おでかけの日は晴れ

お休みの日は映画を観におでかけ。時折、旅行。

私は『聖なる鹿殺し』という映画が好きかどうかはわからないが

『聖なる鹿殺し』


映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編

この予告観たら「絶対に観ねば。胸糞悪い映画であろうとも」と思った。

前作の『ロブスター』、アイデアは秀逸だし展開に驚かされるし、そして男と女が結婚をして女が子を産み次世代へ種を繋いでいく生命としてのシステムが崩壊しかかっている今に対するブラックな示唆に、観終わったあと言葉を失くした。

 

そして『聖なる鹿殺し』。

観終わった最初の感想は「ああ!とんでもなく胸糞悪い映画だったわ!」だった。悪口じゃない。

自分にとって大切な人が無惨に殺されてしまったら。私に子はいないけれど、もしもいて、その子供を殺されてしまったとしたら。現実に起こる様々な事件のニュースを知るたび、「私ならどうするだろう?」と思う。

司法での裁きに納得できるか。

私は復讐のためその相手を殺そうと思うのか。

悲しみや苦しみはいつか癒えるのか。

誰しもそういう「最悪の事態」について想像するのだろう。だからそういうドラマや映画がいっぱいあるんだろう。復讐の物語が。

しかし『聖なる鹿殺し』はそれらの物語とは一線を画していた。

何しろ、復讐者マーティンはあまりにも絶対的な力を持っている。策略や陰謀や暴力による復讐ではなく、彼は神のようにスティーブンとその一家に呪いをかける。スティーブンには後悔はあっても反省はない。彼は家族を守るために戦わない。子供を守るために自分を犠牲にしようともしない。そして呪われた彼らはみな、その運命を恐怖とともに受け入れる。

私はずっと冷たい汗をかき、どこまでも展開が読めずどこに着地するのか見えないこの物語を目にしながら、そうだ、大切な人を奪われるということはなんてクソな出来事だ、それはどんなに胸糞悪い出来事なんだ、と改めて思っていた。

最終的にはスティーブンの息子、幼い少年は生贄となった。復讐者マーティンの呪いは決着した、はずだった。しかしその後、スティーブンと妻、そしてその娘がマーティンを見るその目はあまりに冷たく、蔑むようで、敗者のそれではない。復讐を終えたマーティンは勝者ではないのか。そこでも私は衝撃を受けた。そうだ、復讐をしたってこの胸糞悪さは変わらないってことか!と。

他の多くの復讐の物語は、哀しみはいつか復讐の行為の中でのスリルに翻弄されていくし、それを終えたあとのカタルシスさえある。しかしこの『聖なる鹿殺し』には一切、その種のカタルシスはない。奪われた側のこの現実の胸糞悪さは永遠に続いていくといわんばかりの、すべてに呪いをかけるような圧倒的な作品だった。

 

私たちは潜在的に様々な鍵を心の中に持っている。男であるが故の、女であるが故の、さらには親と子に関する物語に何らかの縛りというか鍵を持っているように思う。それは、子は親を思うものだとか、母の子への愛は絶対だとか、子に対する性的な欲望は何よりのタブーだとか。しかしランティモス監督はそのひとつひとつの鍵をそっととりあげて、それを試すかのように奇妙な鍵穴を用意してそこから私たちにある世界を覗かせる。そうしてそれぞれの心に内在してるモラルを揺さぶっていくようだ。みんながそうだと信じている物語は、それは絶対に真実なのか、と。『ロブスター』も『聖なる鹿殺し』もそういう映画だったと思う。

この映画を、監督のヨルゴス・ランティモスを、好きかどうかが自分自身わからない。しかし次回の作品も多分見るだろうと思っている。

改めて、ウォン・カーウァイ映画について想う

欲望の翼』がデジタル・リマスター版として甦った。

最初に「配給 ハーク」とある。

原題の『阿飛正傳』、そしてその下に『Days of Being Wild』の文字。

邦題である『欲望の翼』が画面から立ち上がる・・・。

ああきっとこのタイトルは最初にこの映画を配給したプレノンアッシュがつけたのだよな、とそれを眺めながら思う。正直言えばどの映画がどの会社による配給かということなど、多くの場合無頓着だったりする。でも、ある時代の香港映画ファンにとって「プレノンアッシュ」の存在はとても大きかった。プレノンアッシュがウォン・カーウァイ作品を日本で配給してくれた。さらに「シネシティ香港」という香港電影ショップ、そして香港映画やスターたちの旬な情報を届けてくれた「香港電影通信」というペーパーなどで、香港映画ファンはどんどん熱く育てられていった。そういう特別な会社だったのだ、プレノンアッシュは。

今回のデジタルリマスター版にはプレノンアッシュの名前はどこにもない。しかし、その会社がつけた『欲望の翼』という邦題は引き継がれていくのだなあと、そんなことを最初に想いながら、同時に私の香港映画とともにあった熱い1990年代後半の日々のことも心の中に甦っていった。

 

そして『欲望の翼』。暑く重い空気。たったひとりで店番しているサッカー場の小売店の女。ぶつかりあう空き瓶の音、そこにやってくる靴音もすごく響いてて、そこは滅多に人が訪れないような場所のようで、そこでなにか危険なことが始まってしまうような緊張感に満ちている。

この時代の多くの香港を舞台にした映画は人が多くてどこか猥雑な「香港」を描写しているが、この映画の中の場所には人はとても少なく、彼らの孤独を象徴している。

さらにカメラがまるで、誰かを見つめてはちょっと目をそらしてしまうような、心の揺らぎやとまどい、出ない答え、出さない言葉、そういうものを表しているかのようだ。

私はレスリーのファンだけどこの映画のヨディに感情移入する部分はないし、同様に他の女たちにも感情移入して見ることはない。何が好きかといえば、ウォン・カーウァイ監督が描く「一回性」についてなのだと思っている。

ヨディは一瞬で恋をする。しかし一瞬しか恋をしない。

そしてその他の登場人物は、たった一回だけの出会いで一瞬で恋をして、ただそれだけをずっと心に秘め続けて生きる。鳴らない電話を待つ。またはたった一度だけ電話をしてみる。たった一回が永遠になる、ウォン・カーウァイの作品に描かれているそれが、私にとってたまらなく胸を焦がすのだ。

すべてはもう二度と出会うこともない、かつて愛したもの。

その一瞬の思いだけを抱えてその後の人生を生きていく、長い長い孤独の時間。どの登場人物も涙はとうに乾いてて、したたかで、生きていく糧を得るために生活していて、あたりまえに孤独だ。その姿に私はなぜか心が震えるんだ。

f:id:mioririko:20180306222122j:plain

亡くなった大杉蓮さんと『バイプレイヤーズ』と大林宣彦監督の映画と。

『anone』と被ってるのでTVERで観てる『バイプレイヤーズ』はまだ今週分の第4話を観ていないんだけど、大杉蓮さんが亡くなった今、実名での作品『バイプレイヤーズ』が本当に複雑な様相を呈してきたよ。

 

亡くなった大杉蓮さんとこのドラマの関係はまるで大林監督『北京的西瓜』みたいだと思った。
北京的西瓜』ではベンガル演じる八百屋のおとうさんが中国人留学生たちに出会い、彼らをささやかながらも支援することで「日本のおとうさん」と呼ばれ愛されたという実話を基にした内容だったが、この映画の最後のクライマックスシーン、北京で撮影する予定だったのが、現実に起こった天安門事件により中国に渡航することが出来なかった。そのシーンで八百屋のおとうさんを演じていたベンガルが、役者ベンガルに戻り、スクリーンの向こう側から観客の私たちに向かって言う。

「映画は現実を越えることは出来なかったのです」と。

勿論その言葉はベンガルとしての言葉ではなく、監督・大林宣彦からの言葉である。

そしてそれは映画監督としての敗北の言葉ではないと私は思っている。

大林監督はずっと、叶わなかった恋について描いている。この『北京的西瓜』では、現実ではそこにあった北京行きが映画では叶わなかった、そのことがまさに叶わなかった恋だと描写しているようだった。叶わなかったからこそ、永遠に夢見続けるもの、それが大林監督にとっての恋であり、映画ではないかと。

 

ドラマ『バイプレイヤーズ』は、現実が作品を裏切っていった。それでもきっとこのドラマの結末は、それ自体が叶わぬひとつの恋のような形となって、永遠に胸に刻まれていくのだろう。それを見届けたい、と思っている。

 

2017年私のベスト映画

2017年に観た映画でベスト10などを友達と話し合ったりするシーズンです。

私は今年の映画〆は12月18日に観た『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』でしたよ。

さてベスト10.どういう観点で決めるのか、ということについても友達と良く話します。私の場合は、自分にとっていとおしい映画だったかどうか。あとはそこにワンダーがあったかどうか、ですね。

まずは、これはベスト10に入れてもおかしくないはずだけどもれてしまった5本。

『22年目の告白 私が殺人犯です』
『イップマン継承』
『ホワイトバレット』
 
すごく楽しみにしていたホドロフスキーの『エンドレス・ポエトリー』、とても良かったしホドロフスキーの生命力や表現欲に圧倒されました。しかし映画以上に私の胸を打ったのが、私の2つ隣で映画を観て泣いていた初老の男性のことでした。
 
『22年目の告白 私がやりました』は隅から隅まで入江監督の演出の行き届いたワンダーに満ちた作品で最後の最後まで昂揚感に満たされました。
 
私は音楽としてのパンクにあまり食指が動かされなかったのだけど、この映画のパンクのライブシーンは何故だか泣けたなあ。パンク少年たちと対照的な宇宙人たちの現代美術のインスタレーションのようなシーンとの対比がとても面白かった。
 
『イップマン継承』は川井憲次の音楽、最高!
 
『ホワイトバレット』ジョニー・トー監督の圧巻の1カット風銃撃シーン、むっちゃ最高!!!
 
さて今年のベスト10。旧作でありかつて見た作品も含んでしまいました。
『メッセージ』
『スイス・アーミーマン』
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』
『お嬢さん』
『HOUSE』
『予兆』
『メッセージ』『夜明け告げるルーのうた』『スイス・アーミーマン』は今年の私の観た映画の中で特別にワンダーであり、そしていとおしい映画でした。
大林監督の「HOUSE」、過去に見たときには気が付かなかったけど、今見たら大林監督のその後から今に到るすべてがそこにあって、本当に驚きました。改めて劇場で見ることができてよかったです。
 
ちなみに私の今年のベスト・アクターは
賀来賢人(『斉木楠雄のψ難』)と高橋一生(ドラマ『カルテット』『女城主 直虎』)でーす♥
 
以下は2017年に観た全映画(観た日付順)。重複がありますがそれは2回観たと言う事です。
ユーリー・ノルシュテイン特集
エヴォリューション
人魚姫
傷物語 冷血篇
ネオン・デーモン
PK
虐殺器官
スノーデン
たかが世界の終わり
サバイバル・ファミリー
ブラインド・マッサージ
the NET
牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件
お嬢さん
哭声 コクソン
ホワイトバレット
ひるね姫
3月のライオン 前編
ムーンライト
夜は短し歩けよ乙女
お嬢さん
3月のライオン 後編
イップマン継承
シネマ協奏曲
パーソナル・ショッパー
まんが島
メッセージ
夜明け告げるルーのうた
美しい星
STOP
エターナル・サンシャイン
ヘリオス赤い諜報戦
夜明け告げるルーのうた
22年目の告白 私が殺人犯です
銀魂
打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか
HOUSE
さびしんぼう
パターソン
新感染
散歩する侵略者
三度目の殺人
奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール
ユリゴコロ
スイス・アーミーマン
ユーリ!!!on ice2
ユーリ!!!on ice3
アウトレイジ最終章
ブレードランナーファイナルカット
響け!ユーフォニアム
婚約者の友人
斉木楠雄のψ難
ブレードランナー2049
グロリア
ブレードランナー2049
予兆 
シンクロナイゾド・モンスター
廃市
時をかける少女
我は神なり
パーティで女の子に話しかけるには
リミット・オブ・スリーピング・ビューティ
北京的西瓜
エンドレス・ポエトリー
仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINALビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー

スイス・アーミーマン

監督・脚本 ダニエルズ(ダニエル・シャイナートダニエル・クワン

キャスト ポール・ダノダニエル・ラドクリフ

 


映画『スイス・アーミー・マン』予告編

この予告編を観れば、絶対に観たくなるよね!

私はそれまで何の情報もなく、その月の観たい映画リストにも入っていなかった。

しかしこの予告編を観てこれは間違いナシと判断。とは言え、それほど期待もしていなかったのだが。

・・・こんなにいい映画だったとは。

 

無人島に漂着したハンクは絶望のあまりそこで死のうと首を吊りかけたとき、海辺に流れ着いたひとりの男を発見。ただ残念なことにそれは死体だった。しかし、その死体から変な音が聞こえる。体に溜まった腐敗ガスが肛門から出ているようで、それはつまりおならであり、このギリギリの状況にはあまりに情けなく、そして尊厳を感じさせない。ところがその死体はおならの推進力で海中をすごいスピードで流れていく!ハンクはまるでイルカにでも乗るようにその死体に跨り、海を駆けていくのだった・・・。そして新たに漂着した島。そこからハンクは死体を担ぎ、死体と共に人のいる場所を探して歩いていく。ガスでパンパンのその死体は自力で動けないものの何故か喋り、ガスの力を使って様々な役に立つ、スーパーな死体だったのだ・・・。

 

さて、冒頭からおなら。その次にはうんこ。

男の子の大好きなものばっかりが出てくる。

いや、ホントはそれ、女の子だって大好きなんだよ。

そしてエロ本。いや別にそんなにエロくはない。水着を着た女性が挑発的な目でこちらを見てる、そんな写真が載ってる雑誌。

何の記憶もない無垢な死体、メニーは、それは何かと聞く。

子供にとっては宝物だった、とハンクは答える。これを高速道路のそばの草むらに探しに行ってたんだ、と。ところが母親は「そんなものを見ていたら目がつぶれる」と言った。父親もオナニーをすることを禁じた。ハンクはオナニーをしようとすると母親の顔が脳裏に浮かんでしまい、出来なくなってしまった。

そう、ハンクは抑圧された青年だったのだ。こんな状況でもメニーの前でおならもしない。一目惚れした女性にも声をかけることなく、そっと見ているだけ、そして盗撮した1枚の写真をスマホの待ち受けにして眺めるだけ。

そのハンクに、無垢な死体、メニーは言う。オナニーをして見せて。母親のことを考えたらいい。それとも自分が君の母親を想像して射精してもいいか。心を持たないメニーの問いかけにハンクの持っている抑圧が様々に炙り出されていく。

メニーは、ハンクに、片思いの女性の格好をしてみろという。馬鹿げたことをとハンクは言う。いや、きっとそれで僕は君にシンクロして故郷に帰りたいという思いが生まれ、そして君を故郷へ戻す力を得ることができるだろう、とメニーは言う。

ハンクは森の中にある木や蔓や廃棄物を使って、彼女とであったバスを再現し、カツラらしきものを作り、女性物の服をこしらえ、女の姿になり、彼が恋した女性を演じる。メニーはそれを見ながらハンクの心情に同調していく。

この辺りの森の中でのハンクとメニーのシーンはとても幸せなものとして描かれている。死体であるのに万能で、2人は最高のバディだ。ハンクはメニーに対して父親のことを語ったり、または片思いの女性に扮したりしながら、彼を縛っていた抑圧が少しずつほどけていくのだ。

 

2人はなんとか現実の世界、人のいる世界、しかもなんとハンクが片思いをしていた女性の家に辿り着く(!)無人島に漂着してしまった時以来、それはハンクが必死で戻ろうとしていた世界のはずだった。そこに着き、好きな女性に会い、父親の自分への思いも知る。しかしだ。そうやって戻ってきた世界はやはり、彼を抑圧する世界だったのだ。ハンクは死体と行動を共にする変質者であり、人前でおならをする無礼な人間であり、子供を持つ既婚者である女性を盗撮して待ち受けにするストーカーまがいの男であり、更には森の中で女装までしていた!そうやって現実世界は再び彼を糾弾しはじめる。

メニーと行動を共にするうちに感じるハンクの歓喜。そして無事現実の世界に戻れたことも喜びのはずだった。しかし彼を打ちのめす絶望。そこに私は映画を観ていて泣けて仕方がなかった。それでもこの映画は、様々なマイノリティを肯定する力を持っている。ハンクは最後にまた、死体でありながらおならの力で自由に海の向こうへと流れていくメニーの姿を目にするから。「死」というもっとも人の自由を奪うはずのもの、その抑圧さえ解いて自由に海の向こうへ行くメニーの姿は希望である。

「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」

監督 大根仁

キャスト


『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』予告編

 あかりはとにかく瑞々しく、可愛く。いつもながら最初の登場から大根監督の女優に対する愛情がたっぷりな映像。内容もまさに大根監督!いろいろ楽しめました。

(以下ネタバレあり)

・ ・ ・ ・ ・ 

 数日前、私の参加しているSNSにて、私が自分の年齢についてのことを書きました。40代も楽しかったけど50代も楽しいのよ。どうしてかっていうとね・・・みたいな話。そこに30代男性のコメントがつきました。「(自分は)心は10代、体は50代、年齢はギリギリ30代です」と。

そこで思ったんですよね。男性って結構「心は10代」とか「心の中は少年のまま」とかって言いますよね。昔だったら飲み会でそう言われたら「あーっ、私だって心の中はまだ少女なんですからぁ~!」とか言って「お前のどこが少女だー!」みたいな返しをされるのが定番ですよね。しかし本気で「でも私は心の中は10代なの」って言う女性、いるのかしら。いるとしたらそれはどんな意味で? そしてどうして男性は自分の心の中だけはずっと「10代」とか「少年」って言いたがるのかしら。男性にとっての10代や少年って、なに?

・ ・ ・ ・ ・ 

奥田民生になりたいボーイと出会った男すべて狂わせるガール」の最後を観て、ちょうどそう思ってたことを思い出しちゃったのです。

 

コーロキは一切のあと、意外なことに幸せな成功者になっています。

人が良くて、出会った人はみんな彼のことが好きになる、そして仕事のできる男に。更に最高の妻も得ています。間違いないでしょう、コーロキにとって彼女は最高のパートナーでしょう。

しかし、彼は昔と同様、安いそば屋に入ってそばを啜りながら、唐突に泣いてしまうのです。

そのそば屋で、若かったかつての自分を幻視するからです。目をキラキラと輝かせ、仕事に食らいつき、あかりを一途に想って時に身勝手に自爆して、誰からも賞賛されない、どこか野暮ったい、それでも恋という強い輝きを放つ季節の中にいたかつての自分を。

そしてね、そばを啜りながら泣くんですよ。去った彼女を想って泣いてるんじゃないんですよ。過ぎ去りし日の自分を想って泣いているんですよ。

私はね、このシーンが本当に大根監督だなあ、そして男性だなあって思うのです。

 

私は10代の心はあまり戻したくない。自意識過剰だったし、自由がなかったし。いろいろとしんどかった。過去の瞬間の中に素敵な他人と懐かしい自分はいるけれど、年を経ていくごとに増えるなにごとかもいとおしいし、なにより心が軽くなっていく気がする。昔の自分よりも今の自分のほうがいいと心から思う。だから、この映画のコーロキのように、あんなふうに泣くなんてないような気がするなあ。私たちが一人で泣く理由は、もっと違うような気がする。

 

そんなことを映画を観た人と話してみたい気持ちになった映画でした。

「散歩する侵略者」

散歩する侵略者


映画『散歩する侵略者』予告編 【HD】2017年9月9日(土)公開

キャスト

黒沢清監督「散歩する侵略者」を見て1週間が経つ。

何か書きたいと思うのだが文章にならない。

「この映画は○○である」「○○ということなのだ」みたいなことが書けない。

心の中に感想をまとめたい欲求だけはあるのだが形にならない。

ただ、断片だけがある。

映画を観ながら感じ続けた「○○がいいな」という断片が。

その断片を重ねてみよう。

 

あの赤い血糊がいいな。とてもねっとりしてて。最初のシーン、立花あきらとその家の中の床に広がる血糊が。

 

最初から怒ってばかりの妻、鳴海。鳴海の元から一時は去った夫・真ちゃんは過去、鳴海にどのような仕打ちをしたのかはリアルに語られない。ただ鳴海のセリフからは不倫だったことは匂わされるが。しかしその真ちゃんは今、宇宙人に肉体をのっとられ、鳴海の元に戻ってきた。2015年の黒沢監督「岸辺の旅」の夫婦の関係を思い出させる。失踪した夫が戻ってきて自分は既に死んでいるがこれから思い出の旅に出ようと言われ、妻はそれに従い二人彼岸を旅する物語だ。深津絵里が演じたその妻と浅野忠信演じた夫。確かその夫も妻以外の女と付き合っていたという設定だった。この「散歩する侵略者」と「岸辺の旅」のその部分が私の脳内で共鳴しあう。

 

あまりにも異様な夫・真ちゃんに対し、あくまでも妻の立ち位置でイライラし続け怒り続ける鳴海を演じる長澤まさみの硬質な質感。彼女の妹を演じる前田敦子の現代的で独特なやわらかさを感じる質感。その違いがいい。

 

惨殺された立花家を取材する桜井が、同じくあきらを探す青年、天野と出会う。天野の家に行くと、彼から様々な概念を抜き取られたかつての彼の父親と母親が。荒れた家の中。うつろな目をした天野の両親。この映画のまだ最初のほうに描かれるこの不気味な家に、黒沢監督の2016年の「クリーピー」を思い出し、またここで物語が共鳴し始める。「クリーピー」では薬を使用した洗脳と虐待。でもこの作品はそうではなかった。

 

無敵の格闘少女、立花あきらを演じる恒松祐理演じる蜘蛛のように相手を拘束する長い足。痛みを感じることのないけだるげな表情。とてもいい。

 

あきらと双璧をなす天野を演じる高杉真宙(鎧武の頃から思うと大きくなったナー)。最初の不気味な印象、何も映らない瞳を持った青年から、人の概念を奪っていくごとに何か深みが生まれてやわらかい存在になっていくその変化がとてもいい。

 

目が、髪型が、全体の立ち姿が不思議な異常さを醸し出す満島真之介。すごくいいアクセントになっていて、この人がこんなにいいと感じたのはこの映画が初めてだ。

 

最近はどんな作品に出ても、目と、そしてセリフ回しが不思議な異常さを醸し出す東出昌大は、やはり遺憾なく異常さに満ち満ちていて、答えのない問いを提示された気がする。

 

宇宙人の天野と立花あきらと行動を共にするジャーナリストの桜井。桜井がいつ彼らを裏切り人間側に立つのかを思いながらずっと観ていた。そういう私の割と素直な想像が次々と裏切られていく展開がいい。

 

クリーピー」に続いてとても頼りがいがあって、ドキドキしながら見ている私のひとつの心の支えとなり、そしていきなりフェイドアウトしていく笹野高史のいい存在感。

 

ラストの桜井。演じる長谷川博己の最高の見せ場!一緒に観た友達と私とであのシーンの解釈は違っていた。友達は「宇宙へ通信するための時間稼ぎの行動ではないか」。私は「元々は社会派ジャーナリストであり、かつて戦場ジャーナリストへの憧れもあったのではないか。宇宙人に憑依された桜井のその過去の意志が純粋に形になった結果ではないか」。ところで私たちは桜井は天野の中の宇宙人を桜井が引き継いだという設定で話をしていたと思うのだが、実際にそこは省略されていてどうだったかは映画では明記していないのだな。

 

鳴海には妹がいて、父母もいて、仕事もあった。それでも自分を捨てた夫・真ちゃんの体を借りて地球を侵略しようとする宇宙人と共にいることだけを彼女は望む。彼女は家族も、彼女の知人も、見知らぬ70数億の人類も一切省みない。愛というのはなんなのか。この映画を観てその問いに答えられる人はいるのか。最後に私から愛の概念を奪えという、彼女の愛とはなんなのか。狭いのか。深いのか。身勝手と言われるものなのか。無償なのか。

 

そして最後の長澤まさみの表情。あっと思う。うまくは言えないが、彼女はこんなに素晴らしい女優なのか、という驚きを最後、余韻と共にもたらしてくれた。

 

去年の「クリーピー」「ダゲレオタイプの女」に続き、今年も「散歩する侵略者」という不思議で、言葉にならなくて、そして素晴らしい作品を作ってくれた黒沢清監督。観ることが出来てすごく幸せだ。