのだなあ。
ところが旅とは残酷なもので、いつでも変わらず帰れる場所だと信じていた彼らの家は、行った時とは違っていることを14歳の少年たちは知ることになるのです。あれほど楽しかった旅から帰るとテオの母親は他界していて、父親は家を出たテオを責め、そして家から出て行けと言うのです。それによってダニエルも唯一の友達、テオを失うのです。

そんなひと夏を過ごした彼らは、少年時代を終え、大人の世界に一歩近づいたのか。
そこで私は、大島弓子の1988年の作品を思い出しました。
「夏の夜の獏」です。

大島弓子選集 (第12巻)  夏の夜の獏

大島弓子選集 (第12巻)  夏の夜の獏

このマンガでは、走次の

「ぼくは8歳だが
このあいだ精神年齢のみ
異常発達をとげて成人してしまった

この話はぼくの目から見た
精神年齢の世界である」

というモノローグから始まります。
父親も母親も学校の先生も家出をしたお兄ちゃんも同級生も、すべて子供として描かれ、痴呆のおじいちゃんに至っては赤ちゃんの姿で描かれています。
走次の精神世界は豊かで、聡明で思慮深く、客観性を持ち、何が恥で何が大切かを知っています。
両親の不和が幼い走次を大人にしたのですが、結局、両親は離婚を決め、家族の住んでいた家は売却され、走次は父親とその恋人、母親とその恋人、どちらの家庭にも歓迎されています。そういった事実を受けいれようとしていたのですが、ある日学校から家に帰ろうとして、間違えてそれまで住んでいた家の玄関まで来てしまうのです。走次は瞬時に、これまでそうやって帰ってきた彼を迎えてくれた父や母、お兄ちゃんにおじいちゃん、大好きだったヘルパーの女性のあたたかい「おかえり」の声を思い出してしまいます。
走次は走り出します。泣きそうになります。
泣くんじゃない、泣いたら子供だぞ、声を出して泣くのは子供だけだぞ、
そう思うのですが、結局は声を上げて泣いてしまいます。泣いて、走次の姿は8歳の少年の姿になるのです。

「グッバイ、サマー」のダニエルとテオは、いつも子供のようにはしゃいでましたが、きっと彼らは大人でした。タバコや酒が人を大人にするのではなく、精神性だと彼らは思っていたように感じます。その彼らの精神を理解し得ない父親も母親もパンク野郎のお兄ちゃんもみんな「子供」のようでした。
しかし夏の自由な冒険を終えて帰還した彼らは、子供であるがゆえの無力さを知り、そこで「大人」から「子供」に戻るのです。
母の死を、出て行けという父親の宣告を、思い通りにならないクラス替えを、今の彼らの力では何一つ覆せません。
彼らはその無力さに絶望を感じながら子供に戻り、またひとつひとつ何かを積み上げていくのでしょう。

ラストシーン。母親に引率されて去っていくダニエル。その背中に向かって、ローラは「振り向いて」と念じます。
3、2、1。
ダニエルは振り向きません。
もう一度ローラは念じます。振り向いて。
7、6、5、4、3、2、1。
それでも振り向かずに視界から消えていくダニエルに向かって、ローラは最後に「無限」をカウントします。
これをどのように受け取るかは見た人それぞれでしょうけど、とても素敵なシーンです。
私は女の子の片思いの永遠性について思ったし、そして人は大人になったり子供になったりを無限に繰り返すのかなあとそんなことも思いました。

「殺人出産」村田沙耶香

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

以前読んだ村田沙耶香の「しろいろの街の、その骨の体温の」(2012年出版)は面白く、そして興味深いテーマではあったけれども、文体というのか、例えば同じような表現が繰り返し何度も出てくるところや全体のテンポなどが私には今ひとつ合わない感じがあったのだ。しかし今回の芥川賞村田沙耶香の「コンビニ人間」。それならばこの受賞作か、それとも過去作を何か読んでみようと思って手にしたのが「殺人出産」(2014年出版)。
思っていたよりずっと面白かった!「しろいろの街の・・・」で気になった同じような表現が繰り返されるまどろっこしさはない。文体に洗練を感じる。
どこにでもありそうな、あるOL女性とその同僚の会話から始まる物語。しかしその会話の中から、そして会話の後の主人公のモノローグから、この「殺人出産」の世界の概要がぱらり、ぱらりとほどけていく。
作者のその世界観の発想がとても面白い。モチーフとしては筒井康隆を髣髴とさせる。しかし筒井康隆の作品から感じたシニカルでブラックな笑いと村田沙耶香の「殺人出産」から受けるイメージは大きく違っている。それは、「命を生み出す機能」をあらかじめ備えられた女性に生まれた、そこからの視点であることが大きいのではないか。
女性の自由、女性の人権、女性が学問を修めること、女性が仕事の上で高い位置を目指すこと、と、どうしたって人間の子供は女性にしか産み出せず、しかも若いうちのほうが母子共に良い、という現実への折り合いの付け方が未だわからない。世の中は少子化に向かっている。
ならば恋愛や結婚と出産は別物と考えるとしたら。
親と子を血や遺伝子の結びつきだけで考えないとしたら。
生に関する合理化とは。
という観点から、男も出産できる世界はどうかとか、そして生に対しての死、誰しも持ちうる殺意とは何かとか、そのようなことをテーマとしつつ物語は静かに進んでいく。
この「殺人出産」の世界の静けさも、とてもいい。

主人公の育子は、100年前の世界と今では倫理観が変わっている。では今の正しさは100年後にどう変わっているかわからない、と言う。
その「100年」という単位は、この物語の中の約1ヶ月ほどにも呼応している。小学生の従姉妹、ミサキが夏休みを利用して育子の元にやってくる。ミサキは、「今、セミのスナックが流行っているんだよ」と言い、東京でそれを買いたいと言う。育子はそんなものが流行っていることなど知らなかったし、カラフルな袋に入ったセミのスナックを見てぞっとする。しかし、その後の描写では会社の昼休み、同じ会社のOLたちは虫のスナックやサラダを美容や健康にいいと言って楽しんでいる。以前は気持ち悪いと思われたものがあっという間に価値観を代え、世の中に浸透していく。「殺人出産」というインモラルも、人に殺意を抱くこと、誰かを殺すこと、殺されることも、新たな価値感の中でわずか10数年の単位で意味が変容し、「正しいこと」になっている。
この小説は簡潔な表現と昆虫食などのモチーフを使いながら、まるで日々の生活が何かから洗脳を受けているように流行が、常識が、人の意識が、正しさが変容していくのを表しているのが、とても見事だと思う。
「あなたの信じる世界を信じたいのなら、あなたが信じない世界を信じている人間を許すしかないわ」
という育子のセリフにとても刺さるものを感じた。

たくさんの女子に読んで欲しいし、そして男子は・・・自分が人工子宮を埋め込み、そして帝王切開で子供を10人、産んでいくところを自分のこととして想像して欲しい。おののくはずだ。愛とか母性とか、それとは別のものとして私たち女性は子供を産み出す機能、それを引き受けなければ人類という種は絶滅するかもしれない使命を持たされ、その現実をどう受け止めるのかという問いの中で生きているのだ。

シン・ゴジラ

この数日、ツイッターをまともに見ていなかった。
見てもなるべく薄めで。または目線をずらして。
それでも「シン・ゴジラ」という単語が目に入ってくるのだから、なあ。
「ネタバレはしていない」とかいうのにも、じゃあバレては困るネタ的要素があるってことか?と思うし、「良かった!」とかいうもっとも短い感想でもさ、それが幾つも幾つも流れてくると、待ってくれよ、良かったかどうかもまずは自分で感じるから、と激しく流れてくるツイートに待ったをかけたくなっていた。

そんな数日でしたが封切り4日目の今日、観てきましたよ!

IMAXでの美しい映像に、どーんと出てくる、あえて目の粗い昔風の東映のロゴ。そして「シン・ゴジラ」のタイトル。
海。画面下の大きさも書体もちょっとした引っ掛かりを見るものの心に残すテロップ。
誰も居ない船。
庵野監督のかつての特撮映画に対する愛情、そして細部までちりばめられた庵野監督の作品である証、それらがたった1分ほどの間にひしひしと感じられた。

多分、多くの警察ドラマでは、凶悪犯罪はほぼすべて東京で起こっていて、それを石原裕次郎率いる署の刑事たちが、または舘ひろし柴田恭平が、みんな単独捜査で解決してきた。
また、謎の生物、または怪獣、または怪人、宇宙はすべてその部内でから発信されるし、またはヒーロー的な男が変身したりして悪と立ち向かっていく。
ところがこのゴジラは、まさに「3.11」後の私たちが必要としたゴジラの物語だった。ゴジラという災害に見舞われたとき、必要なのは緊急の判断と対処であるのだが、政治家たちの政治家生命と、そして何より人命を守るため、誤った判断は出来ない。すべての災厄を肩代わりしてくれるカリスマもヒーローもどこにもいない。それが現実だ。混乱を防ぐためにも結局は一つ一つ会議を重ねるしかないし、最後に「Go」と言って判をつく人間が必要だ。現実のその煩わしさ、しかしそうして進むことしか出来ないのだということをエンターテイメント作品の中でしっかり描いたってことは、本当に凄いと思う。
また、たくさんのキャストが発表されていたが、多くはみなカメオ出演のような扱いかと思いきや、それぞれの個性をきっちりと演出されていてこれもとても面白かった。

ところでこの映画のキャッチコピーが「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」。うまいなあ。映画は予告が過剰だったりキャッチコピーが陳腐だったりするものが数多くあるけれども「シン・ゴジラ」に関しては予告も、チラシのデザインも、キャッチコピーも何もかも秀逸だと思った。
映画の中ではいろいろな形をもって「現実」と「虚構」、その2つの間で私たちを揺さぶってきた。
確かに虚構であるゴジラが現れた場合の日本を極めて現実的に描いた作品だと思うけど、その「現実」部分を構成する中に、「進撃の巨人」での長谷川博己石原さとみ、またはドラマ「デート」でもいい共演を見せていた長谷川博己松尾諭、という虚構のタッグを重ねあわせてしまい、これまたなんだか不思議な後味がある。
また、エヴァンゲリオンの「ヤシマ作戦」の時に使われたテーマ曲が「シン・ゴジラ」でも使われているが、この曲にワクワクすると同時に庵野作品としてのリアリティを感じる。ところが従来の伊福部昭ゴジラでの曲も使われていて、こちらも勿論「ゴジラVSメカゴジラ」の曲などは嬉しくてついつい座席の上で体を揺らしたくなるが、この曲にはゴジラというルビを振られた「虚構」をとても感じる。
観ているうちに結構魅力的に思えてきた大杉漣演じる内閣総理大臣柄本明官房長官余貴美子防衛大臣手塚とおるの文科大臣などがまとめていっぺんに死んでしまい、世代交代を求められるというのも、これまでの現実ではなかったけれどもゴジラが相手ではあるかもしれない。
ゴジラによる実際の破壊の恐ろしさは勿論のこと、今現在、「国」を単位として作られている人間の集団、その機能が崩壊していくことと混乱、その恐ろしさにも震える作品だった。そしてそんな中、純粋に自分と「国」という名のもとにある様々なもの・・・命とか想いとかそういうものを守るために動き続ける人への賛歌でもあったと思う。

人は大なり小なり「やるしかない!」という状況に直面することがあると思う。
いきなりゴジラに侵攻された日本もそうだが、「『ゴジラ』を作りませんか」と東宝に言われ、そこで「やる」と決めた庵野監督とそのスタッフもまさにそうだったと思う。たった一人で何もかも解決してくれるヒーローなどいない。すべての人が時に限界以上だとしてもやることをやるしかない状況。
生きていると、そういうことってあると思う。
シン・ゴジラ」はそんな時に力をくれる映画、またはそうだった時の自分を慰撫してくれる映画だと思う。